軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

50話 ギャンナキ、キューケツ、キリ

「ええ…… どうしよ」

「うぐ、ヒグ…… あ、アアアアアアア…‥. ハーヴィーのこうぶんしょかん、だったのにい、パンぶんしょかんに、なっちゃったあ……」

遠山は本をとりあえず机に積んで、頭を抱える。

「あー…… なんか、ごめん」

「ウワアアアアアアアアアアアアアン!!」

ギャン泣き、メガネをびしょびしょにしながらハーヴィーが泣き続ける。遠山は過去の苦しい経験を思い出す。学校で女子を泣かせてしまった時のアレと同じだ。

「え、ええ…… お、落ち着けよ、ほら、パンの歴史の本とかすげえ分厚いぜ? ほらみてみ、シュメール文明の頃から……… うん?」

なんとか落ち着けようと、あやしてみる。コイツ本好きそうだし、パン分書館も悪くねーでしょ的なニュアンスで説得しようとしてーー

「いや…… まて、待てよ。……なんで、シュメール文明やら肥ような三日月地帯とかの記述があるんだ……?」

違和感につまずく。

パンの歴史、そう題された本には確かに遠山が知識として知る 現(・) 代(・) の(・) 歴(・) 史(・) におけるパンの歩みが描かれている。

「おかしくないか? 普通、こういうの…… この世界のパンの歴史が記されてるんじゃ……」

てっきりこの世界、異世界の歴史に基づいてパンの成り立ちが残されているのではないかと予想していた遠山。

なんの気無しに気付いてしまった違和感は気持ち悪さにも似ていて。

「ウワアアアアアアアン、アアアアアアアアアアン、プエ、プアンエエエエエエエ」

その思考をハーヴィーのガン泣きが邪魔した。

「ああもう! うるっせえ! 泣くな、今ちょっと考えごとしてんだからさ!」

「ワッ…… だ。怒鳴った…… ヤダ、ヤダ…… 怖い、コワイイイイイイイ……」

思わず怒鳴る、もちろん泣き喚く女の子に怒鳴るとさらに泣き喚くのは当然のこと。

ハーヴィーは涙をさらに強く。

「嘘だろ、なんだこのクソザコメンタルメガネ。おい、雑魚メガネ、泣くなって、悪かったから。ほら、ゆっくり深呼吸してみろ、深呼吸」

先ほどまでの悪役ヅラした慇懃無礼な大人の態度や底知れなさはもはやなく。遠山は幼児をあやす気分で、ハーヴィーに接する。

「ふ、ぴ、プえ…… す、す、すっ」

しゃがみ込み、ハーヴィーと視線を合わしながら深呼吸を促す。

「そうそうその調子、その調子。吸ってー、吐いてー、吸ってー」

「すう、すう…… あ、いい匂い……」

遠山がハーヴィーをあやす。なんとうまくいきそうだ。いつのまにか泣き止んで、ハーヴィーが少し顔を綻ばせた。

「だろ? ほら、パンのいい匂いするんだよこの本。絶対いいって、焼き立てのパンの香りする図書館とかバズるって」

遠山がもしかしたら自分には意外と保育士とか向いてるんじゃないかと明らかに間違いである思い込みをかましていた、その時。

「……ううん、違う」

「あ?」

ハーヴィーが静かに、首を横にふった。

「あなた、あなたから、とても、とても、いい匂いがする」

「おっと、なんか流れ変わったな」

先ほどまで小さくて可愛い生き物のように大泣きしていたハーヴィーが、すんっと表情を落として立ち上がる。

「香ばしい匂い、芳醇な香り…… 醸されて煮詰まれて、匂い立つ……」

明らかに、その眼がおかしい。

ガラス玉のような精密な美しさを孕んでいた瞳は今や熱に浮かされ、失敗した目玉焼きのように歪んでいて。

「へい、へい、へいへい、ハーヴィー、おめめがなーんかよくないぜ。その顔はとても良くない顔だ。……まるで獲物を見つけた怪物種みてーな目だぜ、そりゃ」

見たことのある眼だ。怪物種、そう、捕食者が好物を見つけた時のようなーー

「…… D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」

「……は?」

「あ、あア、この感覚を私は知ってる、知識の眷属、ハーヴィーとしての感覚じゃない。もっと、もっと昔、むかし、むかしの感覚。わたしが私、アタシである時の感覚」

顔を抑えて身体を折るハーヴィー、ぶるり、ぶるり、痙攣するように小さな体躯が震えている。

遠山は思わず、一歩、二歩あとずさり。絨毯の感触がやけに重たく。

「おい、待て、まて、だ。それ以上動くな。俺に近づくな」

「香ばしい、その体に流れるモノは何? てか、まじでいい匂いするんだけど? なに? 誘ってんの?」

ばささささ。ハーヴィーが顔を上げる。涙の跡ははっきり残っている、しかしもうその顔に嘆きや焦りは一切ない。

頬を紅潮させ、目を見開き身体を逸るように立つハーヴィー。彼女の周りにはどこから現れたのか無数の黒い羽を持つコウモリが飛び回る。

「おい、コウモリ漏れてるんですけど」

「ああ…… 今、とても気分がいい。アンタがハーヴィーの公文書館をめちゃくちゃにしたからかな…… ハーヴィーである私と、ハーヴィーになる前のアタシがごちゃ混ぜになってくる……」

ぺろり、ハーヴィーが己の薄い色の唇を舐める、血に染まっているかのような赤い舌が艶かしく蠢いて。

「ねえ、アンタ、よく見たらさ、めちゃくちゃ美味しそうなんだけど」

ニヤリと笑うその口元からは、明らかに人よりも長く太い犬歯、牙が見え隠れしていた。

「わあ、立派な犬歯」

ダッシュ。遠山は珍しく速攻で逃走を選んだ。脇目も振らず公文書館のでかい本棚の並ぶ隙間を走り抜ける。

「待て! なんで、逃げるの!?」

「うるせええ!! そんな大量のコウモリ従えて涎垂らしてるでかい牙の女なんざ逃げるに決まってるだろうが!」

速い、ハーヴィーがコウモリの大群とともに地面を滑るように遠山を追う。

「フフフ、待って、待ってよ! 乱暴なことしないからさあ、マジで!」

ぶわり、ハーヴィーの背中から闇と夜が形を成した。翼、薄い翼膜は夜を張り付けたように暗く、鉤爪は闇の色をしていて。

「翼ァ?! ドラ子といいてめえといいカッコいいなクソ! なにその黒い羽! コウモリ?!」

遠山が目を剥く。公文書館の高い天井までのスペースをふわふわと飛ぶハーヴィーに唾を飛ばす。

やばい逃げられない。

「フ、フフ、ああ、なんだろ、これマジで何だろ!?

逃げるアンタを見てると何か思い出せそう! アタシ、アタシ、アタシアタシ! 今、最高にアタシな気がする!」

「クソ、余裕ぶったり泣き喚いたりノリノリになったり忙しい奴だな! おい、警告だ! 俺を追うな!」

パンの香ばしい香りの中をつっきり遠山が走り続ける。本棚を右に、左に曲がりながら少しでもハーヴィーから遠くへ。

しかし、翼を持つ存在と持たない存在には悲しくなるほどの性能の差が存在した。

「フフフ、定命の者! いい、いいよ! その必死な顔! アンタの汗、アンタの吐息、ああ、なんて、なんって香ばしいの!? たまらない顔で誘うじゃん! このスケベ」

「誰がスケベだ!! こんのドスケベ雑魚メガネ!」

必死に逃げる遠山を空中から見下ろし、熱い吐息を吐くハーヴィー。その表情は蕩け、惚けている。

遠山は遊ばれていることに気づくも逃げることだけはやめない、叫びつつ少しでも遠くへ。

「フフ、フフフフヒ、フヒヒヒヒ、たのしい…… たのしいなあ……!!」

「うお!? 嘘ぉ!?」

瀑布のごとき、黒い奔流。コウモリだ。ふよふよくるくる空を舞うハーヴィーが指を振る。

それだけでコウモリの大群はあっという間に遠山を包み込み、その身体を拘束した。

「つーかまーえた」

ふわり、ふわり。コウモリの大群に捕らえられ、吊り下げられたように宙に浮かぶ遠山。

後ろ手を縛られたような姿になり、粗末な寝巻から首元が覗く。その様子を見たハーヴィーはごくり、喉を鳴らした。

「ああ、だめ、ダメダメダメじゃん! 鎖骨、首筋! そんなに曝け出してさあ! やっぱり、誘ってんじゃん!」

高揚している、ハーヴィーは自分で自分の肩を抱き締めながらくるくると空を舞う。

「くそ、おまえ、これ、コウモリで束縛プレイとは上級者すぎるだろ」

「フヒ、ねえ、いいでしょ、アタシの目え、見てよ」

遠山が苦しげに吐き捨てる、そんなこと意も介さずハーヴィーが翼をはためかせ遠山に肉薄した。

ブルブルと震えるガラス玉の瞳が遠山鳴人を捉えて。

「は? ッーーー」

遠山の身体に痺れが走る。甘い感覚にも似た妙な痺れ。自分の意思とは関係なく、身体が硬直し動かない。寝起きの動きづらさを大袈裟にしたようなーー

「フヒ、ああ、この目、こうやって、使うんだ…… 獲物を魅了しちゃえば簡単なんだ……」

「ッ、あ」

己の目の周りを撫でながら悦に浸るハーヴィー。新しいおもちゃを見つけた幼児のように愉快そうに笑う。

「フフフ、フヒヒヒヒ。ああ、あなたの肉と皮の内側、赤くて暖かいのが見える…… 綺麗……」

「ッくそ、おまえ、何した……」

ハーヴィーが遠山の頬を撫でる、死人のように白く長い陶磁器のような指先、その指使いは優しい。

愛しい恋人の髪でも梳くかのような手つきでハーヴィーが遠山の顔をいじくりつづけた。

「フヒ、人、人、人、ああ、我らは夜の貴族、惑星の精、星により生まれた人のありえざる可能性…… ねえ、アンタ、贄の自覚を持ってよ。もっと、もっと怯えて。もっとその目で見て。あともう少しで、アタシはアタシを思い出せそう……」

「クソ……」

「ああ、フヒ、可愛い…… 怖いのに、体の力、抜けるっしょ? アタシ達とアンタ達はそうできてんの。捕食者と被食者、……でも、安心しなよ。大事に、大事に、少しずつ飲んであげるからさあ」

「何も安心できねえ……」

まずい。

遠山は本気で焦っていた。身体の痺れが抜けないのもそうだが何より本気でまずいのは抵抗する気がどんどんなくなっていることだ。

あの目に何か仕掛けがある。

普段なら湧き出てくるはずの闘志、遠山は怒りや憎しみでその闘志を湧かせるタイプの人間だが、目の前の女にどうもそれが働かない。

「ああ、アタシ、今最高にアタシをしてる…… 嘘でしょ、天使とかそんなん関係なく今、アタシは自分の正体に近づいてる…… 名前とかそんなん思い出せないけど、でも、アタシがどういう存在なのか、あともうすこしでわかる……」

「自分探しが物騒すぎるだろ、おい、離せ、それ以上マジで近づくな」

うっとりと悦に浸り続けるハーヴィー、それとは対照的に冷静にぼやく遠山。

「へえ、……思ったよりさあ、頑固なんだね。定命のものは夜の貴族たるアタシらの目に逆らえないはずだけど。探索者適性…… ダンジョン酔いの影響かな」

遠山の様子にハーヴィーが目を少し大きく広げて、下から舐めつけるように見つめる。知識の眷属としての性が珍しきものへの興味を更に強くさせていて。

「訳わかんねえ事ばっか言いやがって……」

「フヒ、その目、最初は怖かったけど、今はいいね、とてもいい。そういう目をさ、ドロドロにするのって高ぶるじゃん。……ああ、いいこと思いついた、アタシはハーヴィーでもあるんだから、知識の眷属でもあるんだから、さあ」

「待て、何を」

嫌な予感、加速。

「アタシ、らぶらぶプレイの方が好きなんだよね、ゴーインにやるよりさ」

「あ」

目が、遠山を捉える。

短い悲鳴のような遠山の呟き。

ハーヴィーの瞳、そのガラス玉のような虹彩が蠢き、まるで万華鏡を覗いているようなーー

「知識領域への接続開始 異界、公文書館は侵食、検索、パンの知識のみ、接続を公文書館から知識の眷属ハーヴィーへと変更、他眷属の存在情報取得、"美と女"の眷属の権能情報を認識…… ねえ、アタシの目え、見てよ」

知識の眷属ハーヴィーは、あまねく世界、全ての知識を保有する力そのもの。

故にそれは自らと同格の存在たる眷属の知識すらも保有する。目の前の男のそそる反抗的な目つきにハーヴィーはついに昂りを抑えきれなくなる。

鍛えられた身体、ストレスから香る汗、その内側にたぎる血潮。

それらがほしくてたまらない。それらが自分に捧げられる瞬間をもう、まてない。

「あ」

遠山の動きが今度こそ完全に止まる。コウモリの群れにそのまま捕らえられ、力を抜いたまま動かなくなる。

「それでいいの。ほら、もっと目見て」

己の知らない夜の力と、"美と女"の眷属の力の併用、それはある意味において神でさえ堕落させることが出来る魅了に等しい。

夜の貴族、捕食者としての興奮が抑えきれない。極上のエサを目にした彼女は忘れているはずの本当の己を取り戻しつつある。

「フヒ、フフフ、フヒヒヒヒ」

その興奮に、酔う。

聡明なはずの頭脳も知っていたはずの知識も、遠山鳴人という男に酔っているハーヴィーは全て朧げになっていた。

コウモリの群れに捕らえられ、だらりと弛緩した身体を晒す遠山を見て、ハーヴィーがたまらず、ごくり、喉を鳴らした。

「大丈夫、大丈夫だから、優しく、するから、さあ」

ぽたり、ぽたり。

気づかないハーヴィー。伸びに伸びた犬歯、いや、牙を晒しつつ、口からは大量の涎を垂らし続ける。宙から落ちる涎が舞って、遠い地面に落ちていく。

答えがある。己が何者なのか。ハーヴィーとなる前の自分がどんな存在で、どこからきたのか。

「ああ、たまんない…… 大丈夫、きっと、アンタも気持ちいいから、さ」

「…………………」

「アタシはおいしくてきもちよくて、アンタはただ気持ちいいからさ、きっと。大丈夫、大事にするから、先っちょだけだから」

そっと、ハーヴィーが指を振る。遠山を空中に捕らえていたコウモリの群れがその動きに従い、遠山を絨毯の上に降ろした。

ハーヴィーが夜闇に溶ける羽をはためかせ、音もなく遠山鳴人の元に。

その目を欲望で歪ませて、溢れる涎を抑えずに。

美と女の知識をもって、さらに強い魅了の言葉を使う。

その、言葉をーー

「好き…… 大好き…… だから、ちょうだい」

その言葉を、言ってしまった。

童貞全開で盲と化した眷属は完全に忘れていた。己の夢の主人がどんな人間なのか。

先程見たはずの本質的な恐怖も、それに対するある女の崇拝めいた狂信が産み出したおぞましい傷跡も。

全部、知っていたはずなのにーー

「好き、じゃあ、敵だ」

パチリ。

遠山鳴人のスイッチが入った。

闘志が、舞い戻る。

全ての精神的な汚染は、もう遠山鳴人には届かない。

もとより擦り切り、もとより壊れ、もとより歪められているその自我は、完成せずともこれ以上壊れることはない。

「え」

夢の中でも遠山は探索者であり、冒険者だ。故にそのぼうけんを彼はどこまでも見つめ続けている。

「来い、キリヤイバ」

遠山の首元から顕れるキリと、それにまみれて首からはえるように現れる欠けたヤイバ。

「ビエッ」

瞬く間に、遠山鳴人を拘束していたコウモリ達が小さな悲鳴を上げたあと、粉々に切り刻まれ、血の煙に変わった。

ーー私はこの国を選ぶ。あの人の理想と共に死ぬ。あなたと共にはいられない、それが苦しくて、悔しくて仕方ない。だからね、遠山くん。

遠山鳴人に施された催眠が、刻まれた言葉に過剰反応を起こす。

ーー普通の人にならないで。あなたは誰にも靡かない、あなたは絶対歩みを止めない。私も同じ、あなたと同じ。愛とか恋とか、それはあなたの歩みを止める邪魔なもの

ーー普通の人にならないで。誰かと遂げるあなたなんて、解釈違いもはなはだしい。だってはあなたは……

「俺が愛されるわけが、ない。俺が誰かに好かれるわけがない。……だから、敵だ」

頭の中に焼き刻まれた催眠が遠山の脳みそを破壊する。瞬時に切り替わるスイッチが遠山鳴人の選択をシンプルに変えていく。

「ふ、フヒ、ああ、イカレた女、薄汚い女…… そういうこと、マジでありえねえし、ガチでキモいんだけど、強火すぎるっしょ」

ハーヴィーが夜の帷を身に纏い笑う。眷属の目にはっきり映るのは遠山鳴人にまとわりつく生き霊にも等しい妄念。

「俺は…… 誰にも愛されない…… だから」

フラつきながら、遠山が立ち上がる。

武器はその手に、理由は胸に。

呪いにも等しいその暗示は、遠山鳴人が歩みを止まることを許さない。

安易な安寧も、異性の愛による満ち足りた幸福も、それら全てを解釈違いと切り捨てる異常者の傷跡は、遠山にしかと刻まれている。

「フヒ、ああ、かわいい…… どうしようもなく歪んで捻じ曲げられて、それでも折れることなく生きている…… ああ、定命の者ってホント、サイコー」

超越者たる彼女はしかし、その傷も受け入れる。壊れてもそれに絶望せず進み続けるその姿に熱いため息をこぼして。

「キリヤイバ」

遠山鳴人の選択はシンプルだ。敵は始末する。

首から生えているヤイバの柄を握りしめ、引き抜く。

欠けたヤイバの鋒をコウモリを纏わせる女に向ける。

「ああ、その剣、やっぱりそういうことなのね。あのクソジジイ…… どこから仕組んで……」

キリヤイバ、遠山鳴人の身体から引き抜かれたその欠けたヤイバを見てハーヴィーが目を細めて、舌打ちをした。

「警告だ、これ以上俺に近づくんなら始末する。図書館をパンだらけにした負い目もある。出来れば穏便にすませたい」

退くならよし、退かないなら始末する。

判断はシンプルこの上ない。

「……いーや、いやいや、逆効果っしょ。そーゆーの燃えるんだよね。アンタを歪めたその女、マジで気に入らないからさ、寝取ってあげるよ、トオヤマナルヒト」

遠山の様子に、深い笑みを湛える超越者。

「警告はした」

視線、鋭く。

「フヒ、きーてあーげない」

眷属はしかし、どこまでも妖艶に微笑み。

遠山がキリをさしむけた。

「え?」

ばしゅん。

キリが広がらない。萎むような音、キリは濃く、広がり続けるものの、それは遠山の意思通りの動きではない。

ーー我が勇者よ、こちらへ

がたがた、公文書館中の本棚が大きく揺れる、地鳴りをもって響くの何かの声だ。

「ちえ、時間切れ……か」

ハーヴィーがため息をつき、パチリと指を鳴らす。現れたイスに深く座りこみ、つまらなそうに唇を尖らせた。

ーーその通りだ、知織の眷属、北欧の知識神のカケラよ。貴様の卑しい欲望で我が勇者を穢すこと、能わず

声が響く。同時にどんどん霧が濃く、重たく。

「ちょ、なんだこれ、前が見えない…… キリヤイバが、言うことを」

遠山がいくら抑えようとしても、キリヤイバが制御出来ない。遺物を手に入れてからこんなこと初めてでーー

「はあ、まあ、いいや。なーんか白けた。我が夢の主人。また次の夢で会お。アタシ、アンタに興味湧いたし」

「お前、キャラ全然……」

ハーヴィーの姿すら、霧に紛れてもうはっきりとは見えない。重い霧は遠山の身体を濡らしつつ、まとわりついて。

「そ、これがアタシ。アンタが思い出させてくれたホントのアタシの残り香。またね、上級探索者。そのモーロクジジイにいやらしいことされそうになったらすぐにアタシの名前、呼んでね」

ーー貴様と一緒にするな、卑しき血の化け物、夜の貴族を騙る寄生虫め

「ええ……もう、状況がわからん」

ーー我が勇者、公文書館を出よ

声が響く。同時に、遠山の足がまた浮いた。ふわふわの霧がついに実体となって遠山の身体をベルトコンベアのように運び始める。

「うお!? 霧が、くそ! 今日こんなんばっか!」

霧に足を掬われ尻餅ついた遠山はそのままスイッーと運ばれていく。

抵抗も、なにも。状況に流されるままに運ばれて。

「フフ、またね。トオヤマナルヒト。大丈夫、ここにアンタの敵はいないから、さ」

「お前何言ってーー うわぶら!?」

ハーヴィーが、小さな手をひらひら振って。すぐにその姿は見えなくなった。

「ハア…… 一口、飲みたかったナァ……」

漏れた呟きはしかし、重たい霧とパンの香りがする本棚に遮られ遠山に届くことはなかった。