作品タイトル不明
第一話「雨漏りと算盤と、わたくしの野望」(改訂版)
——安政七年、春。
江戸城にほど近い、とある会見室。
畳の上に、西洋椅子が置かれていた。日本とアメリカ——二つの世界が、一つの部屋に同居していた。
アメリカ側の席に、タウンゼント・ハリスが座っていた。五十代半ば、白髪交じりの髪、青く鋭い目。長年の貿易商として鍛え上げられた男が、今この場に、駐日総領事として座っていた。
日本側の席の奥に——御簾があった。
竹で細かく編まれた、縦一間半ほどの簾。内側は見えない。しかし光は通す。その向こうに、一人の気配があった。
ハリスは、その御簾を見つめていた。
御簾の向こうに誰がいるのか。身分の説明は既に受けていた。五摂家筆頭——この国の最高の家格、今回、条約実務交渉合議に初参加した朝廷からの使者だ。
しかしそれだけだった。顔も、声も、まだ聞いていない。
そして——御簾の向こうから、声が来た。
英語だった。
完璧な英語だった。
「Mr. Harris.」
(ハリス氏)
ハリスが、顔を上げた。
「Pardon me. I believe you said something to Mr. Heusken just now. I heard it clearly.」
(失礼いたします。先ほどヒュースケン氏に何かおっしゃいましたね。よく聞こえました)
ハリスが、固まった。
隣のヒュースケンを見た。青ざめていた。たった今、英語で小声で言ったばかりだった——
「A child in negotiations? Is this a joke?」
(子供が交渉に? これは冗談か?)
御簾の向こうから、声が続いた。穏やかだった。しかし——揺らがなかった。
「It is not a joke, Mr. Harris.」
「I am Itoko Konoe, appointed by His Imperial Majesty as the Imperial Language Officer. I am twelve years old. And I heard every word you just said.」
(冗談ではございません、ハリス氏。わたくしは御門様より天朝外語御用掛に任じられた近衛糸子。十二歳にございます。そして今おっしゃったこと、全部聞こえておりましたよ)
会場が、静まった。
ハリスの喉が、動いた。
竹の格子を通して漏れる光の向こうに——公家の姫君が、静かに座っていた。
完璧な英語。
そして、この国で最高の家格——。
ハリスが、ヒュースケンに小声で聞いた。
「What is happening?」
(何が起きている?)
ヒュースケンが、少し間を置いてから答えた。
「I believe, Harris-san, that the negotiation has just changed.」
(ハリス氏、交渉が今、変わったと思います)
「Mr. Harris.」
(ハリス氏)
御簾の向こうから、糸子の声が出た。
「I would like to confirm one thing, before we discuss that.」
(その件を議論する前に、一つ確認させていただきたいことがございます)
「Please.」
(どうぞ)
「You said 'the standard arrangement between civilized nations.' Is that correct?」
(「文明的な国家間の標準的な取り決め」とおっしゃいましたね?)
「Yes.」
(はい)
「Then I must ask you about a treaty that was concluded four years ago. The Treaty of Shimoda, signed between Japan and Russia in 1855. Are you familiar with it?」
(では、四年前に締結された条約についてお聞きしなければなりません。一八五五年に日本とロシアの間で署名された下田条約です。ご存知ですか?)
ハリスが少し眉を動かした。
——しかし、この交渉が、どこから始まったのか。
一人の公家の姫君が、なぜこの場に座っているのか?。
なぜ、英語を話すのか?。
話は、数年前に遡る。
雨漏りする、近衛家の屋根から——。
死んだ、と思った。
正確には、死にかけている、と思った。
深夜のオフィス。誰もいない。デスクの上には半分だけ食べたコンビニのおにぎりと、冷めきったブラックコーヒー。画面には完成しかけたスプレッドシート。仕入れ原価と販売価格と利益率が、きれいに並んでいる。
ああ、このプロジェクト、あと少しやったのに。
橘咲、二十八歳。老舗百貨店勤務、バイヤー兼社内ベンチャー担当。未婚。彼氏なし。趣味は歴史書を読むことと、良いものを安く手に入れること。
倒れる瞬間、そんなどうでもいいことが走馬灯のように浮かんだ。
そして次に気づいたら、天井を見ていた。
最初に感じたのは匂いだった。
古い木の匂い。畳の匂い。それから微かに、線香のような何か。
コンビニでも百貨店でもない。
次に気づいたのは体の重さ、というより軽さだった。腕が動かない。足が動かない。首を動かすのが精一杯だ。視界に入ってくるのは、染みの多い古い天井と、薄暗い室内の輪郭だけ。
……赤ちゃん?
そう気づくまでに少し時間がかかった。
手を顔の前に持ってくることもできず、ただ天井を見ながら咲は状況を整理しようとした。バイヤーとして鍛えた頭が、感情より先に動き出す。
情報を集める。判断は後。
室内は薄暗い。電気がない。明かりは行灯らしきものが遠くに一つ。窓の外からは鳥の声。建物の構造が……木造で、相当古い。畳の部屋。衣装が……絹? 肌触りがやたら良い。
声をかけてくる女性がいる。言葉は理解できる。日本語だ。しかし微妙に古い言い回し。
「姫様、お目覚めでございますか」
姫様。
咲は内心で盛大にため息をついた。
……転生、してしもた。
それから半年ほど、咲は徹底的に観察した。
口を開くのは最小限にした。コンビニのおにぎりを食べながら徹夜でスプレッドシートを作っていた前世と違い、今の体は何もできない赤ん坊だ。できることは見て、聞いて、考えることだけ。
まずここがどこかを確認した。
屋敷の大きさ、調度品の質、女房たちの着物の紋様、そして何より彼女たちの言葉の端々に出てくる「近衛様」という言葉。
近衛家。
五摂家筆頭。藤原北家の嫡流。摂政・関白を出せる家柄としては最高位。天皇家の外戚として平安の昔から続く名門中の名門。
前世の修士論文の参考文献として、近衛家についての史料も読んでいた。だから知っている。
近衛家は貧乏だ。
名門中の名門でありながら、江戸時代の朝廷・公家社会は総じて経済的に困窮していた。幕府からの援助はあるにはあるが、それは最低限の体裁を保つ程度のものだ。屋敷の修繕もままならず、公家たちは内職で糊口をしのいでいたという史料が残っている。
そして半年の観察で、咲はその「史料の記述」が完全な現実であることを確認した。
屋根が、雨漏りしている。
咲の部屋の斜め上、天井の隅に染みがある。雨の日には小さな水滴が落ちてくる。女房たちは慣れた様子で桶を置きに来る。その動作が板についていて、「今に始まったことではない」と全身で語っていた。
食事は質素だ。お粥と少しの漬物。魚が出ることは少なく、出ても小ぶりで塩辛い。前世で百貨店の食品フロアを担当していた時期があり、良いものを知っている咲には、これが「粗末」であることが即座に分かった。
女房たちの着物は繕いが多い。直接見えない部分の縫い目が、素人仕事だ。自分たちで直しているのだろう。
父上らしき人物が時々部屋に顔を見せるが、その直衣の色が褪めている。
これが五摂家筆頭の現実か。
咲は天井の染みを見ながら、静かに決意を固めた。
まず金を作ろう。
話はそれからだ。
生後七ヶ月になった頃、咲は初めて自分の意思で声を出した。
乳母の顔が正面にあった。丸くて優しい顔だ。名前はお梅というらしい。咲の世話を一身に引き受けている、信頼できそうな女性だった。
「……ここ、近衛家ですか」
お梅が固まった。
次の瞬間、腰を抜かした。
文字通り、畳の上にへたり込んだ。顔が真っ青だ。震えている。
しまった、と咲は思った。
早まった。赤ん坊が喋るのは、この時代では異常どころか怪異の類だ。お梅が腰を抜かすのは当然だった。
しかし今さら取り消せない。
咲は次善の策を即座に考えた。バイヤーとして鍛えた交渉本能が動く。失敗した交渉をどう立て直すか。まず相手の恐怖を和らげること。
「……怖がらせてごめんなさい。内緒にしてね」
できるだけ幼い声で、できるだけ無邪気に言った。
お梅は震えたまま、しかし目だけは離さずに、じっと咲を見ていた。
長い沈黙があった。
それからお梅は深く深く息を吸い込んで、吐いて、そして言った。
「……姫様は、神様のお子でございますな」
神様のお子。
咲は内心で苦笑した。
まあ、それで通るなら好都合だ。
「お梅、算盤を持ってきてくれる?」
お梅がまた固まった。今度は全身で固まった。
咲は天井の染みを見上げながら続けた。
「屋根を直したいの。そのためにはまずお金が要るでしょう。計算しなきゃ」
それからの一年は、咲にとって情報収集の時間だった。
お梅は結局、誰にも言わなかった。
言えなかったのだろうと咲は思う。「姫様が喋った」などと言えば、自分が正気を疑われる。それよりは「神様のお子」として心の中で処理して、ひっそりと仕えていくほうが賢い。
お梅は賢い人だった。
咲はお梅に頼んで、算盤と帳面を持ってきてもらった。近衛家の収支を書き写してもらい、それを読み込んだ。
状況は予想より悪かった。
幕府からの禁裏御料として年間三万石が公家全体に配分されているが、近衛家に回ってくる分は少ない。加えて格式を保つための出費が収入を常に上回っている。儀式のための装束、客人への饗応、諸々の進物……これらが容赦なく懐を削っていた。
帳面を見ながら、咲は前世の修士論文の記述を思い出した。
「幕末期の公家財政は慢性的な赤字構造にあり、多くの公家が内職や縁故による借財で生計を補っていた」
内職。
そうだ、公家の内職は史料に残っている。和歌の添削、書道の指南、有職故実の相談……知識と格式を売って糊口をしのいでいた。
それは悪くない出発点だ。
しかし咲が考えているのは、それより一段上のことだった。
近衛家には「格式」という、他のどんな商家も持っていないブランドがある。
このブランドを、もっと賢く使えるはずだ。
三歳になった春、咲は父上に初めて「ご挨拶」をした。
近衛忠房。温厚で学識があり、しかし財政については無頓着な典型的な公家の当主だった。
娘が喋ったと聞いていたのだろう、父上は最初から動じた様子がなかった。お梅から「神様のお子」という解釈が伝わっていたらしく、むしろ誇らしそうにしている。
咲は父上の前に座り、できるだけ愛らしい表情を作りながら言った。
「父上、少しお時間いただけますか。近衛家のお金のことで、申し上げたいことがございます」
父上が目を丸くした。
「お金のこと、とな」
「はい。屋根の雨漏りを直したいのです」
父上が苦い顔をした。
「それは……父も気になってはいるのだが、今の台所事情では」
「だから稼ぎましょう、というお話でございます」
沈黙。
父上は娘の顔をしばらく眺めてから、ゆっくりと頷いた。
「……聞かせてくれるか」
咲は内心でガッツポーズをした。
近衛家が最初に始めた「商売」は、正確には商売とは呼べないものだった。
名目は「近衛家ゆかりの品を、縁ある方々にお分けする」というものだ。
内容は、京都の名産品の販売だ。
西陣織。京友禅。京焼。宇治茶。これらは言わずとも知れた京都の特産品だが、咲が着目したのはその「流通経路の非効率さ」だった。
前世の百貨店バイヤー経験で鍛えた目が、幕末の京都の商流を見て即座に判断した。
良いものが、正当な値段で売れていない。
作り手である職人たちは、中間の問屋に買い叩かれている。最終的に消費者、特に大名や富裕層の手に渡る頃には値段が何倍にも跳ね上がっているが、その差益のほとんどは流通の中間業者が持っていく。
そして大名や富裕層は「良いものを買いたい」という需要を持ちながら、本物かどうかを見極める目がない。偽物をつかまされることも少なくない。
ここに隙間がある。
「近衛家が選んだ品」というお墨付きがあれば、本物の保証になる。買う側は安心して高い値段を払える。売る側は中間業者を通さず直接近衛家を経由できるから、職人の取り分が増える。近衛家には手数料が入る。
三方よし、だ。
前世の大学院で「幕末の商業流通」を研究していた知識が、ここで活きた。
お梅を通じて、まず西陣の織元に話を持っていった。
近衛家の女房がやってきたということで、織元の主人は最初から腰が低かった。しかし「商売の話」と聞いて表情が変わった。公家と商売の話をするなど、前例がない。戸惑いが顔に出ている。
そこでお梅が懐から取り出したのは、咲が書いた文書だった。
むろん咲の字で書いたわけではない。三歳の姫君が書類を作るなど不自然極まりない。父上を説得して、父上名義で書いてもらったものだ。
内容は簡潔だった。
「近衛家は、貴家の品を近衛家ゆかりの方々にご紹介いたします。売れた値段の一割を近衛家への礼銭とし、残りはすべて貴家の収入といたします。品の真贋については近衛家が保証いたします」
織元の主人は何度も読み返した。
それから顔を上げ、お梅を通じて言った。
「……お言葉ですが、問屋との付き合いもございますので」
予想通りの反応だった。
咲はお梅に耳打ちした。
「問屋に売ると今いくらですか、とお聞きして」
お梅が聞いた。織元の主人が答えた数字を聞いて、咲は暗算した。
「それの一・五倍でお買い取りします、とお伝えして」
織元の主人の表情が変わった。
問屋より高く買ってくれる。しかも近衛家のお墨付きという付加価値がつく。
断る理由がない。
最初の取引から三ヶ月で、近衛家の収入は目に見えて増えた。
西陣織に続いて、京焼の窯元、宇治茶の茶師、京友禅の染め物師……次々と「近衛家の取引先」が増えていった。
父上は最初こそ戸惑っていたが、帳面に増えていく数字を見て態度が変わった。
「……糸子、これは本当に増えておるのか」
「はい、父上。先月より三割増えました」
糸子、というのが咲の転生後の名前だった。
近衛糸子。
糸を紡ぐように縁を結ぶ、という意味を込めた名前だと父上が言っていた。咲は内心で「いい名前だ」と思った。商社の社長として、縁を結ぶのは最も重要な仕事だからだ。
「しかし公家が商いをするなど、体裁が」
「体裁と、雨漏りと、どちらが大事ですか、父上」
父上が黙った。
糸子は続けた。
「体裁を保つためにお金が要るのでしょう。ならばお金を作らなければなりません。近衛家のお名前を使っているのですから、商いではなく『ご奉仕』でございます。良いものを世に広めるというご奉仕です」
「……ご奉仕、か」
「はい」
父上はしばらく天井を見ていた。
そして言った。
「分かった。続けなさい」
その一言で、糸子の中の何かが解けた。
父上は馬鹿ではない。ただ「やっていいのかどうか」の許可を必要としていただけだ。そしてその許可を出す論理を、娘が提供した。
これでいい。
糸子は表情を変えずに頷いた。しかし内心では、拳を握っていた。
五歳になった秋、屋根の修繕が完了した。
職人たちが帰った後、糸子は縁側に座って空を見上げた。
雨が降っていた。
しかし室内に桶は要らない。雨音が聞こえるだけで、水は落ちてこない。
お梅が隣に座って、同じように空を見ていた。
「姫様、屋根が直りましたね」
「うん」
「次は何をなさるおつもりですか」
糸子は少し考えてから答えた。
「もっと大きな商売をする」
「大きな……」
「今は京都の中だけで売り買いしているでしょう。でも世の中はもっと広いの。江戸もあるし、大坂もある。もっと遠くには……外国がある」
お梅が息をのんだ。
「外国、でございますか」
「うん。外国の人たちは、西陣織を知らない。京焼を知らない。知らないということは、値段をつけたことがないということで……つまり、こちらが値段を決められるということ」
雨音の中で、糸子は続けた。
「良いものを正当な値段で売れる世界を作りたいの。この国のものを、この国の人間が、この国の判断で売れる世界を」
お梅がじっと糸子を見ていた。
「それは……とても難しいことではないのでしょうか」
「難しいよ」
糸子は即座に答えた。
「でも、やらないとどうなるか知っている。このまま放っておくと、外国の人たちが値段を決めるようになる。この国のものが外国人の言い値で買い叩かれるようになる。それだけじゃなくて……」
言葉を切った。
五歳の姫君が言うには重すぎる言葉が、喉まで出かかっていた。
幕末の歴史の行き着く先を、糸子は知っている。外国に翻弄されながらも懸命に近代化を成し遂げた明治の人々の奮闘を知っている。そしてその近代化の過程で、どれだけ不当な条件を飲まされたかも知っている。
だから変えたい。
しかしそれを説明するには、まだ時間が必要だ。
「……まあ、いろいろあるの」
糸子はそう締めくくって、雨を見た。
お梅が静かに言った。
「姫様がそうおっしゃるのなら、お梅はついていきます。どこまでも」
糸子は横を向いた。
お梅の顔が、本気だった。
商売の話でも、難しい理屈でもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見ている。
咲として生きていた二十八年間、「どこまでもついていく」などと言ってくれた人間は一人もいなかった。会社では結果を出してナンボ、出せなければ手のひらを返される。それが当たり前だと思っていた。
糸子は小さく咳払いして、前を向いた。
「……ありがとう、お梅」
声が少し掠れた。
お梅が気づかないふりをしてくれているのが、分かった。
その夜、糸子は帳面を開いた。
収支の計算ではない。計画書だ。
近衛家の「商売」をどう育てるか。どの順番で、どの規模で、どの相手と組むか。
頭の中に、幕末という時代の全体像が広がっている。
あと何年で黒船が来る。あと何年で安政の大地震がある。あと何年で桜田門外の変が起きる。あと何年で薩英戦争があって、あと何年で鳥羽伏見の戦いがある。
時間は有限だ。
しかし今は五歳だ。できることには限りがある。
焦るな、と咲としての経験が言う。バイヤーとして学んだ最も大切なことのひとつは「仕込みに時間をかける」ことだった。良い仕入れ先を作るには、一度や二度の取引ではない。信頼関係を積み重ねて、初めて本当に良いものを回してもらえるようになる。
今は仕込みの時期だ。
近衛家の「格式と商売」を組み合わせるという前例のない試みを、少しずつ形にしていく。
帳面の白いページに、糸子は書き始めた。
第一、近衛家の財政を三年以内に黒字にする。
第二、京都の主要な職人・商人との取引関係を確立する。
第三、大坂の商人と接触する。
第四、江戸に販路を開く。
第五……。
筆が止まった。
第五の先は、まだ書けない。外国との直接取引、朝廷を巻き込んだ大きな構想……それを書くには、まだ準備が足りない。自分の立場も、知識も、人脈も。
糸子は筆を置いた。
行灯の光の中で、帳面の文字を眺めた。
屋根は直った。
次は何をする?
何をするかは分かっている。問題はどうやるか、だ。
五摂家筆頭の姫君という肩書きは、この時代において最高のブランドだ。しかし九歳にも満たない子供が、それをどう使いこなすか。
大人たちは最初から相手にしないか、あるいは利用しようとするかのどちらかだ。
どちらであっても、構わない。
利用しようとする人間は、逆に利用すればいい。相手にしない人間は、結果を出して認めさせればいい。
前世の二十八年間で学んだことがあるとすれば、それだけだ。
格好をつけない。結果を出す。正直に欲を言う。そして絶対に諦めない。
糸子は帳面を閉じた。
雨はまだ降っていた。しかし今夜は桶がいらない。
その事実が、奇妙なほど大きな満足感をもたらしていた。
屋根を直した。
それが、近衛糸子の最初の勝利だった。
次の勝利を積み重ねていけば、いつかは……。
糸子は行灯の火を吹き消した。
暗闇の中で、目だけが覚めていた。
第一話 了