軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第33話 水神様、火薬職人の失敗で氷を作る

慶長十八年、旧暦五月初め。

大久保石見守長安が死去し、「大久保長安事件」という幕府中枢を揺るがす巨大な疑獄の幕が開いてから、しばらくの時が過ぎていた。

駿府と江戸の空気は、鉛のように重かった。

長安の死後、彼が抱え込んでいた膨大な権限と財貨、そして無数の代官所の『帳面』の洗い出しが急ピッチで進められている。不正の影が次々と暴かれ、長安の配下たちは恐怖に震え、関係大名たちも固唾を呑んで公儀の動きを見守っていた。

家康の怒りは深く、静かに、そして苛烈に燃え続けている。

秀忠もまた、幕府の屋台骨を揺るがす「帳面の闇」に直面し、ひどく厳しい顔で政務にあたっていた。

そんな重苦しいピリピリとした空気の中。

俺は一人、自室の文机で『 御異物改方(おんいぶつあらためかた) 』と『水土御用』の引き継ぎ台帳作りに追われていた。

「……長安殿の件で、『担当者が死んだ後に読めない帳面』がいかに人を殺すか、嫌というほど理解したさ。……理解したけど! 俺の机の上の帳面が、ここ数日で倍以上に増えてるのは、絶対に納得いかない!!」

俺が筆を放り投げて文句を言っていると、書記役の青山新六郎が、少しだけ足早に部屋に入ってきた。

「若君。公儀の『火薬方』の職人より、奇妙な報告が上がっております」

俺は、その言葉を聞いて血の気を失った。

「か、火薬方!? 爆発ですか!? 事故ですか!? 死傷者は出たんですか!?」

俺がパニックになって立ち上がると、新六郎は冷静に首を横に振った。

「いえ。爆発ではございませぬ。……水が、冷えた、とのことにございます」

「……はい?」

「職人たちが、 焔硝(えんしょう) を扱う過程で誤って水に多く溶かしたところ、器の外が異様に冷たくなり、近くの小さな水皿の表面に、氷のような薄い膜が張ったように見えた……と」

「……火薬方から、水が冷えた?」

俺の頭の中で、前世の科学知識がカチリと音を立てた。

「で、これがその失敗の品か」

家康の重く、低く、機嫌の悪さを一切隠さない声が、座敷に響いた。

今回は、長安事件の調査報告の合間を縫って、家康、秀忠、竹千代、そして天海僧正が同席していた。

全員の顔に、疲労と厳しい緊張の色が張り付いている。

(この最悪の空気に、火薬方のミスの報告を持ってくるなんて……職人さんたち、今頃胃に穴が開いてるだろうな……)

俺の予想通り、座敷の下座に平伏している火薬職人の代表は、ガタガタと震えながら死にそうな顔で報告を上げた。

「恐れながら、申し上げまする。……我ら、火薬の元となる焔硝を整える折、誤って水へ多量に溶かしてしまいました。……すると、器の外が異様に冷たくなり、近くに置いておった小さな水皿の表面に、氷のごとき薄い膜が張ったように見え申した」

職人は、一息にそこまで言うと、再び深く額をこすりつけた。

「焔硝は火の粉のはず……なぜ冷えを生むのか、我らにも皆目見当がつきませぬ! これは火伏せの神の祟りか、あるいは公儀の御用に魔が差したかと恐れおののき、御異物改方へ持ち込んだ次第にございまする!」

「火薬方の失敗で、氷ができたとな?」

家康が、眉間に深い皺を寄せて聞き返した。

「は、ははぁっ! 御咎めは覚悟しておりまする! ただ、これは火薬方の手に余る奇事にございますれば……!」

俺は、すかさず助け舟を出した。

「大御所様。言葉で聞くより、私の前で一度実演させてよろしいでしょうか」

「……よかろう。やってみせよ」

職人が、用意された水を入れた器の中に、白い粉――焔硝、つまり硝石を多めに投入し、かき混ぜた。

俺たちは、その様子をじっと見守る。

やがて、器の表面に水滴がつき始め、明らかに周囲の空気がヒンヤリとし始めた。

俺が器に触れると、驚くほど冷たい。

近くに置いていた小さな水皿の水も、凍る寸前まで温度を下げているようだった。

「おお……」

秀忠が、信じられないという顔で息を漏らした。

「まこと、火薬の元で……冷えが生まれたというのか」

「火の道具ではなかったのか……?」

天海も、数珠を握りしめたまま目を丸くしている。

家康は、冷えた器をじっと見つめ、少しだけ興味を取り戻したような顔をした。

俺は、確信を持って口を開いた。

「…… 硝石(しょうせき) 製氷法ですね」

「しょうせき……せいひょう?」

竹千代が、聞き慣れない言葉に首を傾げた。

「大御所様も父上も、硝石そのものはご存知ですよね。焔硝、つまり火薬の材料です」

「それは当然だ」

秀忠が頷く。

「でも、硝石は火薬に使うだけじゃないんです。水に溶かすと、周りの熱を急激に奪って冷える性質がある。後の世では、冷やすために使われた例もある、れっきとした『 理(ことわり) 』です」

懐の端末が、静かに青白い光を放ってARを展開した。

『分類:既知物質の未普及用途』

『対象:硝石(焔硝)』

『既知用途:火薬原料』

『新規用途:冷却・製氷補助』

『歴史改変リスク:低〜中』

『主リスク:硝石流通拡大・火薬の違法転用・横流し』

「……便利です。火を使わずに冷えを得られますから。でも、硝石が絡む時点で、管理は絶対に厳重でなければなりません」

俺が真顔で釘を刺すと、家康は冷えた器から手を離し、喉の奥で「ふっ」と笑った。

「ほう……。焔硝とは火薬の元。人を害する火の種と思うておったが、使いようによっては『冷え』を生むか」

家康の顔から、長安事件以来の重く殺伐とした空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

「人を害す物が、人を救う秘伝にもなる。……この世の理とは、まこと面白いのう」

俺は、ついポロリと現代の言葉をこぼしてしまった。

「科学ですねー」

「……かがく?」

家康が怪訝な顔をする。

「あっ、いえ! 後の世の言葉です! えーと……この世の理を、神秘や迷信、祟りなどで終わらせず、『どうしてそうなるのか』を人の手で一つずつ調べていく学問、みたいなものです」

俺が慌てて誤魔化すと、竹千代が腕を組んで考え込んだ。

「…… 窮理(きゅうり) 、あるいは 格物致知(かくぶつちち) に近いのか」

「たぶん、それです! 後の世では、それがもっと細かくなって、火の理、水の理、薬の理、星の理まで調べるようになるんです」

天海が、深く、静かに頷いた。

「神仏の 御業(みわざ) を否定するのではなく、神仏がこの世に置かれた『理』を、人が少しずつ読み解くもの……ということでしょうか」

「そうです! 天海様、その言い方が一番安全で平和です!」

俺が全力で肯定すると、家康は低く、楽しそうに笑い声を上げた。

「ははは。ならばこれは、神仏の理の、ほんの一端じゃな」

その言葉で、座敷を包んでいた家康と秀忠のピリピリとした重い空気が、ふっと緩んだ。

秀忠は、最初こそ火薬方のミスに対して厳しい処断を下すつもりだったようだが、俺の説明と家康の反応を見て、表情を柔らかくした。

「火薬方の失敗が、新たな冷やす法を見つけた、か。……失敗も、隠さずに帳面に残せば、公儀の役に立つということだな」

「まさにその通りです!」

俺は、ここぞとばかりに「失敗記録の重要性」をアピールした。

「もし職人たちが祟りを恐れてこの失敗を隠していたら、この冷却法は見つかりませんでした。『試験田法』の時と同じです。失敗を隠さず報告する仕組みこそが、新しい知恵を生むんです」

秀忠は、深く頷いて火薬職人に向き直った。

「よく隠さず報告した。此度の失敗は、咎めぬ」

「は、ははぁっ……!!」

職人は、死を免れた安堵と感謝で、声を出さずに泣き崩れた。

「うむ」

家康も、力強く言葉を継いだ。

「失敗を隠せば罪。だが、失敗を速やかに報せ、新たな理を見つけたならば、それは立派な公儀の『御用』である」

(よしっ! これで火薬職人たちの救済と、大御所様たちの機嫌回復の両立が成功したぞ!)

俺は、内心でひっそりとガッツポーズを決めた。

空気が和らいだところで、俺は「硝石製氷法」の具体的な利用候補を挙げた。

「あの『永冷石』は数が限られますが、硝石を使えば、小規模な冷却ならどこでも可能です。高熱を出した患者の身体を冷やす、熱に弱い薬を保存する、夏場の薬湯を保管する、貴人の熱中症対策……。永冷石が使えない場所での、医療と薬の管理には非常に有用です」

「なるほど、それは使える」

竹千代が頷く。

「ただし!」

俺は、顔を引き締めて強く釘を刺した。

「これは、絶対に町方へ広めないでください。夏に氷が作れると知られれば、必ず商人たちが硝石を買い漁ります。硝石の流通が市中に広がれば……公儀の『火薬管理』が根本から崩れます。江戸が火薬庫になります!」

その言葉に、秀忠がハッとして顔色を変えた。

「……確かに。冷えを求めるあまり、火薬の元が市中に出回るのは、統治の上で極めて危うい」

「火を作る物であり、冷えを作る物でもある。ならば、帳面を分けてはならん」

竹千代が、即座に冷徹な管理方針を打ち出した。

「冷却用と火薬用で帳面を分ければ、必ず横流しが起きる。同じ『硝石』として、総量を一元管理せよ」

「兄上、それすごく大事です!!」

俺が激しく同意すると、控えていた新六郎がすでに筆を走らせていた。

『硝石用途台帳:火薬用および冷却用を分けず、総量を一元管理とす』

「新六郎! 仕事が早い!!」

家康が、最終的な命令を下した。

「硝石の冷却法は、公儀の厳重な管理とする。医師、薬種商、火薬方、そして御異物改方の四者以外へは、絶対に法を出すな。使用量、残量、用途、責任者を全て帳面に残せ。冷却用として渡した硝石が、裏で火薬へ回らぬよう、出入りを厳格に照合するのだ」

「完全に統制物資管理だ……」

『当然でしょ。冷たい顔をしてるけど、本質は火薬の親戚なんだから』

「……言い方が絶妙に怖い」

最後に、天海が宗教的な火種にならないよう、言い方を綺麗に整えてくれた。

「これは、氷の奇跡ではなく、神仏がこの世に置かれた『理』を、人が見出したもの。ゆえに、民へは水神様の奇跡として語らず、公儀の『御用の法』として秘して扱うべきにございましょう」

「それでお願いします! 『水神様が氷を作った!』とか噂になったら、また俺のプレッシャーが増えますから!」

俺が必死に頼み込むと、半兵衛が少し残念そうな顔で筆を置いた。

「……『水神様、火の粉より氷を生み給う』と、良い文が浮かんだのですが……」

「半兵衛様。即刻削除にございます」

新六郎の無慈悲な事務処理能力が、今日も半兵衛の神話化を未然に防いでくれた。

(火薬の材料が、冷却医療に使える。……人を殺すための技術が、使い方を変えれば人を救う技術にもなる)

俺は、冷えた水皿を見つめながら、深く考え込んだ。

(技術そのものに、善悪はないんだ。問題は、誰が、何のために、どう管理して使うか。ただそれだけなんだな)

『そうよ。技術はただの道具。人間がそれを何に使うかで、世界を切り裂く刃にも、命を救う薬にもなるの。だから、あんたが管理するのよ』

「……御異物改方の仕事、本気で重すぎない?」

『今さら?』

大久保長安の死と、その後に続く血なまぐさい疑獄の影で沈みきっていた空気が、この日、ほんの少しだけ持ち直した。

「長安の件で、今しばらくは帳面の膿を出し続けねばならん。……だが、同じ帳面と理の追求で、新しき救いの知恵も拾えるか」

家康の呟きには、天下人としての深い疲労と、それ以上の不屈の意志が滲んでいた。

「失敗を隠さぬ仕組みが、確かな役に立ちましたな」

秀忠も、憑き物が少し落ちたような顔で頷いた。

(よかった……。火薬方の人たち、これで処罰されずに済んだ……)

俺は、密かに安堵の息を吐き出した。

だが。

翌朝、自室の文机に向かった俺は、絶望のあまり崩れ落ちた。

『硝石用途一元管理台帳』

『冷却実験記録簿』

『医療利用候補先一覧』

『硝石出納照合帳』

『火薬方・薬種方連絡簿』

「大御所様と父上の機嫌は直った。……でも、俺の机の上の帳面が、一気に五冊も増えてるんだけど!!」

俺の悲痛な叫びに、端末は無慈悲に青い光を点滅させた。

『正常です』

人を害する火薬の元が、人を救う冷えを生む。

この世の理というものは、まこと面白く、そして恐ろしい。

その日、家康と秀忠の機嫌は、ほんの少しだけ持ち直した。

だが、俺の文机の上の仕事量は、またしても爆発的に増殖してしまった。

「科学って……ただひたすらに、帳面と書類を増やすだけの学問なのか……?」

俺の虚しい愚痴に、端末はいつものように冷たい青文字で答えた。

『概ね肯定』

「……そこは否定してくれよ!!」

初夏の風が吹き始めた江戸城で、俺の終わりの見えない事務仕事は続くのだった。