軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

対策と彼の正体。

「⋯⋯まさか、こんなに大きいなんて」

口をついて出た言葉に、私自身が驚いていた。ここはエルンストの家。彼の話では「父の別邸」なのだとか。敷地の広さも建物の風格も、想定外⋯⋯。

迎えに来た馬車の時点でおかしいとは思ったけれど、まさかこれほどとは。

「緊張しなくていい。今は俺が使っているだけで家の者は使用人以外、居ない。話し合いにはちょうどいいからな」

エルンストが軽く言ってのけたが、そんなことを言われても、「別邸」の認識が違いすぎる。玄関に敷かれた深紅の絨毯、廊下に並ぶ高価そうな絵画や花瓶、行き届いた清潔感。そして何より、この邸の空気に漂う「格」が、私の足を鈍らせていた。

何度も言うけれどこれが別邸だと言うのよエルンストは。

「リアーナ様、どうかされました?」

振り向いて声をかけてきたのはロザリンだった。何の迷いもなく邸の中へ進んでいた彼女はやわらかく笑う。

「だって、ロザリンこんな大きい屋敷、緊張するわ⋯⋯エルンストってとんでもない大貴族だったのね」

「え? リアーナ様、エルンスト様のお名前ご存知ですよね? ⋯⋯え、まさか⋯⋯」

「知ってるわ、知ってるわよ。エルンスト・ハイベルグ⋯⋯。あっ」

にわかに思考が追いつかなくなって、私はその名をもう一度、頭の中でゆっくりと反芻した。

──エルンスト・ハイベルグ。

その姓は、何度も耳にしていたはずだった。王家を支える有力な家の一つであり、王子の側近ともなればそれ相応の家柄なのは当然──当然のはずなのに。

「私⋯⋯いま、初めて理解したかも」

「⋯⋯私も、いま、リアーナ様を理解しました」

頭を抱える私に、ロザリンは苦笑を浮かべる。

「お名前、何度も聞いていたじゃないですか」

「うん、でも、『名前』として受け取ってただけで、『ハイベルグ』ってところが⋯⋯抜けてた」

なんてことだ。私は、王子の側近である彼が、当然どこかの貴族の出だろうとは思っていた。なのに、こんなに間近で接していたのに、その背景を考えたことがなかったなんて。

「⋯⋯俺のこと、それほどまでに興味なかったんだな」

不意にエルンストの声が聞こえた。見上げると彼は苦笑していた。表情は穏やかで、いつもの皮肉っぽい口調ではあったけれど、軽く肩を落とした姿はどこか、寂しげに見えた。

「そ、そんなことないわ! ただ、私⋯⋯えっと、あまり人の家柄とか、気にしないようにしていると言うか、気にならないと言うか⋯⋯」

「気にしないにも程度があるだろう⋯⋯」

私の必死の言い訳に、彼は首を軽く振った。そして、言葉を継がず、そのまま部屋の奥へ歩いていく。ロザリンと私は、何とも言えない沈黙の中で顔を見合わせた。

「エルンスト様、おかわいそうに⋯⋯気付いてほしいんですよ。リアーナ様に」

「ロザリンは前もそんなこと言っていたわね。ねえ、気付くって何に?」

「こればかりは私が教えるわけにはゆきません。リアーナ様がご自分で気付かないと意味がありませんから」

ロザリンがふんわりと微笑んで、私の背をそっと押した。

部屋は、まるで応接間と稽古場を兼ねたような造りだった。中央に長い机と数脚の椅子、壁際には楽譜棚と数枚の譜面が立てかけられている。木製の床はよく磨かれていて、ダンスの練習にも申し分なさそうだった。

「さて、本題に入ろうか」

エルンストが気を取り直すようにして口を開いた。

「最近の動きでは舞踏練習会で狙われるのはロザリン嬢より、リアーナ ──君だ」

「⋯⋯わかってるわ。ラリッサがどこまで本気かにもよるけど、このままじゃ済まないのよね」

「手段として、よくあるのは衣装や靴、道具のすり替え。特に舞踏会ではドレスが狙われやすい。裂かれたり、染みを付けられたり、場合によっては燃やされることもある」

「燃やされる!? 怖すぎるんですけど⋯⋯」

「まあ、極端な例だ。だが、備えは必要だ。予備のドレスを用意できるか?」

ロザリンと私が顔を見合わせる。

予備のドレスなんて、そう簡単に用意できるものではない。ましてや、舞踏練習会となれば見た目の品格も問われる。粗末な布で間に合わせるわけにはいかない。

「父の友人が服飾の商会を営んでいるので既製品になってしまいますが用意できます。既製品と言っても質はいいですよ。私に用意させてください」

「ロザリン⋯⋯本当にいいの?」

「私がそうしたいんです」

彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。気品のあるその笑顔に、私は自然と背筋を伸ばしていた。

「ありがとうロザリン。でも、それでも燃やされたりするのは⋯⋯嫌ね」

「でしたら燃やされても裂かれても汚されても構わないドレスを用意しましょう」

「そうか、囮ってことだな」

エルンストにロザリンはゆっくりと頷いた。

「そうです。まずは相手に手を出させましょう。あえて目につきやすい場所に置いておき、簡単に手を加えられるようにしておけば、きっとラリッサ様たちは仕掛けてくると思うのです。本命のドレスは別に用意して、囮はあくまで囮。それに、やられた瞬間をこちらで把握できれば、証拠も手に入れられます」

「証拠⋯⋯なるほどな」

エルンストが同意する。ロザリンはにっこりと笑った。

ロザリンは続ける。

「汚されたドレスで泣くより、汚されたドレスを前にして笑いましょう」

その声音は、普段の穏やかさを保ちながらも、芯のある冷静さを帯びていた。ロザリンが理不尽な敵意に対して本気で怒っているのが伝わる。

私は思わず笑ってしまう。少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。

「私、いま、ロザリンを理解したわ」

私がそう言うと、ロザリンは小さく目を丸くしたあと、ふふっと笑った。

「──では次に、音楽についてだ」

エルンストが机の上に並べられた楽譜の束に手を伸ばした。

「複数の曲を候補に挙げておく。練習しておけば、もし会場で曲がすり替えられたとしても対応できる。基本のステップはどれも大差ないが、リズムや曲調の違いに慣れておいたほうがいい」

「わかったわ。何種類くらい練習しておけばいい?」

「三曲だな。それ以上はかえって混乱する」

「三曲か⋯⋯短時間で覚えられるかしら」

「今回は練習会だから少ない方だ」

「それはそうだけど⋯⋯」

楽譜を見つめながら、つい口にしていた。頭ではやるべきことと分かっていても、胸の奥にじわりと不安が広がっていく。

「言葉より、動きで覚えたほうが早い」

エルンストの静かな声が、その不安を切り取るように響いたかと思うと、彼の手が、私の手をそっと取った。

有無を言わせぬ調子。でもその手は驚くほどあたたかくて、私のためらいを包み込むようだった。

「リアーナ様、しっかりとエルンスト様をみてくださいね」

ロザリンは穏やかな微笑を浮かべながら、そう言った。その声には、どこか含みがあるように感じられ、目の前のエルンストの動きや顔つきだけではなく、もっと別の何かを指しているようで──私は思わずロザリンの顔を見た。

でも、ロザリンはただ静かに、あたたかく見守っているだけ。深い意味を問う隙すら与えない優しいまなざしに、私はそれ以上何も言えなかった。

「まずこの曲から始めよう。テンポはやや速めだ。リアーナ、転ぶなよ」

「そんなに不器用じゃないわよ⋯⋯たぶん」

エルンストの手は、温かくてしっかりしていた。私の腰に軽く添えられたその腕が、踊りの開始を告げる。

ロザリンが手拍子で曲のテンポを取る。ステップを踏むたびに、床を滑る音と私の呼吸が重なる。最初はぎこちなかったけれど、エルンストのリードは正確で、まるで水の流れに身を委ねるようだった。

「重心が右に寄ってる。もっと自然に身体を預けて」

「む、難しいわね⋯⋯」

「慣れれば自然にできる。ほら、もう一歩」

彼の声に導かれるたびに、私は少しずつ身体を委ねていく。

その感覚に、ふと、心が揺れる。練習だと分かっているのに、こうしてエルンストと踊っていると、胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのが分かった。

「いい調子だ。そのまま」

私は、ただ頷いた。口を開けば、変なことを言ってしまいそうだったから。

彼のリードは、想像していたよりもずっと滑らかで力強い。足元の不安定さも、彼の腕に支えられているうちに、少しずつ薄れていく。

けれどそれと同時に、胸の奥に別のざわめきが芽生えていた。

取られた手のひらのぬくもり。腰を導くその腕の確かな感触。

私⋯⋯今、エルンストのことを、意識してる?

不意に目が合うと、彼はほんの少しだけ微笑んだ。心臓が跳ねたような気がして、私は慌てて視線を逸らす。まるで踊っているのではなく、彼に包まれているようだった。

そんな自分に気づいて、私は戸惑った。今は練習なのに。心を揺らしている場合じゃないのに。

──私にとって彼の存在はこんなにも近くなっていたのね。

ふっと、エルンストが私の手を離した。

その瞬間、少しだけ心細くなる自分に気付いて、私は思わず目を逸らしてしまった。

「悪くない。あとは残りの二曲も同じように覚えて行くぞ」

「わ、分かったわ。がんばる」

そう答える声は、自分でも思っていたよりも落ち着いていた。

やるべきことは見えているのだから、揺れている場合じゃない、迷わず進むしかないのよリアーナ。

そうして私たちは、曲を変えながら何度も踊り、気づけば夕日が窓を赤く染めるころまで練習を続けていた。

ロザリンと並んでエントランスへと向かいながら、ふと振り返ると、エルンストは窓辺に立ち、遠くの空を眺めていた。

その背中は、どこか静かな決意を帯びていて──目を離すのが惜しく感じた。

「エルンスト様、本日はありがとうございました」

「ああ。少しでも役に立てたのなら、それでいい」

振り返ったエルンストは、穏やかな表情でそう言ってくれた。

屋敷を出ると、夕暮れの空が茜色に染まり、風が頬にひんやりと触れた。

「リアーナ様、少しは気持ちが軽くなりましたか?」

ロザリンがそっと問いかけてくる。

「うん⋯⋯まだ不安はあるけど、でも、逃げるより、ちゃんと向き合ったほうがいいって思えた」

自分の言葉に、自分でうなずく。少しずつだけれど、心の中で何かが変わってきているのを感じていた。

「ふふ、それならよかったですわ。準備は順調ですし、これからが本番ですもの」

ロザリンの言葉に、私は小さく笑った。

あと少しで舞踏練習会。

嫌がらせがあるかもしれない。でも、それを恐れて立ち止まる理由にはならない。

私は夕焼けの空を見上げ、そっと胸に手を当てる。

さっきまで、彼の手が触れていた場所──その記憶が、今は少しだけ背中を押してくれる気がした。できることをすべてやるしかない。

簡単な道ではないけれど逃げるより、ずっといい。