軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第42話 徳川の声、海へ出る

慶長十八年、旧暦十月。

江戸城は、本格的な秋の深まりとともに朝夕の冷え込みが増し始めていた。

俺は自室で、いつものように途方もない帳面の山と格闘し、完全に生気を失いかけていた。

『酒井家由来・十年夢見の札の厳重封印台帳』。

『京向け 水土作法要約(雅な意訳版) 』。

『米と金銀銭の換算記録試験台帳』。

『遠見筒の試作および職人記録』。

「……使ってない奇物の管理台帳と、まだ繋がってないローマ法王向けの通話台本と、京都の公家向けの農業マニュアルを同時に抱え込むとか……俺の仕事だけ、時代とジャンルを飛び越えすぎじゃないか?」

俺が筆を放り投げて文句を言っていると、書記役の新六郎が静かにふすまを開けた。

「若君。……伊達政宗殿より、月ノ浦出帆の報が届きました」

俺の手が、ピタリと止まった。

「……出たか」

ただの出航ではない。

あの恐るべき津波の傷跡が残る奥州から、政宗が意地と野心で仕立て上げた大船が、ついに外の海へ向かって出たのだ。

そして何より……その船の奥深くには、俺が厳重に封印を施した『ローマ法王宛ての密封箱』が積まれている。

(ついに、俺たちの仕込んだ爆弾が、本当に海へ出た……。もう、絶対に引き返せない)

俺の胃が、ギリリと音を立てて痛んだ。

出航の報告を受けるため、江戸城の奥深い座敷に、徳川の「身内」だけが顔を揃えた。

大御所・家康、秀忠父上、竹千代兄上、俺。

そして、竹千代付きの乳母である春日局が、少し後ろに静かに控えている。

外様大名や譜代の重臣すらいない、完全に閉ざされた空間だった。

新六郎が、政宗からの報告書を端的に読み上げる。

「『サン・ファン・バウティスタ号』、月ノ浦を無事出航。 支倉六右衛門常長(はせくらろくえもん・つねなが) が正使として乗船し、宣教師ソテロら南蛮人も同乗」

そこから先は、俺たちだけが知る裏の情報の確認だ。

「……で、例の密封箱は、支倉本人が確実に管理しておるのだな」

秀忠が、将軍の顔で鋭く確認を入れる。

「はっ。伊達の交易書状とは別扱いとし、封印は無事。船は外海へ向かったとの由にございます」

竹千代も、冷徹に実務の確認を挟んだ。

「伊達の荷とは別帳面。寄港ごとに箱の所在を記す手筈も整っておるな」

「はい。少なくとも、出航時点では全て予定通りです」

俺が答えると、秀忠は「途中でイスパニアの船に奪われねばよいがな……」と、まだ少しだけ心配そうに息を吐いた。

その時。

家康が、静かに、だが深い感慨を込めて呟いた。

「……そうか。徳川の声が、ついに海へ出たか」

それは、天下人としての威厳と、見知らぬ遠い異国へのロマンが入り混じった、重く静かな呟きだった。

出航の報告を受け、座敷の話題は自然と「海路の途方もない長さ」へと移っていった。

「しかし…… 羅馬(ローマ) とは、まこと遠いのう」

家康が、地図を思い浮かべるように目を細めた。

「メキシコ、イスパニアを経て、さらに大西洋を越えて羅馬へ。……途中の海で沈まず、無事に着いたとしても、年単位の月日がかかりましょう」

秀忠が、現実的な航海の過酷さを口にする。

「向こうへ着き、こちらへ返書が戻る頃には、三年……いや、それ以上かかるやもしれぬ」

竹千代の冷静な予測に、俺は深く頷いた。

「そうですね。船での往復となると、本当に『数年がかりの仕事』になります」

後ろに控えていた春日局が、ふと穏やかな声で言葉を添えた。

「同じ日ノ本の中でさえ、江戸から薩摩のような遠国への 文(ふみ) のやり取りは、何日も日数がかかりますもの。……それが海の果てとなれば、まこと気の遠くなるようなお話にございますね」

「それでも、だ」

家康が、口元に薄く笑みを浮かべた。

「それでも、己の声を届けるために、人は途方もない手間と命を懸けて船を出す。……人とは、まこと面白い生き物じゃのう」

少ししんみりとした空気が流れた後、家康がいつもの調子で俺に振ってきた。

今日は身内しかいない気安さもあり、その声はひどく砕けていた。

「国松。お前の知る後の世では、羅馬までの船旅も、少しは早く、楽になるのか?」

俺は懐の端末をこっそり確認した。

『航海技術一般:開示可』

『蒸気船・内燃機関・航空機技術詳細:開示非推奨』

『移動速度概念:限定開示可』

『参勤交代制度前倒しリスク:中』

(……参勤交代リスクって何だよ。いや、今はただの船旅の話だし、ここにいるのは完全に身内だけだ。少し未来の移動速度を語るくらい、大丈夫だろ)

俺のこの「大丈夫だろ」という油断が、完全に特大のフラグだった。

「ええと……船自体も、かなり早くなります。帆で風を受けるだけでなく、火や油の力で動く船が出てきます。風を待たずに、波を切り裂いて進める船ですね」

「風を待たずに進む船、じゃと?」

家康が身を乗り出した。

「それだけでも、海戦や海の支配が大きく変わるな」

秀忠も、将軍としての目で鋭く反応した。

「はい。ただ……」

俺は、つい調子に乗って言葉を継いでしまった。

「羅馬まで、三年が二年半に縮まる、くらいの話では済まなくなります」

「ほう?」

家康の目が、爛々と輝いた。

「後の世では……『空を飛ぶ乗り物』が開発されます」

座敷に、完全な沈黙が落ちた。

「……空を?」

家康が、呆然と聞き返す。

「鳥のように、空を飛ぶのか」

秀忠が、信じられないという顔をする。

「人が、乗るのか?」

竹千代の目が、恐ろしいほど冷徹に光った。

「はい。何十人、何百人という人を乗せて、空を飛ぶ、巨大な乗り物です。後の世では、それに乗って、海の上をひとっ飛びで越えていきます」

「人が、空を……」

春日局が、思わず口元を袖で覆って絶句した。

家康は、一瞬の驚愕の後、腹を抱えて大笑いした。

「はっはっはっは!! 遠見筒で月を見たと思えば、今度は人が空を飛ぶか! まこと、後の世というやつは忙しいのう!」

「忙しいですよ。めちゃくちゃ忙しいです」

「では、聞こう」

家康が、笑いを収めて問うてきた。

「その空を飛ぶ乗り物を使えば、日ノ本から羅馬まで、どれほどで行ける」

俺は少し頭の中で計算した。

「乗り継ぎや出発地にもよりますが……後の世の感覚なら、半日から、一日弱くらいです」

「「「……」」」

再び、完璧な沈黙が落ちた。

「……半日?」

秀忠の声が裏返った。

「船で、年単位かかる道を、か」

竹千代の顔から、完全に表情が消えた。

「はい。もちろん、後の世でも羅馬への旅は大変な長旅ではありますが……今の命懸けの船旅とは、根本的に比較になりません」

「ははははっ!! 羅馬まで半日か! 支倉らが聞けば、間違いなく腰を抜かすわ!」

家康が、再び豪快に笑い飛ばした。

「半日で海の果て……。それでは、旅というより、神隠しのようにございますね」

春日局の言葉に、俺は深く頷いた。

「ええ。現代人……後の世の人間からしても、冷静に考えるとわりと神隠しみたいな移動速度です」

そこで、秀忠がふと、実務的な疑問を口にした。

「……ならば、海の果てだけでなく、日ノ本の中も、それだけ速く動けるということか」

「はい。後の世では、江戸……いえ、東国の大きな都から、薩摩の近くまで、空を飛ぶ乗り物なら二時間ほどで行けます」

俺は、この時代に通じる言葉に言い換えた。

「今の時の数え方なら……おおよそ一刻ほど。感覚としては、二刻にも満たないくらいでしょうか」

「薩摩まで、一刻か二刻だと……!?」

家康の笑いが、ピタリと止まった。

「徒歩ならば月単位、馬を替えて急がせても容易ではない距離だぞ……」

秀忠が、戦慄したように呟く。

「後の世では、人の移動の速度が本当に激変します。遠国が、感覚的にかなり『近く』なるんです」

その瞬間。

竹千代の目の色が、完全に「次期天下人」のそれへと変わった。

「……遠国が近くなるなら、 政(まつりごと) も変わるな」

竹千代が、低く、冷ややかに言った。

「え?」

俺は、嫌な予感がして竹千代を見た。

「大名が、遠国から江戸へ来る負担も、後の世ならばはるかに軽くなるということだ」

「えーと、まあ、後の世ならそうですね……?」

竹千代は、俺の言葉を拾い上げ、恐ろしいほどの速度で思考を飛躍させた。

「ならば。遠国の大名にも、定期的に江戸へ来てもらう仕組みは、十分に考えられるな」

俺の視界で、端末が強烈な赤いアラートを弾き出した。

『【警告】参勤交代制度前倒しリスク:中 → 高』

(あっ、やべえ!! この人、今、後の世の『参勤交代』っぽい発想の種に、自力で辿り着きやがった!!)

竹千代は、止まらなかった。

「江戸へ来るには、途方もない費えがかかる。道中の供も必要だ。領国を長く空けることにもなる。……だが、それをあえて『公儀の定め』とすれば、どうだ? 大名の忠誠を常に確認できるだけでなく、金と兵力を定期的に削り、謀反の芽を摘むことができる」

「……遠国大名の動きを、定期的に縛る、か」

秀忠が、ハッとして竹千代を見た。

家康は、黙って竹千代の言葉を聞きながら、口元に微かな笑みを浮かべて面白がっていた。

「さらに、妻子を江戸に常駐させれば、謀反はより困難になる」

竹千代が、無慈悲な追撃を放つ。

「兄上!! 発想が急に完成形に近すぎます!!」

俺が悲鳴を上げると、竹千代は不思議そうに眉をひそめた。

「完成形? なんのことだ」

「いえ、なんでもありません!!」

『【警告】制度前倒しリスク:極高』

俺は、このままでは江戸時代初期の歴史のペースが致命的に狂うと判断し、全力でブレーキを踏み込んだ。

「た、ただし! それを今すぐやるのは、絶対に危険です!!」

「なぜだ」

秀忠が、鋭く問う。

「まだ、街道も、宿場も、橋も、道中の治安も、人馬の継立の仕組みも、全く追いついていません! 無理に全大名へ定期的な江戸出府を強いれば、反発も大きいですし、何より大名行列の負担で、途中の村々が確実に潰れます!」

俺は必死に現実的な制約を並べ立てた。

「江戸の屋敷の用地も足りません。大名の石高差による不満も出ます。……後の世でそういう仕組みができるとしても、今すぐ全国一律で強制するのは無理です。まずは、御礼、普請、婚姻、訴訟などで、少しずつ『自然に江戸へ出府させる形』を積み重ねる方が、絶対に安全です!」

家康が、深く頷いた。

「ほう。……いきなり首に縄をかけるのではなく、まずは道を作り、江戸へ来る『癖』をつけさせるか」

「はい! 制度というものは、道と、宿と、帳面が完全に整ってからやるべきです!」

「……また、帳面か」

竹千代が、少しだけ呆れたように言った。

「はい。また帳面です!」

家康は、この話を今すぐ制度化しようとはしなかった。

だが、その『種』は、天下人の脳内に確実に植え付けられてしまった。

「面白い。……大名を定期的に江戸へ来させることは、確かに強固な忠誠を見る術になる」

「ただし、今はまだ、公儀の召し、城普請、軍役、御礼の形で留めるのが十分でございましょう」

秀忠も、冷静に現状との折り合いをつけた。

「将来、東海道や中山道が整い、江戸の屋敷が整えば……定期の出府も、十分に考えられるな」

竹千代が、未来の統治システムを静かに見据えた。

(……完全に、参勤交代の種を植え付けてしまった……)

俺が絶望していると、春日局がにこやかに微笑みながら言った。

「竹千代様が、また一つ、天下を強固に治めるお考えを得られたようにございますね」

「春日局様……その微笑み、今すごく怖いです」

「まあ。私は、竹千代様の御成長を心から喜んでいるだけにございますよ」

「それが一番怖いんです!」

家康が、未来の移動速度について改めて整理した。

「後の世では、羅馬も半日。薩摩も一刻二刻。……だが、今の世では、船も、馬も、人の足も遅い」

「はい」

俺は深く頷いた。

「だからこそ、今の時代は『時間』が政治そのものです。命令が届くのに時間がかかる。人が来るのにも時間がかかる。だから、無理な速度を求める制度は、逆に国を傷めます」

「だが。街道を整え、人馬の継立を整え、江戸に屋敷を整えれば……遠国の大名を江戸へ引き寄せる力は、確実に強まる」

秀忠が、インフラ整備の重要性に気づく。

「移動の仕組みを整えることは、支配の仕組みを整えることでもあるのだな」

竹千代が、完璧な統治者の結論を出した。

「兄上、今かなり危ないまとめをしましたね……」

俺が冷や汗を拭うと、家康が腹を抱えて大笑いした。

「よい! 国松の言葉は、いつも未来の『毒』を少しばかり含んでおって、まこと面白いわ!」

話が完全に脱線したので、俺はなんとか本題へ引き戻した。

「と、とにかく! 今の本題は、海に出た支倉殿たちです! 彼らは空飛ぶ乗り物ではなく、木の船で命懸けで海を渡っているんですから、まずは無事を祈りましょう!」

その言葉で、座敷の空気が少しだけ静かに、しんみりとしたものに戻った。

「……そうじゃな」

家康が、目を閉じる。

「密封箱が羅馬へ届くかどうかも、船と海次第だ」と秀忠。

「海は、まだ我らの手の内ではない」と竹千代。

「ならば、祈りましょう」

春日局が、静かに手を合わせた。

「海を渡る者たちが、その重き役目を無事に果たせるように」

夜。

自室へ戻った俺の端末に、恐ろしい新ログが並んでいた。

『慶長遣欧使節:月ノ浦出航確認』

『ローマ法王宛て密封箱:外洋輸送段階へ移行』

『支倉常長による管理:継続監視不可』

『航空機概念:限定開示済み』

『高速移動による統治概念:竹千代が一部推定』

『参勤交代制度前倒しリスク:高』

『街道・宿場・江戸屋敷整備の重要性:急上昇』

「……やっぱり、参勤交代リスクってそれかあああ!!」

俺が頭を抱えると、KAMI様が嬉しそうにポップアップを出してきた。

『あはははは! 最高! 空飛ぶ乗り物の話から、たった数分で『大名統制の仕組み』に行き着くの、竹千代くん優秀すぎでしょ』

「笑い事じゃないです! 制度化が、後の世より二十年も早まったらどうするんですか!」

『別に今すぐ全国一律でやらないでしょ。あんたも必死に釘を刺したじゃない。道と宿と帳面が必要って』

「それが逆に、今後の『準備の方向性』を完璧に与えちゃった気がするんですけど……」

『そうね。街道整備、宿場、人馬継立、江戸屋敷。ぜーんぶ、未来の統治システムのための布石になったわね』

「また俺、やらかした……」

『でも、悪いことじゃないわ。遠くを近くすることは、支配を強めることでもあり、同時に民の物流や移動を楽にすることでもある。……問題は、それを『誰のために使うか』よ』

「便利な道具は、またしても両刃の剣……ですか」

『そういうこと』

徳川の密封された声は、支倉常長の船に乗り、海の果てへと向かった。

だが、その出航報告の席で、俺は別のものまでうっかり海へ流してしまった。

未来の移動速度。

遠国を近くするという発想。

大名を江戸へ引き寄せる、まだ名もない制度の種。

船は、声を運んだ。

そして俺の軽口は、未来の巨大な統治制度の芽まで、徳川の座敷に落としてしまったのだった。