軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 塩水選? 卵が浮くくらいでいいんじゃない?

朝。

重く冷たい綿布団の中で目覚めた俺は、ぼんやりと昨夜の出来事を反芻していた。

『ユーザーの農業環境改善意図を確認』

『江戸城周辺環境制御ノード、低出力モードで待機中』

『管理者権限候補、生体認証未完了』

暗闇に浮かび上がった、あの青白い文字列。

幻覚や夢だったとは思えない。

あまりにも無機質で、この江戸初期という時代にはそぐわない、現代……いや、未来的なシステムメッセージの輝きだった。

俺は布団から身を乗り出し、何もない宙を手で探ってみる。

だが、何度空を切っても、あの文字が再び現れることはなかった。

「……夢、じゃないよな。あの表示、完全にSFのやつだったし」

独り言が、冷たい隙間風に吸い込まれていく。

触れることもできないし、呼び出す方法もわからない。

懇切丁寧な説明書やチュートリアル画面があるわけでもない。

つまり、今の俺にできることは、結局のところアナログに「田んぼをいじること」だけらしい。

「SFチートで転生したはずなのに、最初のミッションが『種籾選び』ってどういうバランス調整だよ……」

小さくため息をつきつつも、俺の心は決まっていた。

とりあえず、米だ。

米を増やす。

豊作を当たり前にして、兄上である竹千代が将軍になったときのための強固な地盤を築く。

兄上が盤石になれば、俺という危険分子が無理に担ぎ上げられる隙もなくなり、結果として俺が生き残る。

完璧な自衛の策だ。

「塩と、卵を持て」

朝餉を済ませた直後、俺が言い放ったその一言で、周囲に控えていた侍女や小姓たちの動きがピタリと止まった。

「……塩、でございますか? 若君、いかようにお使いで?」

戸惑い顔で尋ねてきたのは、俺の身の回りの世話をしている年配の侍女だ。

「うむ。あと、種籾も要る。多めにな」

「種籾……? 卵をお召し上がりになられるのではなく?」

「食うのではない。水に浮かべるのだ」

「卵を、水に浮かべる……?」

侍女たちの間に、困惑のさざ波が広がっていく。

(現代なら理科の実験か何かで納得してくれるんだろうけど、江戸城じゃ無理もないか)

内心で苦笑しつつ、俺は記憶の糸を必死に手繰り寄せていた。

塩水選。

塩水を使って、中身がぎっしり詰まった優良な種籾だけを選別する農法。

だが、その詳細なやり方を、俺は思い出すことができない。

(確か、卵がプカプカ浮くくらいの塩水……だったよな? いや、沈むくらいだっけ?)

品種によって濃度が違うという話を聞いたような気もする。

そもそも、卵で塩水の比重を測るというのは、どの時代の、誰の知識だ?

農業系なろう小説?

ネット記事?

動画サイトの雑学チャンネル?

(やばい、知識が雑すぎる。これじゃチートじゃなくて、ただの思いつきだぞ)

焦りを悟られないよう、俺は努めて威厳のある態度を崩さず、用立てさせた塩と卵を抱えて城を出た。

春まだ浅い頃だった。

田は本格的な青さを帯びる前で、苗代の準備に人の手が入り始めている。

種籾を選び、苗を育て、やがて田へ移す。

米作りの一年は、すでに静かに動き出していた。

江戸近郊の御料地。

前回、田を見ただけで自分の知識の曖昧さを思い知らされた俺は、今回は一人で乗り込むのをやめた。

必要なのは、思いつきではない。

記録だ。

そのため、御料地の管理補助をしている帳面仕事の得意な若い武士を一人、同行させることにした。

小栗半兵衛。

勘定方や帳面仕事を得意とする下級武士で、年の頃は二十代半ば。

生真面目そうな顔立ちの彼は、明らかに「若君の思いつきに付き合わされる不運」を嘆いているような空気を漂わせていた。

「若君様。此度は、田で何をなさるおつもりでございましょうか」

道中、半兵衛が控えめに尋ねてきた。

「種籾を選ぶのだ」

「種籾でございますか。それならば、長年土をいじってきた百姓どもが、とうに選んでおりますが……」

「目利きに頼るのではない。もっと誰にでもわかる、確かな方法を試すのだ」

田に到着すると、前回と同じく、百姓の長である与平たちが待っていた。

だが、俺の足元に置かれた木桶と、大量の塩、そして卵を見るなり、与平の顔に深い皺が寄った。

「若君様……種籾をご覧になると仰せでしたが、その塩と卵は、一体何に?」

「種籾を塩水に入れるのだ。中身の詰まった良い籾は重く沈む。軽い籾は浮く。浮いたものを捨てて、沈んだものだけを田に蒔く」

俺の説明に、百姓たちの間からざわめきが起きた。

「塩水に種を?」

「そんなことをして、芽が出るのか?」

面白がる若い者もいれば、怪訝な顔をする年寄りもいる。

そんな中、与平が一歩前に出て、険しい声で言った。

「若君様。お言葉を返すようですが、塩は決して安きものではございませぬ。たかが種を選ぶために塩を溶かすなど、我ら百姓には贅沢が過ぎるというもの」

その言葉に、俺はハッとした。

(そうか……塩のコストか!)

現代のスーパーで手軽に買える塩とは違う。

この時代の塩は、命を支える大事な品だ。

海辺ならともかく、内陸へ運ぶには手間もかかる。

それを、水に溶かして捨てる?

正気の沙汰ではない。

(やらかした。現代の感覚で物事を進めようとしてた。城の財力でしか実現できない農法なんて、全国に広まるわけがないんだ)

俺は即座に自分の考えを修正した。

「……与平の申す通りだ。ゆえに、全てにこれを行うわけではない」

俺は田の一角を指差した。

「あの小さな一区画で、ほんの少しだけ試す。使う塩の代金は、全てこちらで持つ」

それでも、与平の表情は晴れなかった。

「若君様のお金ならばよい、という話ではございませぬ。我ら百姓が自らの手で真似できぬようなやり方では、結局のところ、田のためにはなりませぬ」

痛いところを突かれた。

まさに現場の知恵だ。

だが、この老人、ただの頑固者ではない。

本気で田んぼの未来を考えているからこその苦言だ。

「なるほど。ならば、極力少ない塩で済む塩梅を探らねばならんな」

俺が素直に肯定すると、与平は少し驚いたように瞬きをした。

実験が始まった。

木桶に水を張り、塩を少しずつ入れて溶かしていく。

そこに卵を沈め、塩分濃度を測る算段だ。

「よし、このくらいか……?」

卵を入れる。

沈んだ。

底の方で微動だにしない。

「……もう少し塩を入れよ」

さらに塩を足す。

卵が、ぷかっと水面に顔を出した。

しかし、どう見ても浮きすぎている。

「待て。これでは塩が濃すぎるのではないか? 水で薄めろ」

あちらを立てればこちらが立たず。

百姓たちが「あんなに塩を……」「種が枯れてしまうのでは」とひそひそ囁き合うのが聞こえる。

(やばい、俺、塩水選を完全に舐めてた)

濃度計もない。

温度計もない。

現代なら「比重何々」と言われれば一発で作れるものが、この時代では職人の勘に頼るしかないのだ。

(知識チートって言うけど、UIが不親切すぎるだろ!)

焦る俺の視界の端に、手持ち無沙汰にしている半兵衛の姿が入った。

彼の手には、筆と帳面が握られている。

「半兵衛!」

「は、はいっ!」

「桶に入れた塩の量を記せ。椀で何杯入れたかだ。それと、水の量もだ」

「塩と水の量、でございますか?」

「そうだ。卵がどう浮いたか、あるいは沈んだかも、細かく書き残せ」

半兵衛は目を丸くした。

「そのような細事まで、帳面に残すのでございますか?」

「残さねば、次に同じことができぬだろう。よい塩梅がわかったところで、それがどのくらいの濃さだったか忘れてしまっては意味がない」

俺の言葉に、半兵衛の目の色が変わった。

数字と記録の重要性を理解する算術の徒として、腑に落ちるものがあったのだろう。

筆を走らせる彼の手つきが、目に見えて素早くなった。

俺は、半兵衛に命じて桶をいくつか用意させた。

薄い塩水の桶。

中くらいの塩水の桶。

濃い塩水の桶。

そして、ただの水。

それぞれの桶に種籾を入れ、浮いたものと沈んだものに分けていく。

浮いた籾を手に取ってみると、確かに軽い。

指でつまむと、中身がスカスカなのがわかる。

だが、全てが駄目な籾というわけでもなさそうだった。

「若君様。その浮いた籾の中にも、土に下ろせば立派に芽を出すものはござりましょうな」

与平が、横から口を挟んできた。

「ああ、そうかもしれん。だから、これは捨てずに別の場所に蒔く」

「捨てぬので?」

「比較するのだ」

俺は与平に向き直った。

「沈んだ籾、浮いた籾、そしてお前たちが普段の目利きで選んだ籾。それぞれを同じように育ててみる。俺の言っていることが本当に正しいかどうかは……田に聞く」

俺の言葉に、与平は言葉を失った。

身分の高い者が「自分のやり方が絶対だ」と押し付けてくるのではなく、結果を「田に問う」と言ったのだ。

老百姓の頑なだった表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

「よし、では選んだ種籾を引き上げろ」

俺が指示を出すと、百姓たちが塩水から籾を掬い上げ始めた。

その時、与平が当然のように尋ねてきた。

「若君様。水に浸すこと自体はありましょう。されど、塩を溶かした水に入れた籾を、このまま苗代に下ろしてよろしいので?」

「…………」

俺の思考が、一瞬完全に停止した。

(待て。塩水に浸けた種籾を、そのまま? 塩分まみれで?)

背筋に冷たい汗が伝う。

(危ねえええええええ!!)

塩害という言葉があるように、塩は植物にとって猛毒になり得る。

塩水に浸けたまま放置すれば、発芽不良を起こすに決まっている。

(俺、今、現場の何気ない質問で自滅しかけたぞ! 雑知識の落とし穴こわっ!)

俺は慌てて、しかし表面上は冷静を装って指示を出した。

「……いや。きれいな水で洗う。しっかりと塩を落とすのだ」

与平が無言で頷き、若い百姓たちに指示を出す。

だが、ここでも新たな問題が発生した。

どの程度洗えばいいのか、基準がないのだ。

桶の水を替える回数も、洗う人間の力加減もバラバラになっている。

「半兵衛! 洗った回数も記せ! 水を替えた回数と、誰が洗ったかもだ!」

「種を洗うだけで、そこまで事細かに記録なさるのでございますか!?」

「たぶん、そこが失敗の原因になる!」

俺の叫びに、半兵衛は弾かれたように筆を動かした。

選別した種籾を、小さな区画に分けた苗代に蒔いていく。

「半兵衛、竹の札を用意しろ」

「はっ。いかようにいたしましょうか」

「区画ごとに印をつける。甲は与平たちが選んだもの。乙は薄い塩水で沈んだもの。丙は濃い塩水で沈んだもの。丁は浮いた籾。戊は塩水で選んだ後、何度も丁寧に洗ったもの。己は洗いが足りなかったものだ」

細かく指示を出すと、半兵衛は不思議そうな顔をした。

「わざわざ札など立てずとも、後で見れば育ち具合でわかるのではございませぬか?」

「分からなくなる。人間は絶対に忘れる生き物だ」

「御冗談を。自ら手塩にかけた田の育ちを忘れる者などおりますまい」

「いいや、俺は忘れる」

俺が真顔で断言すると、後ろで聞いていた与平が「ふっ」と小さく吹き出した。

若君という立場でありながら、自身の記憶力を全く信用せず、記録に頼ろうとする姿勢。

それが、現場の人間にとってはかえって人間臭く映ったのかもしれない。

田から城へ戻ると、早くも俺の行動が噂になっていた。

「お聞きになりまして? 国松様が、塩水と卵を使って種を選ばれたとか」

「百姓の田で泥にまみれることも厭わず、竹千代様の御世のためにと……」

「まこと、御器量だけでなく、御心まで優れておいでで……」

侍女たちの囁き声を聞くたびに、俺は内心で頭を抱えていた。

(まずい。変な美談に仕立て上げられようとしてる)

俺が欲しいのは「竹千代様を全力で支援する便利な弟」という評価であって、「竹千代様よりも民を思う素晴らしい若君」という神童ポイントではない。

母であるお江の方などは、「国松は民の暮らしにまで心を配るのですね」と手放しで喜んでいるらしいが、それが一番危険なのだ。

俺がどれだけ「兄上のため」と言っても、その真意が正しく伝わるとは限らない。

「竹千代様を支える弟」ではなく、「竹千代様より民を思う若君」という美談として独り歩きすれば、それはそのまま俺の首を絞める。

春日局の息のかかった者たちが、この噂をどう受け取るか。

考えるだけで胃が痛くなる。

噂がこれ以上拗れる前に、俺は自ら竹千代の元へ向かった。

竹千代は、書物から顔を上げ、静かな声で問いかけてきた。

「……塩水で、種を選んだと聞いたが」

俺は即座に平伏した。

「はい。兄上の御政道における御試みとして、いずれ整えたいと思っております」

「私の?」

「はい。兄上がいずれ天下を治められる時、米が増えれば民が安んじます。食が足りてこそ、天下は泰平になりましょう。これは、兄上のための礎にございます」

竹千代の表情が、複雑に歪んだ。

俺は常に彼を立てている。

だが、実際に知恵を出し、泥にまみれて動いているのは俺なのだ。

「お前は……」

竹千代が、ぽつりとこぼした。

「なぜ、そこまで私の世の話をする。お前自身が上に立つとは思わぬのか」

本当の理由は「殺されたくないから」だが、そんなことを言えるわけがない。

俺は、できる限り真摯な声を作って答えた。

「兄上が上に立たれねば、徳川は乱れます。弟が兄と争えば、家が裂けます。某は、それが嫌なのです。ただ、平穏に兄上をお支えしたいのです」

しんと静まり返る部屋。

竹千代はまだ幼いが、両親の偏愛や家臣たちの派閥争いなど、城内に渦巻く空気は嫌でも感じ取っているはずだ。

だからこそ、俺のこの言葉は、彼の心の柔らかい部分に刺さったに違いない。

しばらくの沈黙の後、竹千代は小さく言った。

「……ならば、私にも見せよ」

「田を、でございますか?」

「そうだ。お前が私の世のために何をしているのか、この目で確かめたい」

それから十数日後。

俺たちは再び御料地の苗代に立っていた。

結果から言えば、大成功とは呼べないものだった。

「なるほど……。沈んだ籾は、確かに芽の揃いがよいように見えますな」

与平が、土に顔を近づけるようにして苗を見比べる。

「だが、丙の区画は弱い。戊と同じく三度水を替えて洗ったはずでございますが、それでも乙や戊に比べると芽の勢いが落ちておりまする」

与平は、濃い塩水で選んだ丙の区画を指差した。

「つまり、洗いだけではございませぬ。塩水そのものが濃すぎても、種籾には負担になるのでございましょう」

俺は、思わず息を呑んだ。

記録がなければ、絶対に分からなかった。

もし丙の洗いが一度だけだったなら、発芽不良の原因は「洗い不足」としか判断できなかっただろう。

だが、丙は戊と同じ三度洗い。

それでも弱い。

つまり、濃すぎる塩水そのものが種籾を痛めた可能性が高い。

「そして何より……」

与平の指差す先、己の区画──洗いが足りなかった籾の区画は、明らかに芽吹きが悪く、枯れかけているものすらあった。

(危なかった。全部これになってたら、俺の首が物理的に飛んでたかもしれない)

俺は叫び出したいのを必死にこらえ、冷静に頷いた。

「つまり、塩水選は使える。だが、濃さと洗いが極めて重要だということだ」

横で帳面を開いていた半兵衛が、興奮した様子で声を上げた。

「若君! 洗いを三度、丁寧に行った戊の区画は、見事に発芽が揃っております! 逆に一度しか洗わなかった己の区画は悪い。記録しておらねば、この洗いの回数の違いには気づけませなんだ!」

(そう! それだよ半兵衛! 現代チートの真髄は知識そのものじゃない。観測と記録を通じた『改善』なんだよ!)

内心でガッツポーズを決めつつ、俺はあくまで控えめに言った。

「失敗も、こうして書き残してあれば次に役立つというものだ」

与平は、ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。

「若君様の手は、まだまだ粗うございます。到底、全ての田に広められるものではございませぬ」

厳しい言葉だったが、その目には以前のような呆れはなかった。

「だが……試す値打ちは、大いにありますな」

現場の長からの、一定の評価。

それは、俺にとって何よりも大きな勝利だった。

その夜。

行灯の明かりを頼りに、半兵衛がまとめた帳面の写しをめくりながら、俺は次の手を考えていた。

(塩水選の方向性は見えた。次は正条植えだ。苗を均等な間隔でまっすぐ植えるための、紐や道具の準備がいる。……なんか、どんどんやることが増えてないか?)

溜息をついた、その時だった。

再び、暗闇の中にあの青白い文字列が浮かび上がった。

『農業改善試験、初期結果を確認』

『種籾選別精度、前年度比改善見込み』

『環境制御ノード、補助観測モードを一部開放』

「えっ……?」

今度は、前回よりも長く文字が滞空している。

さらに、空間の空いた部分に、ぼんやりと光の網目のようなものが展開し始めた。

田んぼの水路や、土壌の養分らしきものを示す、簡易的な立体図面。

だが、ノイズがひどく、詳細までは読み取れない。

『警告:管理者権限未認証』

『表示精度、低』

『追加改善行動を推奨』

「……推奨するな。俺はまだ六歳だぞ」

思わずツッコミを入れると、図面と文字はふっと虚空に溶けて消えた。

俺は頭を抱えた。

(これ、俺が農業を改善するたびに、このシステムが反応するのか?)

(つまり、米チートを進めれば進めるほど、SF的な管理仕事も増えていくってことか?)

(KAMI様、話が違う。いや、嘘は吐いてないけど、絶対説明が足りてないだろ!)

塩水選の次は、正条植え。

だが、この時の俺はまだ知らなかった。

ただまっすぐに苗を植えるだけのその作業が、百姓たちの常識と、田んぼの泥と、徳川家中の政治をまとめて引っかき回すことになるのだと。

SFチートを使うために農業をしているのか。

それとも、農業をしたせいでSFチートのシステムに使われているのか。

だんだん分からなくなってきたぞ……。