作品タイトル不明
私の未来
――― ホクト ―――
主に快く送り出されたホクトは、とある場所を目指して森の中を走っていた。
百狼の巨体で森を進めば枝や木が当たって鬱陶しいかもしれないが、ホクトはそれを見事に避けながら走り続けている。人間とは桁が違う感覚を持つ百狼だからこそ出来る動きだ。
そして進化をした影響だろうか。
今までは違和感を覚える程度しか感じなかったあの百狼の気配が、今ではかなりわかるようになっていた。
その御蔭もあり、自分たちの前から去った筈の百狼が、まるで自分を呼んでいるかのように待っているのがわかったのだ。
本音を言えば主であるシリウスからあまり離れたくはないのだが、自分と同じ百狼と遭遇する事なんて滅多にないし、更に相手は自分より遥か高みへと進んでいる百狼である。
後れを取る相手が滅多にいないからこそ、この貴重な機会を逃したくはなかった。
だから少しでも早く向かおうと、ホクトは道なき森を駆け抜けるのであった。
百狼の気配は山を一つ越えた先からだが、ホクトにとっては散歩する程度のような距離である。
気配を辿り、ものの数分足らずで到着したその場所は、遠くに巨大な滝が見える大きな川であった。
流れが緩やかになった河原には大きな岩が乱雑しており、そこにある一際大きい岩の上に百狼は静かに伏せてホクトを待っていた。
『……来たか』
「オン!」
閉じていた目を開いた百狼は、眼下に立つホクトを見下ろしていた。
しかしその目は敵対していた時とは違って穏やかで、その目を眺めていると自然と心が落ち着いてくるのをホクトは自覚した。
シリウスが教えてくれたように、自分を生み出してくれた親のような存在だからだろうか?
だがホクトは甘える為に来たわけではないと、気を引き締めながら百狼へ声をかけていた。
「オン!」
『そう警戒する必要はない。お前とは、もう少し話をしてみたかったのでな』
一応戦闘になる可能性も考慮していたが、ただの会話だとわかってホクトは安堵していた。
ホクトも百狼について色々と聞きたい事があったので来たわけだが、先に百狼の方から質問をしてきたのである。
『お前が人と共にいる意味は理解した。なればこそ、お前が体を大きくしなかったのが気になってな』
通常、百狼は進化をする度に体が大きくなるのだが、ホクトは僅かであるが逆に小さくなっていた。
それはホクトがそうなりたいと願ったからだが、百狼からすれば不思議で堪らないのだろう。
『お前は自分より弱き人を守っているのだろう? なればこそ、わざわざ体を小さくした理由がわからぬのだ』
強さを求め、大切な人たちを守るのであれば体が大きい方が有利である。
質量と共に力も増すだろうし、巨体になれば自然と抑止力が生まれて周囲も下手に手を出せなくなるだろう。巨体ゆえに動きが鈍るなんて事は、先程の百狼を見ていれば皆無である。
要するに百狼の常識から外れており、そもそも本能的に体を大きく進化させるのだが、ホクトにとってはそれを上回る重要な理由があった。
「オン!」
『常に人を守る為か。だがそれこそ体が大きい方がー……何? 宿の中に入り易いからだと?』
目の前の百狼に比べたら小さいが、それでも人からすればホクトは十分大きい体だ。
宿の経営者が狼の獣人だったり、ホクトを理解をしてくれる人なら宿に入る許可を出してくれるが、その巨体ゆえに宿内へ入れずに馬小屋等で寝る場合が多かった。
多少の距離があろうとすぐに駆けつけられるが、やはり主の傍にいる方が一番である。
ちなみに近くにいれば構ってもらえたり、ブラッシングをしてもらえる時間が増えるからという最大級の理由もあるが、ホクトはあえて口にはしない。
『ふむ……そこまでせねばならぬ程、人という存在は弱いものなのか?』
「オン!」
守るだけでなく、共にいられる事が嬉しいのだとホクトは口にしていた。
生まれや種族は違うのに、家族のように接し、愛してくれた主の下が自分のいる場所だとホクトは思っている。
それに……。
「オン!」
『ふ……確かにそうだな』
大きさにどれだけ差があろうと、全ては戦い方次第だとホクトは断言していた。
実際、百狼の方が圧倒的だった筈なのに、ホクトにしてやられたのだから、百狼も認める他がなかった。
確かに体が大きくなれば強いかもしれないが、それだけではないとホクトはよく知っている。というか、体と心に深く刻まれていた。
転生して何倍も大きくなっても、前世と同じく歯が立たなかった相手がいるのだから。
『そうか。人と寄り添うと決めたからこそ、お前は百狼としての進化から外れたのだな』
目の前の百狼と戦い、進化したからこそわかる。
本来百狼は進化を繰り返して精霊へと至るのだが、ホクトはシリウスたちと……人と共にある為に、百狼が目指す精霊から遠ざかっている事をだ。
このまま進化を続ければどうなるのかわからないが、少なくとも目の前に立つ百狼と同じ道を歩む事はないだろう。
しかし決まった道を歩まなければいけないわけではないので、ホクトは気にしていない。
ホクトの様子に謎が解けたとばかりに頷く百狼だが、まだ疑問が残っているのか次の質問をしてきた。
『だが、それゆえにわからぬ事がある』
それは久しぶりに見つけたホクトが、シリウスたちと触れ合っている姿を目撃した時から感じていた疑問だった。
百狼からすればまだ子供のような年齢だが、生まれてからの年月を考えるに、それは出来ていてもおかしくない筈だからだ。
『お前は何故、人の言葉で語らぬのだ?』
目の前の百狼と、かつて戦った炎狼がシリウスたちと会話していたように、今のホクトならば人の言葉を話せる筈なのだ。
だというのに、ホクトは犬と同じように吠えてシリウスたちと会話しているのである。
『人と共にあろうとするのに、人の言葉を使わない。明らかに矛盾しているのだが、お前は一体どうしたいのだ?』
人里に一切現れない偏屈でもなければ、人たちの会話を聞いて自然と覚える筈だと百狼は言ったように、シリウスたちと常にいるホクトが人の言葉を覚えていないのはあり得ないのである。
もちろん普通に吠えた方が百狼的に楽なのだろうが、意思疎通はしっかりと出来た方が良い筈だ。
それゆえの質問なのだが、ホクトはすぐに返事をせず、考え込むようにシリウスたちのいる方角へ顔を向けた。
しばらく悩んで決意したのか、気配を研ぎ澄ませて周辺に誰もいない事を確認してからホクトは口を開いた。
『私は……あの御方の犬だからだ』
転生して伝説と呼ばれる希少な種族になろうと……。
主を超える力と体を手に入れようと……。
ホクトの心は前世で主に飼われていた犬のままなのだ。
そして前世の犬は語らないものだ。
だからこそホクトは人の言葉を口にしない。
結局のところただの我儘なのだが、ホクトはこの関係がしっくりとくるので、然るべき時が来るまでは語らないと決めていた。
しかし目の前にいる百狼がそれを理解出来る筈もなく、ただ困惑するだけである。
『犬だと? 人がそう呼ぶ存在は、玩具のように弄ぶようなものではないか?』
『私がそうありたいと勝手に思っているだけの事だ。それに、私の主はそのような考えをする小さき御方ではない』
『我には理解出来ぬな。人とは欲望に忠実な愚かな存在でもあるのだぞ?』
『知っているさ』
前世で天寿を全うしたからこそ、ホクトは人というものをよく知っている。
人は欲望に忠実で、愚かな事でも平然と行い、周囲に流されるものだ。
だがそんな人の中にも、主のように確固たる信念や誇りを持つ者も存在するのだとホクトは知っているのだ。
『それに、語らずとも主は私の言いたい事を理解してくださるのだ。不便だと思った事はない』
己より遥かに年下だというのに、その達観した思考と信念を知った百狼は、突如悲しげにホクトを見つめていた。
『そこまであの人を信頼しておるのか。だが……今は良くともいずれ後悔するぞ? 百狼と人は生きる時が違うのだからな』
『そうだろうな。私は……百狼の寿命はどれ程なのだろうか?』
『お前の進化は普通と違うから、正確にはわからぬ。だが、人より長い時を生きるのは間違いあるまい。つまりお前は、人の最後を見届けなければならないのだぞ?』
『……構わない』
『何だと?』
『私はそれでいいのだ』
共にいられなかった悔しさはあるが、前世のホクトは主と過ごせて幸せだった。
そして抱きしめながら最後を看取られたあの時……自分は満足して逝く事が出来た記憶がある。
だからこそ……。
『今度は……私が看取る番なのだ。その後の事は、その時に考えればいい』
その頃にはシリウスの子供たちもいるだろう。
子供たちを主に代わって見守るつもりだが、場合によっては主の妻であるエルフと気ままな旅に出るのもいいかもしれない。
将来訪れるであろう絶望を気にして、 現在(いま) を疎かにしていたら何も出来まい。
だからそれまでは全力で主を支え続け、幸せだったと笑いながら逝く主を見送りたいのだ。
『とにかく貴方が気にする必要はない。それよりも……』
別に百狼に理解してもらわなくても構わないので、ホクトはここへ来た本当の目的を済ませようとしていた。
『もっと百狼について教えてほしい。私はもっと強くなりたいのだ』
百狼である自分が、人や魔物相手に後れをとる事は滅多にない。
だが人を守る為には、ただ強いだけでは駄目だとホクトはよく知っている。
主は今も成長を続けているのに、自分が成長しないなんてあり得ないし、これから主だけでなく主の妻や後輩……そして将来増えるであろう子供たちを守らなければいけないからだ。
それからホクトによる質問は続き、様々な知識を教えてもらった頃には二時間近く経っていた。
そろそろ戻らないと主たちを心配させてしまうと思ったホクトは、話を切り上げて別れる事に決めた。
目の前の百狼とは違う道を選んだ今、自分と会う事はほとんどないだろう。
だからこれが今生の別れになるだろうと思いながら背中を向けたその時……突如百狼が呼び止めてきたのである。
『そうだ。お前に一つ頼みたい事があるのだが……』
その内容を聞いたホクトは、露骨に嫌そうな感情を見せるのだった。
――― シリウス ―――
「おかえり、ホクト」
「……オン」
あれからホクトは二時間程で戻ってきたのだが、何処か様子が変だった。
困っているというのか……いや、納得がいかないと言わんばかりの感情を見せているのである。
てっきり百狼から有意義な話を聞いて満足気に帰ってくるのかと思っていたが、どうも違うようだ。
しかし昼間のように争った形跡は見られないので、口喧嘩にでもなったのかと思っていると……それは現れたのである。
『邪魔をする』
何となく俺たちとはもう会わないと思っていた百狼が、再び俺たちの前にやってきたのだ。
今度は隠れるつもりがなく、百狼が接近してくる気配を感じ取る事が出来たのだが、俺たちの前に再び姿を見せる理由がわからない。
首を傾げる俺たちを余所に、ホクトの横に立った百狼は俺たちを見渡しながら口を開いた。
『そう緊張しなくていい。我は人に頼みがあってきたのだ』
「頼み……ですか?」
「私たちに出来る事なのでしょうか?」
『なに、大した事ではない。だがその前に……この同胞が世話になっている事を誉めてやろう』
そう言いながら、百狼は隣にいるホクトの頭に左の前足を乗せようとしていた。
おそらく、うちの息子がお世話になってます……という風な事をやりたかったのだろうが、ホクトは残像を残す速度で横へ移動して避けていた。
『…………』
「オン!」
「「「「「…………」」」」」
「ホクト、速かったね!」
この非常に情けない光景を見せられた俺たちはどうすればいいのだろうか?
カレンの能天気さが羨ましいと思いながら無言を貫いていると、百狼は何事もなかったかのようにその場に伏せていた。
『実は人に頼みたい事があるのだ』
「……なかった事にしているね」
「なかった事にしているわね」
ここは触れないでおくとしよう。
そして百狼はその頼みとやらを説明してきたのだが、その内容に思わず素っ頓狂な声が漏れていた。
『この者に行っていた、ぶらっしんぐ……と呼ぶものを、我にもやってほしいのだ』
「……え?」
「オン!」
『断っているって? 馬鹿を言うでない、我に触れるのが畏れ多いだけだろう』
厳かで凛々しいイメージがあった百狼だが、まさかブラッシングを催促されるとは思わなかった。更に揃って都合の良い解釈をしている点は親子っぽい。
『無理にとは言わぬ。ただ、この者を虜にするぶらっしんぐとやらが、どれ程のものか気になっただけだからな』
「やるのは別に構いませんが……」
あいにく目の前の巨体に合ったブラシがないので、ホクトに使っているブラシを使うしかなさそうだ。
戻ってきたらホクトにしてやろうと思い、近くに置いていたホクト専用のブラシを手に取ると……。
「クゥーン……」
「……すまん」
ホクトが悲しそうに俺を見つめてきた。
今回だけだからと、頭を撫でてホクトを何とか説得した俺は百狼の前に立った。
このブラシは通常の物より倍近く大きい代物だが、目の前の百狼はホクトより何倍も大きいので小さいくらいである。そして体が大きい分だけ時間が掛かりそうだ。
覚悟を決めてどこから始めようかと悩んでいると、ブラシを手にしたリースとカレンが援護にやってきた。
「私も手伝うね」
「カレンもやる!」
「ああ……私のブラシが……」
「俺のブラシ……」
二人が手にしているブラシは、どうやらエミリアとレウス専用のブラシらしい。
自分専用の物を他の相手に使われるのは嫌だろうが、今回の相手は銀狼族にとって絶対的な存在である百狼だから、むしろ光栄じゃないかと聞いてみれば……。
「それはそれ、これはこれ……です!」
「あれは俺のブラシなんだ!」
拘りは上下関係も凌駕する……か。
まあ姉弟の場合はホクトと常に一緒だから、百狼に対する感覚が少し違うからだと思う。
というわけで、ホクトと姉弟の悲しげな視線が背中に突き刺さる中、何処か緊張感のあるブラッシングが始まった。
『ふむ……』
「なるほど、百狼によって質感が違うんだな。どちらにしろ触り心地は抜群だな」
『ほう……』
「んしょ……っと。これだけ大きいと足だけでも大変だね」
『おお……』
「くー……」
「カレンが寝ちゃったから、私が代わりにやるわ」
『……この翼の人は豪胆であるな』
何だかんだで夜も遅いので、ブラッシングの途中でカレンは寝落ちしていた。乗りたいと言っていた百狼の背中で眠っているのがちゃっかりとしていると思う。
背中から回収したカレンを毛布に寝かせ、フィアが代わってしばらく作業を続けていると、突如ホクトが百狼へ向かって吠えていた。
「オン!」
『もう十分だと? まだ半分しか終わっておらんではないか。人よ、首回りをもう一度頼む』
「ガルルル……」
『お前はいつもやってもらっているのだから、別にいいではないか。ああ、尻尾はもっと強くても構わんぞ』
本来なら自分がブラッシングしてもらう時間なのに……と、ホクトが嫉妬しているようである。
百狼は注文が多く、ホクトみたいに尻尾を振ったり腹を見せたりはしないが、ご機嫌でいるのは間違いなさそうだ。
脱力した状態で目を閉じ、気持ち良さそうにブラシの感触を楽しんでいるようだからな。
ちなみにホクトだが、今は不貞腐れるように背中を向けて伏せていた。
『……良いものだな。あれが骨抜きにされるのもわからなくはない』
「ブラシが小さいので、ちょっとやり辛いけどな」
『ではもっと良い物を作るがいい。機会があれば、またやってもらうかもしれぬからな』
「オン!」
その瞬間、ホクトが聞き捨てならないとばかりに百狼の前へやってきて吠えていた。
かなり本気で怒鳴っているようだが、完全に寛いでいる百狼は鬱陶しげに片目を開けるだけである。
『先程から騒がしいな。決めるのはそこの人なのだから、お前は黙っておれ」
「あー……俺も色々ありますし、確約は出来ないかと。ですが、偶にでもいいですからホクトを鍛えてくれるなら考えておきますよ」
『……いいだろう。我も考えておこう』
百狼はこれから何度も進化をする存在なのに、現時点でホクトとまともに戦えそうなのは、上位竜のアスラードか師匠くらいしかいないからな。
それゆえ、偶にでもいいから様子を見てもらいたいと思ったのだ。
そんな俺の意図を理解したホクトは仕方がなさそうに……それはもう渋々と口を挟むのを止めた。
それからしばらく経ち、ブラッシングが終わる頃には遠慮が消え、百狼は更に注文をしてきたのである。
『ところで、人が生み出す魔力はどのような感じなのだ? 我にも少し味見をさせてほしいのだが』
「別にいいですけど、今日はホクトにほとんど分けたので、あまり上質な魔力を出せませんよ?」
『それでも構わん』
あれから食事も済ませてしっかりと休んだので、多少ならば問題はない。
要望通り、大して魔力を込めていない魔力の玉を作ってから百狼の口へ目掛けて放ると……。
「オン!」
『何っ!?』
突如横から乱入してきたホクトが、魔力の玉を食べてしまった。
まるで油揚げをさらう鳥のように魔力を掻っ攫ったホクトは、そのまま脱兎の如く逃げ出す。
『くっ……油断していたわ!』
「オン!」
『おのれ! お前の魔力ごと食らってやろうか!』
そして……百狼同士による鬼ごっこが始まった。
木々の間を風の如く走り抜け、山々を超高速で駆け回るハイレベルな鬼ごっこは、俺たちが眠る直前まで続いたとさ。