ハズレスキル「雑巾がけ」で世界をきれいにしていきます
作者: あうまる
本文
「スキル。雑巾がけ」
神官のおじいさんがそう読み上げた瞬間、広間が静かになった。
いや、静かになったというより全員が反応に困った。
剣を持った騎士たちは目を逸らし、偉そうな貴族のおじさんは口元を押さえ、同じ召喚者たちは微妙な顔でこちらを見る。
やめてほしい。こっちを見るな。私だって今初めて聞いたんだから。
「雑巾がけ……ですか」
王女様が確認するように言った。
「はい。鑑定水晶にはそのように」
「それは掃除が上手になるということでしょうか」
「おそらく」
おそらくじゃない。
そこはもう少し自信を持ってほしい。
私たち十二人は異世界から召喚された勇者候補らしい。
魔王が復活して、瘴気が広がって、魔物が増えて、このままだと王国が滅びる。だから異世界人を呼んだ。よくある話だ。よくあってたまるかとは思うが、説明されたものは仕方ない。
そして召喚者には一人一つ特別なスキルが与えられる。
隣の男子は「聖剣術」。
その隣の女子は「大治癒」。
奥の眼鏡くんは「魔導解析」。
で、私は「雑巾がけ」。
なるほど。
神様、もう少し配分を考えてほしい。
「えっと、カナデさん」
王女様が気まずそうに微笑んだ。
「はい」
「あなたには王城の清掃部門で、まずは……その、能力の確認を」
「掃除ですね」
「はい」
「分かりました」
私は頭を下げた。
ここで騒いでも仕方ない。聖剣が出ないものは出ないし、大魔法も撃てない。出たのは雑巾がけだ。
なら拭くしかない。
まあ、床は嘘をつかない。
人間よりはだいぶましだ。
*
王城の清掃部門は思ったより待遇がよかった。
朝食は出る。昼食も出る。夕食も出る。
寝る場所は使用人棟の小部屋だが、清潔な寝具があった。召喚初日にいきなり魔物の巣へ投げ込まれるよりはかなりいい。
ただ、清掃長のマーサさんは怖かった。
「異世界の勇者候補だろうが王族だろうが、床を拭く時は膝をつくんだよ」
「はい」
「雑巾は固く絞る。水を残すな。拭いた後に足跡がつくようなら二度手間だ」
「はい」
「あと廊下の角。そこを甘く見る人間は信用しない」
「分かります」
「分かるのかい」
「角に埃が残ると負けた気がするので」
マーサさんは初めて目を細めた。
「ふん。ならやってみな」
私はバケツの前に座り、支給された白い布を水に浸した。
その瞬間、指先がじんとした。
布が薄く光る。
白というより朝の窓際みたいな色。
私は固まった。
「どうした」
「いえ」
とりあえず雑巾を絞る。
廊下の床に膝をつき、端から拭いた。
ひと拭き。
石床についた泥が消える。
ふた拭き。
古いワックスの曇りが取れる。
み拭き。
床の奥から黒い染みのようなものが浮き上がった。
「……何これ」
思わず声が出た。
染みは煙みたいに揺れ、雑巾に吸い込まれた。
雑巾が一瞬だけ重くなる。
そして床の石が、そこだけ妙に明るくなった。
汚れが落ちたというより床が思い出したみたいな光り方だった。
マーサさんが無言で近づいてくる。
しゃがむ。
床を指でなぞる。
「カナデ」
「はい」
「今、何を拭いた」
「床です」
「床以外だ」
「分かりません」
マーサさんは黙った。
それから廊下の奥を見た。
王城は古い。
立派だが、どこも少しくすんでいる。壁の模様も柱の彫刻も、廊下の空気さえ薄く濁っているように見えた。
私はそこまで考えて、少し嫌な予感がした。
この城、もしかして汚い。
いや、清掃的な意味ではない。
もっと面倒な意味で。
*
私のスキルがただの掃除ではないと分かったのはその日の午後だった。
厨房の床を拭いたら仕入れ台帳の数字が変わった。
正確にはインクで隠されていた数字が浮き出た。
料理長が「は?」と言い、会計係が逃げようとして、マーサさんが首根っこをつかんだ。
次に倉庫の棚を拭いた。
腐っていないはずの小麦袋から黒い粉が出てきた。
粉は虫ではなく瘴気だったらしい。
神官が呼ばれ、倉庫番が震え、マーサさんが「だから換気しろって言ったんだよ」と怒った。
さらに礼拝堂の床を拭いたら、女神像の足元から小さなひびが現れた。
神官たちは大騒ぎになったが、よく見るとそのひびには古い呪符が埋め込まれていた。
「これは魔族の呪いです!」
若い神官が叫んだ。
私は雑巾をバケツに沈めながら首を傾げた。
「魔族って、女神像の下に呪符を埋められるんですか」
「それは……」
「王城の中ですよね」
「ですが、これは明らかに」
「内側からじゃないと無理では」
神官が黙った。
マーサさんが後ろで鼻を鳴らした。
「言ったね」
「言っちゃまずかったですか」
「いや。誰かが言わなきゃならなかった」
その日の夕方には、私の扱いが変わった。
ハズレスキルの掃除係ではなく王城内の汚染調査担当。
名前だけ聞くと格好いいが、やることは雑巾がけである。
膝をつく。絞る。拭く。
黒い染みが出る。バケツの水が濁る。捨てる。また汲む。
地味だ。
とても地味だ。
でも拭くたびに城の空気が少し軽くなった。
廊下で咳をしていた侍女が楽になったと言い、食堂の水が甘くなったと言う者が出た。寝込んでいた老犬が立ち上がり、王女様の部屋の花が枯れなくなった。
何だろう。
私は世界を救っているのかもしれない。
雑巾で。
いや、もう少し別の絵面がよかった。
*
召喚者たちの勇者部隊が出発したのは五日後だった。
聖剣術の男子を中心に、大治癒の女子と魔導解析の眼鏡くん、それから攻撃系スキルを持つ数人が選ばれた。
私は選ばれなかった。
当然である。
魔王討伐に雑巾がけを連れていく勇者はいない。少なくとも、その時の王宮はそう判断した。
「カナデさん、ごめん」
出発前、聖剣術の男子――相沢くんがそう言った。
彼はいい人だ。
いい人だが、いい人特有の謝り方をする。
「別に謝らなくていいよ」
「でも君だって召喚されたのに」
「私は城を拭いてるから」
「うん。でも」
「床は広いし」
「そういう問題かな」
「だいたいそういう問題」
相沢くんは少し困った顔をした。
背中には白い剣。
鎧も新品。
いかにも勇者候補という感じだ。
でも目の下に薄く隈があった。
「無理しないでね」
私が言うと、彼は笑った。
「それ、僕が言う方じゃない?」
「聖剣持って魔王領に行く人に言われても」
「それはそう」
彼は手を振って出発した。
城門の上から人々が花を投げる。
鐘が鳴る。
王様が演説する。
私はその後ろで城門の敷石を拭いていた。
花びらが落ちると滑るのだ。
危ない。
勇者が出発直後に転んだら縁起が悪い。
城門を拭いていると、石の目地からまた黒い染みが出てきた。
今までで一番濃い。
私は雑巾を押し当てた。
重い。
染みが雑巾に絡みつき、指先まで冷たくなる。
「うわ」
思わず手を離しそうになった。
その時、頭の中に声が響いた。
――王城中枢汚染率、六十三。
「何?」
――聖域機能、停止中。
「ちょっと待って」
――浄化条件。王城中枢、王都水路、旧神殿、世界樹根部の清掃。
「多い」
――雑巾がけを続行してください。
「命令が雑」
私はバケツの前で固まった。
スキルの声なのか、女神なのか、床なのか分からない。
ただ一つだけ分かった。
勇者部隊が魔王領へ行っている間に、私は城を掃除している場合ではない。
いや、掃除はする。
掃除はするが、範囲が思ったより広い。
世界規模だった。
やめてほしい。
せめてモップをくれ。
*
王都水路はひどかった。
臭い。暗い。滑る。最悪の三拍子である。
マーサさんは私に長靴と厚手の手袋を渡した。
「行くよ」
「マーサさんも来るんですか」
「清掃長が現場を見ないでどうする」
「格好いい」
「口より手を動かしな」
水路には王都中の排水が流れている。
生活の汚れ。
市場の汚れ。
貴族街の香水混じりの汚れ。
それだけならまだ普通だった。
問題は水面に浮いている黒い膜だ。
瘴気が油みたいに広がっている。
私は雑巾を棒に巻き付け、端から拭いた。
水を拭くという行為がもう意味不明だが、スキルは反応した。
黒い膜が雑巾へ吸い込まれる。
水路の壁に刻まれた古い紋様が光る。
「これ、排水路じゃないですね」
「昔は聖水路だったって聞いたことがある」
マーサさんがランタンを掲げた。
「王都を守る結界の一部だよ。今は誰も覚えちゃいないがね」
「覚えておいてくださいよ、そういう大事なことは」
「貴族は古いものを飾るのは好きだが、手入れは嫌いなんだ」
「急に真理」
水路を三時間拭くと、王都の井戸水が澄んだ。
七時間拭くと、北門近くの瘴気溜まりが消えた。
十二時間拭いた頃、私は水路の壁にもたれて動けなくなった。
「疲れた」
「休みな」
「世界を救うのって、もっと一撃で光る感じかと思ってました」
「一撃で救える世界なら、とっくに誰かが救ってるよ」
「それはそう」
マーサさんは私の隣に座り、硬いパンを半分くれた。
水路で食べるパンはあまりおいしくなかった。
でも不思議と、いくらか元気が戻った。
*
勇者部隊から最初の報告が届いたのは十日後だった。
魔王領の手前で魔物の大群に襲われ、進軍が止まっている。
さらに聖剣の輝きが弱くなっているらしい。
王宮は慌てた。
神官たちは祈った。
貴族たちは会議を開いた。
私は旧神殿の床を拭いていた。
「カナデさん!」
王女様が息を切らして駆け込んできた。
ドレスの裾が埃だらけになっている。
あ、あとで叱られるやつだ。
「勇者様方が危険です!」
「でしょうね」
「驚かないのですか」
「聖域機能が止まってるので」
「聖域機能?」
「説明すると長いんですけど、この国の結界とか浄化とか、たぶん昔は全部つながってたんですよ。それが汚れて詰まってる。水路も神殿も王城も」
「つまり?」
「魔王が急に強くなったというより、人間側の守りが詰まりまくって弱ってます」
王女様は黙った。
それから旧神殿の床を見た。
拭いた場所だけ、石板の文字が読めるようになっている。
そこには古代語でこう書かれていた。
魔王とは、世界の汚れを集める器。
勇者とは、その器を砕く剣。
巫女とは、汚れを流す水路を守る者。
そして清掃とは、祈りの最も古い形である。
「清掃とは祈り……」
王女様が小さく読み上げた。
私は雑巾を絞りながら言った。
「神様、だいぶ現場主義ですね」
「……カナデさん」
「はい」
「私は何をすればいいでしょう」
王女様の声は震えていなかった。
その代わり、両手でドレスの布を強く握っていた。
私は少し考えた。
「貴族を黙らせてください」
「はい?」
「私が王城と王都と旧神殿を拭きます。その間に邪魔されると困るので。あと人手をください。水と布と石鹸と食事。できれば甘いもの」
「甘いもの」
「士気に関わります」
王女様は何度か瞬きした。
それから、口元を緩めた。
「分かりました。必ず用意します」
「助かります」
「カナデさん」
「はい」
「あなたはハズレスキルではありませんでしたね」
「いえ」
私は床を見た。
まだ半分以上汚れている。
「ハズレかどうかは最後まで拭いてからで」
*
それからの数日は、もう何をしていたのかよく覚えていない。
王城の中枢を拭いた。
玉座の下から黒い鎖が出てきた。
昔の王が結界の管理を教会に丸投げした時の契約印だったらしい。拭いたら消えた。ついでに教会の大司祭が三人倒れた。
王都水路を拭いた。
水門が開き、古い聖水が流れた。
王都中の噴水が一斉に吹き上がった。子どもたちは喜んだが、洗濯物を干していた人たちは怒った。ごめん。
旧神殿を拭いた。
女神像の目が開いた。
いや、開かないでほしかった。
石像の目が動くのは普通に怖い。
最後に残ったのは世界樹根部。
王都の地下深くにある巨大な根だ。
世界樹といっても地上に大きな木があるわけではない。根だけが国中に広がり、土地の魔力を巡らせているらしい。
その根が真っ黒だった。
焦げたみたいに。
腐ったみたいに。
でもまだ生きていた。
「これを拭くんですか」
王女様が青い顔で言った。
「そうみたいですね」
「大きすぎませんか」
「はい」
「雑巾で?」
「雑巾で」
「……雑巾で」
「言いたいことは分かります」
私は笑う気力もなく、バケツの水に雑巾を浸した。
水は王都水路から汲んだ聖水。
布は王城の古い祭具を解いて作ったもの。
石鹸はマーサさん特製。
匂いが強い。
「カナデ」
マーサさんが言った。
「一人でやろうとするんじゃないよ」
「でもこれは私のスキルなので」
「雑巾がけは一人でやるもんじゃない」
「そうなんですか」
「広い床ほど人を集めるんだよ」
振り向くと、そこに人がいた。
清掃部門の人たち。
厨房の料理人。
侍女。
兵士。
神官見習い。
王女様まで袖をまくっている。
「王女様はさすがに」
「邪魔でしたら端を拭きます」
「端、大事です」
「では端を」
私は黙った。
雑巾を握る手が汗で滑る。
何か言おうと思ったが、うまく出てこない。
だから別のことを言った。
「雑巾は固く絞ってください。水を残すと二度手間です」
マーサさんが笑った。
「よし。分かってきたじゃないか」
みんなで根を拭いた。
黒い汚れが布に移る。水が濁る。捨てる。また汲む。
魔法の光も剣の輝きもない。ただ手を動かすだけ。
膝が痛い。腰も痛い。指先はふやけて腕は重く、途中で何度ももう無理だと思った。
それでも少しずつ、根の色が戻っていく。
黒から灰色へ。灰色から茶色へ。茶色から淡い金色へ。
その時だった。
遠くで何かが砕ける音がした。
同時に頭の中に声が響く。
――聖域機能、復旧。
――世界樹循環、再開。
――魔王器、浄化中。
私はその場に座り込んだ。
「終わった?」
誰にともなく聞いた。
返事はなかった。
代わりに地下全体が明るくなった。
根の奥から光が流れ、天井へ、壁へ、床へ染み込んでいく。
王都の方角で鐘が鳴った。
一度。二度。三度。
今度は警鐘ではなく祝いの鐘だった。
*
勇者部隊が戻ってきたのは、その翌日だった。
相沢くんはぼろぼろだった。
聖剣は折れていない。
でも刃は泥だらけだった。
「魔王が」
彼は城門の前で言った。
「消えた」
「倒したの?」
「いや。僕たちが追い詰めた時、急に黒い霧が抜けていって……最後は普通の老人みたいになって」
「老人」
「うん。ありがとうって言って、そのまま」
相沢くんはそこで言葉を切った。
私はバケツを持ったまま立っていた。
昨日の疲れがまだ残っていて、正直立っているだけで偉い。
「カナデがやったの?」
「みんなで拭いた」
「拭いた」
「うん」
「魔王を?」
「世界を」
相沢くんはしばらく黙った。
それから、ふっと肩の力を抜いた。
「そっか」
「そっちもお疲れ」
「うん。そっちも」
会話はそれで終わった。
勇者の帰還にしては地味だった。
でもまあ、疲れている時はそんなものだ。
*
それから、私のスキルはハズレではなくなった。
王国は正式に「聖清掃術」と呼び始めた。やめてほしい。急に立派な名前をつけられると恥ずかしい。
でも清掃部門の予算は三倍になった。雑巾の質も上がった。水路の点検係が増え、神殿の床は毎朝拭かれるようになり、王様も月に一度は玉座の周りを自分で磨くことになった。
いいことだ。
偉い人ほど、自分の座っている場所の汚れを見た方がいい。
私はというと、今も王城で雑巾を持っている。
世界を救ったのだから休めばいいと言われた。でも世界は一度拭いたら終わりではない。
人が歩けば埃は落ちる。水を使えば水路は汚れる。欲があれば書類に妙な数字が増える。
まあ、そういうものだ。
だから今日も私は膝をつく。
雑巾を絞る。
廊下の角から拭く。
すると背後で、誰かが足を止めた。
「カナデさん」
王女様だった。
手には白い布。
「今日はどこを拭けばよろしいですか」
「王女様、まだ続けてるんですか」
「はい。端が大事なので」
「言いましたけど」
「言われましたので」
王女様は真面目な顔でそう言った。
私は少しだけ考え、バケツを一つ渡した。
「じゃあ窓際をお願いします。光が入るところは汚れが見えやすいので」
「分かりました」
王女様はしゃがみ、少し不慣れな手つきで雑巾を絞った。
床に朝の光が落ちている。
昨日より少しだけ明るい。
完璧にきれいな世界なんて、たぶんどこにもない。
けれど汚れたら拭けばいい。見つけた人から、手の届くところから。
私は雑巾を床に当てた。
ひと拭き。
石の模様が少しだけはっきりした。