軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

22 馬着への刺繍

――さて。実家に送金するとなると、会計係に頼む必要がある。

(……あまり関わりたくない)

会計係のサイモン・グレゴリー――彼自身はとても有能な会計係だ。職務に忠実で、少し神経質なくらいだが、レイヴィスの信頼も厚い。

だが、彼を小説中でリリアーナが篭絡したことを思うと、あまり接触したくない相手だ。

リリアーナは彼を篭絡してエルスディーン家の資産を横領させ、実家のヴァレンティン家に送金させた。

リリアーナは会計係とは、仕事以外では話していない。

自分が彼を篭絡できるとは思えない。

だが、実家に送金という部分は物語と共通している。

リリアーナの悪行を決定的なものにするために、物語の強制力が発動しないか――

そんなことが気になって仕方ない。

リリアーナはちらりと室内に控えているメイドを見る。いま部屋にいるのはエリナだけだ。アンヌは別の仕事中らしい。

「……いま、会計係はどこにいるのかしら?」

「サイモンさんですか? 今日はお屋敷にいらっしゃいますよ」

(――エリナに、頼んでみようかしら……)

重要な仕事を彼女に任せることは不安があったが。

あれだけの大金を室内に置いておくのも不安がある。

リリアーナはすぐに手紙を書き、封蝋をして自分の印章を押した。

自分の意思であることを伝えるため、そして不正な現金でないことを伝えるために。

そして、金貨の入った袋を引き出しから取り出す。

「――このお金と手紙を、会計係に渡してもらえるかしら?」

「はい! お任せください!!」

とてもいい返事だ。

エリナは手紙と金貨を持って、意気揚々と部屋を出ていく。

リリアーナはその背中を見送りながら、開放感を覚えた。

これでしばらくは実家のことで悩まされなくて済む。

(あとは早いうちにエリナとレイヴィスの仲が進展してくれればいいのだけれ、ど……)

そこまで考えて胸が詰まる。

レイヴィスとエリナが仲睦まじく笑っている姿を想像すると、正しい物語の姿を思い浮かべると、胸が締め付けられるように苦しくなる。

リリアーナは強く頭を横に振って、その想像を頭から追い出した。

(レイヴィス様にお礼がしたいわ……)

彼がリリアーナに何も言わず現金を用意してくれたから、リリアーナは助かった。

物語が正しく進行していった時のためにも、信頼と友情は築いていた方がいい。

離婚する時も、その方が話があっさり進むだろうし、慰謝料も多めにくれるかもしれない。その後に修道院に入る世話もしてくれるかもしれない。

(私が何かできるとしたら、刺繍くらいかしら……レイヴィス様も褒めてくださったし)

むしろそれ以外に思い浮かばない。

(馬着にレイヴィス様の紋章を刺すのはどうかしら……本人のための刺繍だと、私がレイヴィス様を慕っていると勘違いされてしまうかもしれないけれど、馬のためのものなら誤解もされないし、喜んでもらえるかもしれないわ!)

馬着はすぐに手配できるだろう。何せ消耗品だ。予備がいくらでもあるだろう。

糸も侯爵家の予算で用意してくれるだろう。

エルスディーン家の紋章は『燃え盛る獅子』――

黒か白の馬着に、金糸で雄大で凛々しい獅子を刺す――そう、レイヴィスのような。

執事に話して、黒い馬着と大量の金糸を手配してもらう。

レイヴィスには黙っていてほしいと伝えると快諾してくれた。

手伝いのものを用意しましょうかとも聞かれたが、全部自分でやりたいと言った。

そしてリリアーナは空き時間や夜の時間を使って、毎晩五時間ほど刺繍に集中した。

馬着に使われる布は耐久性があって厚手なため、針を通すのに少し力がいる。指貫を使って手の負担を減らし、疲れているときは無理はしない。

大変だったが、毎日幸せだった。

いままでこんなに幸せな気持ちで針を持ったことがあっただろうかと思えるくらい。

実家での針仕事は現実逃避なところがあった。

穴あきドレスに一晩で刺繍をしたときは、とにかく必死だった。

――レイヴィスの釦を付けた時は、ドキドキした。

いまの気持ちはその時に似ている。彼のことを思いながら、彼のために刺繍をする。

それはとても幸せな時間で、まったく苦にならなかった。

喜んでもらえるだろうかという不安だけは、ずっと消えなかったけれども。

そして実家から何か連絡がないかという不安もあったが、何の連絡も来なかった。

無事に送金が完了し、その額に一応は満足したということだろう。

――一週間後。

最後に細部を調整して、アイロンを当てて。

ついに、刺繍が完成した。

(できた……)

リリアーナは布を持ち上げ、達成感を覚える。

エルスディーン家の獅子を力強く描くようにした。目の部分には銀を混ぜた金糸を使い、たてがみは糸の流れに沿って立体的に表現し、まるで本物の獅子が咆哮しているかのような迫力が――

(……出るように、したつもりだけれど……気になるところもたくさんあるし……)

本当に渡していいのだろうか。

乗り手と馬に負担がかからないように、縫い目が気にならないように気を遣った。表面から触っても、滑らかになるようにしてはあるが。

(い……いらなければ、こっそり処分してくれるわよね……)

さすがに、面と向かって「いらない」とは言われないだろうが、不安は燻る。

リリアーナはひとまず馬着を丁寧に折り畳んで、布で包み、すぐには目に入らないところに仕舞った。

翌朝、朝食の席で、リリアーナはレイヴィスが何度もこちらに視線を向けていることに気づく。

「レイヴィス様、どうされました?」

あまりにも気になって声をかけてみると、レイヴィスは落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。

「いや、その……君は最近よく部屋に籠っているだろう……?」

慎重に言葉を選ぶように言う。

「少しだけ気になって、執事に聞いたんだが、時が来ればわかるとだけ聞かれたんだが――そろそろ、何をしているのか教えてもらってもいいだろうか……?」

(気を持たせる言い方……!)

執事には確かに黙っていてほしいと言った。

だが、そんな、あからさまに何かあるような言い方をしていたとは。

そしてリリアーナは気づく。そう言えばこの一週間、刺繍に夢中で、レイヴィスとの時間を疎かにしてしまっていた気がする。挨拶はして、一緒に食事はするが、それだけで。

「いや、もちろん言いたくないことならいいんだ」

慌てたように言う。

リリアーナが何をしているのか知りたいのではなく、ただ、こちらと交流を持ちたいだけのようにも見えた。

――そして、リリアーナは覚悟を決めた。

「レ、レイヴィス様、その……お渡ししたいものがあるのですが……このあと、私の部屋に来ていただいてもいいですか?」

レイヴィスの表情に驚きが滲む。予想もしていなかった言葉だったらしい。リリアーナも予想もしていなかった。まさか自分の部屋にレイヴィスを招いて渡すことになるなんて。

でも、誰もいない場所で渡したい。恥ずかしいから。

レイヴィスは少し視線を外して咳払いする。

「……ああ、もちろんだ。楽しみだな」

そう呟く表情があまりにも柔らかく、リリアーナはぐっと息を呑んだ。

(あまり期待しないでください……!)

リリアーナの部屋にレイヴィスを招き入れる。

夫婦なのに、一緒にこの部屋に入るのは初めてだ。使用人は下がらせたので、部屋には二人きりだ。

レイヴィスはどこか落ち着かない様子だった。リリアーナも緊張しつつも、表情に出さないようにしながら、隠しておいた包みを取り出す。

「こちらです……」

リリアーナはレイヴィスの前に行き、震える手で馬着を包んでいた布を外す。

黒い布に、金糸で刺繍したエルスディーン家の紋章――力強い獅子が咆哮している姿が浮かんでいる。

彼の反応を見るのが怖く、刺繍の方に視線を落とす。そうなると今度は気になるところが目に入ってくる。

(ああ……こんなものをレイヴィス様に贈るなんて、やっぱりやめておけばよかったかも……)

レイヴィスは無言のまま手を伸ばし、獅子の鬣を指先で撫でた。

「見事なものだ……」

零れるように出た感嘆の声にほっとする。レイヴィスはしばらく刺繍に触れながら、感極まったように口元を押さえる。

「これを、俺のために……?」

「いえ、レイヴィス様の愛馬のために刺しました」

平静を装った声が素っ気なくなってしまう。

言ってしまった後にリリアーナは後悔した。あなたのためと言えばよかった。せっかく、褒めてくれたのに。

(いえ、それだと重い……かも……)

レイヴィスのことを考えながら一週間かけて刺繍したなんて、言われた方もきっと困る……

「くっ……うまく言えなくてもどかしい。これが、どれだけ丁寧に施されたものかはわかるのに……」

レイヴィスはずっと刺繍を触っている。

「どうぞ」

渡すと、レイヴィスは食い入るように近くで見たあと布を広げた。刺繍の全容を見て、熱のこもる息を零す。

「何日もかけて、俺のためにこんな……」

「いえ、馬のためにですが……」

言いかけて、言葉を飲み込む。

そして、勇気を振り絞る。

「レイヴィス様にお礼がしたくて……ずっと、あなたのことを考えながら刺しました」

「――――ッ」

レイヴィスはリリアーナの言葉に、息を呑むように沈黙する。

「……宝にする」

「え?」

レイヴィスは馬着をぐっと抱きしめた。

「家の一番目立つ場所に……いや、やはり俺の部屋に飾ろう。常に目に入る場所に」

「使ってください」

「ああ、そうだな。次に戦場に行くときはこれを使わせてもらう。安心してくれ、絶対に汚さない。誰にも指一本たりとも触れさせるものか」

大仰すぎる。

レイヴィスはもっと素晴らしい手仕事を知っているはずだ。彼の身につけているものこそ、超一流の職人の手によって作られたものばかりなのだから。

リリアーナのものはあくまで趣味の範囲。つたないところもたくさんある。

そんなものをリンデンブルグの悪魔と呼ばれる彼の愛馬に着せようなんて、恐れ多いことをしているような気がする。

だが、レイヴィスは、本当に本心から喜んでくれているように見える。その笑顔は、とても社交辞令とは思えない。

そして、戦場でも共にいさせてくれようとしている。それであって誰にも触れさせないと言ってくれている。

そんな風にでもレイヴィスの力になれるなら、こんなに嬉しいことはなかった。

刺繍をしてよかったと思った。勇気を出してよかったと――

「いっそ俺が身につけたいんだが……」

「お願いですからやめてください」

レイヴィスは少し残念そうな顔をして馬着を見つめる。

リリアーナは思わず微笑んだ。

「次は……もしよろしければ、レイヴィス様のためだけに刺繍しますから……」

「リリアーナ……」

視界が揺らぎ、頭がふっと浮くような感覚に囚われた。くらくらと目が回り、足元がふらつく。

「リリアーナ!」