軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

コミックス2巻発売記念SS マリウス王子の見る夢

駆け付けた時にはすべてがもう遅かった。

青ざめた頬には血の気が一切なく、赤く色づいていたはずの唇は色を失って固く結ばれていた。

あとたった数時間が過ぎれば聖女の役目を終えるはずだった少女の目は固く閉じられ、もう二度と開くことはない。

苦痛の色が一切なかったのだけが救いだろうか。

「私の聖女……」

マリウスは聖女の冷たい頬に手を伸ばす。

暖かさを分け与えるように触れても、伝えてくるのは失った命の虚しさだけ。

あと少し。

あとほんの少しだけ聖女の役目を全うすれば、「聖女」から「人」になり、そしてマリウスの妻となるはずだった愛しい少女。

昨日まで穏やかに微笑んでいたマリウスの聖女は、物言わぬ姿で棺の中に納まっていた。

「なぜ……」

答えるものなどいないのに、言葉がこぼれる。

張り裂けそうな胸の痛みをこらえるように、マリウスは瞠目する。

「兄上」

いつまでそうしていたのか。

声をかけられたマリウスはゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、いずれ教皇になると言われている異母弟のラウルスだ。絶世の美貌を持つマリウスと並ぶと、双子のようによく似ている。

ラウルスは棺の中の聖女を見ると、目を輝かせた。

「なんという奇跡でしょう。彼女こそ、真の聖女だったのではないでしょうか」

熱をはらんだ声を聞いて、マリウスは意外に思う。

教会に属するもの同士として面識はあったはずだが、それほど親しいようには見えなかった。むしろ、マリウスの婚約者であるからと距離を置いていた。

「真の聖女?」

聖女を失った悲しみで感情が麻痺していたのかもしれない。

マリウスは今まで疎遠だったラウルスとの会話を続けていた。

ラウルスは異様な熱意を持って、棺で眠る聖女を見つめる。

「聖女が自らの生命力を使って他者を癒すのは兄上もご存じかと思いますが、私は、本当に神の加護を得た聖女ならば、身を削らずとも癒しの魔法を使えるのではないかと思うのです」

「そのようなことは聞いたことがない」

もしラウルスの言うことが本当ならば、明日には聖女から解放されると分かっていながら他者のために命を使い果たした、マリウスの聖女こそが真の聖女にふさわしい。

だがその聖女は身を削って儚くなってしまった。

ラウルスのいう事が正しいならば、聖女は今もなおマリウスの隣であの穏やかな微笑みを浮かべていたはずだ。

マリウスは視線を落とし、冷たい頬に指を走らせる。

今にも目を開いて恥ずかし気にマリウスを見上げてくるような気がするのに、長い影を落とすまつ毛が震えることはない。

もう二度とその瞳がマリウスを映すことは、ないのだ。

「それが本当ならば、私の聖女が死ぬことはなかった」

聖女の正装に身を包む少女は、死してなお美しかった。

マリウスは心の奥の一番深いところに刻みこむように、その姿をしっかりと目に焼きつける。

このまま永遠に棺にはべり、死出の道を共に歩みたい。

あともう少しでつかめたはずの命が、手からこぼれ落ちて失われてしまった。

マリウスは、私のせいだ、と自責の念を覚えずにはいられなかった。

聖女が助けようとした公爵家の姫は、マリウスに執着していた。王位に就く可能性などないと何度言っても諦めようとせず、父の公爵もそれを咎めなかった。

マリウスを王にと考えたわけではない。溺愛する娘の望みをかなえようとしただけだ。

公爵といってもマリウスの後ろ盾になるほどの権力はないことから、マリウスを排除したいと画策する王妃も姫の執着を見逃していた。

むしろマリウスが遠ざけようとすればするだけ、マリウスの嫌がる顔を見たいからといって姫の味方をするほどだった。

おそらく聖女が力を使い果たさなければならないほどの毒を姫に渡したのも王妃だろう。

もっと警戒してしかるべきだったのに、怠った結果、すべてを失ってしまった。

「思うに、彼女は加護以上の能力を使おうとしたのではないでしょうか。ただの聖女であれば力を使い果たせば骨と皮だけのおぞましい姿に変わり果てます。ですがこのように美しいままでいるのは、彼女が真の聖女だったからでしょう」

自分の発見を楽し気に説明するラウルスは、目を爛々と輝かせて語り始める。

悲しみの淵に沈んでいるマリウスは、その異常さに気がつかなかった。

「他の聖女とどこが違っていたのだろう。他にない兆候があったのだろうか。兄上の婚約者だからと遠慮せずに、もっと接するようにすれば良かった。私ならきっと他の聖女との違いが分かったのに。……ねえ、兄上は彼女と一緒にいて、何か特別だと思ったことはありませんか?」

マリウスはその問いかけに、聖女のまとっていた光のことを思い出す。

他の誰に言っても信じてもらえなかったが、マリウスの聖女が癒しの魔法を使った時、その体を包みこむように光り輝くことがあった。

ラウルスにも話したことがあったような気がしたが、あまり顔を合わせる機会がなかったから言いそびれていたのだろう。

マリウスが黙ったままでいるのを何も知らないのだと勘違いしたラウルスは、肩を落とす。

「ああ、もっと早く分かっていれば、研究のために死なせなかったのに。惜しいことをした」

「まるでこうなるのが分かっていたような口ぶりだ」

皮肉をこめて言うと、ラウルスは何を言っているのだという顔をしてマリウスを見た。

「母上はマリウス兄上に嫌がらせをするのを生きがいにしていますからね。少し考えれば分かることではないですか」

ラウルスの言う通りだ。

継室である王妃は、いくらマリウスが王位に興味はないと言っても、第一王子を脅かすとしてマリウスを敵視し暗殺の手を伸ばしてくる。

その手が、なぜ聖女に伸ばされないと思っていたのか。

聖女と婚姻を結び王位継承権を放棄すれば、王妃の気も済むだろうと思っていた。

だが王妃の悪意はマリウスの予想を上回っていた。

それが、この結果だ。

後悔が鋭い痛みを伴って胸を刺す。

「どうにかして生き返らないものだろうか。真の聖女であれば、神の恩寵があるのでは……」

ぶつぶつと呟くラウルスに、マリウスは不気味なものを感じる。

思えば、この異母弟がこうして感情をあらわにするのを初めて見たような気がする。

だがラウルスが「真の聖女」と呼ぶたびに、マリウスの聖女が汚されるようで許しがたい。

「なにか触媒になるものは……ああ、これなら」

「触るな!」

ラウルスが聖女の胸に光るマリウスの瞳の色をしたペンダントに手を伸ばそうとするのを、マリウスは咄嗟に払った。

「減るものではないのですからいいではないですか」

「最後の別れなのだ。二人だけにしてほしい」

ラウルスは未練がましく聖女を見ていたが、一歩も引かないマリウスの頑なな様子に諦めたように立ち去った。

再び戻った静寂の中、ペンダントがかすかに光った。

「これは……」

驚きに目を見張るマリウスの前に、まるで空から降る雪のごとく、ふわりふわりと小さな光が舞い落ちる。

いくつかの光は、まるで最後の別れを告げるように聖女の周りを囲む。

そしてゆっくりと聖女の胸元で光るアメジストへと吸い込まれていく。

その不思議な光景に、マリウスは先ほどのラウルスの言葉を思い出した。

「真の聖女なら、神の恩寵がある……」

マリウスはそっと聖女の首に手を当てる。

奇跡というものがもし本当にあるのならば。

神が力を分け与えた聖女を愛しているのなら。

今すぐに聖女はよみがえり、マリウスに微笑みかけてくれるだろう。

だが……命の鼓動が脈打つことはなかった。

「なぜ聖女の癒しは命を分け与えるものなのか……。それは神の恩寵ではなく、呪いではないのか」

教会の人間に聞かれたら問題になりそうな言葉だが、ここにはマリウスと死せる聖女しかいない。

両手を広げ見下ろしている神の像があるが、神は何も語らず、誰も救わない。

「二度とこんな悲劇を繰り返さぬために」

マリウスはそっとアメジストのペンダントを手に取る。

脳裏に聖女の行く末を案じていた聖女の姿が映る。

十六歳になって聖女の地位を降りた時、残された他の聖女たちに負担がかかることを心配していた。

いつ命を使い果たしてしまうのだろうかと怯えていたのは彼女も一緒だったのに、他の聖女の分も回復魔力を使っていた。

自分には限界が分かるから大丈夫だと、あの美しくも真っ直ぐな瞳でマリウスを見つめて。

それなのに聖女は、マリウスの手の届かない場所へと行ってしまった。

「聖女の命を使わずとも魔法が使えるすべを、私が見つけてみせよう」

けれど残されたマリウスにしかできないことがあるはずだ。

ずっと手の中に包んでいたからか、ペンダントの石がほんのりと熱を帯びているような気がする。

まるでマリウスの決意を後押しするかのように。

「そうすればもう聖女だけが犠牲になることはない」

マリウスはそっと聖女の赤みの失せた唇に口づける。

初めて触れた唇は、マリウスの心まで凍らせるほどに冷たい。

「レナリア……幸福という名をあなたに贈りたかった……」

不思議なことに、死せる聖女は眠るように横たわったまま、その姿が変わることはなかった。

人々は奇跡だと驚き、教会は『真の聖女』として、その亡骸をガラスの棺に納め祈りを捧げた。

真の聖女が失われたからだろうか、彼女の死の後、なぜか聖女たちは力を失っていった。

人々はそれを、真の聖女を死に追いやった公爵家の姫のせいだと噂した。

その噂のせいで、姫はマリウス王子と結婚するどころか、一生を神に懺悔して捧げよと戒律の厳しい修道院に送られ、死ぬまで祈りの生活を送ることになった。

そして聖女を娶るはずだったマリウス王子は忽然と姿を消し、歴史にその名が刻まれることはなかった。