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作品タイトル不明

第八十三話「前に出る覚悟——退路を断つ姫君」

万延元年、冬の深まり。

江戸の冬は、京とは違う寒さを持つ。京の寒さは底冷えと呼ばれ、足元からゆっくりと体に染み込んでくる。江戸の寒さは乾いて鋭く、針のように肌を刺してくる。

風は荒く、関東平野を渡って来る空っ風は、屋敷の障子をかたかたと鳴らし、軒先の風鈴の代わりのように、冬の音を立て続けていた。

一橋上屋敷。奥御殿の御座所。

渋沢栄一と渋沢平九郎が糸子の元を訪れてから、数日が経った頃である。

二人は既に日本橋小舟町の長屋に落ち着き、栄一は善次郎の下で実務を学び始め、平九郎は商務語学所と松下村塾の若者たちとの交流を、それぞれ歩み出していた。

糸子の元には、毎日のように善次郎から経過の書状が届いていた。

「栄一殿、初日にして帳場の流れを把握。質問の鋭さに、当方の番頭たちが舌を巻いておりまする」

「平九郎殿、松下村塾の若者たちと早速、剣術の打ち合いを始めた由。神道無念流の腕前、塾生たちにとっても良き刺激となっておる様子」

糸子はその書状を読みながら、御簾の奥で小さく頷いていた。

(栄一は順調)

(平九郎も順調)

(坂本は、相変わらず吉田殿のところで遊んでいる)

(旭狼衛は、近藤殿と土方殿が回している)

(村田殿は、商務語学所にて授業などをしておられる)

(皆がそれぞれの場所で、それぞれの仕事を回している)

糸子は、文机の前で湯呑を手に取った。

葵が淹れてくれた、宇治の濃いめのお茶であった。一口飲むと、舌の奥に深い緑の味が広がり、その後ろから僅かな苦みが追ってきた。

冬の朝のお茶は、夏のものとは違う。寒さで身が縮んだ体に、温かいお茶が一筋の道のように染み込んでいく。その道筋の温度を、糸子は丁寧に味わっていた。

部屋の隅では、行灯の代わりに新しい火鉢が一つ置かれていた。火鉢の中で、炭がちりちりと小さな音を立てて燃えていた。その音は静かで、しかし、確かに部屋の空気を温めていた。火鉢の周りには、僅かに陽炎のような揺らぎが立ち上がっていた。

障子の向こうでは、庭の松の上に薄い霜が降りていた。朝の光が、その霜を照らし松の葉の濃い緑と、白い霜とが清らかな対比を作っていた。冬の庭は、夏の庭よりも線が細い。そしてその細さこそが、冬の庭の美しさだった。

奥の違い棚には冬梅の蕾が、ようやく…少しだけほころび始めていた。

糸子は湯呑を置いて文机の前で、しばらく動かなかった。

文机の上には、一冊の帳面が開かれていた。先日、長州攻略について書き出した帳面である。

「歴史を変えるのではなく——悪い未来を回避する」

その下に、四つの分岐点。八月十八日の政変、禁門の変、第二次長州征伐の幕府敗北、戊辰戦争・特に会津戦争。

そして、その下に書かれていた一行。

「長州攻略——本格検討」

糸子は、その一行をしばらく見ていた。

(長州攻略は——選択肢ではなく、必須課題だ)

(最も準備ができているのも、長州。協力者が揃っている今、動かない理由がない)

(決まった。長州攻略を、本格的に動かす)

(そして——これは、無血近代化計画の中で「公議政体」を確立する第一歩になる)

糸子は、筆を取った。

帳面の新しい頁を開いて、書き始めた。

「長州攻略——必要なもの」

一つ。父上の協力。

二つ。御門様の御了承。

三つ。わたくし自身の覚悟。

筆が、三つ目で、止まった。

糸子は、しばらく、その「三つ目」を見ていた。

(——わたくし自身の覚悟)

糸子は、深く息を吐いた。

(これまでは——わたくしは、近衛家の姫、朝廷の使者として動いて来た)

(「江戸で動く者」だった…)

(御所御用達の天朝物産会所、商務語学所、教科書編纂——これらは、江戸で完結する仕事だ)

(人材の収集も、ハリスとの交渉も、商家の組織化も、全て江戸という枠の中で行ってきた)

(しかし、長州攻略は——違う)

(藩を動かすということは、——わたくしの動きが、江戸の枠を超えて、全国に広がるということ)

(わたくしの動きが、——遠く、長州にまで影響を及ぼす)

(それは、これまでの工作とは——次元が違う)

糸子は、筆を置いた。

そして頭の中で、整理を始めた。

(藩を動かすには、何が必要か)

(一つ目——「格」が必要)

(藩主・毛利敬親は、外様大名とはいえ、三十六万石の大大名。藩主と対話できる者は限られておる)

(御門様、将軍、五摂家、親藩大名)

(わたくしは、五摂家・近衛家の姫。格としては、十分)

(しかし——「姫」という立場では、直接表に出にくい)

(これが問題だ)

糸子は湯呑を、もう一口含んだ。

(二つ目——「明確な人物」が必要)

(書状だけで藩を動かすのは、限界がある)

(長州の周布政之助、いずれは薩摩の小松帯刀、土佐の山内容堂——これらのキーマンと、わたくしが何らかの形で直接接触する場面が必要になる)

(御簾越しでも、代理人経由でも、書状往復でも構わない)

(しかし、わたくしという明確な人物が、交渉の中心にいることが、相手に伝わらなければならない)

(さもなくば、相手は真剣にならぬ)

(そして、三つ目——「朝廷の使者」という看板を育てる)

(先日、塾生たちに「例の朝廷の使者——あれがわたくしでございます」と開示した。すでに「朝廷の使者」という看板は、動き始めている)

(この看板を、ハリス交渉の時の「一回限り」から、継続的な役割に格上げする段階が、来ている)

糸子は、筆を取った。

帳面に書いた。

「『近衛糸子』として——前に出る」

糸子は、その一行を書いた後、しばらく動けなかった。

筆を持つ手が、わずかに震えていた。

(——前に出る)

(わたくしが、近衛家の姫、近衛糸子として、朝廷の使者として、表舞台に立つ)

(これは、決定的な転換点だ)

(これまでの「裏から糸を引く」立場から——「表に立つ」立場への転換)

(そして—、転換と同時に、わたくしには、新しい現実が伸し掛かってくる)

糸子は、火鉢の方を見た。

炭が、ちりちりと燃えていた。

その小さな音が、部屋の静けさの中で、妙に大きく響いていた。

糸子は頭の中で、リスクを整理し始めた。

(一つ——幕府の警戒)

(「近衛家の姫が諸藩と接触している」という情報が、幕府に漏れれば——尊王攘夷の政治工作と見られる)

(これは、わたくしの擬態戦略を根本から崩す)

(井伊大老は亡くなったが、安藤信正をはじめ、幕府内の強硬派は今も健在)

(あの者たちが、わたくしの動きを掴めば——どうなるか分からぬ)

糸子の手のひらに、汗が滲んだ。

(二つ——暗殺リスクの急上昇)

(京の刺客の件は、御門様との関係から狙われたもの)

(しかし——わたくしが「近衛糸子」として表に出れば、狙われる頻度は確実に増える)

(史実の桜田門外の変のような事件が……わたくしに向けられる可能性がある)

(史実の井伊直弼ですら…白昼堂々、桜田門の前で討たれた)

(わたくしのような、十二歳の姫が、いかに旭狼衛が守護してくれるとはいえ、絶対の安全はないのではないか?)

糸子は、両手を膝の上で握りしめた。

(三つ——「十二歳の姫」という実態の露出)

(先日、塾生たちに「十二歳」を開示した。なれど、これは味方内部の話)

(敵対勢力に「十二歳」とい年齢が露出すれば——わたくしの存在自体が、政治的に利用される可能性も高くなると考えてよい)

(「幕府は十二歳の娘に翻弄されている」と喧伝されれば、幕府の面子が潰れ、強硬派の動きが過激になる恐れもありうる)

(そして、その怒りの矛先は——わたくしと近衛家に向く)

糸子の指先が、僅かに冷たくなっていた。

(四つ——近衛家全体への累)

(わたくしが表に出て、もし何かが起これば——近衛家全体が責めを負うことになる)

(父上の立場が悪くなる)

(五摂家筆頭の家名が傷つく)

(——わたくしの覚悟だけでは済まない話だ)

糸子は、深く息を吐いた。

目を閉じて、しばらく動かなかった。

しばらくして、糸子は目を開けた。

そして、文机の左の引き出しを開けた。

その中に、大切に仕舞われた書状の束があった。

京の父上から、これまでに送られてきた書状の数々である。

糸子は、その束の中から、一通を丁寧に取り出した。

書状の表に「糸子へ」と、父上の柔らかな筆跡で書かれていた。

糸子は、その書状を開いた。

既に、何度も読んだ書状であった。書き出しから結びまで、糸子は内容をほぼ覚えていた。

しかし、その中で一節だけ——糸子が、特に大切に何度も読み返してきた一節があった。

「辛くなったら、いつでも京に帰っておいで」

「近衛家はいつでもお前の帰る家だ」

糸子はその一節を——もう一度読んだ。

目の奥が、熱くなった。

(——父上)

(父上はいつも、わたくしのことを案じてくださる)

(江戸でわたくしが何をしているか、何を成し遂げようとしているか——大枠は分かっておられるはずなのに…)

(けれども、その細部はご存じない)

(細部を知らぬからこそ、父上は「辛くなったら、いつでも京に帰っておいで」と書いてくださった)

(その言葉が——どれほど、わたくしの支えになってきたことか……)

(江戸で疲れた時、「いつでも京に帰れる」という父上のお言葉が、わたくしの胸の中に、ぽっと温かな火を灯してくださった)

(なれど——)

糸子は書状を、そっと文机の上に置いた。

(なれど、わたくしが「近衛糸子」として表舞台に立てば)

(——この「いつでも京に帰る」という選択肢が容易ではなくなる)

(表に出るということは——退路を塞ぐということに他ならない)

(今、わたくしが京に逃げ帰れば、それだけで、わたくしが動かしてきた全ての計画が止まりまする)

(藩との交渉が止まり、商務惣会所の動きが止まり、教科書の更新が止まり——あらゆるものが、わたくしの帰京と共に止まる)

(そして、何より——わたくしが京に帰れば、近衛家全体により直接的に累が及ぶことになる)

(江戸にいるからこそ、京の近衛家は、まだ「巻き込まれていない」体裁を保てる)

(わたくしが京に戻れば、敵の目は京の近衛家そのものに向く)

(——もう、わたくしは、簡単には京に戻れぬ)

(父上が用意してくださった、「いつでも京に帰っておいで」という温かな退路は、わたくし自身が、塞ぐことになる)

糸子の目から、涙が一滴落ちた。

それは、文机の上の書状を避けて、畳の上に小さな染みを作った。

糸子は、慌てて、袖で目を拭った。

(——わたくしは、何を泣いておるのでしょう)

(覚悟を決めるなら、泣いている場合ではないというのに…)

(けれど——)

(父上が用意してくださったあの温かな退路を——わたくし自身の手で、自ら塞ぐということ…)

(こんなにも、重く悲しいものだとは思わなかった)

糸子は、しばらく文机の前で、ただ黙っていた。

火鉢の炭が、ちりちりと燃えていた。

その音だけが部屋に、静かに響いていた。

しばらくしてから糸子は、再び目を上げた。

目元は赤かった。しかし、その奥には——確かな決意が宿り始めていた。

(——なれど)

(わたくしが動かねば、誰が動く?)

(高杉も、久坂も、松陰殿も、栄一も、平九郎も、村田殿も、坂本も、中岡も——)

(皆、それぞれの場所で、それぞれの役割を果たし始めている)

(しかし——藩を動かすことは、彼らだけではできない)

(藩を動かすには、近衛家の格が必要)

(朝廷の使者という人物が必要)

(——そして、その役割を担えるのは、わたくしだけでございます)

(わたくしが前に出なければ、歴史は、わたくしが前世で見てきたあの「悪い未来」へと、再び向かってしまう)

(八月十八日の政変、禁門の変、長州征伐、戊辰戦争、会津の悲劇…)

(あの全てを、わたくしが知っているのに何もしなければ)

(——わたくしは、何のために、転生してきたのでしょうか?)

(前世で得た知識を——わたくしは、この時の幕末で使い切る)

(それが、わたくしの、生きる意味だ…と思うのです)

糸子は、深く息を吸った。

そして、筆を取った。

帳面に、新しい一行を書いた。

「段階的に、前に出る」

その下に、三段階を書いた。

段階一——「近衛家の姫」として朝廷内で可視化(現状)。

段階二——「朝廷の使者」として事実上の公務化。御簾越し、代理人経由、書状での交渉を基本とする。

段階三——特定の信頼相手には完全に「近衛糸子」として対峙。御簾越しは維持、実年齢は最後まで伏せる。

糸子は、その三段階を、しばらく見ていた。

(——よし)

(一気に表には出ない)

(段階を踏む)

(しかし、前に出る覚悟だけは、今決める)

糸子は、筆を置いた。

文机の前で、深く頭を下げた。

(——父上、申し訳ありませぬ)

(父上が用意してくださった「いつでも京に帰る」という退路を、わたくしは、自らの手で塞ぎまする)

(しかし、これは——わたくしが選んだ道でございます)

(誰に強いられたものでもありませぬ)

(わたくしが、自分の意思で選んだ道なのでございます)

(だからこそ——わたくしはこの道を、最後まで歩いてまいります)

(父上、お許しくださいませ)

糸子は、しばらく、頭を下げたままでいた。

火鉢の炭が、ちりちりと、燃え続けていた。

その時——。

廊下から、静かな足音が近づいてきた。

葵だった。

葵は、襖の前で一度止まった。

(——姫君様)

(朝から、お顔の色が、いつもと違っていらっしゃいます)

(書状を書きかけて、止められて、しばらく動かれず、また書かれて、目元が、赤くなっておられた)

(何かを、ご一人で抱え込んでおられます)

葵は、襖の前でしばらく逡巡した。

(——どうしよう)

(姫君様にお声をかけるべきか)

(けど、姫君様がご一人で考えていたい時に、わたくしが踏み込めばお邪魔になる)

(——いつもの姫君様ではないことはわかっています)

(こういう時は、わたくし一人で抱えては駄目だわ)

葵は決めた。

襖からそっと離れようとした、そのときに…

「葵…」

糸子から声をかけられる。

「はっ、はい。お呼びですか?姫君様…」

部屋の襖を少し開けて糸子を見る。

「葵、よくぞ参りました。近藤、土方両殿をお呼び立てしたく存じます。早々に参るよう、お伝えくだりませ」

憂いた笑顔の糸子が言った。

「分かりました。姫君様。至急呼んで参りますので、しばらくお待ちください」

そして、葵は襖を閉め、廊下を急ぎ足でその場を去った。

(うん……近藤殿と、土方殿にお話ししよう)

(あの方々なら——きっと、姫君様のお力になっていただける)

奥御殿から少し離れた、控えの間。

近藤勇と土方歳三は、その日の見回りの予定を簡単に打ち合わせていた。

近藤はいつものように穏やかな顔で、しかし眼の奥には鋭い観察力を宿している。土方はいつものように僅かに気怠げな立ち姿で、しかしその姿勢には隙がない。

二人は葵が静かに襖の前に立った時、同時に顔を上げた。

近藤は、僅かに眉を動かした。

「葵殿」

葵は、襖の前で深く一礼した。

「お話がございます。聞いていただけますか?」

その声が——いつもと違っていた。

土方が近藤の方を、ちらりと見た。

近藤は頷いた。

「分かりました。お入りください」

葵は、静かに襖を開けて入ってきた。

葵は二人の前に座って、しばらくどう切り出していいか、分からないというよう目を伏せていた。

近藤が優しく声をかけた。

「葵殿、何かありましたか?」

葵は、意を決した顔で上を向いた。

「——姫君様のことでございます」

土方の眉が、ぴくりと動いた。

葵は、ゆっくりと語った。

「今朝から姫君様が、いつもの姫君様ではないご様子で……」

「文机の前で、書状を書いては止められ、また書かれ——そうこうしているうちに目元が赤くなっておられました」

「…どうやらお泣きになられているようなのです」

「何かを、ご一人で抱え込んでおられるのではないか?と思いました」

「わたくしから、お声をかけるのも僭越と存じますが——」

「もしよろしければ、近藤殿と、土方殿に姫君様のお話を聞いていただきたく、呼んくるように言われたついでに…お願いに上がりました」

葵は、深く頭を下げた。

「どうか、どうか姫君様を……」

近藤と土方は、しばらく黙って葵を見ていた。

そして、近藤がにこりと笑った。

「安心してくだされ、葵殿」

「姫様が、どのような不安を抱えていらっしゃるか——詳しくは分かりませぬ」

「しかし、姫様と近衛家を守護するのが、我ら旭狼衛の務め」

「我々に何ができるかは分かりませぬが——姫様のお話は、しっかりとお聞き致しまする」

「なぁ、土方よ」

土方は頷いた。

「近藤さんの言う通りです。葵殿、どうか安心なされよ」

葵は、目を潤ませた。

「近藤殿、土方殿——」

「どうか、よろしくお願いいたします」

葵はもう一度深く頭を下げた。

近藤と土方は立ち上がった。

二人の足音が廊下をしっかりとした歩調で、奥御殿へと向かって響いていった。

奥御殿の御座所。

近藤と土方が、襖の前で、一度足を止めた。

近藤が、静かに声をかけた。

「姫様。近藤と土方にございます。お話、申し上げたきことございます。よろしいか?」

しばしの沈黙の後——糸子の声が、襖の向こうから届いた。

「お入りくださいまし」

近藤と土方は、襖を開けて入った。

二人は——御簾の前で止まろうとした。

しかし、御簾は開け放たれていた。奥から糸子の声が響いた。

「今そちらにいきますゆえ」

二人は息を呑んだ。

(御簾が開け放たれている……?)

(普段、姫様は御簾の外では対面なさらぬはず)

(——よほどのことだ)

近藤と土方は、顔を見合わせた。

そして、開け放たれた御簾の前で…正座をして待った。

御簾の奥から、糸子が出てきた。

冬の朝の光が、障子越しに、糸子の白い小袿を、薄く照らしていた。

糸子の目元が、わずかに赤かった。

しかし、その目の奥には——いつにも増した…確かな決意が宿っていた。

近藤と土方は、糸子の前に深く一礼した。

糸子は二人の顔を、しばらく見ていた。

そして、ゆっくりと口を開いた。

「近藤殿、土方殿——」

「お忙しいところ、お呼び立てして、申し訳ありませぬ」

近藤が、慌てて手を振った。

「滅相もございませぬ」

「姫様のお呼び出しに、お応えするは我らの務め」

糸子は、ふっと小さく笑った。

しかし、その笑いには——いつもの軽妙さがなかった。

「実は——お聞きしたきことがございまする」

「今の旭狼衛の様子を、詳しくお聞かせ願えませぬか」

近藤と土方は、一瞬顔を見合わせた。

(——姫様)

(何か、大きなことを、お決めになられるおつもりだ)

(だから、まずは、我ら旭狼衛の状況を——お確かめになりたいのだろう…)

近藤は、姿勢を正した。

「承知致しました。では、詳しくお話し致します」

近藤は、ゆっくりと語り始めた。

「姫様、まず江戸の試衛館でございますが」

「中核の隊士は、現在三十名ほど」

「内訳はわたくしと土方、沖田、斉藤、その他、初期からの幹部が五、六名」

「結成初期からの古参隊士が、十名から十二名」

「この一年で採用した新参隊士のうち、実戦に耐えうる者が十五名から十七名」

「これで中核は、三十名強となります」

糸子は頷いた。

近藤は続けた。

「これに加えて、準隊士と申しまする者が、十五名から二十名」

「彼らは剣術修行中の門弟で、正式な隊士にはまだ昇格しておりませぬ」

「しかし有望な者は、間もなく正式隊士に昇格させる予定でござる」

「江戸試衛館全体としては、おおよそ五十名前後でございます」

糸子は、軽く、息を呑んだ。

(五十名……)

(思っていたより、増えている)

近藤は続けた。

「そして——京都の試衛館でございますが」

「こちらはわたくしの信頼する古参の門弟を、京都支部頭として配しておりまする」

「中核隊士は、二十名から二十五名」

「準隊士が、十名から十五名」

「京都全体としては、三十名から四十名前後」

糸子は、驚いた。

(京都にもそれほどの人数が……)

近藤は土方の方を、ちらりと見た。

土方が引き継いだ。

「さらに——日本橋小舟町の天朝物産会所、横浜の取引所——」

「これらの拠点には警備として、それぞれ五名から十名を常駐させておりまする」

「分派拠点を合わせて、十五名から二十名」

糸子は、ゆっくりと息を吐いた。

近藤が少し、照れたように続けた。

「江戸、京都、分派——全てを合わせれば、旭狼衛はおおよそ百名に届く規模となっております」

糸子は、目を見開いた。

「百名…ですか?」

「はい」

「以前、姫様にお話しした時より、だいぶ増えました」

糸子はしばらく——沈黙していた。

(百名……)

(旭狼衛が、既にそれほどの組織になっていたのか)

(先日、高杉たちが「百名以上の浪士」と感じていたのは—本当のことだったのだ)

糸子は湯呑を、手に取った。

お茶を一口含んだ。

お茶はもうぬるくなっていた。

近藤は、続けた。

「ただし、姫様」

「百名に届くとは申せ、これ以上の急拡大は避けておりまする」

「幕府の警戒を招かぬため、表向きは『剣術道場』の体裁を保つ必要があるからにございます」

「道場として自然な規模を超えれば、必ず怪しまれまする」

糸子は頷いた。

「擬態の維持、大切でございますね」

「左様にございます」

土方が付け加えた。

「それに——急拡大は、士気と規律の低下を招く」

「我ら近藤さんと自分の目が届く範囲に、人数を限定する必要があります」

「信頼できる浪士を集めるのは、簡単ではないのです」

「食い詰めた浪人、剣術修行中の若者、他道場からの移籍、姫様の人材交流網からの紹介、志士崩れの中で『使える者』——」

「これらの中から、剣術の腕、身元の確かさ、秘密保持能力を、慎重に見極め、選んでおります」

糸子は、深く頷いた。

近藤が、最後に付け加えた。

「松下村塾の方々については、別枠です」

「あの方々は、旭狼衛の隊士ではなく——監視対象と申すべき存在です」

「ただし将来的に、一部が旭狼衛に組み込む可能性もありましょう」

糸子は頷いた。

「——左様でございますね」

しばらくの沈黙。

糸子は、文机の上に置いた書状を手に取った。

父上から届いた、あの古い書状であった。

そして、深く息を吸った。

十一

糸子は、近藤と土方の方を向いた。

その眼に、決意の色が宿っていた。

「近藤殿、土方殿——」

「実はお聞きしたかったのは、それだけではございませぬ」

「お話ししたいことが、もう一つございまする」

近藤と土方は、姿勢を正した。

糸子は、ゆっくりと語り始めた。

「わたくしは——此度、自分が進めている企てのため、どうしてもこれから、長州攻略を進めねばなりませぬ」

「長州を無傷のまま、朝廷の同盟者として位置づけることが——わたくしの企ての、第一歩であり、要にございまする」

「これを成し遂げれば、——日本は内戦を回避できる可能性が大きく開かれましょう」

近藤が頷いた。

糸子は、続けた。

「そのために——わたくしは、これまでのように『江戸で動く者』としてだけでは足りませぬ」

「ついに——『近衛糸子』として、表舞台に立つ覚悟を決めました」

近藤と土方の表情が、わずかに引き締まった。

糸子は続けた。

「もちろん、いきなり完全に表に出るわけではありませぬ。慎重に、段階を踏みまする」

「最初は、御簾越し、書状、代理人経由——そのような形で、『朝廷の使者』としての立場を、内々に定着させてゆく」

「いずれ信頼できる相手には、直接対峙することもありましょう」

「なれど——どの段階であろうと、わたくしが『近衛糸子』として表に出ることになりましょう」

糸子は、息を深く吸った。

「これは、退路を塞ぐ行為にございます」

近藤が、ぴくりと眉を動かした。

糸子は続けた。

「以前、父上から届いた書状に、『辛くなったらいつでも京に帰っておいで。近衛家はいつでもお前の帰る家だ』と書かれておりました」

「その一節はこれまで、わたくしの大きな支えでございました」

「江戸での仕事に疲れた時、いつでも京に帰れるという、その温かな思いがわたくしの胸の中に、ぽっと火を灯してくださっていた」

糸子の声が——ほんの僅か震えた。

「なれど——わたくしが『近衛糸子』として表舞台に立てば、その退路は、容易ではなくなりましょう」

「わたくしが京に逃げ帰れば、それだけで、全ての計画が止まりまする」

「そして、何より——近衛家全体により直接的に累が及びまする」

「だから…わたくしは——自分の手で、自分の退路を塞ぐことにするのでございます」

糸子は目を伏せた。

その手が…書状を強く握りしめていた。

「覚悟は——ございます」

「なれど」

「不安で、仕方がないのです」

「怖いのです」

糸子の声が、少しだけ揺れた。

「わたくしが表に出れば、暗殺の危険が急激に高まる可能性がございます」

「それは、わたくし自身のことだけではありませぬ。近衛家全体が、敵に狙われる可能性が出てくることになりましょう」

「わたくしの覚悟だけでは、済まない話なのでございます」

「だから、——どうしても、お聞きしておきたかったのです」

「今の旭狼衛が——どのような状態にあるのか…を」

「わたくしのこの覚悟を、支えていただけるだけの力をお持ちなのか?どうかを……」

糸子は、深く頭を下げた。

「不躾な問いを、お許しくださいませ」

近藤と土方は、しばらく糸子を見ていた。

十二

近藤が、にこりと笑った。

「姫様…」

その声は、穏やかでありながら揺るぎないものであった。

「我ら旭狼衛は、姫様と近衛家を守護することをお役目としておりまする」

「そのために隊員たちは皆、厳しい鍛錬を日々、重ねておりまする」

「姫様は何の憂いもなく、ご自分の信じた道を安心してお進みくだされ」

土方が、続けた。

「姫様の御身は——必ずお守り致す」

二人の言葉は、心強かった。

しかし、その言葉の中、——揺るぎない覚悟が込められていた。

糸子は、目を伏せた。

「でも——」

「そのせいで、もし旭狼衛の隊員が亡くなったりしたら——」

糸子の声が——詰まった。

近藤と土方は、目を見合わせた。

土方が姿勢を正して答えた。

「姫様、申し訳ありませぬが、そこはお覚悟ください。我らは…そう言うしかありませぬ」

糸子は、息を呑んだ。

土方は続けた。

「ただし、これだけは申し上げます」

「もし、姫様や近衛家を守るために、亡くなる隊員がいたならば——」

「それはお役目を果たした、ということでございます」

「我らにとっては——誉にございます」

「また、道半ばで倒れた者の意思は、残りの隊員がしっかりと受け継ぎまする」

糸子は、目を上げた。

土方の眼を見た。

その眼には、一切の迷いがなかった。

近藤が、優しく続けた。

「姫様、覚えておいでですか?」

「まだ姫様が、今よりお小さかった頃」

「我らと、初めて、対面された時のことを」

糸子は、息を呑んだ。

近藤の声が、ゆっくりと、続いた。

「あの時、姫様は——」

「『頼みまする——この近衛を、そなたらが守ってはくれぬか』と仰せになられた」

「『人にものを頼むに、頭を下げるは道理』」

「『まして、命のことなれば、なおさらじゃ』」

「『身分など、この際どうでもよい』」

「『生きねば、何もできぬ。守れぬ』」

「『わたくしには、成し遂げなければならないことがあるのです』」

「——そう仰せになって、姫様は、百姓上がりの我らに、頭を下げられた」

糸子の頬に、涙が一筋伝った。

近藤の眼にも、涙が滲んでいた。

近藤は、ゆっくりと続けた。

「あの時、我らは——」

「いや、自分は——」

「初めて、武士とは何か、というものが——分かり申した」

「自分の成りたい、目指すべき武士の姿が——はっきりと分かり申した」

「それを気づかせてくださったのは、——姫様なのです」

「そして、それから姫様は、我らとのお約束を守って、わたくしどもを武士にしてくださった」

糸子は、首を横に振った。

「今でも——はっきり覚えておりまする」

「ただ——武士になれたのは、わたくしの力ではありませぬ」

「近藤殿たちが、ご自身の手で、成し遂げたことでございます」

土方が、首を横に振った。

「俺は、そうは考えていませんよ」

糸子は土方の方を見た。

土方は続けた。

「姫様が、主上様と近しい関係であられたからこそ、我らに対して主上様より、お言葉をいただけたのです」

「そのお言葉があったからこそ、今は亡き、阿部様がお動きになられた」

「あの一連の出来事は——全て、姫様あってのことだと思っています」

近藤が、照れたように笑った。

「それに——姫様はお忘れですか?」

「以前、江戸に向かう途中で襲われ、刺客二十六人を返り討ちにした時のことを…」

糸子の頬が、わずかに赤くなった。

「あの時、勝殿が——『姫様は、良い家臣を持っているねー』と仰せになられた」

「そうしたら姫様は——なんとお答えになられたか?」

糸子は、目を伏せた。

近藤は優しく続けた。

「姫様は、こうお答えになられた」

「『近藤殿たちは、わたくしの家臣ではありませぬ』」

「『絶対に守護してくれる強い味方です』」

「——と」

糸子の頬が、もっと赤くなった。

近藤は、——にこりと笑った。

「あれは我らにとって、本当に嬉しいお言葉でございました」

「それ以来——」

近藤は、少し照れたように続けた。

「新たに入ってくる隊員、皆に『我ら、近衛家を絶対に守護する味方なり』と、教え込んでおる次第なんですよ」

糸子は、目を見開いた。

「えっ!?」

近藤と土方は、同時に頷いた。

糸子は……困ったように照れたように、もじもじ…し始めた。

「そっ、それは、なんというか……」

近藤は、優しく続けた。

「もし、姫様が——ご自身や近衛家の方々の身を、案じておられるならば」

「——どうかご安心くださいませ」

「我ら旭狼衛が、絶対に守護してみせまする」

近藤の眼が、糸子を真っすぐに見ていた。

「姫様の歩まれる道が、どのようなものになるかは分かりませぬ」

「苦難の道やもしれませぬ」

「茨の道かもしれませぬ」

「だけど——」

近藤は、深く、息を吸った。

「どのような道を歩まれようとも——」

「我ら旭狼衛は、最後の一人になるまで、姫様をお守りして見せます」

「だから——どうか安心して」

「ご自身の信じた道を、お歩みくだされ」

近藤の顔は温かな……しかし揺るぎない笑顔だった。

土方も、隣で深く頷いた。

糸子は——両手で顔を覆った。

涙が止まらなかった。

「近藤殿——」

「土方殿——」

声が震えていた。

しばらく、糸子は——顔を上げられなかった。

火鉢の炭が、ちりちりと燃えていた。

その音だけが部屋全体に、静かに、静かに響いていた。

十三

しばらくしてから糸子は、ゆっくりと顔を上げた。

目元が赤かった。しかし、その奥には、もはや迷いはなかった。

糸子は、両手を膝の前に揃えた。

そして、深く平伏した。

「これからも、わたくしと近衛家のことを——お守りくだされ」

「何卒——よしなにお頼み申し上げまする」

近藤と土方は慌てた。

近藤が、身を乗り出した。

「姫様、我らにそのようなことは、不要にございますぞ」

土方も続けた。

「姫様のお立場上、そう簡単に頭を下げてはいけないでしょう」

糸子は平伏したまま、首を横に振った。

「今は——」

「わたくしと、そなたらだけにございます」

「それに——わたくしが、頭を下げたいのでございまする」

近藤と土方は、しばらく糸子を見ていた。

土方が——ぼそっと呟いた。

「……たまに見せる、あの腹黒さは、どこへ行ったんだ?」

糸子は——平伏の姿勢のまま、固まった。

「えっ!?」

糸子が、ゆっくりと顔を上げた。

近藤が——少し困ったように笑った。

「まさかとは思いますが、姫様……」

土方が——にやりと笑った。

「周りにバレていない……と思っておりましたか?」

「一部ではありますが、かなり知られてますよ」

糸子の身体から、血の気が、一気にサーッと引いていった。

「えっ……?」

「えっ、えええーーー!??」

「えっええええええええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!???」

糸子は、慌てて身を丸めた。

「あ、穴があったら、入りたい、です……」

近藤と土方は、同時に——爆笑した。

「わはははっははーーーー!」

「あっはっはっは——!」

二人の笑い声が、御座所に響き渡った。

糸子は——身を縮めたまま、耳まで真っ赤になっていた。

その時——

廊下の隅で、葵がホッと…息を吐いていた。

葵は襖の外で、三人の様子をずっと聞いていたのだった。

(——姫君様が、お元気になられてよかった)

葵の眼にも、うっすらと涙が滲んでいた。

(近藤殿、土方殿、——本当にありがとうございました)

冬の朝の光が奥御殿の障子を、白く染めていた。

火鉢の炭が、ちりん…と燃え続けていた。

糸子の前で近藤と土方が、まだ笑い続けていた。

糸子は丸まったまま、ぶつぶつと…呟いていた………

(消えて無くなりたい、逃げちゃいたい……けど、)

(逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ逃げちゃダメ………)

(…やっぱり、某人型決戦兵器に乗って…そのままどこかに出撃してしまいたい……気分です)

その背中には、もはや先ほどまでの重い緊張はなかった。

十四

そして万延元年 冬、間もなく万延二年を迎える頃——

京の冬は、江戸の冬とは、違う寒さを持つ。江戸の寒さが乾いて鋭いのに対し、京の寒さは、底冷えと呼ばれる、湿った深い冷たさである。比叡おろしと呼ばれる風が、東山から吹き降ろし、町全体を、薄い氷のように、覆っていく。

近衛邸の表座敷の奥には、近衛忠房の書院があった。

書院は二十畳の広さを持ち、床の間には、季節に合わせた掛け軸と白い椿が一輪、青磁の花入れに活けられていた。床柱は黒柿、長押は艶やかな朱、欄間には精緻な彫刻が施されていた。畳は新しい京間で、藺草の香りが、まだ薄く残っていた。

書院の中央には、文机が一つ。その文机の前に近衛忠房は、一通の書状を手にしたまま座っていた。

書状の表には、見慣れた筆跡で、こう書かれていた。

「父上様 糸子拝」

忠房はその書状を、何度も読み返していた。

書状の中には——糸子の、これまでの全ての計画が書き記されていた。

「無血近代化計画」という名前。

十年に及ぶ三段階の構成。

代理戦争論と、海洋国家論という二つの戦略的認識。

御門から綸旨を賜った三つの土台事業——天朝御用商務惣会所、商務語学所、海外向け商品開発販売。

現状の協力者たち——松屋善次郎、村田蔵六、坂本龍馬とその仲間、中岡慎太郎、岩崎弥太郎、吉田松陰、勝海舟と松下村塾の若者たち。

そして、「これを、近衛家の計画として進めとう存じまする」という糸子の願い……

忠房は書状を、文机の上に置いた。

——深く、息を吐いた。

火鉢の上に、金網を張って餅を焼いていた。しかし、その餅は、忠房が手を付ける間もなく、もう焦げ目を通り越して、黒く焦げ始めていた。

忠房は——目を閉じた。

(——糸子)

(お前は、なんということを……)

忠房はもう一度、書状を手に取った。

しばらく——書状を、じっと見つめていた。

書状の最後に書かれた一行が、忠房の眼に深く刻まれていた。

「この計画は、十年から二十年に及ぶ長き道のりにございまする」

「父上のお力なくしては、一歩も進めませぬ」

「何卒、お力添えを賜りたく、伏してお願い申し上げまする」

忠房は——目を上げた。

障子の向こうでは、京の冬の白い空が、広がっていた。

遠くから、東山の鐘の音が、一つ聞こえてきた。

忠房は書状を、両手でしっかりと握りしめた。

その手が、僅かに震えていた。

「糸子……」

「お前は朝廷の使者として江戸に赴き、一体何を見たのだ…」

「いや、メリケン国代表のハリスの背後にある、世界の現状を感じ取ったのだな…」

「それほどまでに今の日本の現状は、厳しいものなのだな…」

忠房は——静かに呟いた。

その声には驚き、戸惑い、そして——深い、深い…誇りが混じっていた。

(江戸へ送り出した時の、お前は……まだ十一の小さな御子であった)

(あれから一年と少しの間に、糸子は、これほどのことを…たった一人でやっていたのか?)

(——いや)

(一人ではない)

(糸子の周りには、既に、これだけの人々が集まっておる)

(本当にいつの間に……)

(糸子、お前は——近衛家の血を、色濃く引いておるのだな)

忠房は文机の上に、書状を丁寧に置いた。

そして、立ち上がった。

書院の中を、忠房はゆっくりと歩き始めた。

(さて、わたくしはどう動くべきであろうか?)

(御門様への奏上の時期、奏上の方法は慎重に選ばねばならぬ)

(そして、何より……糸子が「近衛家の計画」として進めたいと願う、その願いに近衛家当主として応えてやらねばならぬ)

(あの子の覚悟に——父親として、応えなければならぬ…)

忠房は、書院の窓辺に立って——遠く東の空を見た。

江戸は、その空の遥か先にあった。

(糸子——)

(お主は、今、どのような顔でこれを書いたのだ?)

(不安はなかったか?)

(一人で書きながら——泣いてはおらなんだか?)

忠房の目に——うっすらと涙が滲んだ。

(しかし、お主は、もう私の腕の中にいる小さな娘子ではない)

(お主は、一人の覚悟を決めた人物として、私に、書状を送ってきたのだな)

(ならば——私も、一人の覚悟を決めた人として、何としても…糸子の思いに応えてやりたい)

忠房は——窓辺で深く頭を下げた。

遠い江戸の空に向かって、深く頭を下げた。

(——糸子)

(父は、お主の道を必ず支える)

(必要なものは、必要なだけ整えてやろう)

(糸子…お前が、迷わず進めるように、挫けぬ様に)

(父が、必ずお主の後ろに立っておる)

しばらくしてから、忠房は文机の前に戻った。

筆を取った。

硯に墨を、丁寧にすり始めた。

その動作はゆっくりと、しかし確実なものであった。

糸子への返信を、書くつもりであった。

窓の外で京の冬の風が、軒の風鈴の代わりに、障子をかたかたと鳴らしていた。

忠房の書院には一つの決意が、静かに満ち始めていた。

第八十三話 了