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作品タイトル不明

第六十一話「絵図を持つ者①」

万延元年、夏の盛り。

御所の朝は、特別な静けさを持っていた。

板塀に囲まれた広大な敷地の中に、世の喧噪は届かない。京都の町屋の声も、商人の売り声も、武家屋敷の馬蹄の音も——全て、この高い塀の外に置き去りにされる。御所の中に流れる時間だけが、別の速さで動いている。

朝の光が、回廊の格子窓を斜めに通り抜けていた。磨き抜かれた板張りの廊下に、格子の影が細い縞模様を作っている。

その縞模様が朝の空気の中で静止して、まるで絵のようだった。廊下の端には几帳が立てられ、その向こうの庭から松の香りが微かに漂ってくる。どこかで鳥が鳴いた。御所の庭に住む鳥は、世の中の鳴き声を知らない。ただ、この静かな空間の空気の振動だけを音にして、鳴く。

孝明天皇——御門様——は、御内裏の奥の間に座しておられた。

白い装束が、朝の光の中で静かに輝いている。二十代後半の御年だが、その面には若さよりも深みが勝っていた。長年にわたって国事を憂い、幕府の専横に憤り、そして「何もできない」という無力感の中で生き続けてきた——その重さが、御顔の奥に静かに宿っていた。

御手の中に、書状があった。

天朝物産会所の経路で届いた、糸子からの奏上書だ。

御門様はそれを、今日で三度目に読んでいた。

最初に読んだのは昨夜だった。読み終えて、すぐには何も言わなかった。側近の者も声をかけることができなかった。

御門様が書状を持ったまま、ただ静かに座しておられた。その沈黙の重さが、周囲を固まらせた。

二度目は今朝の夜明け前だった。まだ暗い中で行灯を手元に引き寄せて、一字一字を確かめるように読んだ。

そして今、三度目だ。

奏上書の文字が、朝の光の中で鮮明に見えた。

『奏上 ハリス等異国応接並びに国内経綸の儀』

御門様は最初の一行から読み始めた。

糸子の文字は、公家の姫君としての格式を持ちながら、どこか実直な性格が滲み出ている字だ。装飾的ではない。要点が整理された、読む者に負担をかけない文章だ。

『今般、米利堅使節ハリスとの条約細則談判、滞りなく相済み、その次第左の通りに御座候。』

御門様の御目が、次の条へと移った。

『一、条約改正並びに交換比率の事

此度の談判に際し、将来の条約改正を明文化せしめ、且つ金銀交換比率を市場の真価に拠るべき旨、確約を勝ち得候。これ偏に 聖慮(せいりょ) の賜物にして、皇国の独立を万世に保つべき「出口」を設けたるものと確信いたし候。また、我が国使節の米州駐在権をも認めさせ、対等の理を立て候。』

「出口を設けた」という一文で、御門様の御手が微かに止まった。

異国との条約に——将来、日本が修正を求められる余地を設けた。それが何を意味するか、御門様には分かった。不平等な条約のまま固定されるのではなく、いつか対等な条件に戻せる道筋を、糸子は交渉の場で確保した。

朕が最も恐れていたことの一つだった。条約が永遠に固定されること。それを——糸子は「出口」という二文字で表した。

次の条。

『 一、異国応接の展望の事

ハリス帰国の後、必ずや新たなる使節の来航あらん。その折も、 叡慮(えいりょ) を以て異国を心服せしめるべく、不断の準備を怠らぬ決意に御座候。』

御門様が少し間を置いた。

「叡慮を以て異国を心服せしめる」——この一文が、単なる礼辞でないことは分かる。糸子の言葉は、いつも具体的だ。「朝廷の権威によって外国を動かす」ということの実践を、糸子はハリスとの交渉で既に示している。

次の条に御目が移ると——御門様の御手が、今度ははっきりと止まった。

『一、継嗣問題並びに人心の事

国内の世継ぎ問題、再び 喧(かまびす) しく相成り候。私見ながら、一橋慶喜公こそは英明にして、焦眉の急を救うべき御仁と存じ奉り候。詳細は追って拝謁の折、言上仕るべく候。』

後継者問題。

糸子が「一橋慶喜公」の名を書いてきた。

御門様はその名前を見て、少し考えた。一橋慶喜——水戸徳川家の出身で、学識があり、政務に明るい。御門様は慶喜という人物を、遠くから見知っていた。聡明だという評判は朝廷にも届いている。しかし「なぜ慶喜か」という理由を、糸子は「詳細は追って」と書いた。今は名前だけを届けた——それは意図的な選択だ、と御門様には分かった。

全部を一度に書かない。段階的に見せる。糸子らしい。

そして最後の条。

『一、商法並びに教導の事

皇国の国力を培い、外敵を圧せんがため、以下の事業を興したき由、伏して 御差許(おさしゆる) し願い上げ候。

一、商家連合体の組織

一、語学並びに商業学校の設立

一、国産品の海外輸出

これら皆、富国強兵の 基(もとい) に御座候。何卒、 鳳輦(ほうれん) の後ろ盾を賜りたく、 恐惶謹言(きょうこうきんげん) 。

安政七年 庚申三月

天朝外語御用掛 近衛 糸子

御門 震襟に達せんことを』

御門様が書状を膝の上に置いた。

しばらく動かなかった。

廊下の外で、鳥がまた鳴いた。今度は遠かった。御所の庭の奥の方から、細く高い声が届いてきた。

御門様が静かに呟いた。

「……九歳で商いを始め、英語を学び、江戸まで赴いてメリケンの使者と渡り合い——そして今度は、商家連合と学校と海外輸出か」

側近の者が平伏したまま、何も言わなかった。

「朕は異国が嫌いだ」

御門様が言った。その声は静かで、感情的ではなかった。

「今もそれは変わらぬ。外国の文物が日本に流れ込むことへの懸念も変わらぬ」

「……なれど」

御門様が窓の外の庭を見た。朝の光の中で、松の葉が微かに揺れていた。

「糸子は朕との約束を守った。でき得る範囲で、最大限に」

その言葉に、側近の者の息が微かに変わった。

「朕は糸子を信じる。この三年でそれを決めた」

御門様が書状を再び手に取った。

「……後ろ盾を与えよう」

小さく、しかし明確に言った。

「糸子が求めるものを、朕の力の及ぶ限りで支える」

庭の松が、また風に揺れた。

翌日の朝、近衛忠房が参内した。

御所の廊下は長い。磨き上げられた板張りが続き、几帳や衝立が廊下の両側を飾っている。その廊下を、忠房は慎重な足取りで歩いた。

懐に、宸翰を納めた桐の小箱を抱えていた。御門様からの宸翰——糸子への返事だ。それをこの手で受け取り、確かに糸子に届ける。それが今日の役目だった。

御前に通された。

深く平伏する。

「忠房、参れ」

「はっ」

「糸子への書状だ。糸子には励めと伝えよ」

御門様の声は穏やかだった。しかしその穏やかさの中に、何か決意のようなものが含まれていた、と忠房は感じた。

「はっ、御門様からの宸翰とお言葉、しかとお伝え致しまする」

「近衛家の、朕に寄する忠義、殊勝に思い召す」

忠房の頭が、さらに深く下がった。

「誠にありがたく、深謝の至りに存じます」

御門様がそれ以上何も言わなかった。

その沈黙が——何より重かった。

御門様が沈黙される時、それは言葉よりも深いものを持っておられる時だ、と忠房は長年の参内で知っていた。言葉にならない信頼が、その沈黙の中にある。

忠房は深く、深く平伏した。

一橋上屋敷の上段の間。

江戸の夏の朝は、京とは違う明るさを持っていた。江戸の光は直接的だ。遮るものが少ない分、光が真っすぐに入り込んでくる。上段の間の障子紙が白く輝いて、その光が畳の上に広がっていた。欄間の彫刻が光を受けて、細かい影を天井の隅に作っている。

床の間には掛け軸が一幅。山水の絵だ。遠くに霞む山と、その麓に流れる川——静謐な景色が、この部屋の緊張した空気とは少し違う時間を作っていた。

御簾が引かれていた。

その向こうに、糸子がいた。

今日は、前もって連絡のあった訪問だった。訪問者の名前を聞いた時、糸子は少し考えてから「上段の間にご案内してください」と葵に指示した。対等に、しかし礼を尽くして迎える。その形が、この訪問者には最も適切だと判断した。

勝海舟が来た。

案内の若侍の後に続いて、上段の間に入ってきた勝は——相変わらずの着流しに羽織だった。幕府の重臣と言える立場の人間が、これほど気取らない格好で歩く。それが勝という人物の在り方だ、と糸子は知っていた。

しかしその着流しの中で、勝の目だけは別だった。鋭く、素早く、部屋の中の全てを一瞬で見渡す目。御簾の位置、侍女の配置、床の間の掛け軸——全部を見て、整理して、状況を掴む。

「近衛様、本日はお時間をいただきありがとうございます」

勝が座って、一礼した。その礼は格式通りで、しかし硬くなかった。

「ようこそお運びくださいました。かたじけなく存じます、勝殿」

御簾の向こうから、糸子の声が返った。

「今日は少し真面目な話をしにきましたぜ」

「いと珍しきこともあるものにございます。勝殿が左様に折り目正しきことをお口になさるとは」

御簾の向こうで、糸子が少し笑った気配がした。

「オイラだって真面目な時くらいありますよ」

「ではお聞きしましょう」

「……単刀直入に言いますよ」

勝が少し前に身を乗り出した。御簾に向かって、その目が真っすぐに向いた。

「オイラを、姫様の下で使ってくれませんかね」

沈黙があった。

短い沈黙だったが、その重さは軽くなかった。

勝が続けた。

「御簾の向こうで——もっと大きな何かを動かそうとしていらっしゃる」

「……」

「姫様の行動の先を見ていると——そう感じるんですよ。ハリスとの交渉の一件だけじゃない。天朝物産会所の動き方、各藩への情報の流し方——全部が、何かの設計の中に入っているように見える」

また沈黙があった。

「だから犬になりますよ」

「犬?」

「忠実な犬です。尻尾を振って、言われたことをやる」

御簾の向こうで、糸子が笑った。今度は声に出た笑いだった。

「勝殿が尻尾を振る姿は想像できません」

「オイラにだってできないことはある」

その言葉がおかしかった。また笑いが起きた。

上段の間の空気が、少し和らいだ。

「真面目に言えば——」

勝が声を落とした。笑いの後の、その声の変化が——本気の言葉の始まりだということを、糸子は感じた。

「オイラは幕府の人間です。それは変わらない。しかしこのままでは、日本が外国に食われる——これも変わらない事実だ」

「はい」

「幕府か朝廷かじゃなくて——日本が生き残ることを考えてる人間と、一緒に動きたい」

「それがわたくしだと」

「そう思っています」

長い沈黙があった。

御簾の向こうで、糸子は考えていた。

勝海舟という人間のことを、糸子は転生前から知っていた。幕末史における勝の役割——神戸海軍操練所の設立、坂本龍馬との出会い、そして後の江戸城無血開城への貢献。この人物が「幕府の人間」でありながら、その枠を超えて「日本のために動いた」人物であることを。

しかし——今、この場で大切なのは知識ではない。目の前にいる勝という人間を、自分の目で判断することだ。

(この男の本音はどこにある?)

糸子は勝の言葉を丁寧に分解した。「幕府の人間」と最初に言った。それを隠さなかった。「幕府か朝廷か」ではなく「日本が生き残ること」と言った。それが本音だ。そしてその本音を持った上で「犬になる」と言った。

(自分の立場を正直に言った上で、協力を申し出ている)

これは——信頼できる申し出だ。

「勝殿」

糸子が静かに言った。

「一つだけ聞かせてください」

「なんですか」

「今の日本で——日本の近代化の全体像を描ける人間は、何人いると思いますか」

勝が少し驚いた顔をした。

「……急に大きな話になりましたね」

「答えてくださいまし」

「そうですね——」

勝が腕を組んだ。この男が腕を組む時は、本気で考えている時だ、と糸子は気づいた。

「まず——島津斉彬殿はその器があった。しかし数年前に亡くなられた」

「はい」

「横井小楠は近いものを持っている。しかし政治から遠い」

「他には」

「大久保利通は優秀だが、薩摩の視点から動く。日本全体の絵図ではない」

「木戸孝允は」

「長州の視点だ」

「小栗忠順は」

「幕府の視点だ」

勝が少し間を置いた。

「西郷は武の人間だ。絵図より行動が先に来る」

また間があった。今度はやや長い間だった。

「オイラ自身は——」

「正直に言ってください」

「……断片は描ける。海軍のこと、外交のこと、幕府の限界——これは分かる」

「しかし」

「全部を繋げた絵図は——」

勝が止まった。

部屋の中が静かだった。庭の向こうから風の音が微かに聞こえた。

「ない」

勝がはっきりと言った。

「持っていない」

また沈黙があった。

「つまり…」

糸子が静かに言った。

「今の日本で——全体の絵図を描いている人間は、事実上いない、ということでございますか」

勝が少し考えてから答えた。

「……そういうことになりますかね」

「勝殿」

「はい」

「ではもう一つ聞きまする」

「なんですか」

糸子が、少し間を置いた。

「御簾の向こうに——全体の絵図を持っている人物がいたとしたら、どう思いましょうや」

勝が止まった。

御簾を見た。

長い沈黙があった。

勝の目が御簾を見ていた。白い御簾が、朝の光を受けて微かに輝いている。その向こうに——十二歳の公家の姫君がいる。

「……まさか!?」

勝がゆっくりと言った。

「なんでございましょう」

「御簾の向こうが——その人物なんですかい?」

糸子が答えなかった。

沈黙があった。

その沈黙が——答えだった。

勝が少しの間、何も言わなかった。

部屋の中の空気が変わった。何かが決まった瞬間の——静かな、しかし確かな変化だった。

それから——。

「はははは!!」

大きな笑い声が、上段の間に響いた。

「近衛様!!」

「なんですか」

「あのハリスを言い負かして——そしてそんな絵図までがあったんですか!!」

勝の笑いには、驚きと、それ以上の何かが混じっていた。喜びに近いものだった。

長い間「そういう人物がいないか」と探していて、見つかった時の喜びだ。

「……考えましたと申しましたら、いかようなお顔をなされまするや」

「決まってますよ」

勝が御簾に向かって、深く頭を下げた。江戸の幕府の重臣が、御簾に向かって頭を下げている。その光景が、上段の間の空気の中で、静かな意味を持った。

「オイラを犬として使ってください!!」

「先つ頃にも、同じことを仰せになりましたな」

「今度は本気ですよ! さっきも本気でしたが!!」

「勝殿」

「はい!!」

「いささか、お落ち着きあそばせ」

「……はい」

勝が座り直した。しかし目が輝いていた。先ほどとは違う目だった。先ほどまでの「探っている目」から、「決めた目」に変わっていた。

「葵、この帳面を勝殿の前に」

「はい、お預かりします、姫君様」

侍女の葵が、帳面を持って障子を開けた。音もなく歩いて、勝の前に帳面を置く。一冊目の帳面だ。鍵のかかる引き出しには入っていない、表向きの計画が書かれた帳面だ。

「……姫様、見ても」

真剣な眼差しで、勝が聞いた。

「お手に取りて、よう御目に掛けさせてくださりませ」

勝が帳面を取った。表紙を見て、それから慎重に開いた。最初の頁を読んだ。次の頁。また次の頁——読みながら、勝の表情が変わった。笑いが消えた。眉が少し寄った。

それから、眉が開いた。何かを理解した顔だった。

「……無血近代化」

勝が呟いた。

「はい」

「内戦をせずに——近代国家を作る、と」

「はい」

「十年で?」

「はい」

勝が帳面から顔を上げた。

「そんなことが——」

言いかけて、止まった。「できるはずがない」と言おうとして、止まったのかもしれない。あるいは「どうやって」という問いを整理しようとして、止まったのかもしれない。

「……これは、本気ですか」

「本気でございます」

「具体的な手段は」

「まずは三つです」

糸子が障子の向こうから声をかけた。葵が別の紙を持って、勝の前に置いた。そこには三つの事業名が書かれていた。

・天朝御用商務惣会所

・天朝物産会所附属・商務語学所

・天朝物産会所の海外向け商品開発販売

勝がその紙を見た。

「……商売と学校から始めるのですか」

「はい」

「なぜですか」

「お金がなければ何もできませぬ。人材がなければ金も動かせませぬ。だから——」

「金と人材を先に作る、と」

「はい。この三つが近代化の土台になりまする」

勝がしばらく黙った。

帳面をもう一度見た。ゆっくりと、もう一度読んだ。今度は最初より時間をかけて。計画の構成を、自分の頭で追いながら読んでいるのだろう、と糸子には分かった。

「……計画②は何ですか」

勝が顔を上げて、御簾に向かって聞いた。

糸子が少し間を置いた。

「今日は話しません」

「なぜですか」

「まだ早いからです。計画①が動き始めてから話します」

勝が少し笑った。

「段階的に見せる、ということですか」

「はい」

「オイラを試していますか」

「いいえ。信頼しているから今日は計画①をお見せしました」

「……なるほど」

勝が帳面を、丁寧に葵に返した。

「一つだけ聞いていいですか」

「なんでしょう」

「この計画を——誰が描きましたか」

「わたくしでございます」

「一人で?」

「はい、もの凄く頑張りました」

勝が長い沈黙の後——。

「ははははははは!!」

また大きな笑い声が上段の間に響いた。今度の笑いは、最初の笑い声とは種類が違った。腹の底から来る、心底愉快な笑いだった。

「一人で、十二歳の姫君が、この計画を描きましたか!」

「頑張りました、と申し上げました」

「そうですね! すごい頑張りだ!!」

勝がまた笑った。それからふと真顔に戻って、言った。

「この計画を実行するには——今は圧倒的に人材が足りませぬ」

「分かっています」

「……人材を紹介します。この計画に必要な人間を」

「お願いします」

勝が少し頭を傾けた。

「こりゃ、立派な首輪を買わなきゃならんなぁ……」

糸子が笑った。

「よろしくお願いします」

それから糸子が少し間を置いて、続けた。

「それと——勝殿、一つお願いがあります」

「なんですかね」

「一橋慶喜殿の周辺の方と——話をしていただけますか」

勝の表情が少し変わった。目が細くなった。

「何の話ですか」

「日本の将来について。内戦を避けることについて。朝廷と幕府が協力することについて」

「……つまり——一橋殿の耳に入るように、と」

「はい」

「直接ではなく」

「はい。まだ早いです。ただ——種を蒔くだけでいいです」

勝が少し笑った。

「種まきなら得意ですよ」

「存じています」

糸子が静かに言った。

「だからお願いするのでございます。勝殿が種を蒔くと——それが自然に育ちまする」

「おだてるのが上手いですね」

「本当のことを言っているだけでございます」

勝がまた笑った。それからゆっくりと頷いた。

「分かりました。やりますよ」

「辱う存じます」

「ただし——」

「はい」

「万次郎が帰ってきたら、最初に姫様に報告するでしょう。その時、俺も同席させてくれますか」

糸子が少し考えて、頷いた。

「それは当然です。勝殿なしには万次郎のアメリカ行きも実現しませんでしたから」

「そうはいっても俺は大して何もしていないですけどね」

「そんなことはございません」

二人がしばらく沈黙した。

庭の向こうで、夏の始まりの風が松の葉を揺らした。上段の間の障子が、その風を受けてわずかに揺れた。

「姫様は——」

勝が少し間を置いてから言った。

「いつ京に帰るつもりですか」

「まだ分かりません。新しいメリケンの大使が来てからではないと」

「次の公使が来たら、また交渉をするおつもりで?」

「ハリスほど苦労はしないと思います。先例ができましたから」

「先例を作ったのが姫様、という話ですけどね」

勝が苦笑した。それから空を見るように、少し顔を上げた。

「しかし——」

「なんでしょう」

「楽しくなってきましたね、この国が」

「そうでありましょうか」

「ああ。俺は長いこと、この国はもうどうにもならないかと思っていたことがあった」

勝の声が、少し低くなった。

「しかし今は——もしかしたら面白い形になるかもしれない、と思っています」

「勝殿のそのお気持ちが——一番の力になりましょう」

糸子が言った。

勝が少し驚いた顔をした。

「姫様に褒められると照れますね」

「事実を言っているだけでございます」

「……強いな、姫様は」

勝がぼそりと言った。

「強くはありませぬ」

「いや、強い。俺には分かりますよ」

その言葉に、糸子は何も返さなかった。

ただ、障子の向こうの光を見た。

江戸の夏の空は、今日も広かった。

その夜、勝の屋敷で。

勝は縁側に出て、一人で酒を飲んでいた。

近所の安い店の酒だった。上等な酒は飲んでいる間に「高い酒を飲んでいる」ことを意識させる。それが邪魔だ。安い酒は酒を飲んでいる間、ただ酒を飲んでいられる。

若い頃から変わらない好みだった。

縁側の外には、狭い庭がある。江戸の武家屋敷の庭は、京の公家屋敷の庭に比べると質素だ。大きな石も、手入れの行き届いた松もない。しかし今夜は、その質素な庭に月が出ていた。丸い月だ。その月の光が、庭の草に白く落ちていた。

「一橋慶喜か……」

勝が空に向かって呟いた。

一橋慶喜という人物のことを、勝はよく知っている。聡明だ。英明だ。この国の状況を、誰より正確に読んでいる人物の一人だ。

しかしその聡明さが、時に足枷になる。あまりにも賢すぎるために、「正解が見えているのに動けない」という状態に陥りやすい。決断が遅い。正解を知りながら、選べない。

(その慶喜が「大政奉還を決断できる人物」か)

糸子はそう読んでいた。

勝は半信半疑だった。しかし——姫様がそう読んでいる。三年間で、あれだけのことをやってのけた人間が、そう読んでいる。

(……信じてみるか)

勝が酒を一口飲んだ。

月に向かって、また言った。

「慶喜の周辺に——どう近づくか」

勝の頭が、酒を飲みながら鮮明に動き始めた。これは若い頃から変わらない性質だ。酒を飲んでいる方が、頭が整理される。

まず——慶喜の側近に話をする機会を作る。直接ではなく、自然な形で。次に——朝廷と幕府が協力することの利」を話す。それが慶喜の周囲に届けば、慶喜の判断の材料になる。

(種を蒔く。それだけでいい。今は)

糸子の言葉を思い出した。

「面白い仕事だな」

勝がまた空に向かって言った。

月が黙っていた。

勝が再び酒を飲んだ。

万延元年、夏。

一橋上屋敷の奥御殿は、昼下がりの静けさの中にあった。

縁側の外の庭では、夏の光が松の葉を白く照らしていた。池の水面が、光を受けてきらきらと揺れている。庭師が朝の間に丁寧に水を打ったのだろう、石畳がまだほんの少し湿っていて、その湿りが昼の暑さの中で微かに涼気を作っていた。庭の隅に植えられた萩の葉が、風もないのに小さく揺れた。蝉が遠く鳴いていた。

近藤勇が廊下に立って、書状の束を持ってきた。

「姫様、京より荷が届きました」

「どのような荷でございますか」

「書状が二通と——それから」

近藤が少し間を置いた。

「宇治からのお茶が一包み」

御簾の向こうで、糸子が少し動いた気配がした。

「……持ってきてくださいまし」

近藤が奥御殿の部屋に荷を届けた。文机の上に並べる。書状が二通——一通は父の筆跡、もう一通は桐の小箱に納められていた。そして端に置かれた茶の包み。

近藤が退室した。

糸子は、最初に父の書状を取った。

封を開けた。

父の字だ。端正で、丁寧で、どこか遠慮がちな字だ。

読み始めた。

糸子へ

京は今日も暑い。江戸はどうか。無理をしていないか心配している。

御門様より「励め」と、「近衛家の、朕に寄する忠義、殊勝に思い召す」とのお言葉をいただいた。父はその場で、声が震えるかと思った。御門様の御言葉の重みを、お前にも伝えたくてこれを書いている。

三条殿には「近衛家が動いている」という事実をお伝えした。

岩倉殿には「内戦なき近代化」という目標をお伝えした。

どちらも、お前の指示通りにした。三条殿は目に火が灯っていた。岩倉殿は計算の向こうで本気になっておられた。お前の指示通りだった。

父には、なぜそれが分かったのか、今でもよく理解できないが——確かにその通りだった。

体を大事にしなさい。無理をするな。御門様と日本のためにお役目を果たしなさい。

しかし——辛くなったら、いつでも京に帰っておいで。近衛家はいつでもお前の帰る家だ。

お前のことを誇りに思っている。それだけは伝えたかった。

父より

追記:宇治の良いお茶を同封した。江戸でゆっくり飲みなさい。

糸子が書状を膝の上に置いた。

しばらく動かなかった。

障子の向こうから、蝉の声が聞こえた。遠く、そして近く——夏の蝉の声が、奥御殿の壁を通り越して入り込んでくる。

「父上……」

小さく、言葉が出た。

目の縁が熱くなった。

(糸子は…嬉しき心地にございます)

糸子は、父のことを思った。近衛忠房という人物。公家として、父として——この数年、糸子のやることに「いいだろう」と言い続けてくれた人。反対しなかった。干渉もしなかった。

ただ、信じて、待っていてくれた。

それがどれほど難しいことか——糸子には分かる。前世の自分が社内ベンチャーをやっていた時、「任せる」と言いながら実際は細かく口を出してくる上司の苦労を経験していたから。「本当に任せること」の難しさを知っていた。

(父上はそれをしてくれた。ずっと)

目が潤んだ。こぼれそうになって——糸子が少し首を傾けた。こぼれなかった。

しかし、葵は見ていた。

「姫君様……」

「何でもありませぬ」

「お顔が……」

「何でもないのでございます」

「しかし——」

葵の声も、少し変わっていた。震えていた。

糸子が葵を見た。葵が目を赤くしていた。

「葵、なぜ泣いているのですか」

「姫君様が涙ぐんでおられるから……つい……」

「もらい泣きですか」

「申し訳ございません……」

「謝ることはありません」

糸子が小さく笑った。目の縁がまだ少し赤かったが、笑えた。

「父上は相変わらず優しいですね」

「左様でございますね……」

葵が袖で目を押さえた。

奥御殿の一室で、しばらく二人だけの静けさがあった。蝉の声が続いていた。

それから——糸子は桐の小箱を手に取った。

御門様からの宸翰だ。

糸子はその箱を前に、正座した。そして静かに、深く、平伏した。畳に額をつけて、しばらくそのまま動かなかった。

「御門様への御礼を、まず申し上げます」

誰に言うでもなく、しかし確かな言葉で言った。

それから体を起こして、桐の小箱を開けた。

中に、宸翰があった。

折りたたまれた紙を、丁寧に、慎重に開いた。

御門様の御字が現れた。

『宸翰

天朝外語御用掛 近衛糸子 殿

今般、建白に及ぶところの諸事業、具に叡覧に供せられたり。

一、商家連合体設立の儀

一、語学並びに商業学校建立の儀

一、海外へ向けて国産品販売の儀

右の条々、いずれも皇国の国威を海外に宣揚し、富国強兵の礎を築かんとする誠意のあらわれなり。

方今、万国対峙の秋に当たり、経済の力を以て外侮を防がんとするその志、真に神妙なり。

よって、主上には格別の思し召しを以て、すべて御聴許あそばされるなり。

これら諸件の遂行に当たっては、朝廷の御威光を以てその表裏を保護し、万事障りなきよう計らわれるものなり。

速やかに成功の機を捉え、皇国の万世無窮なる繁栄に寄与せよ。

右、仰せにより執啓件の如し。

万延元年五月

(朝廷 伝奏 奉ずる)』

糸子が宸翰を読んだ。

読み終えて、しばらく動かなかった。

それから——深く息を吐いた。

「……許してくださった」

小さく言った。

「御門様…恐れ入り奉り、深き御厚恩に感謝いたす所存に候」

宸翰に深く、深く平伏する糸子がいた。

全ての事業——商家連合体、語学商業学校、海外向け商品開発——全部が、朝廷の御威光の下で進めることを認められた。御門様が後ろ盾になってくださる。

それがどれほど大きな意味を持つか——天朝物産会所を動かしてきた糸子には、肌身で分かった。

御所の権威という後ろ盾は、この時代においては最強の盾だ。幕府でさえ、御所の名前を前にすれば動きを止める。

「御門様……」

糸子がもう一度、深く平伏した。

「深謝申し上げまする」

その言葉は、礼式の言葉ではなかった。心の底から出た言葉だった。

葵が静かに待っていた。

やがて糸子が体を起こした。目の縁がまた少し赤かったが、その目の中に——炎のような光があった。

「葵」

「はい」

「宇治のお茶を淹れてください」

「はい、ただいま」

「少し濃いめで」

「承知しました」

葵が退室した。

糸子は宸翰を丁寧に折りたたんで、桐の小箱に戻した。鍵のかかる引き出しに、父の書状と一緒に大切にしまった。

それから文机に向かった。

帳面を開いた。

新しい頁に、書き始めた。

「御門様よりご聴許を得た——商家連合体、語学商業学校、海外輸出事業の三つ。朝廷の御威光を後ろ盾として動かせる」

「次の手——勝殿を通じた慶喜殿周辺への種蒔きを開始。篤姫様への書状の内容を固める。岩崎弥太郎、中岡慎太郎の両名の江戸招致を待つ」

書き終えた頃、葵が戻ってきた。

宇治の茶が入っていた。青磁の茶碗から、湯気が細く立ち上っている。

糸子が茶碗を両手で持って、一口飲んだ。

濃い緑の香りが、口の中に広がった。

(……これだ。これが京の味だ)

江戸のお茶とは違う。宇治の茶には、土の深さがある。葉の厚みがある。その味が、糸子の体の中の何かを緩めた。

「……父上、かたじけなく存じます」

茶碗に向かって、小さく言った。

葵が窓の外を見て、目を伏せた。

第六十一話 了