作品タイトル不明
第8話 離縁成立、屋敷を出る朝
朝の光の中で、私は最後の調印をした。
離縁の申し入れから、およそ一月半が経っていた。書類の整備、両家家長の調整、嫁入り道具の搬出。手続きというのは、必要になってから始めると、本当に時間がかかるものだった。
その朝、書斎には五人が集まっていた。
宰相府の立会人としてロードヴィック伯爵アンセル様。お義母様。ブランシェ家の代理人として、お父様の名代の方。それに、夫と私。
ブランシェ伯爵のお名前は、書類の上にだけあった。お父様ご自身は領地から動かれなかった。代理人の方が、お父様の自筆の委任状とともに、ブランシェ家の家紋を押した正式な署名欄を埋めた。お義母様は、ヴァランタン家の家門代表として、ご自分の名を書いた。夫は最後に、半分だけ俯いた姿勢で、自分の名を書いた。
私も、書いた。
「ヴァランタン侯爵夫人」と書かれていた署名欄が、本日付で更新された。
書類が四通そろい、アンセル様が宰相府の朱印を、最も最後に押した。封蝋を溶かす匂いが、書斎の中に短く広がった。
「ご調印、確かに承りました」
アンセル様は短くそう告げて、書類をしまった。
それで終わりだった。
三年前の春、神殿の祭壇の前で誓いを交わした時間より、今朝の調印のほうがずっと短かった。三年は紙四枚に収まる長さだった、と思いかけて、私は自分の手元に視線を落とした。指の付け根の細い銀の指輪を、私は外して、書斎の机の中央にそっと置いた。
「お預かりいたします」
お義母様が、それを白い絹のハンカチに包んで、ご自分の手元に納めた。夫は、その様子を見ていた。けれど、何も言わなかった。
私は書斎を出た。
正面玄関の広間に出ると、屋敷の使用人たちが、扉に向かって両側に整列していた。
呼んだ覚えはなかった。誰がいつ整列したのかも、分からなかった。けれど、料理長セバスチャンも、馬車番も、玄関番の従僕も、洗濯場の侍女も、厨房の見習いまで、自分の持ち場の制服のまま、扉の前の通路を空けて立っていた。
ベルタが、その列の先頭に立っていた。
私が玄関の段に立つと、ベルタは深く一礼してから、私のほうへ一歩、進み出た。
「アデライン様」
呼びかけの音が、わずかに揺れた。
三年間、ベルタは私を「奥様」と呼び続けてきた。屋敷の中の、廊下の角でも、書斎の扉の外でも、客間の卓のそばでも、ベルタの声はいつも「奥様」だった。今朝、その音が、本当に三年ぶりに、「アデライン様」へ戻った。
ベルタの手の中には、薄い紙包みが一つ。
「お渡しすべきものが、ございます」
「……これは」
「三年前の春、奥様……アデライン様が、嫁入りの直後にお書きになった、最初の春のご挨拶状の、写しでございます」
私は包みを開けた。
紙の角が、何度も触れたせいで柔らかくなっていた。文字は、三年前の私のもの。けれど、三年前の私はその写しを誰にも渡していなかった。書き終えて、宰相府へ送って、それでその挨拶状の役目は終わったはずだった。
「あなたが、保管していたの?」
「はい」
ベルタはもう一度、深く頭を下げた。
「お屋敷の中で、アデライン様のお仕事が、すべて旦那様のお名前で送り出されていきましたから。ただ一人、屋敷の中で、これを書いたのが誰なのかを覚えている人間がいないと、どこかで取り違いが起きると、私は怖くなりまして」
「……ベルタ」
「申し訳ございません。お許しもいただかずに」
「ありがとう」
私はベルタの手に、もう一度、その紙包みを返した。
「あなたが持っていてください。ブランシェ家へ、これからも一緒に来てくれるでしょう?」
ベルタの目が、初めて私の前でわずかに濡れた。
「お供させていただきます、アデライン様」
夫が、玄関の柱のそばに立っていた。
それまでずっと、書斎の調印台の前で半分俯いていた人が、今、玄関の段の手前で、初めて顔色を変えていた。何かを言いかけて、口が動いた。けれど、声は出なかった。
リゼットの姿は、見えなかった。彼女は自分の部屋から、この朝、出てこなかったらしい。
外の通りに、二台の馬車が止まっていた。
一台はブランシェ家の家紋を掲げた、私の実家の馬車。もう一台は、家紋のない宰相府の公的馬車。御者台の隣に、文官の上着を着たアンセル様が座っていた。アンセル様は私のほうを見て、わずかに頷いた。立会人の責務として、屋敷を出る朝の警護を、最後まで自分の手で守る、と告げる頷きだった。
私は使用人たちの列の間を、ゆっくり歩いた。
セバスチャンの前を通る時、彼は深く一礼した。馬車番の前を通る時、彼は私のためだけに扉の段を整えていた。洗濯場の侍女の前を通る時、彼女は手の中の白い布をきつく握っていた。
ブランシェ家の馬車に乗った。
扉が閉まり、馬車が動き出す前に、私は一度だけ、屋敷の正面を振り返った。
夫は、玄関の段に立ったままだった。
馬車が動き出した。
王都の朝の通りを、ブランシェ家の馬車が走り、その横を、家紋のない宰相府の馬車が並走した。アンセル様の上着の襟元の銀の刺繍が、朝の光の中で一度だけ、私の窓のほうへ向いた。
馬車の窓から振り返ると、屋敷の正面に立つ夫の姿が、ようやく小さく見えた。
三年かけて、私はここから出てきた。