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作品タイトル不明

第六十五話「計画図の全貌」

万延元年、夏。

江戸の夏の盛りは、容赦がなかった。

一橋上屋敷の庭では、松の葉が朝の光の中で白く輝いていた。池の水面が熱気を受けて、午前中からもう揺れている。石畳に打った朝の水は、太陽が中天に近づく頃にはもうとっくに乾いていた。蝉の声が、庭の四方から絶え間なく響いていた。

その上屋敷の奥御殿の一室に、一人の男が通された。

村田蔵六だった。

四十歳手前の男だ。体格は中程度だが、密度がある。無駄のない動きをする身体だ。着物は質素で、羽織も格式よりも実用を選んだものだった。顔立ちは端正というより実直という言葉が合う。目が鋭い——物事を見る時に感情を挟まない目だ。蘭学者として長年、西洋の書物と向き合ってきた人間の目だ。

村田が座敷に通されて正座した。周囲を素早く見渡した。

部屋の造りを確認している。窓の位置、出入り口の数、御簾の配置——これは習慣だ。どんな場所に入っても、まず構造を把握する。蘭学者として、あるいは後に軍制設計者として培われた習慣だった。

御簾が引かれていた。

その向こうに気配がある。糸子だ。

数日前に使者が来た。「大切なご相談があります、お会いしたいのです」という内容だった。

村田は少し考えた。

英語の授業を終えた時——「これ以上は実際の交渉でしか学べないことだから」と告げた日——村田はこの姫君との縁が一段落したと思っていた。授業者としての役目は終わった。後は糸子が自分で動く。そういう人間だということは、村田は知っていた。

しかし——使者が来た。

(あの姫様が、また何かを始めるのだろう)

その予感は、村田の中で「楽しみだ」という形を取っていた。それが村田自身も少し意外だった。合理的な人間として知られる村田だが、この姫君に対しては——少し違う感情が動く。

「村田殿、本日はお越しいただきかたじけなく存じます」

御簾の向こうから、声がした。

「いえ、お呼びいただけたことが光栄でございます」

「久々にお顔を拝見できて嬉しゅうございます」

「同じく。姫様はご壮健のご様子で何より」

「おかげさまで。村田殿もお変わりなく」

「はい。相変わらず書物と格闘しております」

糸子が少し笑った気配がした。

「それが村田殿らしい」

「私にはそれしかできませんもので」

「そのようなことはございません。今日のご相談は——まさにその村田殿にしかできないことについてでございます」

村田が姿勢を少し正した。

「まず——一冊の帳面をお見せしたいのでございます」

糸子が葵に声をかけた。葵が静かに立って、帳面を持って障子を開けた。村田の前に丁寧に置く。

一冊目の帳面だ。

「手に取ってご覧くださいまし」

村田が帳面を取った。表紙を見た。特別な装丁ではない。普通の帳面だ。しかし開いた瞬間、村田の動きが変わった。

読み始めた。

最初の頁。

【計画①】無血近代化計画

目標:内戦なき日本の近代国家建設

期間:約十年

村田の目が止まった。

無血——。

次の頁。段階の構成が書かれていた。

基盤固めと人材確保(三年)。制度設計と試験運用(四年)。移行の実行(三年)。

読み進めた。段階一の詳細だ。後継者問題の決着。堀田との役割分担。そして——

「村田蔵六の活用:軍制改革の設計」

という項目が出てきた。

村田が顔を上げた。御簾を見た。

「……わたしの名前が」

「はい」

「この計画の中に」

「はい」

「いつからわたしはこの計画の中に」

「最初から、でございます」

村田が少し固まった。

それから再び帳面に目を戻した。

次の頁へ。次の頁へ。三つの事業名が書かれた頁に来た。

・天朝御用商務惣会所

・天朝物産会所附属・商務語学所

・天朝物産会所の海外向け商品開発販売

「……商売と学校から始めるのですか」

村田が呟いた。

「はい」

「なぜですか」

「お金がなければ何もできませぬ。人材がなければ金も動かせませぬ。だから——」

「金と人材を先に作る、と」

「はい。この三つが近代化の土台になりまする」

村田がしばらく黙った。帳面をもう一度読んだ。ゆっくりと時間をかけて。計画の構成を自分の頭で追いながら読んでいた。

蘭学者として培った読み方だ。書かれた文字を表面的に理解するのではなく——論理の構造を把握しながら読む。どこに根拠があって、どこに飛躍があるか。どこが堅固で、どこが脆弱か。

読み終えた。

村田が顔を上げた。

「一つだけ聞いてよろしいですか?、姫様」

「なんでございましょう」

「この企ては——誰が書いたのでありましょう?」

「わたくしでございます」

「え、姫様が?」

「はい、一ヶ月間篭もって、ものすごーく頑張りました」

村田が少し間を置いた。

「……これだけのものを、たった一ヶ月で?」

「はい」

また間を置いた。

それから——村田の表情が、珍しく動いた。この男はあまり表情を動かさない。しかし今は——額に手を当てて、少し笑い声が出た。

「これは参りましたな」

額に汗が出ていた。村田が汗をかくのは珍しい。

「これほど見事な企てを、このような具体性をもって考えられる人物が——今の日本に何人おりましょうか」

「……」

「私では無理ですな」

村田が率直に言った。

「ここまで読んで、納得できてしまう。飛躍がない。根拠が一つ一つ繋がっている。それをわずか一ヶ月で完成させてしまうとは……」

「姫様は末恐ろしい御方でございますな」

頭を掻いた。また笑い声が漏れた。

「姫君様の英語習得のご準備にも驚かされましたが——此度はそれ以上です。あなた様はわたしの予想を軽々と飛び越えていかれますな」

「すごく頑張りました、と申し上げました」

「そうですな。しかし——普通は頑張ったからと言って、ここまでの企てを考えられるものではありませぬよ」

「姫様は本当にすごい御方だ……」

御簾の向こうで、糸子は表情を見せなかった。しかし心の中では——猛烈に居心地が悪かった。

(ものすごい罪悪感が……単に転生の知識を使って整理しただけなのに……穴があったら本気で入って籠りたい……ほんとにスミマセン、なんかすみません……)

顔が赤くなりそうだった。葵に気づかれないよう、糸子はわずかに顔を背けた。

「村田殿」

「はい」

「過分なお言葉はそのくらいにしてくださいまし。お恥ずかしゅうございます」

「照れていらっしゃるのですか」

「……はい」

「正直なお方だ」

村田がまた笑った。

「しかし」

笑いが収まって、村田が真顔に戻った。蘭学者の目に戻った。

「この計画を実行するには——人材が圧倒的に足りないのでは?」

「おっしゃる通りでございます」

糸子が答えた。

「だからこそ、今日は村田殿にお願いがあってお呼びしたのです」

「私に、ですか」

「はい。まずご報告ですが——この計画はすでに勝海舟殿にお話しさせていただいております。計画①の三つの事業について概要をご覧いただき、ご協力を確約いただきました。今は一橋慶喜殿の周辺への種蒔きを中心に動いていただいております」

「ほう——勝殿に」

村田の目が少し動いた。

勝海舟という名前を聞いた時の、村田の反応は複雑だ。長崎での出会いを思い出した。安政年間のことだ。海軍伝習所で——あの豪快な男と酒を飲んだことがあった。

「勝殿と私は、長崎で面識がありましてな」

「存じております」

糸子が言った。村田が少し驚いた顔をした。

「私のことを調べておられるのですか」

「調べているというより——村田殿のことは前からよく存じておりました。英語の授業を始める前から」

「前から?」

「はい」

村田が少し考えた。

「……姫様は——人を見る目が、普通の方とは違いますな」

「そうでありましょうか」

「勝殿と私は——性格的には合わない部分がある」

「存じております」

「あの方は話しすぎる。私は話さない」

「そうでございますね」

「それでも——勝殿の能力は、私は認めております」

「村田殿も勝殿もそれぞれの場所で、それぞれの役割を担っていただくことになりましょう」

村田が少し頷いた。

「その役割——私のものは何でございますか」

糸子が少し間を置いた。

それから、静かに、明確に言った。

「二つございます」

「はい」

「一つ目——天朝物産会所附属・商務語学所の設立にご協力いただきたいのです」

「語学学校?」

「ただの語学学校ではございません」

糸子が続けた。

「村田殿に学長と教師の役を担っていただき、必要な人材を集めていただきたい。また——この学校で使う教科書の作成にも力を貸してほしいのでございます」

村田が帳面の中の学校の計画図を開いた。

読んだ。

教育課程。科目。模擬商談。実地研修。卒業課題——全部が書かれていた。

「……英語・算術・商品知識・交渉術」

村田が科目名を読み上げた。

「はい」

「交渉術を科目として教える、というのは——面白い発想ですな」

「村田殿との数年間の授業で、わたくしが学んだことの中に——交渉の論理がありました。これを体系化して、次の世代に伝えたいのでございます」

村田が少し止まった。

(私との授業の中で体系化した——それを次の世代に渡す。つまりこの学校は「姫様の知識を制度化する装置」だ)

「身分を問わない選考基準——これも書いてありますな」

「はい。武士・商人・農民の子弟を問わず、能力と志がある者を選びまする」

「それは——この時代、かなり大胆な選択でございますな」

「大胆でなければ、この時代は変えられませぬ」

村田が帳面を置いた。

「二つ目は何でしょうか」

糸子が少し間を置いた。

「二つ目は——将来の話です」

「将来、というのは」

「計画①の中に——『朝廷直属の近代軍』の設計、という項目がございます。お読みになりましたか」

「読みました」

「その設計図を——村田殿に作っていただきたいのです」

村田が静かになった。

「蘭学の知識を活かして、西洋各国の軍制を比較分析していただく。日本の実情に合った段階的な軍制近代化案を文書化していただく。その文書が——将来の御親兵設置の理論的な根拠になりましょう」

「御親兵……」

村田が呟いた。

朝廷直属の軍——それは今の日本にはない組織だ。幕府は幕府の軍を持つ。各藩は各藩の軍を持つ。しかし朝廷が独自に動かせる軍事力は、実質的に存在しない。

それを作る——その設計図を、自分が描く。

「これは今すぐ動く話ではありませぬ。設計図を作る段階です。しかし——設計図なしには実行もできませぬ。だから今から準備を始めておく必要があるのでございます」

「……なるほど」

村田の目が、何かを計算し始めた。蘭学者の目だ。西洋各国の軍制——プロイセン、フランス、イギリス、そしてアメリカ。それぞれの強みと弱みを比較分析する。日本の地形・人口・財政規模に合わせて修正する。段階的な移行案を設計する——それは、まさに村田の得意分野だ。

「……時間がかかるお役目ですな」

「はい。多分——村田殿の人生の全てを使って成し遂げなければならない事業になりましょう」

村田が少し止まった。

「村田殿のこれからの人生を——御門様のため、日本のため、わたくしのこの企てのために、どうかお使いいただけませぬか」

糸子が言った。

次の言葉が来る前に——御簾の向こうで動く気配があった。

葵が驚いた顔で御簾の向こうを見た。小夜も動いた。

糸子が——頭を下げていた。

御簾越しにも、その動きは分かった。公家の姫君が、頭を下げている。

「お頼み申し上げまする」

その声が、少し震えていた。

村田が立った。

正座から立って、その場で膝をついた。

「姫様」

「はい」

「どうかおやめくださいませ」

村田の声は、普段より少し低かった。合理的な蘭学者の声ではなく——一人の人間の声だった。

「あなた様はむやみに人に頭を下げてはならぬ御方でございます。近衛家の姫君様が——私のような者に頭を下げてはなりませぬ」

「村田殿……」

「この村田、姫様のお申し出ならば——喜んで力の全てをお貸しいたします」

村田が深く礼をした。

「私はいつでも姫様の味方でございますよ」

その言葉が、座敷の中に静かに広がった。

葵が目を伏せた。その目が少し潤んでいた。

御簾の向こうで、糸子が顔を上げた。

「かたじけのう存じます、村田殿……」

その声が——少し震えていた。

糸子は意識的に感情を表に出さない。それは公家の姫君としての礼法でもあり、交渉者としての習慣でもある。しかし今は——少し隙間が空いた。

目が潤んでいた。

葵が気づいた。しかし何も言わなかった。侍女として、この瞬間は静かにしていることが最善だと分かっていた。

「これから忙しくなりますな」

村田が言った。その声には、今度は笑いが混じっていた。

「また姫様とご一緒できるとは——本望にございますよ」

「はい」

糸子が答えた。少しだけ、声が明るくなった。

「どうぞよしなに、お頼み申します」

「承知いたしました」

村田が再び礼をした。

糸子も御簾の向こうで、深く頭を下げた。

それから少しの間——二人の間に、静かな時間があった。

庭の蝉が鳴いていた。夏の盛りの蝉だ。その声が、座敷の外で続いていた。

「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」

村田が言った。

「なんでしょう」

「この学校の教科書——具体的にはどのような内容を考えておられますか」

糸子が少し考えてから答えた。

「主にわたくしの知識の言語化にございます。また誰が見ても理解できるように致しまする」

「姫様の知識…であるますか?」

「はい」

「まだ仮ではありますが、三つの柱がありましょう。一つ目は英語の実務教育です。学問のための英語ではなく、商談の定型表現、数字と価格の英語、契約書の基本用語——実際の取引で使う英語でございます」

「なるほど」

「模擬商談を授業の中心に据えます。村田殿が私に行ってくださったように——先生が外国商人を演じ、生徒が交渉する。失敗を繰り返しながら学ぶ形です。あとは交渉術における技術でございます。こちらはわたくしの知識がもとになりましょう」

村田が少し懐かしそうな顔をした。

「あの模擬交渉を——再現するわけですな」

「はい。村田殿がハリスを演じてくださった、あの形です」

「……あれは、今思えば相当特殊な授業でしたな」

「おかげで本番でも動じませんでした」

「それは姫様の素質でございますよ」

「いいえ、村田殿の教え方のおかげでございます。おかげで沈黙の使い方も、相手の言葉の裏の読み方も——体に入りました」

村田が少し目を細めた。

教師として——自分の教えが確かな形で弟子に定着している。それを確認する時の、静かな満足感があった。

「二つ目の柱は」

「複式簿記と財務管理の基礎でございます。貸方・借方の概念を『入方・出方』として教えます」

「……それを学べば」

「藩の勘定方や商家の番頭として即戦力になれましょう。学校の卒業生が実際に使える人材として各商家に就職できれば——出資者も増えましょう」

「資金調達と教育の質向上が連動する仕組み、ですな」

「はい。三つ目は交渉術です。これが最も重要かもしれません」

「交渉術を——体系化して教える」

「沈黙を使う技術。相手が本当に欲しているものを読む方法。断られた後の再提案の組み立て方。譲歩の設計——何を先に譲り、何を最後まで守るか」

「あとはわたくしの知識を元にした交渉における技術になりまする」

村田が少し考えた。

「これは——書物から学べるものではない」

しかし糸子の言い方にそれ以上の何かがることを感じていた。

「はい」

「姫様が実際の…ハリス殿の交渉で使ってきた技術を、言語化して教えるわけですね」

「そうでございます。村田殿が教えてくださった英語の授業が——英語という言語を超えて、論理の組み立て方を教えてくださったように。この学校の交渉術の授業も——商談という実務を超えて、人と対話する力を育てたいのです」

村田がしばらく黙った。

「……姫様は」

「はい」

「この学校を通じて何を作ろうとしているか——分かりました」

「なんでしょうか」

「次の世代の姫君様です」

糸子が少し止まった。

村田が続けた。

「一人の天才が動かせる範囲には限りがあります。しかし——その天才の思考法・交渉術・市場を読む目を制度化して次の世代に渡せれば、動かせる範囲は格段に広がる。この学校はそのための装置でございましょう」

糸子が御簾の中で、わずかに笑った。

「村田殿は鋭うございますね」

「蘭学者の仕事は、書かれていないことを読むことでございます」

「学校の計画で——村田殿にまず動いていただきたいことがございます」

糸子が話を進めた。

「教育課程の骨格は既に私が考えました。しかし教科書の内容は——私一人では作れません」

「どの部分ですか」

「英語の教科書は——私が内容の方向性を示します。村田殿には、それを英語の実情に合わせて修正していただきたいのでございます。私が知っている英語と、今の横浜・長崎で実際に使われている英語には、若干の差がございます」

「……なるほど?、その若干の差異がいかなるものかは存じませぬが…分かりました」

「算術・簿記の教科書は——村田殿の蘭学の知識を活かしていただけましょうか。オランダの商業書から転用できる部分があるかと存じます」

「複式簿記はオランダの商人が体系化した仕組みですからな。原典があります」

「そうです。その原典を——この時代の日本の商人が理解できる言葉に翻訳していただきたいのです」

「交渉術の教科書は」

「これは私が書きます。村田殿との授業の記録と、ハリスとの交渉の経験を合わせて——体系的な形にします。村田殿には内容の論理的な整合性を確認していただけますか」

村田が頷いた。

「承知しました。それ以外に、私にできることは」

「人材でございます」

「やはり」

「この学校を動かすには、教師が必要です。英語を教えられる者、算術を教えられる者——村田殿のお知り合いの中に、適任の方はおられますか」

村田が少し考えた。

「長崎で英語を学んだ者を何人か知っています。外国商人との接触経験がある者、幕府の通訳として働いている者——紹介できる者はいます」

「それは心強い」

「ただし」

村田が少し真顔になった。

「一つ条件を言ってもよろしいですか」

「なんでしょう」

「優秀な者を集めようとすれば——給金が必要です。志だけでは人は動かない。少なくとも当初は、適切な給金を保証しなければ、優秀な人材は来ません」

「その通りでございます」

糸子が答えた。

「商家からの出資を資金源にする設計が帳面にあったかと存じます。その仕組みを、まず江戸から動かします。松屋善兵衛殿が惣会所の総差配役として動き始めておりますので——学校への出資も松屋殿の天朝御用商務江戸惣会所を通じて集めまする」

村田が帳面の出資の段階設計の頁を見た。

「通訳の優先派遣権を特典にする、という設計ですな」

「はい。今の江戸で英語の通訳は深刻に不足しておりまする。出資額に応じて通訳を優先的に使える権利は——商家にとって非常に魅力的な条件になりましょう」

「……なるほど。学校の外部から商家を引きつけ、その出資で学校を動かし、学校の卒業生が商家に就職する」

「はい。循環する仕組みでございます」

村田が少し頷いた。

「学校と商家連合体が——互いを強化する設計になっているわけですな」

「そうでございます。学校が人材を作り、惣会所がその人材と資金と情報を集める場所になる。その中心に天朝物産会所がある——この循環が一度動き始めれば、止める者はいなくなりましょう」

村田が帳面を閉じた。

「……理解しました」

「では」

「はい、引き受けます。学校の学長と教師の確保、教科書の作成——全力で取り組みます」

「ありがたく存じます」

「それから——二つ目の件についても、少し話しておきたいことがございます」

糸子が言った。

「軍制の設計図、でございますね」

「はい。今すぐ動く話ではありません。しかし村田殿には——今から少しずつ、資料を集めてほしいのでございます」

「どのような資料ですか」

「西洋各国の軍制の詳細です。プロイセン、フランス、イギリス——それぞれの陸軍・海軍の組織編成、徴兵の仕組み、指揮系統の構造。村田殿の蘭学の知識と人脈を使えば、幕府の軍事情報より詳しいものが集まりましょう」

村田が少し考えた。

「宇和島藩と長崎の繋がりを使えば——オランダ経由の最新軍事情報を入手できます。幕府の海軍伝習所の記録も、知り合いを通じて見られる部分があります」

「それを整理して——日本の実情に合わせた案を文書化していただきたいのです」

「日本の実情、というのは」

「地形、人口、財政規模、現在の各藩の軍事力——これらを前提として、どのような段階で近代軍を整備できるか。その道筋を示してほしいのでございます」

村田が少しの間、何も言わなかった。

座敷の外で、蝉の声が続いていた。

「……なぜ『朝廷直属』の軍なのですか」

村田が聞いた。

それは技術的な質問ではなかった。政治的な問いだった。蘭学者として——この問いを持つことは自然だった。

「各藩の軍はある。幕府の軍もある。しかし朝廷には軍がない。その状態が続く限り——朝廷の権威は、最終的には『言葉』だけしかで成り立ちませぬ」

「はい」

「言葉には限界がありまする。何か決断が迫られた時、最後には力が必要になりましょう。朝廷がその力を持たなければ——いくら御門様のご威光があっても、実際の動きを保証できませぬ」

村田が静かに頷いた。

「朝廷が独自の軍を持つことは——政治的に非常に敏感な問題ですな」

「はい。だから——今はまだ『設計図を作る段階』でしかないのです。実行できる時が来るまで、文書として準備しておく。その準備を村田殿にお願いしたいのでございます」

村田が帳面の軍制設計の頁を、もう一度見た。

御親兵設置の構想。朝廷直轄の軍事力。各藩の蒸気船を朝廷に集める。徴兵制の早期検討——。

「……これは」

村田が呟いた。

「これは——大変な事業ですな」

「はい」

「私の人生の全てを使う、とおっしゃいましたが——それは正確な見積もりかもしれません」

「村田殿なら、できると思っておりまする」

「根拠はなんでしょうか」

「村田殿は——正しいことを正確にやる御方だからでございます」

村田が少し止まった。

「それだけですか」

「それだけで十分でございます。正しいことを正確にやれる人物が——この国には足りませぬ。だから村田殿でなければならないのでございます」

村田が深く息を吐いた。

「……分かりました」

その言葉は短かったが、重かった。

「ところで——勝殿とはうまくやっていけますかな」

村田が、少し照れ隠しのように言った。

糸子が少し笑った。

「心配でございますか」

「あの御仁は——合理的ではないことを平気で言う御仁でございますから」

「勝殿は感覚で動く御方です。村田殿は論理で動く御方です。しかし——二人が目指す方向は同じでございます。細部では揉めることがあっても、大局では一致するはずでございます」

「……姫様が保証されるならば、信用しましょう」

「そのような大きな保証はできませぬが…」

糸子が笑った。

「ただ——勝殿が村田殿のことを『なかなかできる男だ』と申していたことは、お伝えしておきます」

村田が少し驚いた顔をした。

「……あの人がそのようなことを?」

「はい」

「……まあ」

村田が少し複雑な顔をした。

「勝殿が認めているなら——まあ、それなりに信用できましょうか」

「お互いに認め合っているのに、性格が合わないというのは——よくあることでございますね」

「よくありますな」

村田が少し笑った。

「姫様と数年間過ごさせていただき——姫様のことは私なりに理解したと思っておりましたが、やはりまだ驚かされますな」

「これからもっと驚かせてしまうかもしれません」

「それは——楽しみにしております」

村田が言った。

その言葉に、嘘はなかった。

「最後に——一つだけ申し上げておきたいことがございます」

糸子が言った。

「なんでしょう」

「この計画について——全てを一人に教えることはしておりません。各人が担当する部分を確実にやり遂げられるよう設計しております。村田殿にお話ししている内容も——全体の中の一部でございます」

村田が少し考えた。

「つまり——私が知っていることが全てではない、ということですな」

「はい」

「なぜそういう考案にするのですか」

「二つ理由があります。一つは——全部を知ることが、必ずしも各人の仕事を良くするわけではないからです。それぞれの得意分野に特化していただく方が、全体として良い結果が出ましょう」

「もう一つは」

「万が一の時のためにございます」

村田が少し真顔になった。

「……情報が漏れた時の万一管理、ですな」

「はい。全体の設計図を知っている者が少ないほど、計画全体が露見する万一は下がります」

村田が頷いた。

「それは軍事の原則と同じです。全体の作戦を知っているのは指揮官だけで良い。各部隊は自分の任務を知っていれば十分だ」

「そうでございます。村田殿は軍制の言葉でお分かりになりますね」

「分かりすぎるほどに」

村田が少し苦笑した。

「これは大変な指揮官のもとに配属されたものですな」

「ご迷惑でございましょうか」

「いいえ」

村田が即座に答えた。

「これだけの計画を持つ指揮官のもとで動けることは——蘭学者として、これ以上はない仕事でございます」

「ありがたく存じます」

「姫様」

「はい」

「一つだけ、私からのお願いがありまする」

「なんでございましょう」

「学校の教科書を作る過程で——姫様に何度かご意見をいただきたいのです。内容の確認と修正を、定期的にしていただけますか」

「もちろんでございます」

「それだけで十分です」

村田が立ち上がった。礼をした。

「では——早速動き始めます。まず長崎の知り合いに手紙を出します。それから——勝殿にも連絡を取りましょうか。性格は合わなくても、仕事の上では協力できるはずです」

「よろしくお頼み申します」

「はい」

村田が退室した。

廊下を歩く足音が、やがて遠くなった。

座敷に静けさが戻った。

十一

葵が茶を持ってきた。

「姫君様、お顔の色がよろしゅうございます」

「そうでしょうか」

「はい。村田様がいらっしゃる前とは——少し違います」

糸子が少し考えた。

「村田殿は——信頼できる御方です」

「はい。英語の授業の時から、よく存じております」

「今日、改めて分かりました」

糸子が茶を一口飲んだ。

夏の江戸の茶は、いつもより少し苦い。暑さの中では、苦みが体に染み渡る。

「葵」

「はい」

「今日から、学校の企てが本格的に動き始めまする」

「はい」

「忙しくなりますが——よろしくお頼みします」

「はい、姫君様」

葵が深く礼をした。

糸子が帳面を開いた。

今日やったこと——村田蔵六に語学学校の学長と教師確保を依頼、軍制設計の準備を依頼、勝との連携を取り決め——を書き出した。

それから、次の頁に書いた。

「村田蔵六——学校を動かす。勝海舟——人脈を動かす。松屋善兵衛——商家を動かす。龍馬——情報と人材を動かす」

「そして——」

糸子がもう一行書いた。

「御門様——全ての後ろ盾として」

帳面を閉じた。

庭の蝉の声が続いていた。夏の江戸の蝉は、声が太い。盛りの声だ。

糸子が窓の外を見た。

江戸の空は今日も広い。雲が少なく、青が深かった。その空を——一羽の鳥が横切っていった。迷いなく、どこかへ向かって飛んでいった。

「全部、つながっている」

糸子が小さく言った。

学校が人材を作る。惣会所がその人材と資金と情報を集める。勝が後継者問題の種を蒔く。村田が軍制の設計図を準備する。龍馬が各地に情報を広める——全部が、一本の線の上にある。

「この国の百年先」

糸子が呟いた。

その言葉が、今日も糸子の中に確かにあった。

相互主義。対等な関係。この国の百年先——迷った時に戻る三つの言葉。

この三つを忘れない限り、言葉は出てくる。計画は動く。人は集まる。

糸子が立ち上がった。縁側の外に出た。

夏の光が庭に満ちていた。松の葉が光を受けてきらきらと輝き、池の水面が金色に揺れている。

糸子は思った。

商売を始め、商売が御所との信頼を生み、信頼が英語を学ぶ機会を生み、英語が交渉を可能にし、交渉が計画①を生んだ。計画①が惣会所を生み、惣会所が学校を必要とし、学校が村田を必要とした——全部が繋がっている。

(まだ途中だ)

しかし——確かに動いている。

糸子が縁側に立って、江戸の夏の空を見上げた。

広い空だった。

この空の下に——動き始めた計画がある。まだ見えない人たちの命がある。百年後の日本がある。

「できると思っています」

糸子が小さく言った。

その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

しかし確かな言葉だった。

夏の光の中で、近衛糸子はそこに立っていた。

第六十五話 了