軽量なろうリーダー

つまらない女ですので、愛さなくても結構です。

作者: quiet

本文

誓いの言葉も、キスも、大したものではなかった。

結局はこんなもの、ただの事務作業の一工程に過ぎないのだから。

結婚式の準備は、あらかじめ入念に整えておいた。

何せ新郎はこれから公爵になることが定められた人物なのだから、抜かりはない。スタッフたちは練習した通りに忙しなく、けれどそれが見苦しさに映ることのない滑らかな段取りで、次の披露宴の手続きを進めている。

新婦が自ら立ってすべきことなど、もう残っていない。

リスタロッテは椅子に腰掛けて、静かに時が流れるのを待っていた。

「おや。珍しいところを見た」

その横に、椅子を引いて割り込んでくる者がいた。

美しい青年だ。結婚式の主役らしく着飾っているから、というわけではない。風や海のように、ただそこにあるだけで清涼な雰囲気をもたらす、そんな男だった。

「暇そうだ。……はは。次の披露宴では、ずっとそうやって座ってみるっていうのはどうだ? きっとアカデミーからの招待客たちは、初めて見る君の姿に腰を抜かすぞ」

「招待客の腰を抜かすのが披露宴の第一目的なら、そうしても結構ですが」

リスタロッテの言葉に、ふ、と男は笑った。

「いや、やめておこう。これ以上の恨みは買いたくないからな」

そうですか、とリスタロッテは頷く。

それから、再び沈黙。

絶え間のない人の流れを眺めながら、少し離れた宴の間の喧騒を聞く。

不意に、青年が訊ねた。

「それとも、その澄まし顔の奥には、今も考えごとがいっぱいなのか?」

ああ、とそれでリスタロッテはわずかに頷いた。

完全に準備された結婚式の日というものは、そういうものなのかもしれない。挙式と披露宴の間。あるいはドレスを着せられたりメイクを施されたりする、あの膨大な時間。他に何をすることもできない空白の時間帯は、そのためにあるのかもしれない。

「そうですね」

瞼を閉じる。

「そうかもしれません」

物思いに耽ることにした。

たとえば、過ぎ去りし日々のことを思い出したりしながら。

◇ ◇ ◇

「恋って、したことあるか?」

十年と少し前のこと。

初めての社交パーティへの出席で、リスタロッテはひとり、夜の庭園に佇んで過ごしていた。

当然の帰結だった、と彼女は思っている。

デビューが早すぎたとか、そんな話ではない。両親や家の教育に落ち度があったわけでもない。

伯爵家の娘でありながら、「楽しくもないのに笑う理由がわからない」と繰り返し訊ねる子どもなんて――まさかそのうえ作り笑いも苦手な子をどう扱うかなんて、わからなくて当然なのだ。

自分自身、どう自分を扱っていいかわからなかったくらいなのだから。

始まりの挨拶だけは、そこそこに済ませることができた。にこりとも笑わなくたって、このくらいの年代なら相手も「緊張しているのだろう」と勝手に慮ってくれる。そして挨拶が終わった後は、自分自身を隠すように会場から抜け出した。

初めて訪れた家の庭園で、パーティの灯りを背に浴びながら、暗闇を見つめる。

そのとき、隣に座ってきた人間がいた。

子どもだった。

自分とそう年は変わらないように見える。きらびやかな衣装に身を包んで、端整な顔立ちで、けれど、どこか不安げにも映る、迷子のような表情を浮かべていた。

リスタロッテは、周りを見た。

他には誰の姿もない。問い掛けられたのは自分だ、と思った。

「いいえ」

短く答える。

少し間を空けて、少年がリスタロッテを見た。

「だよな? 普通、この年でそんなのわかるわけないよな?」

「この年でそれが『普通』なのかは、知りませんが」

付け足しはしたけれど、少年はあまりその言葉を聞いていないようだった。

だよな、と自分で自分に言い聞かせるように小さく呟いている。頷いている。さらりと髪の先が揺れる。

小さな月が出ていた。

「なのにさ、」

その月に話しかけたのか、それともリスタロッテに話しかけたのか。

隣にいた彼女にもわからない。そんな声色で、彼は言った。

「いきなり結婚する相手を決めろとか、そんなこと言われても……」

もちろんリスタロッテは、隣にいる少年が誰なのかわからないわけではなかった。

王国に大領地を持つ公爵家の嫡男、ハイエンス。今日、リスタロッテがここに呼ばれた原因。公爵家の跡取りの生誕を祝うパーティの、その主役なのだから。

彼の言うことは、簡単に呑み込めた。

両親から聞いていたわけではない。ただ、文脈から察することができた。今日のパーティはきっと、彼と婚約者候補たちを引き合わせるものでもあったのだ。

そして今、その主役は溜息を吐きながら庭園に逃げ出している。

いつもだったら、リスタロッテはこういう場面で一言も発さない。人を楽しませるためのユーモアというものを理解できていないから。会話は苦手だが、楽しむためのものであるということくらいはわかっている。だから自分が積極的に話しかけるのは、相手にとって時間の無駄以外の何物でもない。

けれど、

「っと、悪いな。いきなり変なこと聞かせて。まさか人がいるとは思わなかったから――」

「いいのではないでしょうか」

口をついて言葉が出たのは、どこかに『他人事』ではないという思いがあったからかもしれない。

ハイエンスは誤魔化すように浮かべた微笑みを、その言葉で消した。いいって、と訊ね返してくる。

「恋も愛も知らずとも、貴族同士の婚姻にも、それ以降の暮らしにも、支障が出ることはないでしょう」

だから、リスタロッテは続けた。

「貴族間の結婚というのは、家同士のパスを繋いで勢力を強化する、あるいは逆説的に勢力拡大志向の有無を多方面に披露するのがその機能ですから。情緒的な営みはあくまで本題ではなく、なければないで構わないものではないかと」

ハイエンスは、目を白黒させた。

リスタロッテは、この手の反応に慣れている。家の書斎にある本を半ばほど読み通した頃から、初対面の相手が自分に対して見せる顔はほとんどがこれだ。それは、両親が自分に多くの期待をしない理由でもある。

「本当か?」

ハイエンスが訊いた。

「俺の知る限りでは、令嬢っていうのは結婚を『運命の王子様が自分を迎えに来てくれて、一生愛してくれるイベント』だと思ってるように見えるんだけど」

「あなたのそうした個人的な観測結果を否定はしません。しかし、限定的な観測例から導き出される一般的な仮説は、一個の反例の存在によって容易く棄却されます」

「……ごめん。もう少し易しく」

「そうは考えていない者もいる、ということです」

彼が、まじまじと覗き込むようにしてこちらを見た。

つまり、と指を立てて、

「君が?」

「はい。私は結婚という行為を、純粋な事務作業の一種だと考えています」

それは、と今になってみればリスタロッテは思う。

珍しく、自分の願望を口にしただけだったのかもしれない。

社交デビューが近付くにつれて、自覚が芽生えつつあった。情緒的な側面において自分は、欠落ないし他者との差異を抱えている。貴族令嬢ならば当然に歩むことになるだろう婚姻と花嫁としての暮らしに、期待よりも遥かに大きな不安を抱えている。

真理でも達観でも、何でもない。

そうだったらいいなと口にするだけの、ある意味では子どもらしい、願いの言葉に過ぎなかった。

「……事務作業」

唖然とした顔をハイエンスはしていた。彼の唇が開く。戸惑ったように閉じて、それからもう一度、

「それは君の本心?」

「はい」

「――頭が良いってよく言われない?」

「いいえ。多くの場合は、『話していてつまらない』と」

ふうん、と彼は頷くと、

「君がいいな」

その右手を、リスタロッテに差し出した。

星と月の淡くきらめく、春の夜だった。

ちらちらと降り注ぐ遠い空の光を瞳に輝かせて、彼は言う。

「知ってるだろうけど、俺はハイエンス。君は確か……」

「リスタロッテと申します」

「二度と忘れないよ。俺は結構、できる人が周りにいたら頼らせてもらうタイプでね。賢いリスタロッテ。良ければこの『事務処理』を一緒に手伝って――あ、」

もちろん、と彼はその手を下ろす。

少し遠慮がちにも映る表情で、

「もちろん、今の君の一連の言葉が単なる俺への慰めで、本当は結婚して愛されたいって思うようだったら、ただ優しい君に『ありがとう』を伝えるだけでもいいんだけど」

言われて初めてわかったのは、拙い願望の吐露が、彼にとっての慰めの言葉になっていたことだった。

そんなことすら、リスタロッテは言われるまでわからない。きっと、と思っていた。必ず自分は、結婚した相手を失望させる。上手くできない。

「――いいえ」

つまらない女。

「愛さなくて、結構です」

だから、その手を取ったのだと思う。

◇ ◇ ◇

『賢い』というハイエンスからの評は、一面では真実だったらしい。

王都の学園に入学してからというもの、リスタロッテの名前が成績掲示板の一番上から動いたことはなかった。

「『我が校始まって以来の天才』だってさ。ちなみに、天才さん。来週の中間試験に向けての秘訣は?」

「わかるまで学び、学んだことを忘れなければよいかと」

「……なるほど。なかなか深い」

婚約が正式に決まってからも、学園に通うべく領地を出て王都の別荘に住まうようになってからも、リスタロッテの性格に劇的な変化はなかった。

一定の軌道を巡回する、振り子のような日々だ。朝起きて、家を出る。図書館に向かう。教室に向かう。図書館に向かう。家に戻る。眠り、朝日を浴び、再び家を出る……。

昨日と今日の違いといえば、目の前に座る人が話しかけてくるかこないかということくらい。

ペンの頭を額に押し当てて、うーん、とハイエンスは悩んでいた。

「それができないから皆苦労してるんだが……」

「皆さんお忙しいですからね。あまり勉学に時間を取ることができないのも、仕方のないことだと思います」

リスタロッテは、自分に特別な才覚があるとは思っていない。

費やした時間の多寡の問題に過ぎないと思っていた。学園に通うようになって一番最初に思ったのは、「皆、意外と勉強していない」ということであるし、同時にそれは「もっと他の、色々なことに没頭している」ということでもあった。

ハイエンスもまた、例外ではない。

彼はこうして自分の前に現れることもあるけれど、勉学ばかりに励んでいるわけではなかった。友人との交遊。次期公爵としての社交活動。生徒会役員も務めながら、さらに三つのクラブ活動にも参加している。

「良ければどうぞ」

だから、彼女はそれを差し出した。

「これは?」

「来週の中間試験の対策です。この部分をしっかりと押さえておけば、比較的時間をかけず、高い得点が期待できると思います」

一冊のノートだ。

机の上を滑らせる。受け取ったハイエンスは、

「……作ったのか?」

リスタロッテは頷いて答えた。当然だ。作られなかったものは、この世に存在していない。

ぱらぱらと、彼はそのノートを捲る。反応を期待したわけではなかったから、その目が文字を追い始めたことを確かめたあたりで、またリスタロッテは本の上に視線を戻す。

「なあ」

ぱたり、とその表紙を閉じて、ハイエンスが言った。

「隣に行ってもいいかな。教えてもらいやすいように」

断る理由はなかったが、これは彼にとっての『事務作業』なのだろうと理解してもいた。

学園に入る前からわかっていて、入ってからはなおのことはっきりわかったことだ。多分、ハイエンスにとってあの婚約を決めた日は、常ならぬ日のうちの一つだったのだ。彼は自分と違って、社交が壊滅的に不得手なわけではない。こんな自分を相手にしても、付き合いはまめなものがある。あの夜に何かを決めようとしなければ、長じるにつれ、ごく当たり前のように誰かを愛し、愛されることもあっただろう。

ノートを一読すればわかることだろうに、わざわざ隣に座って、勉強を教わることにかこつけて、他愛のない話題を彼はいくつも振った。

最近は暑くなってきたが、季節はどれが好きだとか。理科も得意なようだが、好きな花は何かあるのかとか。流石に運動はそうでもないらしいなとか、工作まで得意なのかとか。君が行儀作法を苦手にしているんじゃなくて、行儀作法が君を苦手にしているんだとか、そんなよくわからないことまで。

大抵はそれも、リスタロッテの方が上手く返すことができなくて、二言三言で終わってしまう些細なやり取りになる。

けれど、そのときは、

「にしても、本当によくできるな。末は博士か大臣か」

「どちらにもなりません」

「そうか? 高等教育科に進めばもっと色々選択肢も見えてくるだろうし――」

「進みません」

自分の手番で会話が終わるのは、珍しいことだった。

ハイエンスはいつも、自分の言葉に何らかの相槌を打つから。ページを読み進める。キリの良い節の終わりまで目を通して、それからリスタロッテは隣の彼の表情を見る。

「進まないのか?」

目を丸くしていた。

「なぜ? 本当は勉強が好きじゃないのか?」

勉強が好きか、と最後に訊かれたのはいつだっただろう。

その頃と大して変わり映えのしない回答を、リスタロッテは口にする。

「好きと呼べるかはわかりませんが、他の分野に比べて興味関心の程度が高いことは確かです」

「ならどうして。そりゃ、君のその学力なら高教科に進まなくても学園のカリキュラムは完璧に習得できるだろうけど。普通科で学ぶのと高教科で学ぶのじゃ、その後のアカデミーへの進みやすさが全く違うはずだぞ」

「アカデミーにも進むつもりはありません。必要ありませんから」

ハイエンスが何も言わない。三秒待ってもそのままなら、自分が続けるべきだとリスタロッテは判断した。

三秒経つ。

補足。

「今後私が所管することになるであろう業務内容に対して、アカデミーで学ぶ研究課程の知識や技能はおおむね必要ありません」

言い切る。けれど、ハイエンスはまだ何も言わない。

さらに続けるべきなのか、それともこれで会話は終わりなのか。

判断が付かないまま、四秒目に彼は言った。

「……必要がないことは、しないのか」

溜め込んだ時間の割には、ずっと容易い質問だと思った。

迷うことなく、リスタロッテは答える。

「はい。誰にも求められていませんから」

「俺が、」

今度の言葉は、さっきよりもずっと早かった。

彼の手が、無意識のように机の上で動くのが視界の端に見えた。そんなことをしても文字を覚えられるわけではないだろうに、その手のひらがノートの上にやわらかく動く。

その手つきとは裏腹に、見たことがないほど真剣な顔をして、彼は言った。

「俺が、求めてる」

◇ ◇ ◇

「僕はねえ、リスタロッテくんは財政大臣になるよりも発明家や研究者になるべきだと思うんだなあ。なんでかって言うとね、君には確かに管理者としてのストイックさと容赦のなさが備わっているよ? しかしだね、結局大臣の仕事というのは生きている間だけのものなんだよ。いやもちろん時代の安寧を作るってことがその時の人々にとって非常に重要なことで後の時代にも大きな影響を及ぼすっていうことはわかるんだけど、君のその知性を見ると僕としてはぜひ学術や技術の分野において国や時代にすら阻まれることのない不滅の業績を打ち立ててほしいと――」

「……なるほど」

高等教育科に進んで後も、大して相槌の打ち方は上手くならなかった。

けれど、少しずつ実感し始めたこともある。

他者からの評価は、自分を守る鎧にもなるのだと。

一通り講師からの褒め言葉を聞いて、「ではこれをお願いします」と提出物のレポートを渡す。「こ、これはっ……!」と叫び始めるから、「失礼します」と踵を返して職員室を後にする。

高教科の特別講義が行われているのは、学園の中でも別棟に当たる。鞄を置いたままの本館に戻るには、一度階段を降りて渡り廊下に出ていく必要がある。

その途中、連絡掲示板に物理学の問題が書かれているのを見つける。

視界の端でリスタロッテはそれを捉えて、通り過ぎるときにはもう解き方がわかっている。学術書を片腕に抱えたまま、空いた片手でチョークを取る。解法と計算過程について、メモ書き程度のものを残す。

チョークを置いて、渡り廊下に続く扉へ向かう。

「よしっ! みんな、天啓が降りてきたぞ!」

「これ本当に天啓? どう見ても人の手が介入してたけど」

「論文のどこかしらに名前を載せてもらった方がいいだろ。研究不正になるぞ」

「……後で相談だな!」

声を背中に、外に出るとすっかり秋だった。

渡り廊下の奥には、銀杏の木が植わっている。黄色い落葉が靴の裏にやわらかく、髪の先を冷ますような涼しい風が吹いていた。

そうして季節が移り変わるように、リスタロッテの学園生活もまた、徐々に平穏なものになっていった。

おかげで、と言ってしまっていいだろう。

ハイエンスに勧められたとおりに高等教育科に進んだことは、リスタロッテの評価を数段階引き上げた。

教員からのものだけではない。同じ高教科の学生たち――先輩後輩にかかわらず――からも、同道のものとして一種の『許し』のようなものを与えられるようになった。

社交が不得手でも、会話がつまらなくても。

上手く人との距離が測れなくても。

多くの場面でリスタロッテは、自分に慈しみのようなものが向けられていることに気付き始めていた。

ハイエンスの勧めには、強い合理性があった。

適性のある分野に打ち込むことは、高い評価を生み出す。

そしてその高い評価は、他の分野における欠落の存在を曖昧にする。

今や、リスタロッテは感じていた。

勉学と研究という長所が、頼りない自分を守る騎士のように――

「――いくら頭が良くても、普段の言動があれじゃあね」

教室の扉に手を掛ける、その寸前のことだった。

放課後、夕暮れ時のことだ。残っている生徒がいること自体は何もおかしくはない。リスタロッテが手を止めたのは、鞄を取りに入ろうとした教室の中に誰かがいたからではない。

自分の話だ、と流石にわかったからだ。

声を聞いただけでは、顔も名前も思い出すことはできなかった。けれどうっすらと記憶に残る音で、どういう立ち位置の人の声なのかは、漠然とわかる。

自分と同じく、ハイエンスも高等教育科に進んだ。

けれど、普段から一緒にいるわけではない。彼には彼の交遊関係がある。クラスの中でも特に高位の貴族たちで構成されたグループ。その中に含まれる、一人の女子生徒の声だ。

「それはもちろん、公爵夫人になるならある程度の実務能力は求められるけどね。でも、一番重要なのは人としての魅力でしょう?」

その言葉は、不思議なくらいにすんなりとリスタロッテの心に入ってきた。

多分、自分でもずっと考え続けていたことだからだ。

学業で功績を残しているからこそ、反対にはっきりとわかる。自分はそうした『魅力』の部分において、特筆した成果を一つも持っていない。教室を見渡してみればいい。自分より面白く話す者も、愛嬌に溢れた微笑みを溢す者も、傍にいるだけで心地良さをもたらす者も、いくらだって見つかるだろう。

「ハイエンスも大変ね」

だから、日々が落ち着くにつれてリスタロッテは、ときどき思うようになる。

「あんな婚約者が相手じゃ、」

彼と交わした婚約を果たすことは、

「将来、思いやられるでしょ?」

お互いにとって本当に――

「いくら愛嬌があっても、頭がすっからかんじゃあな」

聞き慣れた声から、聞いたこともないような言葉が出てきた。

驚いて、リスタロッテは目を丸くした。恐らくそれは、教室の中でも同じだったのだと思う。息を呑む声が聞こえた。痛いくらいの静寂になって、ようやく気付く。教室の中には他にも何人かの学生がいて、きっと今、リスタロッテと同じ気持ちで、ハイエンスを見ている。

「って、言われたら嫌だろ? シャノン」

その緊張が、続いた彼の言葉で解ける。

ぎ、と椅子の軋むような音も聞こえた。

「な、何、いきなり……」

「別に、悪口を言うなってわけじゃない。人間どうやったって好き嫌いはある。ただ、まず貴族のマナーの話をするなら、俺はリスタロッテに好感を抱いてる。君はもしかしたら俺から共感を得られると思ったのかもしれないが、そんなことはない。だから、この場でそうした発言をするべきではなかった。これは君には珍しい、単純な言動の誤りだ」

一拍。

空いて、シャノンと呼ばれた女子生徒は、

「……配慮が欠けておりました。貴殿の婚約者に対する無礼な発言、どうかお許しください」

「許そう。本人が聞いて、大いに傷付いたというわけでもないからな。それから、もう一つ。これは友人としての忠告だが――」

声が柔らかくなる。

ハイエンスが言う。

「自分が言われて嫌だった言葉を、他人に向けるのはやめろ。自分の心も一緒に傷付けてる」

がたん、と椅子の倒れる音がした。

それから、淑女らしからぬ大きく速い足音も。どういう風に向かってくるのかがはっきりとわかったから、俊敏な者であればすぐに身を隠すこともできたはずだ。

しかし、リスタロッテは俊敏な性質ではない。

がらりと扉が開いて、外に出ようとしたシャノンと鉢合わせになった。

「な――」

「…………」

知っている顔だった。

実物を見て、ようやくリスタロッテは思い出した。学園に入学してから数年、ずっと話題になり続けている。この学年でもっとも可愛らしいと称される女子生徒。

その彼女が、今にも泣き出しそうな表情で、戸惑ったように動きを止めている。

この人がこんな顔をすることもあるのだと、素朴に驚いた。

「なん……」

「…………」

シャノンの一言目が言葉にならないから、いつまでも会話を始められない。

教室の中に集う生徒たちは全員がこちらを見ていた。注目していた。ハイエンスもまた例外ではない。扉の外にいたリスタロッテに、驚いた顔を向けている。

助け舟は、その彼から来た。

「聞いてたのか、リスタロッテ」

「はい」

頷くと、びくりとシャノンの肩が震えた。

彼女の唇もまた同じで、しばらくは次の言葉が出てきそうにもない。自分が喋る番だ、とリスタロッテは思う。

「事実ですので、お気になさらず」

適切な言葉を選んだつもりだった。

シャノンの指摘が的外れなものとは、リスタロッテには思えなかったのだ。そして立場上、ハイエンスはシャノンの言葉を完全に許すこともできまい。なら、言われた本人である自分こそが、その旨を伝えるべきだと思った。

言われたシャノンは、

「――こ、」

どういうわけか、より一層の絶句を見せた。

ここまで来ると、リスタロッテには状況がよくわからなくなる。シャノンの肩の向こうで、「あちゃあ」と言いたげにハイエンスが頭を抱えるのが見える。どうやら何かを間違えたらしいが、どこをどう間違えたのかわからない。

この点の疑問は、のちにハイエンスに詳しく訊ねたことで氷解する。

貴族同士の高度な文脈を擁するコミュニケーションの問題だ。このとき、リスタロッテが伝えた言葉は、シャノンにはこう伝わっていたらしい。

私に愛嬌がないのは事実ですから、お気になさらず。

お前が愚かなのも事実だから、そっちを気にしとけ。

また、これも後に知ったことではあるが、シャノンは学術と中央政治をその生業とする伯爵家の末娘である。

彼女自身も非常に優秀ではあるものの、彼女には輪をかけて優秀な兄が三人いた。たとえばこの日のつい前日に行われた親戚付き合いの際にも彼女は延々その三人と比較され続け、特にその中で彼女の神経に障った言葉は次の二種類。「兄と比べると見劣りしますが、女は何より愛嬌ですから」「いくら色気があったところで、中身が伴わなくてはただ下品なだけだがな」

「こっ、このたびは、大変お聞き苦しい無礼な言動、失礼いたしました。お許しくださいっ、リスタロッテ様……っ!」

「いえ、本当に構わないのですが」

それでも、ギリギリと歯を食いしばるようにしてまずは謝罪を通したのだから、見上げた根性だったと思う。進もうとしている道も似ていれば、抱える悩みも近いところにある。出会い方を間違えなければ、リスタロッテとシャノンは、睦まじい友となったはずである。

「――あ、」

しかし、こう出会ってしまったものだから、

「あんたなんかに、絶対負けない!!」

リスタロッテと違って、シャノンは俊敏だった。

あっという間に背中が小さくなっていく。階段なんて、あれはもう転げ落ちたのではないだろうか。そのくらいの速度で、一瞬のうちに視界から消えていく。

呆然と、リスタロッテはそれを見ていた。

「あー……」

教室から、遅れてハイエンスが出てくる。

「悪い奴ではない……というのも今の流れがあるとなかなか言いにくいんだが。最近は不安定な時期にあるだけで、全体的には優秀だし、将来的にはアカデミーでもそれなりの地位を得るだろうから。君としては面白くないかもしれないが、人脈の一つとしても――」

「私、」

そのとき珍しく、リスタロッテはハイエンスの手番の途中で話し始めた。

彼が驚く。口を噤む。意外そうな顔をして、リスタロッテの言葉を待っている。

伝えた。

「あんなことを言われたのは、生まれて初めてです」

きっと、こんな場所でもなければ、シャノンにとって自分は歯牙にもかけない存在だろう。

令嬢としての完成度がまるで違う。自分と彼女では、比較にもならない。他のどこにいても、彼女にとって自分は取るに足りない存在で、視界の端にも入らない。

ここだけが、違う。

誰かに、対等に見られる場がある。

このとき初めて、リスタロッテは思った。

この世は、幼い頃の自分が見ていた景色よりも、遥かに広いのではないか。

「……もしかして、すごく怒ってるか?」

「いいえ」

おずおずと訊ねかけてくるハイエンスに、短い言葉でリスタロッテは答える。

なぜそんなことを言うのかわからない。説明を求めようと、じっと彼の顔を見つめてみる。自分が怒っていると考えた理由を彼自ら語り出すか、あるいは自分から訊いた方がいいのか、考える。

ああ、とそれとは関係のないことに気が付いた。

「ハイエンス様」

「なんだ」

「『頭がすっからかん』は大変失礼な言葉ですので、会話のためのレトリックだとしても、何かの折にシャノン様に謝られた方がよろしいかと」

ハイエンスは、奇妙な表情を見せた。

長く隣にいたから、何となくはリスタロッテにもわかる。困惑、諦観、受諾……瞬く間に彼の表情は変遷を見せて、

「……仰る通りです。先生」

こんなことはわざわざ言うまでもないことだと、いつものリスタロッテだったら考えたことだろう。シャノンとの仲はハイエンスの方が深いだろうし、そもそも彼の方が自分よりずっと、人間関係は得手としているのだから。

きっと、初めてライバルというものができて、少し気が大きくなっていたのだ。

◇ ◇ ◇

この冬が過ぎれば春が訪れ、この雪が解ければ川へと注ぐ水になる。

同じように自分にも、定められた何かがあったのだろうか。

アカデミーの二年目。

研究室の窓辺で、不意に見上げた雪の曇天に、ふと彼女はそんな思いを浮かべていた。

高等教育科を首席で卒業し、リスタロッテは学園よりさらに高度な専門研究機関に進んでいた。学園在学時から数々の論文賞の受賞経験があるためにと、すでに彼女は自分用の研究室を与えられ、何人かの助手も抱えている。

「別に、結婚を急ぐ必要はないからさ」

とは、卒業の少し前にハイエンスが言ったことだ。

言葉とは裏腹に、彼自身は学園を卒業するや、すぐさま公爵領に戻っていった。今は次期公爵として父の下で数々の経験を積んでいる……と、手紙のやり取りでは聞いている。

卒業と同時に婚姻を結び、彼と共に公爵領に向かうという選択肢も、当然あった。

そうすることをせずにこうしてこの研究機関に進んだのは――その先に続く言葉を探して、ぼんやりとリスタロッテは冬の空を眺めている。

アカデミーに来てからというもの、こうした時間が増えたように思えた。

それはおそらく、学園にいた頃と異なり自ら研究テーマを主体的に選ぶようになったこと……ひいては、自らの専門性をどの方面に重点的に伸長させていくのか。それを真剣に考えるようになったことと無関係ではないと思う。

自分はこれから、どうなるのだろう。

何を選んで、どこに行くのだろう。

あの日交わした約束は――、

「…………」

窓の外に、動きがあった。

ついさっきまでは、この雪の空の下には幾人かのアカデミー研究員が彼らの弟妹たちと雪だるまを作る姿があるだけだった。しかし、今は違う。そのマフラーを巻かれた雪だるまの向こう、門扉が開くのが見える。

馬に乗った男が、大慌ての様子で中に入ってくる。

公爵家の家紋を胸に付けているように、リスタロッテには見えた。

「どうかしましたか」

コートを羽織って、雪の中に彼女は出ていった。

馬に乗ってきた男は、まだ研究棟の入り口にすら辿り着いていなかった。どれだけ必死でここまで来たのだろう。息も絶え絶えで、外に出ていた研究員と守衛たちが、彼を取り囲んで肩を支えている。

男が顔を上げた。

「リスタロッテ様!」

そして、自分の名を呼んだ。

落ち着いて、と通り一遍のことくらいはもうリスタロッテも咄嗟に言えるようになっている。何があったの、という言葉はひょっとすると、いまだに少し威圧的に聞こえるかもしれない。

それでも、男は怯まずに答えた。

「ハイエンス様が――」

荒い息で、彼は言う。

王都に向かう途中のことで。

これはリスタロッテも知っている。この間手紙を貰って、時間を作って顔を合わせようと約束をしたから。

公爵領からの道中で、雪が積もっていて。

これもリスタロッテは知っている。滅多にこのあたりには積雪がないのに、今もこうしてアカデミーの庭まで白く染まっているから。

天候が悪化して。

雷が落ちて。

その振動で、山道で雪崩が起こって。

ハイエンス様が、

「よくわかりました。道中ご苦労。しばらくあなたはここで休んでいきなさい」

やるべきことは、もうわかっていた。

リスタロッテはすぐに荷物をまとめた。数人の助手が気を利かせて馬車の手配をしてくれる。人にはいつも恵まれてきた。アカデミーの前に停まったそれに彼女はすぐに乗り込む。自分がいない間は、と伝言を残す。

馬車が、都を出る。

街道を駆け抜けていく。場所はわかっていた。一度だけ夜を越えて、速度を緩めることなく馬は行く。雪崩の起こった山道が近付いてくる。そこから一番近くの町を通るとき、公爵家の馬車がそこに停まっているのを見つける。

厳重な警備の敷かれた診療所。

扉を開ける。

「――あれ。なんだ、来てくれたのか」

けろっとした顔で、ハイエンスがベッドからこちらに手を振ってくる。

しばらく、リスタロッテは状況を整理しようとしてそのまま立っていた。

すると、いつものようにそれを察してくれたらしい。ああ、とハイエンスが頷く。まあ座るといい、と促されるから傍に座る。彼が口を開く。

「馬車ごと雪崩に巻き込まれたんだ。それで、少しの間ここで落ち着くまで療養中。他に何か訊きたいことは?」

「アカデミーに来た連絡では、意識不明と聞きました。もう回復されたのですか」

「意識不明……ああ、そうか。そっちだけを聞いて来てくれたのか」

そんなに大したものじゃなかったんだ、と落ち着かないのだろうか、ハイエンスは首の裏を触った。

「馬車が転げたときに、軽く頭を打って気絶しただけだ」

「頭部への衝撃は本人の自覚以上に甚大な損傷をもたらす場合もありますが」

「怖いこと言うなよ……。一応、医者には大丈夫だって言われてる。けど、不安ならリスタロッテが看てくれ。そっちの方が俺も安心する」

では、とリスタロッテは腰を上げる。そのつもりも多少はあった。臨床は専門ではないけれど、一通りの知識は頭に入っている。多少の役には立てるだろう。

鞄を取り出そうとして、そういえば、と思い出す。

それとほとんど同時に、「でも」とハイエンスが切り出した。

「聞かなかったのか?」

「何をでしょう」

「最初の伝令が行ってすぐに、意識は戻ったんだ。診察結果も早くに出たから、間を置かずに――」

コンコン、とノックの音がした。

ハイエンスが口を噤む。リスタロッテは立ち上がる。診療所には公爵家の護衛が幾人も立っているから、大して警戒する必要もない。

「はい」

扉を開ける。

見知った顔が立っていた。

「シャノン?」

「……あなたって、どうしてこんなときだけ素早く動くわけ?」

シャノンだ。

ここ二年の間アカデミーの同期生として共に過ごした彼女が、本当に珍しいことに髪を乱して、じわりと汗まで滲ませて、憔悴した様子で立っている。

問われたので、答えることにした。

「緊急事態だと考えたからですが」

「……ああそう! それじゃあこれ、あなたが大慌てで王都を出た後にアカデミーに届いた伝令だから! これを読んで、本当にあなたが急ぐに足る緊急事態だったのかよく考えてみたら!?」

ばっ、とシャノンから一枚の手紙を渡される。

見るまでもなかったが、一応見た。つい今しがた、ハイエンスから聞いた内容がそのまま書かれている。怪我は軽度のもので、すぐに回復しました。心配は要りません。

そうなると、別の疑問が芽生える。

「どうしてここまで?」

直接自分がここまで来た以上、もうこの手紙を渡す必要だってないはずなのに。

訊ねたら、シャノンは燃えるような瞳で、

「あなたが――」

リスタロッテを睨みつけて、

「あなたがここまで一睡もしないようなめちゃくちゃなペースで移動なんかするからでしょうが! 私は道中のどこかで捕まえるつもりで、こんなところまで来るはずじゃなかったの!」

叫んだ。

ふん、と鼻息を吐くようにして、顔を逸らした。

「――失礼させていただきます! お大事に!」

シャノンが踵を返す。彼女がそんなことをするとは、きっと知り合いの誰も、あるいは親族一同も信じられないような乱暴な仕草で扉の取っ手を掴む。流石にこの怒りぶりはリスタロッテにも伝わる。彼女の背中に一言かける。

「ありがとう。帰り道は、雪に気を付けて」

答えもしない。

バン、と扉が閉まる。足音が凄まじい勢いで遠ざかっていく。

ひっそりと近付いてくる。

もう一度、きぃ、と扉が開いた。

「……後、一応。学園でのあなたの今週の講義は、別日程に調整しておいたから。帰りはちゃんと馬車に乗って、余裕を持って戻ってきなさい」

あなた乗馬がてんで下手なんだから、と言い残してまたパタリ。

ありがとう、と二度言った言葉は、聞こえたのか聞こえなかったのか。

改めて今度会ったときにと、リスタロッテはその場に立ったまま、しっかりと記憶に刻み込んでおく。

「――乗馬?」

そのとき、本当に不思議そうな声でハイエンスが呟いた。

「って、今聞こえたんだが。気のせいじゃないよな」

「はい。私とハイエンス様が、全く同じ聞き間違いをしたのでなければ」

「どうしてここでその言葉が出てくるんだ?」

「シャノンが私の行程を知っていたのだと思います。確かに、途中で馬車から馬に乗り換えましたから」

「……なぜ?」

「先を急いでいたので」

改めてリスタロッテは、ベッドサイドの椅子の上に座り直す。ほんのわずかの間に、冬の空気が座面を冷やし直したらしい。ひんやりとした感触が腿の裏に伝わる。

一瞬それに気を取られて、もう一度顔を上げたら、ハイエンスが信じがたいものを見たような表情で、こちらを見ていた。

「君って、乗馬ができたのか」

「ええ。得意とは言えませんが」

「なのに、雪の中を?」

言われて、急にリスタロッテも不思議になった。

別にそこに答えが隠されているわけでもないだろうに。問いかけに、彼女はハイエンスの顔をじっと見つめてしまう。彼の方も慣れたもので、そのくらいではたじろぎもしない。

見つめ合う。

「確かに、」

リスタロッテが、先に口を開いた。

「合理性に欠けた行動でしたね。そのときは、必要なことだと思ったのですが」

「……リスタロッテ。もう少し、こっちに寄れるか」

はい、と頷いた。

椅子ごとベッドサイドに近付く。ハンカチを、と彼が言うから、言われた通りにそれを差し出す。

「汗」

そのハンカチを、ハイエンスがリスタロッテの額に押し当てた。

「気付かなかったけど、結構滲んでる。冬だし、冷えるから。すぐにうちの者に着替えを用意させよう」

「失礼しました」

「いいさ。にしても、本当に急いで来たんだな。こんな雪の中だっていうのに」

「はい」

「正直、君にそんなことができるとは思わなかった。意外な特技だ」

「はい。私も実際に行動に移してみるまでは、自分にこうしたことができるとは思いませんでした」

「……そうか」

ハンカチを動かす手が止まった。

しかし、頬から離れることもない。リスタロッテは、その意図が読めない。ハイエンスは静かにこちらを見つめている。

「リスタロッテ。俺は――」

口を開く。

もう一度、ノックの音が響いた。

こういうときが、とリスタロッテはその音のした方を見て思う。自分の苦手な場面だ。話の続きと、来客の対応。どちらの優先度が高いのかはケースバイケースで、完全な正解というものがない。

しかし、とりあえずハイエンスといるときはそれほど悩むことはない。

彼の顔を見た。

「……向こうが先で」

気軽に意向を確認できる人物が会話の相手なら、こんなにも日々は容易い。

席を立つ。入口に立って、扉を開ける。

「リスタロッテ様。先ほどお預かりした荷物なのですが」

向こうに立っていたのは公爵家の従者で、その一言でリスタロッテは彼が何をしに来たのかがわかった。

少し慌てていたらしい、と自分でも自覚する。さっき、ハイエンスの容体を確認しようとしたとき、持ってきたはずの鞄がないなんてことに驚いていた。しかし思い出してみれば当たり前のことだ。

「内容の検査が完了しました。不躾なお願いでしたが、ご協力に感謝いたします」

「いえ。ハイエンス様の身の安全を考慮されるなら、適切な対応かと」

「寛大なお言葉、ありがとうございます。荷物はこちらにお運びいたしますか?」

「ええ。では、そのように」

かしこまりました、と従者が廊下を戻っていく。

今のは、とハイエンスが訊ねた。

「荷物って? 着替えとか、そういうものか。だったらここに運ばずに、どこかの宿に持って行った方がいいと思うが」

「いえ、医療器具です。意識不明と聞いていたので、念のために」

ああ、と彼は頷く。

「なるほど。重かっただろうに、悪路をすまなかったな」

「いえ。大した量ではありませんでしたから」

「――失礼いたします」

従者が戻ってくる。こちらに、とリスタロッテからの誘導を受けて、部屋の隅にそれを置く。

どさっ。

「……『大した量ではありませんでしたから』?」

「失礼いたします」

ハイエンスが疑問の声を上げると、それとほぼ同時に別の従者が入ってくる。今度はリスタロッテにわざわざ訊ねることもない。こちらに置かせていただきます、と最初の荷物の横にそれを置く。

どさっ。

「……『念のため』?」

「失礼いたします。リスタロッテ様、遅れて馬車で荷物が届きましたので、それらもこちらにお置きしてもよろしいでしょうか」

どさっ。

どさっ。どさっ。どさっ。

「…………」

急に部屋が狭くなったように感じる。

無言のまま、ハイエンスが自分の横顔を見つめているのをリスタロッテは感じる。人の感情の機微に疎い彼女でも、何を思われているのかわかった。だから精一杯その意を汲んで、誠実に答えようとする。

「不思議ですね」

その荷物の量を見て、しみじみと。

「積み込むときは、適量に見えたのですが」

ハイエンスが笑う。

その二年後、二人の結婚の日が決まった。

◇ ◇ ◇

入場十分前。

ぱちりと目を開けると、ちょうどぴったり時計はその時刻を指し示していた。

「君はすごいな」

結婚式場。

披露宴の前の待合室で、ハイエンスはこちらの顔を覗き込んでいた。

「さっきから二分くらいこうしていたんだが、全く気付く気配がなかった。それとも、気付いていて無視してたのか?」

「いいえ。何か御用でしたか」

「いや、別に。ただ、あまりにも動かないから息をしてるのか心配になって」

「しています」

それはよかった、と彼は言う。

リスタロッテは時計を見つめている。この場所から披露宴の会場までは徒歩にして二分もかからない。であるなら計算上、三分前に腰を上げれば十分な余裕が持てるはずであるが、実際のところ、新郎新婦の入場の前に何かスタッフがこちらに伝達したい事項などはあるだろうか。

動き出すべきなのは五分前か、あるいは七分前か。

「……いや」

考えていると、ぽつりとハイエンスが呟いた。

「今のは嘘だ」

「どれのことですか」

「別に用はないっていうのが。本当は、言いたいことがある。俺もさっきまで、君に倣って考え事をしていた」

「どんなことですか」

「昔のことを思い出してた。……一番ぞっとしたときのことだ」

覚えているか、とハイエンスは言った。

「昔、図書館で君が言ったことがある。高等教育科にも、アカデミーにも進まない。自分の将来には必要がないからと」

「覚えています」

率直な相槌を打てば、彼は一瞬表情を強張らせる。

それから、肩を落とすようにして、

「俺はあのとき、自分がとんでもないことをしでかしたんじゃないかと思った。正直に言うと、君との婚約を破棄しようかとも考えた」

驚いて、リスタロッテはハイエンスを見た。

すると彼もまた、驚いた様子で口を押さえた。失言だった、と自ら語るような仕草で、

「すまん。結婚式の途中で言うようなことじゃなかったな。今の発言は取り消す」

「いいえ、結構です。咎めたわけではありませんから」

「……そうだな。君は、そうだ。だけど、言い訳させてもらってもいいか」

どうぞ、と促せば、もちろん、と彼は語り出す。

「君のことが嫌になったとか、そういうことじゃない。ただ、この婚約が君の選択肢を奪っているんじゃないかと思って、急に怖くなったんだ」

「なぜですか」

「本当にわからないか? アカデミーの学長からなりふり構わない引き止めを受けて、その名前だけで新設の研究機関にあれだけの人と物を集めることができる研究者が? ……なら、直接的に言う。公爵夫人になるって君が決めたことが、本当は君に与えられるはずだったたくさんの未来への足枷になると思った」

俺は、とハイエンスは呟く。

重たげに、僅かに肩を揺らして、

「あの頃は自分のことだけで精いっぱいで……自分に力を貸してくれる人が何を犠牲にして、何を奪われるのか、考えたこともなかった」

言葉の通りに捉えるなら、リスタロッテが本心から次に口にするべき言葉は、「私は何かを犠牲にしたと感じたことも、奪われたと感じたこともありません」だ。

あるいは「結果として」と言葉を紡ぎ始めてもいい。結果として、私はあなたが感じたその可能性を実現することができました。あなたが気に病むことは何もありません。

けれど、それを声にする前に気付く。

これは、「結果として」という言葉が使えるようになる前の話。

ついさっきまで自分が思い返していたような、過ぎ去った日々の話。

「だけど俺は、君に初めて会ったとき、『王子様が迎えに来てくれた』と思ったんだ」

そして自分が知ることのなかった、もう一つの思いの話だ。

あんなこと言っといてさ、とハイエンスはリスタロッテの目を横目に見て笑う。リスタロッテは笑わない。口を開かず、続きの言葉を静かに待っている。

「どうやって生きていけばいいかわからなくて途方に暮れてたときに、自分よりずっと賢くて、ずっと頼りになる女の子が目の前に現れた。それで言うんだ。『わからなくたっていい』『怖がる必要なんてない』……俺が助けを求めて差し出した手を、握ってくれた」

彼の紡ぐ一つ一つの言葉が、鍵になってリスタロッテの耳に届いた。

わからなかったことが、その形を変えていく。いくつもの季節の中に置いてきぼりにされていた小さな箱の鍵穴に、その言葉の一つ一つが嵌っていく。

「君に傍にいてもらうのが怖かったのに……君の手を放すことは、それよりももっと怖いことに感じた」

夏の日に、図書館で彼が自分の隣に座った理由。

秋の日に、放課後の教室に彼が残っていた理由。

「あのとき、君は『愛さなくていい』って言ったけど」

冬の日に、彼がほとんど泣き出しそうな顔をして、笑った理由。

春の日に――――

「今更『愛してる』なんて言ったら、どう思うかな」

彼の差し出した手が、こんな風に震えていた理由。

今や日々の思い出は、誕生日を迎えた子どもの部屋のような有様だった。

色とりどりの、たくさんの箱があった。綺麗な紙や布に包まれて、美しいリボンがいくつもかけられている。その多くが蓋を開けられて、その中に大切に収められていたプレゼントが机の上に、椅子の上に、あるいは風船のように浮かんで天井に。

収拾の付かないくらいに広がって、もうどれがどの箱に入っていたものだかもわからない。

それどころか、まだ蓋を開けていないものだって、数え切れない。

「……私は、」

だからその部屋の真ん中で、リスタロッテは考えてみることにした。

贈り物や言葉の一つや二つで恋に落ちることができたなら、どれだけ楽だろう。

けれど、自分はそういう風にはできていない。リスタロッテは自分のことをよく知っている。気が利かない。愛嬌がない。つまらない。昨日も今日も、誰に頼まれたわけでもないのに、そんな必要もないはずなのに、意地になったみたいに変わり映えのしない、同じ自分のままで生きている。

童話に出てくる健気な女の子みたいに、魔法をかけられて急にお姫様になったりなんて、到底できない。

皆が憧れるはずの結婚式にだって、心はまるで躍らない。

誓いの言葉も、キスも、大したものには思えない。

それなら――

「少しだけ、嬉しいかもしれません」

あなたの手を握りたいと思った、この気持ちは何?

きっとこれは、正解の言葉ではなかった。

リスタロッテは、自分でわかる。自分はこんなときに、正しい言葉を選べるような人間ではない。何を口にすればいいかを咄嗟に理解できるような、器用な人間ではない。

けれど、

「……『少しだけ』」

呆然と、握られたその手を見つめるあなたも。

その手を握り返すあなたも。あの冬の日に見たときよりもずっと複雑な表情で、泣きそうになるあなたも。

「『少しだけ』かあ」

笑って、肩の力を抜いたあなたも。

きっと、わかりはしないのだ。

ただ手を重ねたいと思っただけのことが、どんな意味を持つのか。

その『少しだけ』のことが、自分にとってどれほど大きなことなのか。

一瞬では変わることのできない自分が、一瞬ではない日々の中でどんな人間になったか。

「――え、」

楽しくもないのに笑えないと言った子どもが、成長して、自然に微笑むとき。

心に本当は、どんな気持ちを抱いているのか。

「今、君――」

「そろそろ入場の時間ですね」

だってそんなのは、自分でもわからないのだから。

リスタロッテは立ち上がる。随分と話し込んでしまった。新郎新婦の入場三分前。今から行けば間に合うだろうが、スタッフは恐らく肝を冷やしている。

手を握ったまま、座り込むハイエンスを見下ろした。

知らないことも、わからないことも、たくさんあった。

自分のことだけではない。目の前にいるこの人のことも、十年以上も一緒にいておいて、ろくに知らない。ようやく古い鍵を貰って、思い出の中の箱を開けて、それだって、まだまだ足りていない。

だから、長い時間をかけて学ぼうと思った。

わかるまで学んで、学んだことを忘れない。

そうして生きていくことができると、リスタロッテはもう知っていたから。

「ハイエンス」

名前を呼ばれたあなたの表情の意味が、まだわからない。

あの春の夜のようにきらめいた瞳に込められた感情が、自分にとってどんなものなのか、的確な言葉にしたりはできない。

きっと、長い時間がかかる。

それでも構わないはずだと、リスタロッテは信じていた。

「行こう」

だって、これから一生、一緒にいるのだから。

力を込めれば、力が返ってくる。

彼女が手を引けば、手を引かれた彼は、彼女の隣に立ち上がる。

そうして二人は。

頼まれたわけでも、必要があるわけでもないのに、手を繋いで歩き出した。

(了)