軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第37話 水神様、遠くを見る筒で月を見る

慶長十八年、旧暦六月半ば。

平戸の湊へ入港したイングランド東インド会社『クローブ号』の船長、ジョン・セーリスとの会見から数日が過ぎた。

駿府と江戸城に持ち込まれたイングランド王からの書状や、上質な布、武具、そして西洋の珍しい道具といった「献上品」の数々は、公儀の役人たちの手で細かく検分され、記録されていった。

その献上品の中に、ひときわ異彩を放つ品が一つ混ざっていた。

「……国松。お前、これが何だか知っているな」

竹千代兄上が、黒塗りの箱から取り出された『それ』を指差し、鋭い目で俺を睨んだ。

「知ってます。……というか、後の世では、かなり有名な道具です」

俺の視界の奥で、端末が激しいアラートを鳴らし始めた。

『【警告】天文学・地動説関連知識:開示非推奨』

『暦法・朝廷儀礼・宗教秩序への影響:極めて大』

「ほら出た」

俺がため息をつくと、家康が面白そうに顎髭を撫でた。

「ほう。国松のその妙な知恵の神が、警告を出すほどに危うい品か」

「危ういです。……ですが、軍や海防においては、喉から手が出るほど有用な品でもあります」

俺は、その 真鍮(しんちゅう) とガラスで作られた細長い筒──『 望遠鏡(ガリレオ式) 』を、静かに見つめた。

まずは日中、江戸城の庭先で軽く試すことになった。

家康が筒を覗き込み、ピントを合わせるように前後の筒をゆっくりとスライドさせる。

「おお……」

家康の口から、感嘆の息が漏れた。

「見えるぞ。遥か遠くの 櫓(やぐら) に掲げられた旗の紋が、まるで手の届く場所にあるかのようにハッキリと見える」

秀忠も、変わって筒を覗き込んだ。

「……肉眼では豆粒のようにしか見えぬ距離の人影が、ここまで鮮明に分かるとは……」

「これは、城や陣の見張りに絶大な威力を発揮するな」

竹千代の目が、瞬時に『軍用』の価値を弾き出した。

「はい」

俺は深く頷いた。

「港で沖の船影を早く見つける。城から敵陣の動きを見る。山火事の火元や、遠くの 狼煙(のろし) を肉眼より早く見つける。使い道は数え切れません。……ただ、今のこの筒は、見える 範囲(視野) がひどく狭いです。筒を少し動かしただけで目標を見失いますし、縁の方は少し色がにじみます。決して万能の『千里眼』ではありません」

「万能ではないが、人間の『目』そのものが、遥か遠くまで伸びるようなものか」

「まさにそれです、大御所様」

そして、夜。

空には雲ひとつなく、丸く明るい月が浮かんでいた。

天海僧正は意図的に外され、家康、秀忠、竹千代、そして俺の四人だけで、城の静かな櫓の上で「秘密の観測会」が開かれた。

宗教や暦法という地雷原を避けるための、竹千代の慎重な配慮だった。

「国松。これは、夜の月も見えるのか」

家康が問う。

「見えます。……ただ、月を見ると、私はおそらく色々と余計なことを言いたくなります。私は、余計なことを言わないよう、最大限努力します」

「努力では足りぬ。言うな」

竹千代の無慈悲な命令に、俺は「はい」と大人しく頷いた。

家康が、月に向かって遠見筒を構え、じっと覗き込んだ。

しばらくの無言。

やがて、老いた天下人の口から、低く、震えるような笑い声が漏れた。

「……ほほう。これは……凄いのう。月が、これほどまでにハッキリと見えるか」

秀忠も、変わって覗き込む。

「……影がある。表面が、ただ滑らかな光の玉ではないのか」

「丸い鏡のようなものではないのだな。暗いところと明るいところがあり……まるで、何かの模様のようにすら見える」

竹千代が、筒から目を離して息を呑んだ。

「月にも……山や谷のような、激しい起伏があると、後の世では考えられています」

俺がポロリと口にした瞬間。

『【警告】詳細天文学:注意』

端末が光った。

「……これ以上は、今は語りません」

俺が口を噤むと、竹千代は短く「それでよい」と頷いた。

家康が、月を見上げたまま、不意に問いかけてきた。

「国松。……後の世では、あの月のことも、さらに詳しく分かるようになるのか」

俺は少し迷った。

端末の画面を見る。

『月面到達の概要:限定開示可』

『国家名・技術詳細・時代背景:開示非推奨』

「……後の世では、あの月まで、人が行きます」

静寂。

櫓の上の風の音だけが、やけに大きく聞こえた。

「……月まで?」

家康の目が、真円に見開かれた。

「人が、あの月へ行くというのか?」

秀忠が、信じられないというように俺を凝視する。

「お前が嘘を言うとは思わぬ。……だが、さすがにそれは信じられん」

竹千代すら、動揺を隠しきれなかった。

「私も、前世で初めてその知識を知った時は、全く信じられませんでした。……後の世では、アメリ……いや」

俺は、竹千代の鋭い視線に気づいて慌てて言い直した。

「……い、未だない国の者たちが、途方もない技術を積み上げて、月に降り立つのです」

「未だない国、か」

竹千代が、静かに俺の言い換えを確認した。

「はい。詳細は言いません。言ってはいけないことですので」

「月へ行くには、どれほどの費えと時間がかかるのだ」

秀忠が、実務的な驚きを持って尋ねる。

「後の世の力をもってしても、とんでもない費えと、技術と、そして何より『命の危険』が伴います。誰でも気軽に行ける旅ではありません。選ばれた者が、国家の総力を背負って、死を覚悟して行くものです」

家康は、夜空の月を見つめたまま、静かに、少年のように笑った。

「……そうか。人は、いつかあの月まで行くか」

「はい」

「……土産話が、また一つ増えたのう」

「父上?」

秀忠が、家康の柔らかな横顔を見て戸惑った。

「冥土の土産というやつじゃ。儂は、国松から妙な土産話ばかり聞かされる。火の筒。氷を生む焔硝。海を止められぬという未来。……そして今度は、人が月へ行く話じゃ。まこと、面白い」

「大御所様、そんな縁起でもないこと言わないでくださいよ。まだまだ長生きしてください」

「分かっておる。まだまだ、国松の口から聞くべき『未来の毒』が多いからな」

家康の言葉には、老い先短い天下人の重さと、孫へ向ける確かな温かさが混ざっていた。

俺は、月に惹きつけられそうになる意識を、強引に『実務』へと引き戻した。

「……ただし。この遠見筒は、ただロマンに浸って月を見るためだけの道具ではありません」

「うむ。遠くを見る道具ならば、当然、戦に直結するな」

家康の目が、天下人のそれに戻る。

「はい。遠方の船を誰よりも早く見つける。港の見張りで、どこの国の船影かを確認する。城や陣から、敵の細かな動きを見る。山火事の火元や、遠くの狼煙を肉眼より早く見つける。……海防、軍事、港湾の管理において、これは革命的な道具になります」

「……これは、天を覗く道具であり、同時に、敵を覗く道具でもあるのだな」

竹千代が、望遠鏡の本質を完璧に言語化した。

「その通りです、兄上」

「ならば、幕府でこれを製造するべきか」

秀忠の問いに、俺は深く頷いた。

「はい。必ず研究すべきです。……ただし、簡単ではありません。良いガラス、レンズの磨き、筒の精度、焦点の調整。すべてが今の職人の技の限界を超えるものです」

「職人を集めよ」

家康が即断した。

「ガラス職人、鏡師、細工師、筒を作る指物師。……場合によっては、南蛮品を扱う商人の知恵も必要になります」

「またお前の台帳が増えるな」

秀忠の情け容赦ないツッコミに、俺は泣きそうになった。

「……言わないでください」

「これはおそらく、前側に少し膨らんだレンズ(凸レンズ)と、目元にへこんだレンズ(凹レンズ)を使っています」

俺は、知っている限りの構造を説明した。

「前のレンズが遠くの光をたくさん集め、目元のレンズがそれを見やすくする。……詳しい光の屈折の理屈は、私も専門ではないので分かりません」

俺は、自分の知識の限界をハッキリと明示した。

「ただ、作るなら、同じ筒の外見を真似るだけでは絶対に足りません。レンズの曲がり方、磨き方、レンズ同士の距離を細かく記録して、少しずつ比べる『地道な試作』が必要です」

「明日、新六郎に『遠見筒試作台帳』を作らせよう」

竹千代の冷静な指示。

「……やっぱり増えるのか」

秀忠が、将軍としての警戒感を露わにした。

「これが、もし諸大名の手に広く渡れば……城の内外や、参勤の行列の監視そのものが根本から変わるぞ」

「海の見張りには絶対に必要だが、無秩序に広がれば、今度は我らの城の奥が『遠くから見られる』ことにもなる」

竹千代も、その危険性に同意した。

「はい。望遠鏡は『見る』道具であると同時に、『覗く』道具です。軍事機密や、城の配置にも直接関わります」

「ならば、まずは公儀による厳重な管理下だ。港と城、海防に限って試させよ」

家康が、利用範囲を厳しく制限した。

「……あの、天体観測は……当面、極秘扱いでお願いします」

俺が控えめに頼むと、竹千代が鋭く目を向けた。

「星の話を禁ずるためか」

「はい。月を眺める程度ならロマンで済みますが……星の動きや、精緻な暦の話に繋がれば、それは完全に地雷です」

「朝廷の権威、暦の支配、陰陽道に触れるか」

秀忠が渋い顔をする。

「触れます。だから、今は絶対に黙るべきです」

家康が、感心したように遠見筒を撫でた。

「なるほどな。……遠くを見る筒は、見えてはならぬ『余計なもの』まで見せてしまうのだな」

最後に、家康がもう一度だけ筒を覗き込んだ。

「……月とは、遠いのう」

「はい。とても、遠いです」

「だが、いつか人は、あの冷たい光の場所へ行く」

「はい」

「ならば、日ノ本も、まずは己の『目』を遠くへ伸ばすところから始めればよい。……手が届かぬものも、まずは目で見ることから始まるのじゃからな」

家康の力強い言葉に、俺は心を打たれた。

「目を伸ばせば、それに伴って人の『欲』もまた遠くへ伸びる。ゆえに、厳しい帳面と禁制も必要になる」

竹千代が、完璧な政治のまとめで締めくくった。

「兄上、相変わらず隙がないですね」

夜更け。

自室に戻った俺は、端末を開き、深いため息をついた。

『遠見筒検分台帳:作成推奨』

『レンズ試作・焦点記録:作成推奨』

『港湾・海防利用候補先:登録』

『天文学関連知識:継続的制限』

『月面到達情報:概要のみ開示済み』

『地動説・宇宙観関連:未開示維持』

「……月を見てちょっとロマンに浸っただけなのに、なんでまた台帳が山のように増えるんだよ……」

『月まで行く超文明も、最初は泥臭くガラスのレンズを磨いて、失敗の記録を台帳に残すところから始まったのよ。……ロマンあるでしょ?』

「ロマンはありますよ。でも、俺の実務仕事も比例して増えるじゃないですか」

『ロマンと事務は、だいたいセットよ。受け入れなさい』

「……嫌すぎるセットだな」

遠くを見る筒は、確かに月を俺たちの手元へと近づけてくれた。

だが同時に、海の向こうの異国、敵の陣立て、港の船影、そして『未来の危険な知識』までも、俺たちの目の前に引き寄せてしまった。

望遠鏡は、ただの珍しい献上品ではない。

徳川の目を、ほんの少しだけ遠くへ、未来へと伸ばす恐るべき道具だった。

そして俺は、伸びた目の先に見えてしまう「余計なもの」の数々を、己の胸の内に必死に黙って抱え込み、事務仕事に埋もれ続けるしかないのだった。