軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

62 昔の悪夢

ぴ、とペンを持つ指先に針が刺された。

ファリティナのふっくらとした子どもらしい指に、プツリと血が浮かんだ。

「まっすぐ書きなさい。本当に不器用だこと。」

乳母が言った。

ファリティナは流れ出した血を気にしながら、もう一度ペンを動かした。

集中して一行、書き上げた頃には、ペンを持っていた手の指には三箇所の針の跡があった。

その血をペロリと舐めると塩辛い味がした。

文字を教えられたのはもっと小さい頃だった。その頃の乳母は厳しく、まっすぐ線を引けないファリティナに、何度も針を刺してまっすぐ書けるように強制した。

おかげで文字は書けるようになった。

次に与えられたのは、本を写し取ることだった。

絵本を与えられ、1ページずつ書き写した。

一日のほとんどの時間、それに当たっていた。気を抜いて人形で遊んでしまい、夕食までに終わらなかった日は、夕食はなく、人形も捨てられた。

新しい人形は与えられなかった。

乳母はいつのまにかファリティナの前からいなくなり、乳母と一緒にファリティナの世話をしていた侍女がファリティナの側付きとなった。

ダイアナと彼女は言った。

ダイアナには息子がいて、弟のコリンと同じ年だった。大きくなってからだんだんとわかってきたことだが、ダイアナは貴族の次男か三男の夫がいたが死別して、子どもを育てるために侍女として働いていた。

コリンと同じ年の息子は、ファリティナが気づいた時は、公爵家の屋敷でコリンの側付きとして配されていて、よく剣の稽古の相手になっていた。

ダイアナは前の乳母に比べて優しかった。針で刺すこともなく、物を捨てられることもなかった。

だが、ある日、聞いてしまった。

部屋のドアが少し開いていたのだと思う。

ファリティナは集めていた小瓶を大きさ順に床に並べて遊んでいた。

「ほんっとうに忌々しいわ!あの女!」

「しー!声が大きいわよ!」

「かまやしないわよ!次に同じことがあったら、旦那様に言いつけてこんなところやめてやるんだから!」

ファリティナは聞き耳を立てた。

「ダイアナ、あなたも一緒に行きましょうよ。」

「そりゃ、私だって辞められるものなら辞めたいわよ。あんな高慢ちきな顔だけの女に仕えるなんてうんざりだけど、息子を育てなきゃいけないもの。」

「そうよね、あなたの場合は大変だものね。お嬢様は手がかからないからましなんじゃない。」

「何を考えてるかわからないけどね。子どもらしくなくて不気味だわ。」

笑うことは許されなかった。

泣くことも許されなかった。

大きな声で騒ぐことも、歌うことも、喚くことも許されなかった。

何かをしてもらいたい時は、近くに行って、はっきりと何がしたいのか、何のために必要なのか、伝えなければいけなかった。

物心ついたときはそれ以外で人に話しかけることは許されなかった。

公爵令嬢は、誰よりも賢く、冷静でいなければならない。と教えられていた。

実際そう振る舞うことで、周りは納得してくれた。

ファリティナが泣くと、周りの侍女たちはあからさまに嫌な顔をして、泣き止むまで側に来てくれなかった。

部屋には鍵がかけられ、だんだんと暗くなる部屋にひとりぼっち。心細くても、様子を見に来た侍女たちに泣き顔を見せれば、泣き疲れて眠るまで誰も来てくれなかった。

笑うことは苦手だった。

笑うと美しくないと注意された。

誰かの笑い声につられて笑うと、乳母はとても怖い顔でファリティナの太ももを小さな鞭で打った。

いつのまにか笑わない子どもができていた。

ダイアナの話が聞こえたとき、ファリティナは自分でも納得していた。

なんとなく異質な自分。

この頃には子ども同士の交流会にも出席するようになっていた。その中でもファリティナは少し浮いてる感じがしていた。

ファリティナに話しかけてくるものはいない。

人と話すと、相手はへりくだった話をして、何が言いたいのか理解できない。

戸惑ったまま別れ、背中を向けた途端あらかさまに侮蔑の言葉を投げつけられたこともあった。

「何よ、あんな成り上がりの娘のくせに!」

振り向くと、暴言の主は真っ赤な顔をして怒ってどこかへ行ってしまった。

成り上がりとはなんだろう。

王国の成り立ちからある伝統あるグランキエース家の子どもだと、昔から言われていた。

成り上がりとはどういう意味なのだろう。

それが義理の母を指す言葉と気づいて、心の中にまた一つ、蓋をしたような気がした。

××××××××××

泣いているのに気づいて、ファリティナは目を覚ました。

ああ、また叱られてしまうわ。と傷ついた目を軽く押さえた。

このところ、よく幼い頃の夢を見る。

楽しいことはあまりなかった。

心を開いて打ち解け合う仲間は、本の中だけにいた。

好奇心から行き過ぎて、それでも心配して叱ってくれる母も、本の中だけだった。

本の中で繰り広げられる兄弟げんかや初恋のドキドキは、公爵邸の庭で行われるパーティを舞台にしているのだろうと思っていた。

その楽しげな舞台に、ファリティナが呼ばれることはなかったけど。