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「君との婚約は今日限りだ」

作者: ウロボロさない

本文

「レティシア・ルナール公爵令嬢。君との婚約は今日限りだ」

誉れ高き王立学院の卒業パーティーにふさわしい絢爛な雰囲気の中、その宣言はあまりにも唐突になされた。

決して大きくはないがよく通る声は、未来への希望にあふれた令息令嬢たちの声でさざめく会場を端まで静まり返らせるのに充分だった。誰もが呆気に取られて声の主――卒業生の一人としてこの場に参加している王太子アラン・ボードリーを見つめる。

「それは一体、どのような意味でございましょう」

威風堂々と立つ王太子に対峙するのは、名指しされたレティシア公爵令嬢その人である。花のかんばせに隙のない淑女の微笑みを湛え、いささかも動じることなくゆるりと首を傾げた。

幼少の折に婚約を結んで以来いつも睦まじく寄り添い、なんてお似合いなことだろうかと人々の感嘆を誘ってきた二人が、今は互いに手を伸ばしても届かないほど離れた位置にいる。卒業生も保護者もみな、自然と彼らを遠巻きにしていて、ぽかりと空いた空間はさながら演劇の舞台のようだ。

「どうもこうもない。言葉の通り、君との婚約は今日で終わりということだ」

再びそう宣言して、アランは靴音高く一歩、また一歩とレティシアに近づいてゆく。そんな、と観衆のどこからか漏れた悲鳴のような声も、その歩みを止めることはできない。

やがて彼はレティシアの目の前にたどり着き――そしてその場で跪いた。

レティシアが微かに息を呑む。

「これからは婚約者ではなく、妃として共に歩んでほしい――結婚してくれ、レティシア」

「……はい、アラン様」

差し出された手に自らの手を重ね、レティシアは蕾がほころぶように笑った。アランは感極まった様子で立ち上がったかと思うとレティシアを抱きしめ、周囲の卒業生から歓声があがる。

みな貴族としてはいささかはしたない行動ではあったが、たとえ王国一厳しいマナー講師であっても今夜ばかりは目をつぶることだろう。大人たちも誰一人として咎め立てすることはなく、初々しい次代を微笑ましく見守っていた。

「――いや、卒業生みなの祝いの場だというのに、私的なことで騒がしてしまったな」

ひとしきり囃し立てられた後、名残惜しげに抱擁を解いたアランは照れくさそうに笑った。

「愛しの婚約者にようやく結婚を申し込めることになったものだから、ついね……またずいぶん浮かれたものだと、笑い飛ばしてくれるとありがたい」

いくら王太子の婚姻が国政の一環であるといえど、国としての正式発表というわけでもない以上、これはやはり単なる私事である。とはいえそんな正論を持ち出して水を差すような無粋な人間はここにはいなかった。「むしろ役得ですよ」「本当におめでたいことだわ」と楽しげな声が飛び交い、

「『私は未来の王のプロポーズに立ち会ったのよ』って、ひ孫の代まで自慢しますわ!」

というクラスのムードメーカーである子爵令嬢の言葉に、レティシアは淑女の仮面を被り直すのを諦めてきゃらきゃらと笑った。

「それにしても、急に婚約が今日限りだなんて、何事かと思いましたわ。てっきり、婚約破棄でもなさるおつもりかと」

「まさか!」

婚約者の口から飛び出した衝撃的な言葉にアランは目を見開く。

「ひどいな。君は僕がこんな公衆の面前で婚約破棄を突きつけるような愚か者だと思っているのかい?」

「まあ、それこそまさかですわ。冗談ですから間に受けないでくださいまし。なにしろ随分と驚かされましたもの、ちょっとしたお返しです」

「まいったな……どうやら未来の王は、王妃の尻に敷かれることが確定しているらしい」

つーん、と大袈裟にそっぽを向くレティシアと、いかにも情けなさそうに眉を下げるアラン。二人の芝居がかった仕草に、ドッと笑いが起きた。保護者たちも笑っている。最終的にはアランたちまで思わず吹き出して、会場であるこの国最古のホールはその長い歴史の中で最も賑やかな笑いに包まれたのだった。

「皆、ありがとう。父兄の皆にも、そして何より三年間共に学んだ君たちにこうして祝福してもらえることは、望外の喜びだ」

王太子の顔に戻ったアランがすっと手を挙げると笑い声はさざなみのように引いてゆき、代わりに宮廷楽団の奏でる優美な音色が会場を満たした。この国でもっともポピュラーな舞曲のひとつだ。

「さあ、ここからは本来の通り、卒業生全員が主役だ。大いに楽しんでくれ。ただし、羽目を外しすぎない範囲で……とは、僕が言えたことではないけどね」

最後にまた少し笑いを誘って、アランはレティシアに向き直った。今度は立ったまま手を差し出す。

「レティシア、僕と一曲踊ってくれるかい?」

「もちろんですわ、アラン様」

二人は手を取り合って滑らかにステップを踏み出した。アランに導かれてレティシアがくるりと回れば、繊細なレースに縁取られたドレスの裾がふわりと広がる。息の合ったダンスに周囲は溜息を洩らし、そして一組また一組と後に続いて踊り始めた。

**

「――グレゴワール伯爵令息、ですか?」

「さすがレティ、やはり気づいたか」

ダンスの最中、アランだけに聞こえる声でレティシアが問い掛ければ、アランは嬉しそうに目を細める。祝福ムードに沸く会場の中、誰もが気にも留めなかった「こんな公衆の面前で婚約破棄を突きつけるような愚か者」というアランの言葉に、たった一人だけ居心地の悪そうな反応をした人物がいたのを、レティシアは見逃さなかった。

「ほんのついさっきだ。彼が婚約者以外の女性に気移りして、この夜会の場での公開婚約破棄を目論んでいるという情報が入ってね」

「まぁ」

王立学園の卒業パーティー、すなわち王の名で主催されている夜会を私的なことで乱そうなど、本来であれば王への叛意ありと見なされて厳罰に処されてもおかしくない行為だ。しかし今回は、件の令息が片想い止まりで不貞に繋がるような行動は何もしていなかったこと、自らの非を全面的に認めて自分有責での破棄を申し出ようとしていたことから情状酌量の余地ありと判断した、とアランは語った。

「内々の話では揉み消されるからといって、公の場で事を起こそうとしたのは短絡的すぎてなかなか擁護しがたいものがあるが……元々は真面目で優秀な奴ではあるだろう? 一度くらいは猶予を与えてもいいと思ってね」

「グレゴワール伯爵令息のお相手というと……確かポワリエ伯爵令嬢でしたわね。この件は、両家には?」

「すでに遣いを出している。こちらはあくまでも彼を罪人にしたくないというだけだからね、婚約関係についてまで庇い立てするつもりはないよ」

「あの二家のご当主方であれば、安心してお任せできましょう。よき落とし所だと思いますわ」

王太子自ら公の場を私物化して見せてまで踏みとどまる機会を与えたことの是非には議論の余地があるかもしれない。しかし優秀な人材の失脚を防いだ上に多大な恩を売れ、さらに微笑ましい慶事で次代の国王夫妻の好感度までアップできたのだ。咄嗟の対応にしては上々な結果と言っていいだろう。

「それもこれもレティのおかげだ。打ち合わせどころか情報共有すらもなしに話を合わせてもらおうだなんて無茶、君以外にはとても任せられないよ」

「当然でしょう。私が何年アルの婚約者でいると思ってらして? 他の方が易々と取って代われるわけがありませんわ」

レティシアにはアランのことなら誰よりも理解しているという自負がある。そしてレティシアのことはアランが一番理解してくれているはずだという信頼もまた。

そんなレティシアにとって、君になら無茶も任せられるとアランから当たり前のように言われることは、最大級の賛辞だった。

とはいえどれほど嬉しい言葉も普段なら淑女の微笑みひとつでさらりと受け止められるのだが、今のレティシアは有り体に言えば浮かれていた。淑女だろうが王太子の婚約者だろうが、好いた男に求婚されて浮かれない乙女がいるだろうか。

「ああでも、そんな長年の婚約関係も今日で終わりなのでしたっけ」

ふわふわ、ほわんと。いつになく浮き足だった気持ちのまま、レティシアは本来のステップよりも大胆に、ぐっとアランへと顔を近づけた。

「レ――」

「明日からは夫婦としてよろしくお願いいたしますわね、だ・ん・な・さ・ま♡」

「……!」

完全な不意打ちにうっかり真っ赤になった未来の国王の顔を目撃したのは、幸いにも彼の最愛の伴侶ただひとりだったという。