軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

16 距離

――その日、リリアーナは深く寝入ってしまい、少し寝過ごしてしまった。そのためレイヴィスと一緒に朝食が取れず、見送りもできなかった。

朝の支度を終えてから、すぐに一日の仕事に取り掛かる。

執事や家政婦長の手助けを受けながら家事の指示や献立作りを行い、それらが終われば招待状への返信の執筆。

夕方まで忙しく過ごしていると、気づけば外が薄暗くなっていた。

(レイヴィス様は今日は帰ってこられるのかしら……)

リリアーナはそわそわと窓から外の様子をうかがう。やがて、玄関の扉が開く音が響き、リリアーナは慌てて玄関ホールに向かう。

既に執事がレイヴィスを迎えているところで、リリアーナも急いで挨拶した。

「お帰りなさいませ、レイヴィス様」

「ああ。変わりはなかったか?」

「はい」

優しい表情に安心していると、ふとレイヴィスの雰囲気が変わる。わずかに眉を顰め、じっとリリアーナを見つめる。

リリアーナは思わず身を竦めた。

「あ、あの……?」

何か顔についている?

それとも髪が乱れている?

慌てていたから身なりを確認していなかった。

「――いや、何でもない」

レイヴィスは淡々と答えると、すっと目を逸らす。

――何もないはずがない。だが、問い返す勇気もない。

リリアーナは不安な気持ちでレイヴィスの後ろを歩き、食事室に向かった。

「…………」

食事中も、レイヴィスはリリアーナをじっと見ていた。

(お、落ち着かない……)

せっかくの料理の味がまったくわからない。

気になって仕方なかったが、レイヴィスはリリアーナと話がしたいわけではなさそうだった。ただ観察されているというのが、ひたすら落ち着かない気分にさせる。食事を進めることすら難しいほど。

リリアーナは視線を外して、少し手元のカトラリーを持ち直す。

思わずため息が零れそうになって、ぐっと堪えた。

「……あの、レイヴィス様、何か……?」

リリアーナが思い切って声を掛けると、レイヴィスは一瞬だけ驚いたように顔を上げ、すぐに視線を落とした。

「いや、何でもない」

何でもないはずがない。何か話でもあって、タイミングを計っているのだろうか。しかしこの緊張感。とても、いい話だとは思えない。

リリアーナは話題を変えてみることにした。

「それで、その……練習の件なんですが……」

使用人たちがいる手前、ぼかして話を切り出す。魔力教導の練習のことだ。

「いや、今日はやめておこう」

レイヴィスは短く答えるだけで、そのまま会話が途切れた。

リリアーナはショックを受けながらも、何も言わずに食事を続けた。

夕食後はそれぞれの部屋に戻り、リリアーナは重い気持ちでその日を終えた。

今日はきっといつも通りと信じて、朝食室に向かう。

レイヴィスと一緒に朝食を取ることができたが、彼はずっと上の空だった。

天気の話は生返事。

庭の花のことも生返事。

面白い話をしようにも話題がない。

リリアーナは虚しさと苦しさを覚えながら味のしない朝食を食べる。

「今日は泊ってくる」

先に食べ終えたレイヴィスが、そう言って席を立つ。

リリアーナは無理に笑顔を作って答えた。

「ええ……いってらっしゃいませ」

その日は言った通り、レイヴィスは帰ってこなかった。

次の日も夜遅くまで戻らず、朝は早くに出ていたので、リリアーナは顔を合わせることすらできなかった。

まるで、避けられているかのように。

(なんだかずっとお忙しそうだし、家でも考えごとをされているようだわ……研究で行き詰っているのかしら……)

図書室のカーテンを開け、窓の外に浮かぶ王城のピラーをぼんやりと眺める。

レイヴィスが働いている場所を。彼が研究しているというピラーを。

その気になればすぐに行ける距離のはずなのに、とても遠くに感じる。

(私は……レイヴィス様のお力になれないのかしら)

その考えが浮かんだ瞬間、それを否定する声が自分の中から聞こえた。

馬鹿なことを言うな、と。

いまのリリアーナは、男性が怖いと言って跡継ぎを作る行為から逃げて、実家の弟妹の件で迷惑をかけて、それ以外の侯爵夫人としての仕事も満足にできていない状態だ。

家の管理も、執事と家政婦長頼み。

貴族の妻として重要な社交も最低限しかできていない。

力になるどころか、負担しかかけていない。

「――ねえ、最近の旦那様、奥様にそっけなくない?」

刹那、扉の隙間から、使用人たちの話し声が聞こえてくる。

リリアーナは思わず息をひそめて気配を消した。

身を固くし、物音を立てないようにして、自分を殺す。

ここにいることを、話を聞いていることを、気づかれたくない。

楽しそうな話し声は続く。

「夜だって別々に寝ているし、それどころか一度も『ない』みたいよ。これじゃあ跡継ぎなんて望めないよねぇ。あははっ」

そう笑っている声には聞き覚えがあった。

――エリナだ。リリアーナ付きのメイドの証言は、他の使用人たちにも驚きをもたらした。

リリアーナは胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

――身体が動かない。

出ていって怒るべきところなのに、指先まで凍りついたように動かない。「くだらない話をしていないで黙って働きなさい」と指導しないといけない立場なのに。

使用人を叱る言葉はたくさん知っている。

実家でたくさん浴びせられてきた。浴びせられているところも見てきた。

だが、動けない。

だって事実だから。

いまのリリアーナはレイヴィスの優しさに甘えていて、そしてレイヴィスが恋人を作って「白い結婚」のまま慰謝料をもらって離婚することを待っているだけの、存在する価値のない妻だ。

なんて卑怯者。なんて醜くて浅ましい。

――それでも、行動を変えられない。だって破滅したくない。

慰謝料を持って修道院に駆け込む――それだけが、考えられる唯一の平穏なエンディングだから。

(――とんだ悪妻だわ……)

行動が変わっても、役割は変わらないのかもしれない。

その時、廊下の使用人たちが短く息を呑む音が響いた。

「あなたたち! 侯爵家の使用人である品格をお持ちなさい!」

家政婦長の厳しい声が響く。

使用人たちは慌てて口を閉じ、その場を去っていった。

家政婦長のため息と足音を最後に、廊下は再び静けさを取り戻す。

「…………」

誰にも存在を気づかれなかったリリアーナは、カーテンをそっと閉めた。

誰もいないことを確認して図書室を出て、静かに自室へと戻っていった。