軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

0. プロローグ

森野百合(もりのゆり) は歓喜に打ち震えていた。

銀行アプリの口座残高を示す数字を、間違いがないか何度も確認する。

スマートフォンを持つ手がブルブルと震えて見にくいが間違いない。ついに目標金額に到達したのだ。

「やった! やっと……貯まった……!」

肌はボロボロ、髪はパサパサ、細いを通り越してやつれたように痩せているが目はギラついている。

薄暗い部屋の中、スマホの明かりに照らされ「ヒヒヒ……」と笑う姿はまるで幽鬼のようであったが、一人暮らしのため幸いその姿を目撃するものはいなかった。

百合はいわゆる社畜だった。

サービス残業、休日出勤は当たり前。人が辞めて手が足りないのに、新しく採用の募集がかけられることはなく、1人の負担がどんどん膨れ上がる……。

まごうことなきブラック企業に勤めていた。

平日休日昼夜問わず鳴り続ける仕事の電話。

友人も恋人もおらず、未来のことなど考える余裕もなく、ただただロボットのように働き続けていた時、百合はその言葉に出会った。

「 FIRE(ファイア) 」

通勤ラッシュのピーク時間、電車の中でぎゅうぎゅうに押しつぶされながらたまたま流し読みしていたネットの記事に、雷に打たれたような衝撃を受けた。

――『FIRE』とは“Financial Independence, Retire Early”の略で、日本語にすると『経済的な自立と早期の 退職(リタイア) 』を意味します。投資や貯蓄などの資産形成を通して会社などの勤め先にしがみつかずとも生活できる『経済的な自立』を達成し、『早期に退職できる状態』を目指そうという考え方です――

「これだ……!」と思った。

「経済的自立」と「早期退職」という言葉が、これ以上ないほど魅力的に百合の頭の中で鳴り響いた。

「あ、辞めてもいいんだ」と目から鱗が落ちたような気分だった。

退職できるだけのお金を貯めて、必ずこの会社を辞めてやると心に誓った。

そこからの百合の行動は早かった。

FIREに関する書籍や動画、FIRE達成者のSNS等で情報を集め、退職しても生きていけるお金を計算して目標となる額を設定した後は、今まで以上にがむしゃらに働いた。

副業OKの会社だったので(激務すぎてしている人は皆無だったが)、副業として〇ouTubeを始めた。

自身の節約術や資産形成術、ブラックな仕事ぶりを赤裸々に発信すると、そこそこの視聴数を稼ぐことができた。

その代わり睡眠時間はほとんどなくなったが。

生活費もギリギリまで切り詰めて、収入のほとんどを投資に回した。

いちおう女の盛りと言われる年齢ではあったが、オシャレも化粧もせず、スキンケアもワセリンで保湿するのみで、女として終わっていると言われてもおかしくはない状態だった。

日に日にやつれていきながら怒涛の勢いで仕事をする姿を見て、同僚たちは「森野さんがついに壊れた」と恐れ戦いていたが、百合はそんな周りには目もくれず、ただひたすらに目標に向かって突き進むのみであった。

そしてついに今日、その目標としていた金額に到達したのだ。

ニヤニヤしながら、これまで頭の中で何度も繰り返したFIRE後の生活を妄想する。

まず自然が豊かでそこそこ便利な程よい田舎に小さな家を買うのだ。(憧れの私だけの城!)

白い子猫も飼いたい。

朝はゆっくり起きて、日当たりの良い窓辺でコーヒーを飲みながら読書をしたり、旬の食材を使ってちょっと凝った料理をしてみたり、公園を散歩したり、ショッピングしたり、たまには足をのばして温泉旅行に行ったりするのもいい。

それはもう老後の生活のようであったが、百合はとにかく疲れ切っていた。そんな普通ともいえるような、慎ましくてゆったりとした暮らしがしたかった。

あとは会社に退職届を提出するだけだ。

明日朝一で上司にたたきつけてやる、と意気込んだその時、視界がぐらりと揺れた。

「えっ?」

急なめまいがして床に倒れこむ。視界がぐるぐると揺れ、血の気がひいて起き上がることができない。

「そういえば……最後にご飯食べたのいつだっけ……?」

べちゃりと床に伏したまま、ヒューヒューと荒い息が漏れ、意識が朦朧としていく。

「うそでしょ……これから、なのにっ……」

百合のか細い涙声は殺風景な1Kの部屋にむなしく響き、化粧っ気のないカサついた瞼がゆっくりと閉じられていった。