軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六十九話「共犯者と二冊の帳面」

万延元年、秋。

江戸の秋は、一日一日をかけて深まっていく。

一橋上屋敷の庭では、松の緑がようやく落ち着いた色になっていた。夏の鮮やかな緑が少し暗くなって、そこに秋の重みが加わったような色だ。池の水面が、朝の空気を映して静かに輝いていた。今日は風がない。水面に波紋一つない、鏡のような静けさだった。

石畳の上に、朝露が細かく光っていた。庭師が夜明け前に水を打ったのだろう。その水が石の隙間に入り込んで、朝の光を受けて白く輝いている。その白さが、秋の澄んだ空気の中でことさら清潔に見えた。

縁側の向こうに見える庭の端に、一本の楓がある。まだ緑だが、葉の縁が少しだけ赤みを帯び始めていた。この木が完全に赤くなるには、もう少しかかる。しかし秋は確実に来ていた。

一橋上屋敷の奥御殿の一室。

糸子が文机の前に座っていた。

帳面が二冊、机の上に並んでいる。

一冊目は普通の帳面だ。計画①の全体像が書かれている。今まで村田に見せ、勝に見せ、龍馬に見せてきた帳面だ。

二冊目は——小さく、黒い表紙の帳面だ。引き出しの奥にしまってある。鍵のかかる引き出しだ。

糸子は両方を机の上に出して、しばらく見ていた。

今日、善次郎を呼ぶつもりだった。

全部を話す日だ、と糸子は決めていた。

善次郎が来たのは、午前中だった。

廊下から「失礼いたします」という声がして、障子が静かに開いた。

善次郎が入ってきた。いつも通りの格好だ。質素で清潔な着物。乱れた部分が一つもない。善次郎という人間は、自分の外見と同じように、内側も整理されている。

「お呼びでございますか、姫様」

「はい。今日は——少し長い話になりましょう」

善次郎が正座した。

糸子が机の上の二冊の帳面を見た。

「善次郎殿には、今まで計画①の三つの事業の概要はお話ししてきました」

「はい」

「今日は——それ以外のことを、全てお話し致しまする」

善次郎が少し動きを止めた。

「全て……でございますか?」

「はい」

「……承知致しました」

善次郎が静かに頷いた。その顔に、驚きはなかった。いつかこういう日が来ると——善次郎も、どこかで感じていたのかもしれない。

糸子が一冊目の帳面を善次郎の前に置いた。

「こちらは、すでにご存知の計画①でございます。まずこれを確認しながらお話ししまする」

善次郎が帳面を受け取った。

「無血近代化計画」と書かれた最初の頁を開いた。

「はい、承知しています」

「善次郎殿には今まで、この計画の三つの事業——商家連合体、語学学校、海外輸出——が、近代化の土台になるからと説明してきました」

「はい」

「それは嘘ではありませぬ」

善次郎が少し目を細めた。

「……それだけではない、ということでしょうか」

「そうでございます」

糸子が少し間を置いた。

庭の方から、鳥の声が聞こえた。秋の朝の、細い声だった。

糸子が机の引き出しに手をかけた。

鍵を取り出した。

引き出しを開けた。

黒い帳面を取り出した。

机の上に置いた。

善次郎がその帳面を見た。表紙には何も書かれていない。しかし——この帳面の存在を知っていたか、と問われれば、善次郎は「知らなかった」と答えるだろう。糸子が持っている帳面の中に、普段と違う扱いをされているものがある、という気配は感じていた。しかし中身は知らなかった。

糸子が帳面を開いた。

善次郎の前に差し出した。

「お読みくださいまし」

善次郎が帳面を受け取った。

読み始めた。

最初の頁………

善次郎の動きが止まった。

……読み続けた。

三つの柱——天朝御用商務惣会所の設立、天朝物産会所附属・商務語学所の設立、天朝物産会所の海外向け商品開発販売——が、計画①の表向きの説明では「近代化の土台」と説明されているが、この帳面では……と書かれている。

商家連合体は「情報・資金・人材が……」として策とされている。語学学校は「……人材を日本中の商家に…」として策とされている。海外輸出は「……経済の窓口として…」として策とされている。

その全てが——最終的に「…………」という一点に収束している。

善次郎がさらに読み進めた。

次の頁に来た時——善次郎の動きが、また止まった。

長い沈黙があった。

庭の外で、風が一度だけ吹いた。松の葉が微かに揺れる音がした。それから、また静かになった。

「……がそのようなことでございますか?」

善次郎が言った。

声は、普段通りだった。驚いていない声だった。しかし——その言葉の後に、善次郎がわずかに笑った。

くすりと笑った。

控えめで、しかし確かな笑いだった。

「何か問題がありましょうや?」

糸子が聞いた。

「……いいえ」

善次郎が笑ったまま言った。

「むしろ——安心いたしました」

「安心?」

「実に……と——そう思い、安堵致しました」

糸子が少し止まった。

「姫様」

善次郎が帳面を閉じた。丁寧に。両手で。

「わたくしは——姫様の企てに、最初から関わってきました。御所御用達の仕組みを作る段階から。天朝物産会所が動き始めた最初の日から」

「はい」

「その間、ずっと思っていたことがあります」

「なんでございましょう」

善次郎が糸子の方を見た。御簾越しに。

「姫様はなぜ、これほどの企てを、これほど懸命に動かしているのか。御門様のため、日本のため——それは分かります。しかし、それだけではない何かがあるはずだと」

糸子が少し黙った。

「今日、分かりました」

善次郎が言った。

「姫様は——でありますな」

「……当たり前ではないですか!」

「はい。当たり前でございます。しかし」

善次郎が少し微笑んだ。

「御所御用達の天朝物産会所を動かし、御門様の綸旨を受けて、日本の近代化を企てる姫君様が………の望みを持っている。そのことが——私には、……でございました」

「……」

「そのような……ならば」

善次郎が深く頭を下げた。

「私は全面的に、姫様に生涯をかけて協力させていただきます。絶対に裏切ることはありませんので、どうぞご安心ください」

糸子が少しの間、何も言わなかった。

「……善次郎殿」

「はい」

「実はすべてを話すことには、正直、怖いと思っておりました。全ての話して——もし引かれたら、と」

「引く理由が何もございません」

善次郎がはっきりと言った。

「ですが善次郎殿から、そのお言葉を聞いて——致しました」

糸子が静かに言った。

「今後ともよろしゅうお頼み申します」

「喜んで」

善次郎が頭を上げた。その顔には——長年一緒に仕事をしてきた人間の、静かな覚悟があった。

「それから——計画②についてもお話しします」

糸子が続けた。

「計画②……でございますか」

「はい。これは誰にも話していません」

善次郎が「……承知しました」と姿勢を正した。

糸子が話し始めた。

「計画②は——帝国主義参戦計画、と呼んでいます。期間は二十年です」

「帝国主義……」

善次郎が呟いた。

「今の世界は——帝国主義の前段階としての覇権争いが極まった時期にあります。イギリスがインドを統治下に置き、フランスがアジアに進出し、ロシアが南下を続け、メリケンは南北で割れながらもその後の急速な拡大を準備している」

善次郎が静かに聞いていた。

「この流れに、日本が乗り遅れてはなりませぬ。いや——乗り遅れた時点で、日本は飲み込まれる側になりましょう」

「……ひょっとして資源の確保、でございますか?」

「そうでございます。計画①で内戦なき近代化を成し遂げた後——もしくは移行の途中から——日本も資源確保のために動く必要がありまする」

糸子が少し間を置いた。

「北方はロシアとの問題がありましょう。サハリン、北海道の北端——ここには石炭がありまする。しかしロシアが狙っておりましょう。だから早めに日本が手を付けておく必要があるのでございます。そのためには海軍力が必要で、それが村田殿に設計図を作ってもらっている朝廷直属の近代軍と繋がりまする」

「南方は」

「台湾、そして将来的にはさらに南の資源地帯」

善次郎が帳面に何かを書き始めた。

「これは——計画①が軌道に乗った後、初めて動かせる計画でございます。今は準備の段階になりましょう。しかし準備なしには、時が来ても動けませぬ」

「……策が必要になりますね」

「はい。もう一つの…が機能し始めれば、計画②を動かす………ができましょう。この二つが連動しておりまする」

善次郎が書き止めた手を少し止めた。

「……計画①、もう一つの…、計画②——全部が繋がっているのですね」

「そうでございます。表向きの近代化計画が動く。その陰で………が固まる。……が固まったら資源確保に動く。全部が一本の線の上にありまする」

「……」

善次郎がしばらく沈黙した。

部屋の外から、庭の松が風に揺れる音が聞こえた。秋の風は、夏より少し冷たい。

「姫様」

「なんございましょう」

「これを一人でお考えになられたのですか?」

「一ヶ月間篭もって、ものすごーく頑張りました!」

善次郎が小さく笑った。

「……計画①の時も同じことをおっしゃっていましたね」

「同時に頑張って考えました。実際には三層になっておりますが」

「三層……」

「表の計画①、もう一つの…、奥の計画②。全部が同時で動きまする」

善次郎が深く頷いた。

「分かりました。帳面の管理を整えます。表の帳面と、中の帳面と、鍵のかかる帳面——三段階で管理しましょう」

「よろしくお頼み申しまする」

「一つ確認させてください」

「なんでございましょう」

「もう一つの…の本当の…については——私以外には、今後も話さないおつもりですか?」

糸子が少し間を置いた。

「……ひょっとしたらどなたかが、いずれ気づくかもしれませぬ。その時は、まぁ…その時で……」

善次郎が「……なるほど」という顔をした。

「ところで——計画②について、一つ大事なことをはっきりさせておきましょう」

糸子が言った。

善次郎が筆を持ったまま、顔を上げた。

「日本がこれから資源確保のために外に出る時——絶対に守らなければならない原則がありまする」

「なんでしょう」

「大陸には手を出さない。これでございます」

善次郎が少し首を傾けた。

「……大陸、とは清国のある大陸のことでございますか」

「はい。朝鮮半島の扱いは後で別途考える必要がありましょうが——清国の大陸本土には、絶対に手を出してはなりませぬ」

「その理由は?」

糸子が少し間を置いた。

窓の外の庭で、秋の風が松の葉を揺らした。その音が、しばらく続いてから静かになった。

「日本はイギリスのような海洋国家を目指すべきなのでございます。海に囲まれた国が取るべき戦略は、海を制することにあるのでごさいます。海運を押さえ、交易で富を得て、海軍力で外洋に出る——それが日本の道となるのでございます」

「……なるほど」

「なれど大陸国家の戦略は全く違いまする。ロシアのように、清のように——陸続きの隣国との境界線を広げ続けることで安全を確保しようとしまする。これは際限がありませぬ。どこまで行っても次の国境線が生まれますから、永遠に軍を動かし続けなければなりませぬ」

善次郎が静かに書き取っていた。

「もし日本が清国の大陸に手を出せば——泥沼です。いいえ、地獄と言った方が正しいでしょう。二度と抜け出せない地獄が待っておりまする」

「……なぜそこまで言い切れるのですか?」

「地理がそう言っておりまする」

糸子が答えた。

「清国の大陸はどれほど広いか。あの広さを統治しようとすれば、日本の国力の全てを注ぎ込んでも足りませぬ。占領すれば反乱が起きましょう。反乱を鎮めれば次の反乱がまた起きまする。軍を駐屯させ続ける費用が、得られる資源の価値を上回る。最終的に日本が破滅いたしましょう」

「二兎を追う者は一兎をも得られないのでございます」

「……」

「今の異国の動きを見れば分かりまする。海洋国家として最も成功したのはイギリスでございます。島という地理的条件を持ちながら、海軍力で世界の海を押さえ、交易で富を蓄積しておりまする。イギリスが強いのは大陸を直接支配しているからではありませぬ。大陸の国々と交易しながら、海という距離を保っているからでございます」

善次郎が頷いた。

「大陸国家と海洋国家は、根本的に戦略が違いまする。その両方を同時に目指すことは——決してできませぬ。どちらかを選ばなければなりませぬ」

「日本は海洋国家を選ぶ、と」

「はい。それが唯一の正解でございます。日本という島国の地理が、最初からそう決めておりまする」

糸子が続けた。

「だから計画②で資源確保に動く時——対象はサハリンの石炭、将来的には南方の資源地帯になるのです。大陸から資源を奪うのではなく、海路で繋がる場所を押さえるのでございます。統治するのではなく、交易の拠点を持つ。これが原則でなければなりませぬ」

「大陸はあくまで交易の相手であって、統治の対象ではない、ということですね」

「正確にその通りでございます」

糸子がはっきりと言った。

「この原則を——計画②を動かす全ての段階で、必ず守ってくださいまし。誰かが『大陸に出るべきだ』と言い始めた時、善次郎殿がそれを止める役を担ってほしいのでございます」

善次郎が、静かに、しかし明確に頷いた。

「承知しました」

「ただし——」

糸子が少し声を落とした。

「朝鮮半島の扱いだけは、今のわたくしにはまだ答えが出ておりませぬ。あそこは大陸と海洋の境界線にある。海洋国家として純粋に海だけを見ていれば済む場所ではありませぬ。なれどだからといって深入りすれば大陸の論理に引き込まれましょう。これが今後、最も難しい課題になるでしょう」

「……いずれ考える、ということですね」

「はい。今は答えを出さない。ただ、問題として頭に入れておいてください」

善次郎が帳面に書き留めた。

「姫様」

「なんでしょう」

「この原則を守れるかどうかが——計画②が成功するかどうかの、最も大きな分かれ目になりますね」

「そうでございます」

糸子が静かに言った。

「豊かになりたいがために大陸に手を出す誘惑は、必ず生まれましょう。なれど——豊かになりたいがために大陸に手を出した国が、どうなるか。その答えは、いずれ分かりましょう」

「……分かりました。この原則だけは、絶対に守ります」

善次郎が帳面を閉じた。

庭の外の風が、また一度吹いた。

池の水面が静かに揺れて、また静まった。

「それから——もう一つ話があります」

糸子が言った。

「何でしょう、姫様」

「異国向け商品戦略の具体的な第一手についてです」

「異国の輸出の話、でございますか」

「はい。善次郎殿には、その第一段として——浮世絵の異国輸出を担っていただきたいのでございます」

善次郎が少し目を丸くした。

「浮世絵……でございますか」

「はい」

「それは——単なる絵の販売ということでしょうか」

「全く違いまする」

糸子が言った。声に力があった。

「浮世絵の輸出は——日本の心象を異国に植え付ける、最強の文化外交の道具になりまする」

善次郎が帳面を開いた。書き取ろうとしている。

「今の状況を申し上げまする。浮世絵は現在——陶磁器を輸送する際の梱包材として使われておりまする。異国に渡っている浮世絵のほとんどは、荷物の緩衝材として捨てられているのが実態でございます」

「……それほど軽く扱われているのですか」

「そうです。なれど——」

糸子が少し間を置いた。

「将来、浮世絵は異国で革命を起こしまする」

善次郎が顔を上げた。

「……革命、と?」

「はい。異国の画家たちが浮世絵に衝撃を受ける時が必ず来ましょう。その影響が、異国の絵画そのものを変えることになりまする。それが——わたくしが試算した限りでは今から二十年後前後に起きましょう」

(転生前の記憶から言えば——ゴッホ、モネ、ドガ。彼らが浮世絵に影響を受けたことは、美術史の授業で学んでいた。印象派という革命的な芸術運動の源泉の一つが、浮世絵だった)

(しかし善次郎にそこまで説明することはできない。なぜ未来のことを知っているのか、説明ができないから…)

「どうしてそのようなことが分かるのですか」

善次郎が聞いた。

糸子が少し間を置いた。

「……異国の美術の動きを調べた結果と、長崎の商人からの情報を合わせた見立てでございます。異国では今、従来の絵画の様式に対する疑問が生まれ始めておりまする。そこに日本の浮世絵の形式——西洋遠近法を使わない平面的な表現、大胆な構図、鮮やかな色彩——が入り込んだ時、それが革命的に映るはずでございます」

「……なるほど」

善次郎が書き取っていた。

「だから今から輸出を始めることは——二十年後に来る流行を先取りすることになりましょう」

「二十年後の流行を……先取りする」

善次郎が繰り返した。その言葉の意味を、商人として測っていた。

「しかし善次郎殿。浮世絵の輸出で最も重要なことをお伝えしましょう」

「はい」

「これは単に『絵を売る』ことではありませぬ」

「では、何を売るのですか」

「日本という国を売るのでございます」

善次郎が少し止まった。

「浮世絵が異国に広まれば——日本への関心が高まりましょう。日本への関心が高まれば、日本の他の商品も売れやすくなりまする。日本の文化が高く評価されれば——日本という国の格が上がりまする。国の格が上がれば——条約交渉で対等に話せるようになりましょう」

善次郎が深く頷いた。

「浮世絵は広告として機能する、ということですね」

「正確にその通りでございます。天朝物産会所が輸出する全ての商品の価値を底上げする広告として」

「……姫様はそこまでお考えに」

善次郎の声が変わった。

驚きと、それ以上の何かが混じった声だった。

(このお方は……本当に先を見ている)

善次郎は思った。

「具体的に、何をすればいいですか」

善次郎が言った。

商人としての声になっていた。驚きを処理した後の、実務の声だ。

「まず——当代の絵師を抱え入れましょう。歌川広重殿、歌川国芳殿など、今一番の力を持つ絵師の方々に『御所御用の絵師』という肩書きをお伝えし、異国向けの作品を制作していただためにお抱えにするのでごさいます」

「御所御用の絵師……」

「はい。御所御用達の天朝物産会所が認定した、ということでございます。それだけで、作品の格が変わりましょう」

「なるほど」

「異国向けの浮世絵には、天朝物産会所の御朱印を押します。これにより『御所御用達が保証した芸術品』という銘柄が付きまする」

善次郎が「それは強い」という顔をした。

「価格設定は二段構えに致しましょう。最初は低価格で大量に流通させて、日本の美意識をヨーロッパに浸透させるのでございます。知名度が上がった段階で、限定版・高品質版を高額で販売致しまする」

「最初に撒いて、後で刈り取る、ということですね」善次郎が微かに笑った。

(バイヤーとして長年培ってきたことが、それです)糸子は静かに思いながら頷いた。

「それに加えて——もう一つございます」

糸子が続けた。

「日本を紹介する書物を作りたいのでございます」

「書物……?」

「日本がどういう国か、どういう文化を持つ国か、どういう歴史を持つ国かを、英語とオランダ語とフランス語で書いた本でございます。この本と浮世絵を併せて輸出を考えておりまする」

「……本の内容は誰が書くのですか」

「村田殿と、商務語学所の卒業生に書いてもらいましょう。ただし——一つ、最も大事な内容がありまする」

善次郎が筆を構えた。

「日本という国が世界最古の国であることを知らしめること、でございます」

「……世界最古の国?」

「はい」

糸子が静かに言った。

「神武天皇の御即位からずっと、男系男子直系で受け継がれてきた万世一系の皇統が今も続いておりまする。今の万延元年の時点で——二千五百年二十年でございます」

善次郎が驚愕した。

「……二千五百年以上!!」

「異国で最も古い王朝でも、千年ほどでございます。ハプスブルク家も、イギリスの王室も。日本の皇統は、その倍以上の歴史を持ちまする」

「……それが異国で知られれば」

善次郎が言いかけた。

「異国には、歴史ある国には敬意を払う文化がありまする」

糸子が続けた。

「もし日本が二千五百年以上続く皇統を持つ国だと正しく認識されれば——未開の東洋の小国ではなく、世界最古の文明国として扱われましょう。外交の場での立場が根本から変わりまする」

「ただし、注意しなければならないのは、今のこのお話は多少誇張して話をしているという点でございます」

善次郎が固まった。

「いや、それでも……その話が異国に広まれば、不平等条約の扱いさえも変えられる可能性がある?」

「その通りでございます」

「姫様、それは……」

善次郎の声が、久しぶりに動揺を見せた。

「それほど大きな話を——浮世絵の輸出と一緒に進めるおつもりですか」

「はい。浮世絵が日本への関心を作る。その関心が日本の書物への興味になる。書物の中に日本の歴史が書いてある——この流れを作りまする」

善次郎がしばらく黙っていた。

庭の外で、また鳥が鳴いた。今度は少し遠い声だった。

「……分かりました」

善次郎が言った。

「全力で取り組みます。浮世絵の輸出体制の構築、絵師の抱え込み、書物の制作——全部、引き受けます」

「心嬉しく存じます」

糸子が少し間を置いた。

「ただし——」

善次郎が顔を上げた。

「この異国の戦略が軌道に乗ったら、別の誰かに引き継いでいただく必要がありましょう」

「……それはなぜでしょうか?」

「善次郎殿には、今後——わたくしの代わりに、計画全体の指揮を執っていただく立場に就いてもらわなければなりませぬ」

善次郎が動きを止めた。

「……計画全体の指揮、でございますか」

「はい。わたくしが動けない時、わたくしが判断できない時——善次郎殿が全体を見て、決断できる立場でなければなりませぬ。そのためには、一つの事業だけに縛られていてはいけないのでございます」

善次郎が長い間、何も言わなかった。

部屋の中が静かだった。庭の外から、秋の風の音だけが聞こえた。

「姫様はそこまでこの私を……」

善次郎の声が変わった。

普段と違う声だった。商人でも実務家でもない——一人の人間の声だった。

「……感無量でございます」

善次郎が深く、深く頭を下げた。

「私は——この計画が始まった最初の日から、姫様と一緒でございました。天朝物産会所を作るところから。御所御用達の形を作るところから。全部、ご一緒させていただきました」

「はい」

「その全ての時間が——今日、ようやく全体が見えた気がします」

善次郎が顔を上げた。

目が少し潤んでいた。しかし涙は流さなかった。

「姫様に、絶対の忠誠をお誓いします」

その言葉は、短かったが重かった。

糸子が御簾の向こうで、少し頷いた。

「よろしくお頼み申します、善次郎殿」

「では——実務の話をしましょう」

糸子が言った。声が少し明るくなった。感情的な場面から、実務の場面に切り替わる時の、糸子の声の変わり方だ。

「はい、参ります」

善次郎も切り替えた。帳面を開いた。

「まず帳面の管理体制を確認します」

「はい」

「表の帳面——計画①の進捗管理、各事業の収支記録、人材の動きの記録。これはこれまで通りです」

「はい」

「中の帳面——もう一つの計画の資金の流れ。………資金と、それを………に活かす動きの記録。これを善次郎殿に管理していただきまする」

「分かりました。表の帳面に見える形で、中の帳面の動きも合わせて設計します」

「はい。表向きは物産会所の経費として見せながら、実際にはもう一つのための………を同時並行で行う——この二重の設計が必要です」

善次郎が「それは難しい仕事だが——できる」という顔をした。

「鍵のかかる帳面——もう一つの計画と、将来の資源確保のための準備記録。これはわたくしが直接管理しますが、善次郎殿にも写しを持っていただきます」

「承知しました」

「全ての帳面の整合性を定期的に確認してくださいませ。三つの計画が矛盾なく動いているかの確認は——善次郎殿にしかできない仕事になりましょう」

「……わかりました。月に一度、全体の確認の場を設けましょう。姫様とわたくし、二人だけの場で」

「よしなにお願い申し上げます」

糸子が次の頁に移った。

「次に——浮世絵の輸出について、最初にやるべきことを整理します」

「はい」

「まず、当代の絵師への接触です。歌川広重殿——まず、この方から始めます」

「広重殿は、今も活動しておられますか」

「確認してくださいまし。もし存命であれば、まず善次郎殿から接触して、異国向け作品の依頼について話し合いをしていただきたいのでございます」

「承知しました。天朝物産会所の御朱印を使った形式で」

「はい。御所御用達の機関が依頼する仕事として、正式な形で」

善次郎が書き取った。

「価格の設定については——最初の一年は実験期間として見てください。異国の商人が何に興味を示すか、どのような作品が売れるか——その情報を収集する期間です」

「横浜の異国商人を通じて売り込む形になりますか」

「まずはそこから。横浜の天朝物産会所の拠点を使います。万次郎殿がメリケンから情報を送ってくれれば、メリケンへの輸出も視野に入ります」

善次郎が頷いた。

「それから——書物の制作については、今すぐは始めません。語学学校の生徒が英語で書ける程になってから着手します。その時に村田殿と相談して制作を始める予定です」

「ではそちらは先の話として、まず浮世絵から動かす、ということですね」

「はい。浮世絵が先で、書物はその後」

「最後に——もう一つ大事なことをお伝えします」

糸子が言った。

「なんでしょう」

「もう少し…の本当の動機について」

善次郎が少し止まった。

「……先ほどの帳面の内容で、一部は理解しました」

「もう少し詳しく話します」

糸子が少し間を置いた。

「わたくしは——」

「はい」

「公家の姫として生まれました。なれど近衛家の家計は慢性的赤字で……」

善次郎が「……そうでしたね」と頷いた。

「屋根は直りました。しかし——」

「はい」

「——をしたい。……でございます」

善次郎が静かに聞いていた。

「計画①が成功して日本が近代化されれば、……はずでございます。なれどそれを確実にするために——もう一つの………を持つことで、その…つまりわたくし……たいのでございます」

「……」

「あと——に言えば」

糸子が少し間を置いた。

「計画が失敗した時のための個人的な逃げ道も、確保しておきたいのでございます」

善次郎が少し微笑んだ。

「それは——賢明なお考えだと思います」

「そうかしら?」

「はい。しかし…」

善次郎が少し真顔になった。

「そのような現実的なお考えを持っておられる姫様が——同時に御門様のために、日本のために、ここまで動いておられる。その両方が同じ一人の方の中にある」

「問題がありましょうや?」

「いいえ」

善次郎が答えた。

「それが、人というものだと私は思います。純粋な志だけで動ける人間は、長続きしないと考えます。姫様のように——志と現実の両方を持つ人物こそが、最も長く確実に動き続けられると思います」

「……善次郎殿は、いつもそのような言い方をしてくれますね」

「どのような言い方でしょうか」

「わたくしの——する言い方でございます」

善次郎が少し考えた後、言った。

「姫様の——が、私には正しく見えるからだと思います」

「……」

「私は日本のためにもなって、自分のためにもなることを選ぶ。それで何が悪いのですか、という姫様の姿勢は——商人として長年やってきた私には、非常に分かりやすい」

糸子が少し笑った。

「善次郎殿は商人でございましたね」

「今もそうです。姫様の下で動いていますが——商人の目で計算しています」

「それで十分でございます」

糸子が言った。

「商人の目で計算した結果として、わたくしに忠誠を誓っていただいているなら——それが一番信頼できまする」

夕方になっていた。

一日がかりの話し合いが、ようやく終わりに近づいていた。

庭の外が橙色に染まっていた。秋の夕日は、夏より早く、低い角度から差し込んでくる。その光が縁側の上に長く伸びて、部屋の中まで入り込んでいた。文机の上の帳面が、その橙色の光を受けて、表紙が暖かい色に染まっていた。

善次郎が帳面を整理していた。

今日の話し合いで書き取ったことを、部門別に分類している。計画①裏の資金管理に関する部分、浮世絵輸出の実務に関する部分、書物制作の将来計画に関する部分——それぞれを丁寧に整理していた。

「善次郎殿」

「はい」

「今日は長い話にお付き合いいただきました」

「いいえ。この日が来るのを——ずっと待っていた気がします」

糸子が少し考えた。

「なぜでございますか」

「全体が見えない状態で動くのは、難しいことです。私は計画の一部しか知らないまま、一部の実務だけをこなしていた。それは正しい行いだとは分かっています。しかし——全体が見えた今は、もっとうまく動けると思います」

「そうでございますね」

「帳面の設計も、資金の流れも、人材の配置も——全部が繋がっていると分かれば、それぞれの判断がより正確になります」

糸子が頷いた。

「善次郎殿が全体を把握してくれれば——わたくしが見落としたことを指摘できる人間が一人できる。それがどれほど大きいか」

「姫様にも見落としがあるのですか」

「当たり前でございます」

糸子がはっきりと言った。

「一人では必ず失敗をします。だから善次郎殿に全体を知ってほしかったのでございます。『この動きは計画②と矛盾しています』と言える人間が、わたくし以外に一人必要でございました」

善次郎が少し間を置いた。

「……重い仕事を賜りました」

「はい」

「しかし——」

善次郎が顔を上げた。夕日の光が横から入り込んで、善次郎の横顔を橙色に照らしていた。

「やりがいのある仕事でもあります」

「そう思ってくれるとありがたくありまする」

「この国の百年先のために動く——その全体を知っている者が、私になった。それは——この上ない光栄です」

糸子が御簾の向こうで、静かに頷いた。

「よろしくお頼み申します」

「喜んで」

善次郎が帳面を閉じた。立ち上がった。

「明日から——帳面の整理を始めます。三段階の管理体制を作ります。一週間以内に、最初の全体確認のための場を設けましょう」

「お願いします」

「浮世絵の件は、来週中に広重殿への接触を試みます。横浜の拠点を通じた輸出経路も同時に確認します」

「よろしくお願いします」

「一つだけ確認させてください」

善次郎が退室する前に言った。

「なんでございましょう」

「姫様が仰った、本当の動機——………の部分は、誰にも言いません」

「……はい」

「ただし」

善次郎が少し笑った。

「その動機が実現できるよう、私が確実に……流れを作りましょう。もう一つの…が成功すれば——………は、十分に実現できます」

糸子が少し間を置いた。

「……それは楽しみでございます」

「では」

善次郎が深く礼をした。

「姫様、本日は誠にありがとうございました」

廊下に出た足音が、静かに遠ざかった。

部屋に静けさが戻った。

夕日がさらに低くなって、庭の松の影が長く伸びていた。池の水面が橙色に染まって、静かに光っていた。秋の夕暮れが、一橋上屋敷の庭に静かに降りてきていた。

十一

糸子が一人になった。

文机の上に、二冊の帳面が並んでいた。一冊目と、黒い表紙の帳面。

糸子は両方を見た。

(共犯者ができた)

そう思った。

村田は学校を動かす。勝は人脈を動かす。松屋善兵衛は商家を動かす。龍馬は人材を集める。中岡は情報を整理する。岩崎は商売を学んでいる。善次郎は——全体を把握して、管理する。

全部が、一本の線の上にある。

しかし今日まで、その線の全体を見ていたのは糸子だけだった。今日から——善次郎も、その線の全体を知っている。

(少し、楽になった)

糸子は思った。

一人で全てを抱えていることの重さが、少し軽くなった気がした。

「葵」

「はい」

「宇治のお茶を淹れてくださいませ」

「はい、ただいま」

葵が退室した。

糸子が帳面を引き出しに戻した。鍵をかけた。

一冊目の帳面だけが、机の上に残った。

「やることが多いですね」

糸子が呟いた。

しかし——その言葉に、いつもよりわずかに軽さがあった。

葵がお茶を持って戻ってきた。

宇治の濃い緑の香りが、部屋の中に広がった。

糸子が茶碗を両手で持って、一口飲んだ。

秋の夕暮れに、宇治の茶の深い香りがよく合った。

「……おいしいですね」

糸子が言った。

「はい、姫君様」

葵が微笑んで答えた。

庭の外で、秋の風が一度だけ吹いた。

池の水面が小さく揺れて、橙色の光が細かく砕けた。

それからまた、静かになった。

第六十九話 了