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作品タイトル不明

第9章(1815年):ナポレオンの百日天下とパーシバルの賭け(後半)

■1815年3月上旬。

パーシバル・シャルトンを乗せた馬車は、ロンドンの中心地、シティに向かって急いでいた。

普段であれば、この時間帯の通りは落ち着きを取り戻しているはずだが、今日は違った。

辻馬車が猛烈な勢いで行き交い、通りを歩く紳士たちの足取りも一様に慌ただしい。

誰もが不安気な顔で、すれ違う知人と短い言葉を交わしては、それぞれの目的地へ急いでいる。

「ナポレオン、フランスに上陸」

この数語の速報が、平和に慣れきっていたロンドン市民に与えた衝撃は計り知れなかった。

特に、国債や株を保有する資本家たちが集まるシティの動揺は凄まじかった。

馬車がスウィーティング・アレイの入り口に到着すると、パーシバルはすぐに降り立った。

この辺りはロンドン証券取引所の所在地であるカペル・コートに近く、ブローカーの事務所や投資家が集まるコーヒーハウスが密集している。

パーシバルは足早にダニエル・バーンズの事務所へ向かった。

事務所の扉を開けると、そこは戦場のような騒ぎだった。

若い書記たちが机にかじりつき、インク壺にペンを突っ込んでは猛烈な勢いで紙に数字を書き込んでいる。

外から飛び込んでくる使い走りの少年たちが、次々と情報を叫び、それに合わせて書記たちが記録を書き留めていた。

「ジョナサンのコーヒーハウスで売りが出た! 62ポンド!」

「ガロウェイの立会場も同じだ! 買い手がつかない、価格がどんどん落ちている!」

その喧騒の中心で、シャツの袖を捲り上げ、ひときわ大きな声で指示を出している男がいた。ブローカーのダニエル・バーンズである。

彼は入り口に立つパーシバルの姿を認めるや否や、目を見開き、周りの書記たちを押しのけるようにして駆け寄ってきた。

「シャルトン少佐!よくぞお越しくださいました!ささ、こちらへ!」

バーンズの顔は紅潮し、その目には異常なまでの興奮と歓喜が渦巻いていた。彼はパーシバルの手を取り、半ば引きずり込むようにして事務所の奥にある私室の応接室へと案内した。

重厚な扉が閉められ、外の喧騒がわずかに遮断されると、バーンズはたまらないといった様子で両手を突き上げた。

「神よ! いや、シャルトン少佐! あなたは預言者か、それとも悪魔と契約でも交わしたのですか!」

バーンズは部屋の中をぐるぐると落ち着きがなく歩き回りながら叫んだ。

「あの化け物が、本当にエルバ島を抜け出して本土に足を踏み入れるとは。

1月にお会いした時、私は少佐の話を論理としては理解しましたが、心のどこかでは若さゆえの大胆な賭けだと思っていたのです。

平和なロンドンで、これほどの事態を確信して全財産を売りに投じるなど、正気の沙汰ではないと。

……ですが、あなたの言った通りになった!」

「落ち着け、バーンズ氏」

パーシバルは用意されていた椅子に腰掛け、冷静に促した。

「私は事実と人間の野心を計算しただけだと言ったはずだ。それより、市場の状況を正確に教えてくれ。外の書記たちが叫んでいた通りか」

バーンズは大きく深呼吸をして、ようやくブローカーとしての顔を取り戻した。

彼は自分の机から乱雑に書き込まれたメモの束を持ってきて、パーシバルの向かいに座った。

「ええ、市場は完全な恐慌状態です。

今朝、政府の公式な発表がある前から、大陸からの早馬の情報を掴んだ連中が、一斉に公債の売りに出ました」

バーンズは手元のメモを指で弾いた。

「買い手は皆無です。平和の恩恵で上がり続けていたコンソル公債は、先週まで65ポンドを保っていましたが、今日の昼の時点ですでに62ポンドを割りました。

それでも誰も買おうとしない。

皆、これから始まる戦争の戦費調達のために、政府が新しい国債を乱発し、既存の公債の価値が紙屑になることを恐れているのです」

「予想通りの動きだ」

パーシバルは頷いた。

「問題は、どこまで下がるかだ。

パニックによる投げ売りは、いずれどこかで実需の買いに支えられて止まる。

その底値を見極めなければ、最大の利益は得られない」

パーシバルは、バーンズが平均66ポンドで16万ポンド分の売り契約を結んでくれたことを確認している。

現在の価格で買い戻したとしても、すでに数千ポンドの利益が出ている計算になる。

しかし、ナポレオンがこれからパリへ進軍し、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争の準備を始めれば、公債の価格はさらに下落するはずだ。

「シャルトン少佐。この投げ売りの状況下で、底値を予想するのは極めて困難です。

市場の連中は恐怖で合理的な判断を失っていますからな」

バーンズは顎をさすりながら言った。

「しかし、私は単なる恐怖の度合いだけで価格を測るつもりはありません。

資本の逃避先から、合理的な下値を計算することができます」

「資本の逃避先?」

「ええ。国債を売った連中も、その現金をただ金庫にしまっておくわけではありません。

彼らは、戦争の被害を受けにくく、かつ確実な利回りが得られる投資先を探します。

その最も有力な候補が、東インド会社の株式です」

バーンズは別の帳簿を開き、数字を示した。

「イギリスが大陸で戦争に巻き込まれても、インドの権益は揺るぎません。

東インド会社の株は現在、安定した配当を出しています。

投資家たちは、政府による利払いの停止や遅延のリスクがあるコンソル公債から、より安全な東インド会社へと資金を移し替えるはずです」

バーンズは羽ペンを取り、紙に素早く計算式を書き付けた。

「東インド会社の現在の株価と配当利回りを基準にします。

現在の東インド会社の株価は190ポンドで配当金は10.5ポンド、利回りは約5.5%です。

投資家が『これだけ安くなれば、戦争のリスクを背負ってでもコンソル公債を買った方が、東インド会社の配当よりも儲かる』と判断する分岐点。

……政府の利払い能力に対する市場の不信感を天秤に掛けると、コンソル公債の価格が『54ポンド』付近まで落ち込んだ時、ようやくリスクと利回りが釣り合います。

公債価格が54ポンドであれば実質利回りが約5.5%で東インド会社と同じになります」

バーンズはペンを置き、パーシバルを見た。

「つまり、いかにパニックが続こうとも、54ポンド程度まで下がれば、必ず利回り目当ての実需の買いが入り、下落は止まります。

私の経験と計算からは、そこが限界の底値だと推測します」

パーシバルはその説明を聞き、内心で強い衝撃を受けていた。

(……54ポンドだと)

パーシバルの脳内に眠る「記憶」が、バーンズの出した数字と符合していた。

パーシバルが知る過去の事実において、ナポレオンが復活してから戦いで決着がつくまでの間、コンソル公債の価格は50ポンド台半ば、およそ54ポンドから55ポンド付近で底を打ち、一進一退の攻防を続けていたはずである。

パーシバルは、自分が未来の歴史を知っているからこそ、その価格帯まで下落することを確信していた。

しかし、目の前のバーンズという男は違う。

彼は未来の知識など一切持っていない。ただ現在の市場に存在する数字、利回りの比較、そして投資家の心理という論理だけを積み上げ、パーシバルの知る事実の底値に寸分違わず辿り着いたのだ。

(これが、ロンドン金融街で生き抜いてきた本物のブローカーの力か)

パーシバルは、バーンズという男の能力を改めて評価した。

単なる胡散臭い仲買人ではない。彼は相場の本質を冷徹に見抜く、極めて有能な人物であった。

「見事な分析だ、バーンズ氏。あなたのその計算、全面的に信頼しよう」

パーシバルは静かに、しかし力強く言った。

バーンズの顔に、プロの仕事人として認められたことへの誇らしげな笑みが浮かんだ。

「お褒めにあずかり光栄です、シャルトン少佐。では、54ポンド付近での買い戻しを狙いますか?」

「いや、底値の完全な一点張りを狙うのは危険だ」

パーシバルは首を振った。

「相場というものは、底値の直前で反発することもある。

欲をかいて決済の機会を逃し、反転上昇に巻き込まれることだけは避けなければならない。安全圏を取りたい」

パーシバルはバーンズの目を見据えた。

「指定価格は56ポンドだ。

コンソル公債の価格が56ポンドまで下がった時点で、私の持つ16万ポンド分の売りをすべて買い戻し、タイム・バーゲンの精算を行ってくれ。

それ以上下がる分には構わない。確実に56ポンドで利益を確定させることが最優先だ」

売値の平均が66ポンド。買い戻しが56ポンド。

その差額は1単位あたり10ポンド。

額面100ポンドの公債を1,600単位(枚)売る、合計16万ポンド分の取引であれば、単純計算で1万6000ポンドという計算になる。

パーシバルにとって、十分すぎるほどの巨額な利益であった。

「56ポンドでの精算。確かに承りました」

バーンズは手帳に大きく指示を書き込んだ。

「市場のパニックは当分収まりません。ナポレオンがパリに近づけば近づくほど、売りは加速するでしょう。

ナポレオンを止めることができなければ、確実に56ポンドの壁を割る日が来ます。

その瞬間を逃さず、すべての注文を処理してみせます」

「頼りにしている。資金の精算が終わったら、すぐに知らせてくれ」

パーシバルは立ち上がった。

「頼むぞバーンズ氏。これから数週間、あなたはロンドンで最も忙しく、そして最も儲かるブローカーの一人になる」

「ええ、シャルトン少佐。あなたという恐るべき顧客を持ったおかげで、これほどまで大きな取引に関われて光栄です」

バーンズは頭を下げ、応接室の扉を開けた。

事務所の外には、依然として混乱に陥ったシティの怒号が響き渡っていた。

そして、パーシバルの心には自らの知識と、バーンズというプロの分析が合致したことで少しの安堵感が生まれた。

■1815年4月。

長い冬を抜けたロンドンであったが、その空気を満たしていたのは春の暖かさではなく、底知れぬ恐怖と混乱であった。

ナポレオンがエルバ島を脱出し、フランス南岸に上陸したという一報から数週間。

彼は王党派の軍隊を次々と寝返らせ、一発の銃弾も撃つことなくパリへ入城し、再びフランスの帝位に就いたのである。

のちに「百日天下」と呼ばれる期間の始まりであった。

※実際の期間は94日間から113日間の間で諸説ある。

もっとも、史実と日付に数日の乖離が発生しているため、ナポレオンの天下が100日で終わるとは限らないので、呼び名は変わる可能性もある。

この報せが海を渡ってイギリスにもたらされると、国内は完全な恐慌状態に陥った。

ブルームズベリーに位置するパーシバル・シャルトンの邸宅、その1階にある応接間では、家令のウィリアムがロンドン市内の惨状を報告していた。

「街はひどい有様です、旦那様。

商店という商店に人が押し寄せ、小麦粉や塩、石炭に至るまで手当たり次第に買い占めが起きております。

再びフランスとの長い戦争が始まり、大陸からの物資が途絶えると誰もが信じ込んでいるのです」

ウィリアムの整った顔立ちにも、疲労と緊張の色が濃く滲んでいた。

「貴族や資産家たちの動揺も尋常ではありません。

私が顔見知りになったメイフェアの邸宅の家令たちも、主人が怒鳴り散らして手がつけられないと嘆いておりました。

戦費調達のために新たな税金が課される、いや、そもそも国が破産して公債が紙屑になるのではないかと、皆が震え上がっております」

パーシバルはソファに深く腰掛け、静かに頷いた。

「無理もない。彼らはこれまで、政府の公債を買えば安泰だと信じてきたのだからな。

その信用が揺らいでいるのだ」

その時、玄関の呼び鈴が鳴り響いた。

ウィリアムが一礼して応接間を出ると、間もなく一人の男を伴って戻ってきた。

男は息を荒く切らし、額には大粒の汗を浮かべていた。

ブローカーのダニエル・バーンズである。

「シャルトン少佐! やりましたぞ!」

バーンズは挨拶もそこそこに叫び、興奮で赤く染まった顔をほころばせた。

「指示通り、すべての買い戻しを完了させました!

コンソル公債の価格は連日の投げ売りで底なしに落ちておりましたが、ご指定していただいた56ポンドで、16万ポンド分の売り契約をすべて精算いたしました!」

「よくやった、バーンズ氏。座ってくれ」

パーシバルはウィリアムに飲み物を用意するよう目で合図し、机の上に計算用の紙とペンを引き寄せた。

「さっそく計算をしよう。正確な数字を出す必要がある」

バーンズは息を整えながら、鞄から取引記録の束を取り出した。

「ええ、間違いありません。

少佐が1月下旬から2月にかけて公債を空売りした際の平均価格は、66ポンドでした。

そして今回、市場で公債を買い戻した価格が56ポンド。

つまり、1単位あたりの差額は10ポンドとなります」

パーシバルはペンを走らせた。

「その通りだ。そして取引の総額は公債の額面で16万ポンド分。

したがって、市場から得られた総差益は16,000ポンドとなるはずだ」

パーシバルが数字でその額を書き記すと、バーンズがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

「そこから、私への仲介手数料と、市場の決済日を延期するためにジョバーたちに支払った繰延手数料の計算になります」

バーンズは自身の取り分の計算書を差し出した。

「すべての経費と私の手数料を合わせて、ちょうど800ポンド頂戴いたします。

少佐が手にする利益に比べれば些末な額ですが、私にとってはブローカー人生で最大の稼ぎです」

「構わない。見事な仕事ぶりに対する正当な報酬だ」

パーシバルは16,000から800を引いた。

「総差益16,000ポンドから、あなたの手数料800ポンドを差し引く。

これで今回の空売りによる純利益は15,200ポンドでよいかな」

パーシバルは最後に、バーンズに預けていた証拠金の額を足し合わせた。

「私が保証金としてあなたに預けていた元本の8,000ポンドが戻る。

純利益の15,200ポンドと合わせれば、私の手元にある現金資産の総額は23,200ポンドということになる」

「23,200ポンド……!」

紅茶を机に置き終えて共に報告を聞いていたウィリアムが、思わず小さな声を漏らした。

バーンズは我が事のように興奮し、両手を叩いた。

「お見事です、シャルトン少佐!

貧乏な下級貴族が領地を丸ごと売り払っても手に入らないような、途方もない金額です!

それをわずか数ヶ月で稼ぎ出したのです。シティの連中が知れば、嫉妬で狂い死ぬでしょうな!」

「すべてはあなたの巧みな取引と今までの信用のおかげだ、バーンズ氏」

パーシバルはペンを置き、立ち上がった。

「今日は大いに祝おう。

ウィリアム、ミセス・ブラウンに上等なディナーの準備をさせてくれ。酒蔵から一番良いワインを出してくるんだ」

その日の夕食は、ブルームズベリーの邸宅の食堂で、バーンズを主賓として行われた。

ミセス・ブラウンが腕を振るった分厚いローストビーフに、濃厚なグレービーソースがかけられ、上質なポートワインがグラスに注がれた。

バーンズは800ポンドという巨額の手数料を確定させたことで終始上機嫌であり、シティの裏話や哀れな投資家たちの狼狽ぶりを大げさな身振り手振りで語り、食堂は笑い声に包まれた。

夜が更け、ほろ酔い気分のバーンズが馬車で帰路についた後。

パーシバルは一人、2階の書斎へと戻った。

ランプの火が静かに燃える中、彼は机の前に座り、先ほど「23,200ポンド」と書き付けた紙をじっと見つめていた。

祝杯の熱気もほどほどに、次の一手についてどうすればよいか悩んでいた。

(資金は確保した。だが、次の勝負はどうすべきか)

ナポレオンが復活した今、歴史は間違いなくあの「ワーテルローの戦い」へと向かっている。

パーシバルの記憶が正しければ、ウェリントン公爵率いるイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍が、ナポレオン軍を完膚なきまでに打ち破るはずだ。

その勝利の報せがロンドンに届けば、現在56ポンドまで暴落しているコンソル公債は、一転して猛烈な勢いで暴騰を始める。

もし、この手元にある23,200ポンドを再び証拠金として使い、今度は公債を「買う」契約で信用取引を仕掛ければどうなるか。

最大のテコをかければ、数十万ポンドもの取引が可能になる。

ウェリントン公爵の勝利が確定すれば、パーシバルは小国の国家予算にも匹敵するような、莫大な富を手にすることができる。

しかし。

パーシバルが羽ペンをインク壺に浸した手が、空中でぴたりと止まった。

(……本当に、ウェリントン公爵は勝てるのか?)

胸の奥底から、冷たい不安が湧き上がってくるのを感じた。

前年のトゥールーズ攻略戦で、パーシバル自身が最善を尽くし兵站管理を行った結果、イギリス軍の進軍は史実より早まり、ナポレオンの退位は「1週間」前倒しになった。

その1週間の歴史のズレが、これから起こる戦いにどのような影響を及ぼすのか、誰にも分からない。

正確な日付を覚えていないがナポレオンのエルバ島脱出とフランスへの帰還も数日ズレている気がする。

もし、決戦の日が雨が降る前の日に変わることにより、フランス軍の砲兵が泥に足を取られることなく本来の機動力を発揮したら。

もし、史実では間に合ったプロイセン軍の援軍が、史実通り戦場に到着しなかったら。

いや、そもそもナポレオンの行軍ルートが変わり、「ワーテルロー」という場所で決戦が起こらない可能性すらある。

信用取引で最大の取引を行うということは、予想が外れた場合に莫大な借金を背負う可能性がある。

もしウェリントン公爵が敗北すれば、公債は50ポンドを割り込むか、良くても値上がりをしない状態となるだろう。

その時、買いの契約を結んでいたパーシバルは、借金取りに追われ、フリート債務者監獄の冷たい石の床で一生を終えることになる。

「不確実な未来の勝敗に、全財産を懸けて信用取引を行うのはリスクが高すぎる気がする」

パーシバルは独り言を呟き、ペンを置いた。

勝つか負けるか分からない賭けに、自らの命運を委ねるわけにはいかない。

パーシバルは頭を切り替え、マクロな視点から国際情勢を再分析した。

現在、ナポレオンを包囲するために動いているのは、ウェリントン公爵の軍とプロイセン軍だけではない。

東からはロシア帝国軍の数十万という兵が、南からはオーストリア帝国軍の大軍が、国境を越えてフランスへと進軍を開始しているはずだ。

ナポレオンがどれほど天才的な軍事の采配を振るおうとも、三帝会戦(アウステルリッツの戦い)の時以上の戦力差であり、連合軍はナポレオン相手に油断はしないはずだ。

フランス一国で全ヨーロッパの連合軍を相手にすることは不可能である。

兵力、物資、そして資金。そのすべてにおいて、国力の差は歴然としていた。

(たとえ最初の決戦でウェリントン公爵が敗れたとしても、ロシア帝国とオーストリア帝国の物量が最終的にフランスを押し潰す。

ナポレオンの完全な敗北は、絶対の必然だ)

長期的な視点で見れば、イギリス側が勝利し、公債の価格が上昇することは揺るぎない事実なのだ。短期的な戦場の勝敗に一喜一憂し、破産のリスクを背負う必要はどこにもない。

パーシバルは結論を出した。

信用取引は行わない。手元の現金23,200ポンドを使い、コンソル公債を現物で購入する。

現物の公債であれば、証拠金を没収されたり、差額の借金を背負ったりする恐怖はない。

たとえウェリントン公爵が負けて一時的に公債価格が下がったとしても、手元には公債の証書が残る。

毎年確実な利払いを受け取りながら、ロシア軍やオーストリア軍がナポレオンを打倒する日を落ち着いて待てばいいのだ。

「現在、公債の価格はパニックで下がり続けている。

バーンズ氏の計算通りなら、54ポンド付近で下げ止まるはずだが……混乱に乗じれば、さらに安く買えるかもしれない」

パーシバルは新しい紙を引き寄せ、今後の指示を書き連ねた。

目標購入価格は、最安値付近である54ポンド。

23,200ポンドの資金を使って、市場に出回るコンソル公債の現物を静かに買い集める。

パーシバルは静かに目を閉じ、書斎の椅子に深く背中を預けた。

■1815年4月中旬。

ロンドンの新興高級住宅街、ブルームズベリーにあるパーシバル・シャルトンの邸宅。

その2階の書斎には、静かで重苦しい空気が漂っていた。

マホガニーの机の上には、今朝配達されたばかりのタイムズ紙が広げられている。

パーシバルは手元のインク壺の横に置いたティーカップには目もくれず、紙面に踊る活字を一つ一つ丁寧に目で追っていた。

新聞の国際面は、フランスの情勢に関する報道で完全に埋め尽くされていた。

エルバ島を脱出したナポレオンが、一発の銃弾も撃つことなくパリに入城し、ルイ18世が夜の闇に紛れて逃亡したという事実は、すでにロンドン市民の誰もが知るところとなっている。

しかし、日々もたらされる続報は、イギリスの読者をさらに絶望させるものばかりであった。

記事によれば、再び帝位に就いたナポレオンは、即座に軍隊の再編に着手しているという。

解雇されていたかつての古参兵たちを呼び戻し、国内の軍需工場を昼夜問わず稼働させ、凄まじい速度で戦力を回復させている。

そして、その軍勢の矛先がどこに向かうのか、新聞の論調は一致していた。

『僭称者ボナパルトの軍勢は、国境を越えてオランダ(現在のベルギー方面)へと進軍する準備を進めている』

当時のオランダ南部、すなわちフランデレン地方には、ウェリントン公爵が指揮を執るイギリス・オランダ連合軍が防衛のため、いずれ組織される。

ナポレオンが自ら軍を率いて北上してくるとなれば、大規模な会戦は避けられない。

「やはり、事態は私の記憶にある通りに進んでいる」

パーシバルは新聞から顔を上げ、小さく呟いた。

問題は、ここから先の展開である。

パーシバルは先日、公債の空売りを精算し、23,200ポンドという莫大な資金を手にした。

ブローカーのダニエル・バーンズは、この資金を証拠金として再び信用取引を行い、今度は公債の価格上昇(買い)に賭けて、さらに資産を何十倍にも増やすべきだと息巻いていた。

しかし、パーシバルは己の未来知識に頼り切ることの危険性も冷静に理解していた。

書斎の扉がノックされ、家令のウィリアムが静かに入ってきた。

「旦那様。ブローカーのダニエル・バーンズ氏が到着いたしました。1階の応接間にお通ししております」

「分かった。すぐに行く」

パーシバルが1階に降りると、バーンズは落ち着かない様子で応接間の中を歩き回っていた。

彼の顔には疲労の色が見えたが、その目には相場師特有のギラギラとした欲望の光が宿っている。

「シャルトン少佐殿! お呼びとあらばすぐに駆けつけますぞ」

バーンズはパーシバルの姿を認めるなり、大げさな身振りで挨拶をした。

「シティの状況は相変わらずです。

誰もがコンソル公債を売りたがり、価格は下がる一方だ。

しかし、これは我々にとって最大の好機です。

手元の23,200ポンドを証拠金として積めば、莫大な買いの信用取引を仕掛けられます。

ウェリントン公爵がフランス軍を打ち破れば、少なく見積もっても25万ポンド程度。

いや、もしかしたら50万ポンドを手にすることも可能ですぞ!」

バーンズの興奮をよそに、パーシバルは静かに椅子に腰を下ろし、彼にも座るよう手で促した。

「バーンズ氏、シティの空気に当てられて冷静さを失っているようだな。

結論から言おう。私は今後、信用取引を行うつもりはない」

「……はい?」

バーンズは虚を突かれたような顔をした。

「信用取引を行わない? では、あの23,200ポンドはどうされるおつもりで?

銀行の金庫で眠らせておくには、あまりにも惜しい資金ですぞ」

「銀行で眠らせるつもりはない。すべて市場に投入する。

ただし、私が買うのは現物のコンソル公債だ」

バーンズは呆気にとられたように口を半開きにした。

「現物、ですか。

証拠金としてレバレッジを掛けるのではなく、ただ額面通りに公債の証書を買い取るだけだとおっしゃるのですか。

それでは、利益は大幅に減りますぞ。なぜ、そんな手堅すぎる真似を?」

「手堅すぎるのではない。生き残るための合理的な判断だ」

パーシバルは机の上にウィリアムが置いたティーカップを手に取り一口飲んだあと、まっすぐにバーンズの目を見た。

「あなたはウェリントン公爵が勝つことを前提に話をしているが、もし公爵が負けたらどうなるか、考えたことはあるか」

「公爵が、負ける……?」

バーンズは信じられないというように首を振った。

「イギリス陸軍の至宝であるウェリントン公爵が、あのナポレオンに後れを取ると?

そんなことがあれば、ロンドンの市場は完全に崩壊します」

「その通りだ。公爵の軍は優秀だが、寄せ集めの連合軍でもある。

対するナポレオンの軍勢は、彼を熱狂的に支持する精鋭部隊だ。

戦場においては、天候一つ、伝令の遅れ一つで勝敗がひっくり返る。

もし、会戦で公爵が敗北し、軍を後退させるような事態になれば公債の価格は更に下落するだろう、信用取引でレバレッジを掛けて公債を買っていたら大変なことになる」

パーシバルは言葉を区切り、信用取引の恐ろしさを指摘した。

「信用取引には、指定された決済日がある。

もし公爵が敗北し、公債が下落したまま決済日を迎えれば、私はその差額を支払わなければならない。

手元の23,200ポンドは一瞬で没収され、さらに多額の借金を背負うことになる」

バーンズは反論しようと口を開きかけたが、パーシバルの理路整然とした説明に言葉を飲み込んだ。

「……しかし少佐殿。それでは、ナポレオンが勝つとお考えなのですか?」

「いや。最終的には我々が勝つ。中長期的には、ナポレオンの敗北は確実だ」

パーシバルは即座に断言した。

「新聞の報道に惑わされてはならない。ナポレオンがどれほど軍隊を集めようと、フランス一国の国力には限界がある。

現在、ヨーロッパの東からはロシア帝国軍の数十万の兵が、南からはオーストリア帝国軍の大軍が進軍を開始している。

たとえウェリントン公爵が一時的に後退を余儀なくされたとしても、一年、あるいは二年と戦争が長引けば、ロシアとオーストリアの圧倒的な物量と兵力が、必ずフランスを押し潰す。

これは感情論ではなく、数学的な事実だ」

パーシバルは机の上で両手を組んだ。

「戦争が終わり、真の平和が訪れれば、コンソル公債の価格は必ず元の水準、あるいはそれ以上に回復する。

つまり、途中の戦況がどうなろうと、長期的に見れば公債の価格は上がるのだ。

だからこそ現物を買う。現物であれば決済日の期限はなく、手元に証書がある限り、価格が下がっても破産することはない。

さらに、保有している間は毎年確実な利払いを受け取ることができる」

バーンズは沈黙し、パーシバルの論理を頭の中で反芻していた。

短期的な戦場の敗北による破産リスクを完全に排除し、大国同士の国力差という揺るぎない事実に基づき、長期的な勝利の果実だけを確実にもぎ取る。

それは投機ではなく、国家の運命を担保にした投資の論理であった。

「……パーシバル少佐の展望は、理にかなっている」

バーンズは深々と息を吐き出し、負けを認めるように頷いた。

「シティの連中は目先のニュースに一喜一憂し、恐怖で公債を投げ売りしています。

しかし、少佐殿はヨーロッパ全体の兵力図を見渡し、数年先の確実な未来を見据えておられる。

市場が悲観している時こそ、安全な現物を底値で拾い集める。それこそが、真の資本家のやり方です」

バーンズは自身の仕事用の手帳を取り出し、羽ペンを握った。

「承知いたしました。少佐殿の資金で、現物のコンソル公債を買い集めます。資金の配分はどうなさいますか」

パーシバルは事前に計算していた数字を告げた。

「手元にある23,200ポンドのうち、端数の200ポンドは当面の生活費や家の予備として銀行口座に追加しておく。残る23,000ポンドの全額を、公債の購入資金に充てる」

「23,000ポンドの現物買いですね。……買い付けの目標価格は」

「54ポンド以下だ」

パーシバルは冷徹な声で指示を出した。

「市場のパニックが頂点に達し、投資家たちが最も絶望に染まる瞬間を狙え。

前回、あなたが東インド会社の利回りから算出した底値は54ポンド付近だった。

だが、ナポレオンの軍がオランダに侵攻すれば、市場はさらに理性を失い、価格は一時的に54ポンド、あるいはそれ以下に突っ込むはずだ。

そこを逃さず拾い集めるのだ」

バーンズは手帳に「23,000ポンド」「54ポンド以下」という数字を書き込んだ。

「お任せください。

これほどまとまった現物の買い注文を一度に出せば、市場が勘付いて価格が跳ね上がってしまいます。

前回と同様、私が複数のジョバーを回り、買い手が誰であるか悟られないよう、極秘裏に、少しずつ買い集めてみせます」

「頼りにしているぞ、バーンズ氏。これが終われば、私はもはや相場を気にする必要すらなくなる。

ただ、屋敷で本を読みながら、連合国がパリを陥落させる日を待つだけでよくなるのだからな」

「ええ、まさにジェントルマンの振る舞いですな。

時間を頂きますが、必ずや54ポンド以下で、市場の公債を吸い上げてご覧に入れます」

バーンズは不敵な笑みを浮かべ、手帳を懐にしまった。

パーシバルは立ち上がり、バーンズと固い握手を交わした。

これで、自らの資産を守りつつ、将来の確実な莫大な利益を確定させる手はずは整った。

戦場における大砲の配置や、兵站の輸送計画と同じだ。

不確定要素を排除し、論理と物量で勝利を約束された陣形を構築する。

パーシバルにとっての金融市場での戦いは、この指示をもって実質的に完了したと言ってよかった。

(歴史がどうズレようとも、私の資産は安全な場所に置かれた。

あとは、ウェリントン公爵が、自身の役割を果たしてくれるのを祈るだけだ)

バーンズが意気揚々と邸宅を去っていくのを見送りながら、パーシバルは静かな安堵の息を吐いた。

■1815年4月下旬。

ブルームズベリーの邸宅は、ロンドン市内の騒がしさとは無縁の静寂を保っていた。

パーシバル・シャルトンが保有資産の大部分を現物のコンソル公債購入に切り替えるようブローカーのバーンズに指示を出してから、およそ1週間が経過していた。

買い集めの報告はまだないが、焦る必要はない。

市場が恐慌状態にある中、バーンズが慎重に底値で拾い集めている最中のはずだ。

パーシバルは書斎で静かに新たな本の執筆を楽しんでいた。

そこへ、家令のウィリアムが銀のトレイを手にして入ってきた。

トレイの上には、一通の手紙が載せられている。

「旦那様、郵便でございます。ただ、いつもの銀行や商人からのものではございません。

軍の急使が直接この屋敷まで届けに参りました」

ウィリアムの声には、微かな緊張が含まれていた。

パーシバルはペンを置き、手紙を受け取り、封蝋に押された紋章を見た瞬間、彼の目は僅かに見開かれた。

それはイギリス軍の最高司令官であり、現在はオランダのブリュッセルで連合軍の編制に奔走しているはずの、アーサー・ウェルズリー、すなわちウェリントン公爵その人からの親書であった。

パーシバルはペーパーナイフで慎重に封を切り、中に入っていた2枚の便箋を取り出して目を通した。

1枚目の便箋には、ウェリントン公爵直筆の力強い筆致で、次のように記されていた。

『シャルトン少佐。君が2月に送ってくれた一冊の本を、このブリュッセルの陣営で読ませてもらった。あの分厚い論考に目を通す時間を作れたのは幸運だったと言わざるを得ない』

ウェリントン公が言及しているのは、パーシバルが退役後の余暇を利用して執筆し、私費で製本して関係各所に献本した論文のことである。

そのタイトルは『軍隊の移動と維持に関する論考:戦場における兵站の科学的体系化、および輸送効率の向上による国庫負担の軽減について』という、ひどく長ったらしく硬いものであった。

パーシバルはこの論文を、来るべき平和な時代の「布石」として執筆した。

当時のイギリス軍において、大半の貴族将校たちは騎兵の突撃や歩兵の陣形といった華々しい戦術ばかりを重んじ、兵士の食料や弾薬を輸送する「兵站(補給)」の任務を下賤な仕事として軽視していた。

輸送は現地での調達や略奪に頼る部分が多く、組織的な管理が全くなされていなかったのである。

パーシバルはそこに、未来の知識である近代的なロジスティクスの概念を持ち込んだ。

大砲の重量、馬の消費する飼料の量、輸送にかかる日数などをすべて明確に数字で定義し計算し、さらに半島戦争での実務経験に基づく「金銭的なボーナスによる兵士の規律維持」や「空の荷馬車の効率的な運用法」を分かりやすく体系化してまとめた。

パーシバルの思惑はこうだった。

戦争が終わり、軍縮と予算削減が政治の主要な議題となった時、この論文が政府の高官や官僚の目に留まれば、自分は「軍事経済と兵站の専門家」としての地位を確立できる。

それは、民間人となった彼がイギリスの支配階級の中で権威を得るための、完璧な足場になるはずだった。

しかし、状況は劇的に変わってしまった。

ナポレオンがエルバ島を脱出し、再びフランスの帝位に就いたのである。

ウェリントン公の手紙はこう続いていた。

『現在、私はここに集まりつつある多国籍の連合軍を食わせ、武装させるという極めて困難な仕事に直面している。

我が軍の補給システムは相変わらず各部門がバラバラに動いており、非効率の極みだ。

そんな中、君の論考は、まさに現在我々が直面している問題を解決するための、極めて実践的で優れた手引書である。

君の指摘する中央集権的な輸送管理と、数字に基づく事前計算の重要性に、私は完全に同意する』

パーシバルは顔をしかめた。

これは転生者である彼ならではの、致命的な誤算であった。

時代を先取りした理論を「戦後の学術的な提言」として提示したつもりが、戦争が再開されたことで、実務家であるウェリントン公爵から「目前の戦争に今すぐ使える即戦力の解決策」として高く評価されてしまったのだ。

有能な司令官であればあるほど、戦場において最も重要なのは戦術よりもまず「兵站」であることを骨の髄まで理解している。

自らの首を絞める結果になった皮肉に、パーシバルは奥歯を噛み締めた。

そして、2枚目の便箋。そこには短い文章が記されていた。

『ついては、君のその卓越した頭脳と経験を、再び我が軍のために活かしてもらいたい。

書面を受け取り次第、至急ロンドンのホース・ガーズ(陸軍総司令部)に出頭し、指示を仰ぐように』

事実上の召集令状であった。

パーシバルは手紙を机の上に置き、深々と、そしてひどく憂鬱なため息をついた。

現在の彼は軍の現役を退いており、表向きは自由な民間人である。

大尉の任官権はすでに売却し、残っているのは実体のない「名誉少佐」という肩書きだけだ。

法的にはこの召集を拒否し、田舎に引きこもる権利はある。

しかし、当時のイギリス社会の現実において、その選択肢は事実上存在しなかった。

相手は国家の英雄であり、イギリス軍の最高権力者であるウェリントン公爵である。さらに言えば、パーシバルが24歳という若さで名誉少佐という破格の地位を得られたのも、ビトリアの戦いで国庫を守った彼を公爵が個人的に高く評価し、推挙してくれたからに他ならない。

当時の社会構造は、有力なパトロン(後援者)との繋がりがすべてであった。

もしここでウェリントン公からの直接の要請を袖にすれば、パーシバルは「恩知らずの臆病者」という烙印を押され、ロンドンの社交界やジェントルマン階級から完全に追放されることになる。

金融街(シティ) の銀行家たちでさえ、パーシバルの背後にあるウェリントン公爵の威光を理解しているからこそ、数万ポンドの取引を認めているのだ。

ここで社会的な信用を失えば、資本家としての彼の生命も終わる。

「……断ることは、できないな」

パーシバルは誰にともなく呟き、重い腰を上げた。

「ウィリアム、いるか」

パーシバルが声をかけると、廊下に控えていたウィリアムがすぐに書斎に入ってきた。

「はい、旦那様。いかがなさいましたか」

「クローゼットの奥にしまってあるトランクから、私の軍服を出してくれ。アイロンをかけ、真鍮のボタンを磨いておくように」

ウィリアムの顔に驚きの色が広がった。

「軍服、でございますか?

しかし、旦那様はすでに現役を退かれ、立派な資本家としてロンドンに居を構えられたはず。

まさか、再び軍に戻られるのですか。それも、このナポレオンが迫っているという時期に」

ウィリアムもかつてパーシバルと共に戦場の泥濘を歩いた身である。

戦争の大変さと、そこに戻ることの危険性を十分に理解していた。

「私個人としては、書斎で本でも書きながら、バーンズが公債を買い集めてくれるのを待っていたかったのだがな」

パーシバルは自嘲気味に笑った。

「どうやら、最高司令官閣下は私をそのまま放っておいてはくれないらしい。

私が余計な本を書いて送りつけたせいで、藪をつついて蛇を出してしまったようだ」

「それでは、旦那様は再び海を渡り、オランダの前線へ向かわれるのですか?」

ウィリアムの表情が険しくなる。

名誉少佐という階級であっても、前線に出ればフランス軍の大砲の弾は階級を問わずに飛んでくる。

「そうならないように立ち回るつもりだ。公爵の手紙には、まずロンドンの総司令部に出頭せよとある。前線での実戦指揮ではなく、後方での兵站管理を求められていると信じたい」

パーシバルは机の上の新聞を片付けながら言った。

「すぐに身支度を整える。馬車の手配も頼む。行き先はホワイトホールのホース・ガーズだ」

「かしこまりました。大至急準備に取り掛かります」

ウィリアムが急ぎ足で部屋を出て行った後、パーシバルは窓際に立ち、ブルームズベリーの静かな通りを見下ろした。

金融市場という計算可能な戦場においては、自らの資金を現物という安全圏に退避させることに成功した。

しかし、現実の歴史という巨大な渦は、容赦なく彼をその中心へと引き戻そうとしている。

彼が武器とする未来の知識が、皮肉にも彼自身の立場を危険に晒す結果となった。

1時間後。

完璧に手入れされた赤い軍服に身を包んだパーシバルは、馬車に乗り込んだ。名誉少佐の記章が、春の薄日を受けて鈍く光っている。

「よろしいですか、旦那様」

御者台に座るスローターが声をかけた。

「ああ、出してくれ」

馬車はゆっくりと動き出し、ロンドンの中枢部であるホワイトホールへ向けて石畳を進み始めた。

パーシバルは馬車の座席に深く寄りかかり、再び重いため息を漏らした。

これから向かうホース・ガーズには、彼が論文で批判した旧態依然の補給システムを牛耳る、無数の保守的な将官や官僚たちがひしめいているはずだ。

もし彼らに混じって仕事をすることになれば、それは前線でフランス軍と撃ち合うのと同じくらい、精神をすり減らす過酷な戦いになるだろう。

現物の底値買いという資本家としての完璧な布陣を敷いたパーシバル・シャルトンは、予期せぬ一通の召集状により、再び大英帝国陸軍という巨大な組織の歯車の中へと、自らの意思とは無関係に組み込まれていったのである。

■1815年5月初旬。

ロンドンのホワイトホール通りに建つ陸軍総司令部、通称「ホース・ガーズ」の石造りの建物内は、目前に迫ったフランスとの戦争に向けた慌ただしさに包まれていた。

廊下には書類の束を抱えた伝令や下級将校たちが早足で行き交い、あちこちの執務室からは怒鳴り声にも似た指示が飛んでいる。

パーシバル・シャルトンが、ウェリントン公爵からの召集状を手にこのホース・ガーズに出頭してから、すでに数日が経過していた。

彼は現在、窓から中庭の衛兵の交替儀式を見下ろせる、狭いが個室を与えられている。

与えられた役職は兵站総監部付・特別副官。階級はこれまで通り、名誉少佐である。

パーシバルは自身の執務机に座り、山のように積まれた部隊の補給要請書に目を通しながら、内心で深い安堵の息を吐いていた。

(何とか、最悪の事態だけは免れた)

ウェリントン公爵からの召集状を受け取った時、パーシバルが最も恐れていたのは、オランダのブリュッセルにある最前線の司令部へと送り込まれることであった。

いくら司令部とはいえ、前線であればフランス軍の砲弾が飛んでくる可能性がある。

ナポレオンが指揮を執る軍隊との直接対決など、平和に長生きをしたいと考えているパーシバルからすれば御免被りたい事態である。

しかし、ホース・ガーズに出頭して命じられたのは、ロンドンに留まり、後方から前線への補給システムの改善にあたるという任務であった。

泥まみれの野営地で眠る必要もなく、大砲の弾に怯えることもない。

毎日、ブルームズベリーの快適な邸宅から馬車で通い、屋根のある安全な部屋で数字と書類を相手に机仕事をするだけで済むのである。

パーシバルにとって、これほどありがたい配置はなかった。

「シャルトン少佐」

ノックの音とともに、若い尉官が執務室に顔を出した。

「ゴードン少将閣下が、貴官をお呼びです。すぐに長官室へ向かってください」

「分かった。すぐに行く」

パーシバルは書類を揃えて立ち上がり、軍服のシワを伸ばした。

ジェームズ・ウィロビー・ゴードン少将。彼こそが、ホース・ガーズにおける兵站部門の実務トップであり、パーシバルの直属の上官となる人物である。

パーシバルは廊下を歩き、重厚なオーク材の扉を開けて長官室へと足を踏み入れた。

部屋の中は、むせ返るような葉巻の煙と、床から天井まで届きそうなほどの書類の山で埋め尽くされていた。

巨大な執務机の奥で、その書類の山と格闘している初老の軍人がゴードン少将であった。

彼は軍服の襟を緩め、髪を振り乱しながらペンを走らせている。

華々しい戦歴を誇る前線の将軍というよりは、有能で神経質な事務官僚といった風情である。

しかし、書類から顔を上げた彼の眼光は、極めて鋭く、冷徹な知性を宿していた。

「よく来た、シャルトン少佐。掛けたまえ」

ゴードン少将は葉巻を灰皿に置き、目の前の椅子を指した。

「ここ数日、各部隊から上がってくる補給の要請書に目を通してもらっていたが、どうだ。我々の仕事の惨状が理解できたか」

「はい、閣下。各連隊が要求する物資の量と、実際に港から送り出されている物資の量に、絶望的な乖離があることは確認いたしました。

これでは前線の兵士は弾薬どころか、パンすら事欠くことになります」

パーシバルは率直に答えた。

ゴードン少将は皮肉げに口角を上げた。

「その通りだ。ウェリントン公爵からは、連日のように『弾薬を送れ』『軍靴を送れ』と催促の手紙が届いている。

だが、ロンドンの倉庫には物資があるというのに、それが海を渡って大陸へ届かないのだ。

……君の書いたあの論文の通りにな」

少将は机の隅に積まれていた本の一冊を引っ張り出した。それは、パーシバルが2月に私費で出版し、ウェリントン公爵にも送った『軍隊の移動と維持に関する論考』であった。

「公爵から君を特別副官に任命するよう指示があった時、私もこの本を読ませてもらった。

兵站というものを、精神論ではなく徹底した数字と資金の運用で捉える視点は、我が軍の将校にはないものだ。

半島戦争での君の実務経験がよく活かされている。公爵が君をロンドンに呼び寄せた理由が、よく分かったよ」

「恐縮です、閣下。しかし、あれはあくまで平時における理論をまとめたものに過ぎません」

「理論で十分だ。今のホース・ガーズには、その理論すら存在しないのだからな」

少将は再び葉巻に火をつけ、深く煙を吸い込んだ。

「シャルトン少佐。君の目から見て、現在の我が軍の補給における最大の問題点は何だと思う。物資の不足か、それとも資金の不足か」

パーシバルは躊躇することなく答えた。

「どちらでもありません。最大の問題は、補給の権限が複数の役所に分割され、連携が全く取れていないことです。

つまり、組織の構造そのものに致命的な欠陥があります」

ゴードン少将の目が僅かに見開かれた。彼は黙って続きを促した。

「現在の軍の制度では、兵士の食料と軍資金の手配は『大蔵省』の管轄です。

一方で、大砲や銃、火薬といった兵器の調達は『兵站局』が握っています。

そして、それらの物資をイギリス本国から海を渡って運ぶための輸送船は、『海軍輸送部』が手配することになっています」

パーシバルは事実を淡々と並べ立てた。

「この3つの組織は、互いに独立しており、情報も共有されていません。

その結果、何が起きているか。大蔵省が小麦を用意しても、海軍が船を出さなければ港で腐ります。

海軍が船を用意しても、兵站局が大砲の積み込みをモタモタしていれば、船はいつまでも出航できません。

誰が、いつ、何を、どれだけ前線に届けるのか、全体の進行を管理する人間が一人もいないのです」

ゴードン少将は重いため息をつき、灰皿に葉巻の灰を落とした。

「君の言う通りだ。私は毎日、大蔵省の役人に頭を下げ、兵站局の連中を怒鳴りつけ、海軍の提督に嫌味を言われている。

皆、自分の管轄の仕事しか頭になく、責任を押し付け合うばかりだ。

我々はフランス軍と戦う前に、このホワイトホールの中で内輪揉めをしている」

当時のイギリス行政において、各省庁の権限争いは深刻であった。

特に海軍は陸軍を見下す傾向があり、陸軍の要求通りに輸送船を動かすことを嫌がっていた。

また、大蔵省は少しでも予算を削ろうと、物資の購入許可を遅らせることが常態化していたのである。

「閣下。このままの体制で補給を続ければ、必ずどこかで破綻します。

ウェリントン公爵の軍は、フランス軍と会戦を行う前に飢えと弾薬不足に陥ってしまいます」

パーシバルは少将の目を真っ直ぐに見据えた。

「この致命的な欠陥を解決するためには、各部門の管轄を取り払い、ロンドンから前線までの輸送を一元的に管理する組織が必要です」

「一元管理、と言うがね」

少将は難色を示した。

「何百年も続いてきた役所の縄張りを、そう簡単に壊せるものではない。

大蔵省の役人たちが、素直に我々陸軍の指揮下に入るとでも思うか」

「彼らを陸軍の指揮下に入れるのではありません。各部門の代表を一つのテーブルに座らせ、強制的に情報を共有させるのです」

パーシバルは自身の計画を口にした。

「私からの提案です、閣下。大蔵省、兵站局、海軍輸送部のそれぞれから実務の責任者を呼び出し、ホース・ガーズ内に『統合輸送調整委員会』を設置してください。

そして、閣下ご自身がその委員長に就任するのです」

「私が、委員長に?」

「はい。そして私は、閣下の特別副官として、その委員会の実務と書記を担当します。

各部門から上がってくる物資の量と船の数をすべて計算し、いつ、どの船に、何を積み込むかのスケジュールを私が作成します。

委員会の場では、そのスケジュール通りに動くことだけを各部門に合意させるのです」

パーシバルはさらに言葉を継いだ。

「もちろん、彼らは渋るでしょう。自分の権限が奪われると感じるはずです。

しかし、我々には最強の武器があります。ウェリントン公爵の威光です」

パーシバルはウェリントン公爵からの手紙を思い出しながら言った。

「公爵は今、補給の遅れに激怒しておられます。

もし各部門の責任者がこの委員会への参加を拒み、その結果として前線への物資が滞れば、それはウェリントン公爵への反逆とみなされます。

公爵の怒りを直接買うことを恐れない官僚は、ロンドンには一人もいません。閣下は、公爵の代理人として彼らを恫喝……失礼、説得すればよいのです」

ゴードン少将は、目の前の若い名誉少佐をまじまじと見つめた。

年齢はまだ20代前半。しかし、その口から語られる言葉には、戦場の野蛮さとは無縁の、極めて合理的な政治と行政の計算が働いていた。

ウェリントン公爵の権威を盾に取り、役所同士の縄張り争いを強制的に突破し、補給のスケジュールを統制する。

それはまさに、少将自身がやりたくても政治的な壁に阻まれて手を出せなかった改革そのものであった。

少将は机の上の書類の山を睨みつけ、やがてゆっくりと頷いた。

「シャルトン少佐。君のその提案、乗ろうではないか」

少将は立ち上がり、執務机を拳で強く叩いた。

「ウェリントン公爵が大陸で命を懸けている時に、ロンドンの役人どもに平時の縄張り争いをさせておくわけにはいかん。

私が全責任を持って、大蔵省と海軍に掛け合い、実務責任者をこのホース・ガーズに引きずり出してくる。

統合輸送調整委員会の設置は、私の権限で即決する」

「英断に感謝いたします、閣下」

パーシバルも立ち上がり、姿勢を正した。

「ただし、少佐。委員会を作っただけでは何も荷物は動かんぞ。

各部門から出される膨大な数字を整理し、港で船が滞りなく出航するための輸送計画を立てるのは、君の仕事だ。

今日から、自宅でゆっくり眠れるなどとは思わないことだ」

少将の言葉には、確かな信頼と、戦友に向けるような厳しい響きが含まれていた。

「承知いたしました。数字とスケジュールの管理は、私の最も得意とするところです。

前線に十分なパンと弾薬を送り届けるため最善の努力を致します」

パーシバルは深く一礼し、長官室を後にした。

砲弾の飛び交う前線を回避した代償として、彼にはこれから、ロンドンの官僚たちという強固な壁を相手にした、もう一つの熾烈な戦争が待ち受けている。

しかし、その戦いは彼にとって、武器を持たずに数字と論理だけで戦える、最も望ましい戦場でもあった。

パーシバル・シャルトンによるイギリス軍後方支援の改革が、今まさに始まろうとしていた。

■1815年5月中旬。

ロンドンのホワイトホールに位置する陸軍総司令部、通称ホース・ガーズのある会議室で、かつてない画期的な試みが始まろうとしていた。

ジェームズ・ウィロビー・ゴードン少将の並々ならぬ政治力と、ウェリントン公爵という絶対的な最高司令官の威光を背景に、これまで決して同じ机に着くことのなかった各省庁の実務責任者たちが一堂に集められたのである。

大蔵省の食料および軍資金調達部門、兵站局の兵器や弾薬管理部門、そして海軍輸送部の担当官。

彼らによって構成される「統合輸送調整委員会」の第2回会議が、今まさに開かれようとしていた。

その会議に先立ち、パーシバル・シャルトン名誉少佐はゴードン少将の長官室で、今回の最大の目玉となる改革案について最終の打ち合わせを行っていた。

「閣下、本日の委員会で必ず承認を得ていただきたい事項があります。それは、輸送船の出航ルールの変更です」

パーシバルは自ら作成した膨大な資料の束を机に置きながら言った。

「出航ルールの変更だと?」

ゴードン少将は葉巻をくわえながら怪訝そうな顔をした。

「現在、テムズ川や南部の港から大陸へ向かう輸送船は、どのように出航のタイミングを決めているかご存知でしょうか。

答えは『船倉が荷物で満杯になるまで』です。

大蔵省の小麦が積まれても、兵站局の大砲が届くまで何日も港で待機している。

さらに風待ちで停泊している船も多いです。

これが常識となっています。私はこれを、最大の非効率であると考えています」

「船を出す以上、荷物を満載にしなければ船賃の無駄になるからな。

海軍の輸送部としては当然の理屈だろう」

「平時の商人であればそれで構いません。

しかし、今は戦争です。船が満杯になるのを待っている間、前線の部隊は昨日届くはずだったパンと弾薬を待ちわびて飢えているのです。

風待ちで停泊はやむを得ないですが、積荷待ちをしていては前線への物資輸送が途切れてしまいます」

パーシバルは数字が書き込まれた一枚の紙を少将の前に差し出した。

「私が提案するのは、大陸への補給物資輸送におけるタイムスケジュールの導入です。

荷物の量に関わらず、定められた日の前後で風が順風であったら、必ず輸送船を出航させます。

たとえ船倉が半分空であろうと、時間になれば港を出るという定刻運行の概念です」

少将は目を丸くした。

「積載量を無視して時間通りに船を出すというのか。海軍の連中が船の無駄遣いだと激怒するぞ」

「激怒させておけばよいのです。

定刻運行の最大の利点は、受け入れる大陸側の港のキャパシティを平準化できることです。

一度に大量の物資が大陸側の港に届いても、積み下ろしをできる能力には限りがあります。

送る側は良くても受け取る側は、断続的に大量の物資が届くことは大きな負担となっております。

さらに、前線のウェリントン公爵に物資が全く届かない期間を無くすこともできます」

パーシバルはさらに踏み込んだ。

「現在、使用可能な輸送船と民間商船をすべてリスト化しています。

定刻で出航した輸送船に間に合わず、港に滞留する物資が出た場合は、すぐさま予備の民間商船を徴用して積み込み、前線への輸送を継続します。

商船を徴用されれば民間商人からの反発は避けられませんが、今は国家の非常事態です。

多少のクレームは許容し、無視して強行するしかありません」

ゴードン少将はパーシバルの説明を聞き、口元に微かな笑みを浮かべた。

「船を満杯にするのではなく、川の流れのように物資を流すために船を動かす……。

全くもって常識外れだが、ウェリントン公爵が聞けば間違いなく諸手を挙げて賛成するだろう。

分かった、シャルトン少佐。私がこの案を委員会で押し通す。

君はあくまで私の補佐として会議に同席し、私が説明を求めた時にだけ答えてくれ」

「承知いたしました。私は裏方に徹します」

そして、会議室での統合輸送調整委員会が始まった。

ゴードン少将が上座に座り、パーシバルはその斜め後ろの控え席に陣取った。

テーブルを囲む大蔵省、兵站局、海軍輸送部の担当官たちは、互いに牽制し合うような刺々しい空気を漂わせている。

「諸君、忙しいところ集まってもらい感謝する」

ゴードン少将は威圧的な声で口火を切った。

「現在、ウェリントン公爵率いる連合軍はオランダに集結しつつある。

だが、本国からの物資輸送が遅々として進んでいない。

公爵からの書簡には、ロンドンに対する強い憤りが綴られていた。我々はこの事態を早急に改善せねばならない」

少将は各部門の担当官を鋭く見渡した。

「大蔵省の食料と軍資金、そして兵站局の兵器調達は、すべて一つのタイムスケジュールに基づいて港に輸送してもらう。

そして海軍輸送部は、そのスケジュール通りに船を出す。

荷物が揃うのを待つ必要はない。時間になれば、船倉が積荷で半分しか埋まっていなくても出航させる。

これが新しいルールだ」

予想通り、真っ先に反発したのは海軍輸送部の担当官だった。

「お待ちください、ゴードン少将! 荷物を満載せずに船を出すなど、船と船乗りの無駄遣いですぞ!」

「前線に弾薬と食料が届かない状態でナポレオンとの戦争に勝てるか!」

ゴードン少将は机を叩いて一喝した。

「これは平時の商取引ではない。国家の存亡を懸けた戦時の特例だ。

それに、船の無駄遣いというが、港で何日も停泊させている間の維持費と、前線で作戦が遅延する事による国庫の損失を計算したことがあるか?

……シャルトン少佐」

急に話を振られ、パーシバルは立ち上がった。

「はい、閣下」

「海軍輸送部に、定刻運行による全体の効率化について数字で説明して差し上げろ」

パーシバルは手元の資料を開き、感情を一切交えない平坦な声で話し始めた。

「現在の『満杯待機方式』では、港での平均待機日数が8日間に及びます。

この間、大蔵省から送られた小麦の一部は湿気で劣化し、再調達の費用が発生しています。

一方、『定刻運行方式』を採用した場合、輸送船1隻あたりの積載率は低下しますが、月間の総輸送回数は現在の1.8倍に増加します。

前線での作戦遅延による1日あたりの軍資金の消費を1万ポンドと仮定した場合、定刻運行にかかる追加の船賃や徴用費用を差し引いても、国庫全体では月に約5万ポンドの経費削減が見込めます」

具体的な数字と「国庫の経費削減」という言葉を出されたことで、大蔵省の担当官の目の色が少し変わった。

海軍輸送部の担当官はまだ不満そうであったが、パーシバルの理路整然とした説明に反論の言葉を見つけられずにいた。

パーシバルは自ら進んで発言することはせず、質問に答えた後は再び黙って席に座った。

ゴードン少将は辣腕を振るい、畳み掛けるように言った。

「これはウェリントン公爵の強い意向でもある。

もしこの特例に異議があり、前線への補給が滞った場合、その責任は各部門の怠慢として公爵から直接国王陛下に報告されることになるだろう。

……それでも異議がある者はいるか?」

「ウェリントン公爵の意向」という言葉は、ロンドンの官僚たちに対する最も強力な脅しであった。

公爵が敗北すれば自分たちの責任にされかねないという恐怖が、省庁間の縄張り争いという分厚い壁に亀裂を入れた。

長い沈黙の後、大蔵省の担当官が渋々ながらもスケジュールを明確にすることに同意し、それに続いて兵站局内での兵器調達の調整が約束され、最後に海軍輸送部の担当官が委員会が定めたスケジュール通りに輸送船を運行することに合意した。

「よろしい」

ゴードン少将は満足げに頷いた。

「大蔵省と兵站局は、早急に今後1ヶ月の港への物資到着予定を提出して欲しい。

委員会はそれに基づき、海軍に船の手配を指示する。

予定に遅れた部署の責任は厳しく問うものと心得よ」

会議が終わると、パーシバルは誰よりも早く退室し、自身の執務室へと戻った。

彼はあくまで裏方であり、手柄はすべてゴードン少将のものであるべきだ。

彼が目立つことは、嫉妬や余計な反発を生むだけである。

しかし、合意を得たからといって仕事が終わるわけではない。

むしろ、ここからが過労の始まりであった。

統合輸送調整委員会という新しいシステムを回すためには、各省庁から上がってくる膨大で不正確なデータを処理し、帆船の風待ちを考慮したタイムスケジュールに落とし込む必要がある。

夜。

ホース・ガーズの大半の将校が帰宅し、建物内が静まり返る中、パーシバルの執務室だけはランプの灯りが煌々と灯っていた。

「兵站局からの報告書……大砲の門数だけで重量が不明。もし9ポンド野砲であったら1門あたり約2トン。これでは指定された船の喫水線を越えてしまうかもしれない」

パーシバルは書類に赤いインクで修正を書き込み、頭を抱えた。

「大蔵省の資金調達予定も遅れている。明後日出航の船に載せる予定の軍資金が港に届いていない。

……一人では手に負えないな、他の士官に任せるか」

あまりの負荷にパーシバルは苦笑した。

ブルームズベリーの邸宅にいれば、ウィリアムが温かい紅茶を淹れてくれただろう。

だが今の彼は執務室で、陸軍の旧態依然とした書類の山と格闘しなければならない。

翌日出勤すると、パーシバルの机には各部門からのクレームや問い合わせが殺到した。

補佐についてくれた少尉が問い合わせのクレームや問い合わせの内容を報告する。

「海軍の船長が、積載量が少ないまま出航することに不満を漏らしています」

「兵站局から、馬具の調達が予定より3日遅れるとの報告がありました」

「ロンドン港の民間商人から、商船の徴用に対する抗議の手紙が届いております」

パーシバルはこれらすべてを一つ一つ確認し、対策を講じた。

馬具の遅れには、次発の船のスペースを確保して対応する。

民間商人からの抗議には、国家非常事態権限に基づく定型の返書を送りつける。

海軍の船長には、ゴードン少将の名前を使った強硬な命令書を発行する。

彼は休む間もなく頭を回転させ、数字を書き連ね、面倒ところは配下の尉官たちに割振り少しでも効率的に前線へ物資が運ばれるように尽力する。

「シャルトン少佐、少しは休んだらどうだ。顔色が悪いぞ」

見かねたゴードン少将が執務室に顔を出して声をかけた。

「最初が肝心ですので休む暇はありません、閣下。

大蔵省からの乾パンの到着が遅れており、予備の荷馬車を緊急で手配しているところです。

ここでタイムスケジュールを崩せば、海軍が再び船を止める口実を与えてしまいます」

パーシバルはペンを止めることなく答えた。

パーシバル・シャルトンの生活は、莫大な資産を持つ優雅な資本家から一転し、イギリスの官僚機構の泥沼を這い回る激務の日々へと変貌していた。

深夜のホース・ガーズで一人、インクの匂いと書類の埃にまみれながら、彼は前線で戦う連合軍が勝利をするためにロンドンから絶え間なく物資を送り届ける戦いを続けていたのである。

■1815年5月下旬。

ロンドン、ホワイトホール通りにある 陸軍総司令部(ホース・ガーズ) の一室。

窓の外には初夏の陽光が降り注いでいたが、統合輸送調整委員会の会議室は、ひどく淀んだ空気と剣呑な熱気に満ちていた。

パーシバル・シャルトン名誉少佐が考案した「定刻運行」と「タイムスケジュール」による輸送方式は、理論上は効率的であった。

計算上では、必要な物資が必要な日時に港を出発し、ドーバー海峡を渡ってオランダのオステンド港に到着するはずであった。

しかし、一見効率的な方式で実際に動かす段になって、パーシバルはイギリス行政の深く根強い病巣に直面することになった。

セクショナリズム(縦割り行政)という名の、巨大で強固な壁である。

「我々海軍輸送部は、指定された期日通りにポーツマス港に輸送船を3隻手配しました。

しかし、陸軍の荷物は一向に積み込まれない。

これでは船と水夫の給金の無駄遣いです。海軍は陸軍の都合で船を遊ばせておくわけにはいきません。

明日にでも出航命令を取り消しますぞ」

海軍輸送部の担当官が、苛立たしげにテーブルを叩いて声を荒らげた。

それに対し、長大な帳簿を持ち込んだ大蔵省の文官が、冷ややかな声で反論する。

「食料の調達と資金の管理は我々大蔵省の管轄です。小麦と塩漬け肉の納入業者は港に荷物を運んでいますが、決裁の書類に大蔵大臣の代理署名が下りていないのです。

正規の手続きを踏まずに国家の財産を船に乗せることは、法律上認められません。

決済が完了するまで、あと4日はお待ちいただきたい」

「4日だと?」

今度は兵站局の担当官が噛み付いた。

「冗談ではない。その輸送船の船底には、すでに我々が手配した9ポンド野砲と大量の火薬が積み込まれているのだ。

大砲を積んだ船が、大蔵省の小麦を待ってテムズ川の河口にすでに1週間も停泊している状態だぞ!

火薬は湿気に弱い。もしこれ以上出航が遅れて火薬が使い物にならなくなれば、その責任は大蔵省で取っていただく」

「そもそも、大砲の積み込みを急ぎすぎた兵站局の不手際でしょう。我々の決済スケジュールの確認もせずに……」

「兵器の調達と管理に大蔵省の許可などいらん! 兵站局は独立した組織だ!」

「海軍の船は陸軍や大蔵省の倉庫ではないのだ!」

会議室に怒号が飛び交う。これが、パーシバルが毎日直面している現実であった。

当時のイギリスの軍事行政は、あまりにも複雑に分割されていた。

兵士の食料と給与を管理する「大蔵省」、大砲や小銃、弾薬を専門に調達する「兵站局」、そして物資を海運する「海軍輸送部」。

彼らは互いに独立した組織であり、強烈な縄張り意識を持っていた。

「自分の管轄の仕事は正しくやっている」「遅れているのは他部署のせいだ」と主張し合い、結果として前線への補給は完全に麻痺してしまうのである。

パーシバルは会議室の隅の席に座り、無表情のまま手元の書類に数字を書き込んでいた。

官僚たちの醜い言い争いに口を挟むことはない。

彼はあくまで裏方であり、この場で直接彼らを怒鳴りつける権限は持っていないからだ。

しかし、パーシバルには最強の「矛」があった。

上座に座り、葉巻の煙を燻らせながら官僚たちの言い争いを黙って聞いていた男、統合輸送調整委員会の委員長であるジェームズ・ウィロビー・ゴードン少将である。

「……言い訳は、それくらいで十分か」

ゴードン少将の低く響く声が、会議室の騒騒しさを一刀両断した。

少将は葉巻を灰皿に押し付け、鋭い眼光で各省庁の担当官たちを睨みつけた。

「大蔵省は決裁の署名がないと言い、兵站局は火薬が湿気ると嘆き、海軍は船を帰すと言う。

なるほど、貴官らの役所内の手続きとしては、すべて正しいのだろう」

少将はゆっくりと立ち上がり、両手をテーブルについた。

「だが、海を渡ったオランダでは、今この瞬間もウェリントン公爵が数十万のフランス軍を相手に陣形を組もうとしているのだ!

フランス軍の砲弾は、大蔵省の署名を待ってくれるのか!?」

ゴードン少将の怒声に、担当官たちは一瞬言葉を失った。

少将は視線を動かさずに、背後に控えるパーシバルに声をかけた。

「シャルトン少佐。あの9ポンド砲を積んだ輸送船が、テムズ川で1週間停泊していることによる損害を報告しろ」

「はい、閣下」

パーシバルは立ち上がり、抑揚のない声で数字を読み上げた。

「船の待機により発生している海軍への超過係船料は、すでに300ポンドに達しています。さらに、積み込まれた大砲20門と火薬が前線に届かないことで、連合軍の第3師団は本来の火力の40パーセントを喪失した状態で布陣を強いられています。

もし明日フランス軍との会戦が始まれば、砲兵支援の不足により、多数の死傷者が追加で発生することは確実でしょう」

具体的な金額と、味方の死傷者というリアルな数字を突きつけられ、担当官たちの顔色が変わった。

パーシバルが事実を用意し、ゴードン少将が「政治力と脅し」でそれを官僚たちに叩きつける。

これこそが、二人が構築した見事な役割分担であった。

「聞いたか、諸君」

ゴードン少将は大蔵省の文官の目の前に歩み寄った。

「貴官らが書類のサインを4日遅らせることで、前線の将兵が死ぬ。その血の代金は、大蔵省の帳簿でどう処理するつもりだ?」

「そ、それは……しかし、法的な手続きが……」

文官がしどろもどろに弁明しようとすると、ゴードン少将はテーブルを激しく叩き、雷のような怒声を浴びせた。

「手続きなど知らん! 今すぐ大臣の執務室に怒鳴り込んででも署名を奪い取ってこい!

兵站局は海軍と連携して即座に大砲の防水布を追加しろ! 海軍は文句を言わずに船を出せ!」

少将は各担当官の顔へ順に視線を向け。

「いいか、よく聞け。これはウェリントン公爵からの至上命令だ。

もし貴官らの縄張り争いのせいで物資が遅れ、ウェリントン公が負ければ、貴官らの首が飛ぶぞ!

いや、私が責任を持って、国王陛下と議会に対し、敗戦の責任はすべて貴官らの怠慢にあると告発してやる。

国家への反逆罪でロンドン塔にぶち込まれたくなければ、四の五の言わずに荷物を動かせ!」

ウェリントン公が負ければ、責任者として首が飛ぶ。

この痛烈で現実的な脅しは、保身を第一とする官僚たちにとって何よりも効果的であった。

彼らは自分たちの責任問題になることを最も恐れている。

敗戦のスケープゴートにされると理解した瞬間、彼らの縄張り意識は吹き飛び、顔を青ざめさせて少将の命令に屈した。

「は、はい……! ただちに省に戻り、特別決裁の枠を……」

「兵站局も急ぎ対応します」

「海軍は、明朝に船を出航させます……!」

会議が終わり、逃げるように退室していく担当官たちの背中を見送りながら、パーシバルは静かに書類を整理していた。

「全く、どいつもこいつも尻に火がつかなければ動きおらん」

ゴードン少将は再び葉巻に火をつけ、疲れたように椅子に座り込んだ。

「だが、これでまた数隻の船が動く。

シャルトン少佐、先ほどの数字だが、半分は出任せだろ?」

「はい。彼らに現場の数字は知り得ないでしょうから、ご賢察の通り推測による出任せでした。

しかし、閣下の見事なご説得のおかげで、停泊していた船は明日の朝には出航できます。

オステンド港には3日後に到着し、そこから運河を経由して、週末にはブリュッセルの前線に大砲と食料が届く予定です」

パーシバルは輸送の予定を答えた。

「ご説得、か。単なる恫喝だがな」

少将は苦笑した。

「まあ、いずれにしても物資が前線に届くことが最優先だ。ウェリントン公が推挙する人物だけあって君は優秀で助かるよ」

「もったいないお言葉です」

パーシバルは一礼した。

彼自身、ゴードン少将の政治的な突破力には深く感心していた。

もしパーシバル一人がこの改革を行おうとすれば、名誉少佐という身分ではあっという間に官僚たちに握り潰されていただろう。

階級と実務能力を兼ね備えたゴードン少将が前面に立ってくれるからこそ、パーシバルの輸送方式は機能するのだ。

5月も終わりに近づく頃。

パーシバルとゴードン少将の熾烈な闘い、すなわち「統合輸送調整委員会」による強権的な輸送管理は、ついに海を越えた前線で劇的な成果を生み出し始めていた。

ある夜、パーシバルが執務室で民間商船の徴用費用を計算していると、ゴードン少将が上機嫌な様子でドアを開けた。

彼の手には、大陸から届いたばかりの急使の書簡が握られていた。

「シャルトン少佐、聞け。オランダのブリュッセルにいるウェリントン公爵からの親書だ」

少将は書簡を広げ、誇らしげに読み上げた。

「『ロンドンのホース・ガーズの働きを高く評価する。先週より、我が軍の集積所には過去に例を見ないほどのスムーズさで、途切れることなく潤沢な物資が届き始めている。

歩兵の軍靴、騎兵の鞍、野砲の弾薬、そして何より、兵士たちに毎日配給するための十分な量の乾パンと塩漬け肉だ。

兵士たちは空腹と無縁であり士気は高まっている。補給の不安なく作戦を立てられることが、これほど快適だとは知らなかった』……だとさ」

パーシバルはペンを置き、小さく息を吐いた。

「それは重畳です。我々がロンドンの会議室で流した汗は、無駄ではなかったということですね」

「無駄どころか、最高の働きだ」

少将は書簡を丁寧に折りたたみ、机の上に置いた。

「大砲も食料も順調に届いている。

これでウェリントン公爵は、一切の憂いなくナポレオンを迎え撃つことができる。

軍隊というものは胃袋で動くのだ。我々はその胃袋を完全に満たしてやった。

あとは、公爵が戦場でナポレオンの横っ面を張り倒すのを待つだけだ」

パーシバルもまた、少将の言葉に深く同意していた。

十分な物資と資金に支えられたイギリス軍の防御力は、世界で最も強固である。

史実の記憶においても、ワーテルローの戦いはギリギリの死闘であった。

もし補給が滞り、弾薬が少しでも不足していれば、歴史は簡単に覆っていただろう。

しかし今、ゴードン少将と共に死守した補給によって、史実以上の潤沢な物資が前線に供給されている。

歴史のズレという不確定要素を、兵站という援軍でねじ伏せつつあるのだ。

(これで、私が現物で買い集めている23,000ポンドの公債も、完全に安全圏に入ったと言っていい)

パーシバルは内心で、自らの資産の安泰を確信した。

「さあ、シャルトン少佐。今日はもう切り上げよう。公爵から褒められた日くらいは、美味いワインでも飲んで帰るべきだ」

ゴードン少将の機嫌の良い声に、パーシバルは立ち上がって敬礼した。

「お供いたします、閣下。ただし、明日の朝にはまた、大蔵省の連中を締め上げるための新しいスケジュール表を用意しておきますので」

「全くだ。あの連中には一瞬の隙も与えてはならんからな」

ゴードン少将は笑いながら執務室を後にする。

■1815年6月初旬。

ロンドンの新興高級住宅街、ブルームズベリーは深い夜の闇と静寂に包まれていた。

一台の馬車がパーシバル・シャルトンの邸宅の前に止まり、重い足取りで一人の軍人が降り立った。

陸軍総司令部(ホース・ガーズ) での激務を終え、ようやく帰宅したパーシバルである。

玄関の扉を開けると、家令のウィリアムがランプを手に出迎えた。

「お帰りなさいませ、旦那様。今夜もずいぶんと遅くなりましたね」

ウィリアムはパーシバルの軍服の外套を受け取りながら、主人の顔に深く刻まれた疲労の色を見て気遣うように言った。

「ああ。大蔵省と海軍の連中が、また些細なミスで相手の責任だと騒ぎ始め輸送船の出航が遅れそうだったからな。

ゴードン少将と共に怒鳴り込んで、無理やり出航許可のサインを書かせてきたところだ」

パーシバルは首のクラバット(初期のネクタイ)を緩め、重い息を吐いた。

「前線からの要求は日増しに切実になっている。もはや1日の遅れも許されない状況だ。

私に出来ることは淀み無く港から荷物を送り出すことしかできないからな」

この5月から6月初旬にかけて、ヨーロッパの情勢は極度の緊張状態にあった。

エルバ島を脱出し、再びパリで帝位に就いたナポレオンは、その驚異的な統率力とカリスマ性によって、瞬く間にフランスの軍事力を再建していた。

かつての徴兵制が事実上復活し、武器庫から旧式の銃が引っ張り出され、数十万の軍が編制されつつあるという情報が、連日のようにロンドンに届いていた。

ナポレオンの狙いは明らかだった。

東のロシア帝国軍と南のオーストリア帝国軍がフランス国境に到達する前に、北のオランダ(現在のベルギー)方面に集結しているウェリントン公爵のイギリス・オランダ連合軍と、ブリュッヘル元帥のプロイセン軍の合流を阻止し、各個撃破することである。

ナポレオンが自ら軍を率いて北上を開始したという確報が入り、もはや大規模な会戦は数週間、あるいは数日以内に迫っていた。

この切迫した情勢は、ロンドンの金融市場をさらなる恐慌状態へと突き落としていた。

戦争が長引けば、イギリス政府は同盟国への莫大な資金援助と自国の戦費を賄うため、新たな国債を大量に発行せざるを得ない。

また、廃止されたばかりの忌まわしい所得税が復活するとの噂も飛び交っていた。

市場には公債の売り注文が殺到し、買い手は完全に姿を消した。価格の下落には歯止めがかからず、投資家たちは政府の破産という悪夢に怯えながら、手持ちの証券を紙屑同然の安値で手放し続けていたのである。

「旦那様、すぐにお食事の用意をさせますが……その前に、お客様がお見えです」

ウィリアムが声を潜めて言った。

「こんな夜更けに誰だ?」

「ダニエル・バーンズ氏です。どうしても今夜中に旦那様にご報告したいことがあると。

応接間でお待ちいただいております」

パーシバルの目から、疲労の影が一瞬にして消え去った。

「すぐに会う。食事は後だ」

パーシバルが1階の応接間の扉を開けると、そこには椅子に深く身を沈めたブローカーのダニエル・バーンズが座っていた。

彼の姿は、パーシバル以上に疲弊しきっていた。髪は乱れ、目の下には濃い隈ができている。

しかし、パーシバルの姿を認めて立ち上がったその両目には、大仕事をやり遂げた男特有の、強烈な達成感と興奮の光が燃え盛っていた。

「夜分遅くに申し訳ありません、シャルトン少佐殿」

バーンズは深々と頭を下げた。

「構わない。座ってくれ。……その顔を見ると、頼んでいた仕事に決着がついたようだな」

パーシバルも向かいの椅子に座り、ウィリアムに命じて上等な茶葉の紅茶を用意させた。

「ええ。終わりました。すべて、完了いたしました」

バーンズは机に置かれたティーカップを手に取り、一口飲んで喉を潤してから、懐から分厚い証書の束と計算書を取り出した。

机の上に置かれたそれらは、イングランド銀行が発行した正規のコンソル公債の現物証書であった。

「この数週間、私はシティ中のコーヒーハウスと取引所を這いずり回りました。

市場は戦況を完全に悲観しており、誰もが公債を投げ売りしております。

だから私は、絶望して泣き崩れている小口の投資家やジョバーたちから、目立たぬよう、少しずつ、少しずつ買い集めていったのです」

バーンズは、インクで少し汚れている手で計算書を広げた。

「少佐殿からお預かりした資金は23,000ポンド。ご指定の買い付け希望価格は54ポンド以下。

……結果をご報告します」

バーンズは計算書の最も下に書かれた数字を指差した。

「資金23,000ポンドを用い、市場から約53.7ポンドの価格で買い集めることに成功しました。

これにより、額面100ポンドのコンソル公債の現物を、426単位購入しております。

なお、差額の約124ポンドは手数料とさせていただきます」

パーシバルはその数字をじっと見つめた。

額面100ポンドの公債が426単位。つまり、パーシバルが手に入れた公債の総額面は「42,600ポンド」に達する。

コンソル公債は、元本の償還義務がない代わりに、政府が永遠に額面の3パーセントの利息を支払い続けるという永久国債である。

手元の資金23,000ポンドを投じて、その倍近い42,600ポンドという巨大な額面の債権を手に入れたことを意味していた。

「素晴らしい仕事だ、バーンズ氏」

パーシバルは短く、しかし最大限の賛辞を送った。

「これで計算が確定する。額面42,600ポンドの3パーセント。

すなわち、私はこれから毎年1,278ポンドという利息を、国から受け取ることができる」

1,278ポンド。

当時のイギリスにおいて、地方の 中堅地主(ジェントルマン) が領地から得る年間の地代収入が、およそ500ポンドから800ポンド程度であった。

パーシバルは、領地を管理する煩わしさも、天候による不作のリスクも一切負うことなく、ただロンドンの邸宅の椅子に座っているだけで、地方の中堅地主を遥かに凌ぐ巨額の現金収入を永遠に得られる権利を手に入れたのだ。

これこそが、資本の力であった。一時的な投機の利益ではなく、永続的に富を生み出し続ける真の資本を手に入れた瞬間である。

「ええ、まさに驚くべき利息収入ですな」

バーンズは大きく頷いた。

「しかも、これはあくまで現物の公債です。

信用取引のような決済日の期限や、証拠金を没収される危険は一切ありません。

もし、これから始まるナポレオンとの戦いでウェリントン公爵が敗北し、公債の価格がさらに下落したとしても、少佐殿が破産することはない。

政府が破産しない限り、毎年1,278ポンドの利息は確実に支払われ続けますからな」

「その通りだ。私は資本家として成功できそうだ。

そしてあなたは、その私の依頼を完璧に実行してくれた。

……本当に苦労をかけたな、バーンズ氏。何週間も神経をすり減らしただろう」

パーシバルの労いの言葉に、バーンズは顔を綻ばせた。

「ブローカー冥利に尽きるというものです。

誰もが恐怖で我を忘れている狂乱の市場で、一人だけこっそりと底値を拾い続ける。

これほど痛快な仕事は、私の生涯でも二度とないでしょう。私の手数料も、十分に頂戴いたしました」

バーンズは残りの紅茶を飲み干した。

「公債の証書と名義変更の書類は、すべてここに揃っております」

「感謝する。夜道には気をつけて帰ってくれ」

パーシバルは立ち上がり、バーンズと固い握手を交わした。

バーンズが去り、応接間に再び静寂が戻った。

机の上に積まれた分厚い公債の証書に手を触れた。

紙の束に過ぎないそれが、大英帝国の国力そのものを担保とした、絶対的な富の証明である。

パーシバルは深く、静かな安堵の息を吐き出した。

これで、自らの個人的な資産に関する準備は完全に終わった。

ウェリントン公爵がいつフランス軍と戦端を開いても構わない。

勝てば公債の価格は暴騰し、資産価値はさらに膨れ上がる。

仮に負けたとしても、現物として安全圏に退避させた資産は無傷であり、ロシアとオーストリアの物量がナポレオンを押し潰す日を、毎年1,278ポンドの利息を受け取りながら優雅に待てばよいだけだ。

自分はどのような歴史の分岐が起きても、負ける可能性が低い立場を確立したのである。

「……個人的な備えは終わった。あとは、陸軍の軍人としての務めを果たすだけだ」

パーシバルは証書の束を寝室の金庫にしまい、しっかりと鍵をかけた。

ホース・ガーズの「統合輸送調整委員会」で構築した定刻運行のスケジュールは、官僚たちの激しい抵抗をゴードン少将の強権によってねじ伏せ、現在も順調に稼働し続けている。

ロンドンの港からは、弾薬と食料を積んだ輸送船が次々と出航し、オランダへと向かっている。

パーシバルが尽力した兵站の動脈は、ブリュッセルに集結する連合軍の胃袋を満たし、その火力を限界まで高めていた。

「ウェリントン公爵。私はあなたに、武器と食料を送り届けた。

……あとは、あなたがその戦術の天才をもって、あの怪物ナポレオンを打ち破るのを待つだけだ」

その空の向こう、海を隔てた大陸の地で、数十万の人間が命を奪い合う歴史的な大決戦が始まろうとしているかもしれない。

金融と兵站の二つの戦場で負けない布陣を敷き終えたパーシバル・シャルトンは、ただ静かに、運命の果報がロンドンに届く日を今か今かと待ち受けていた。

■1815年6月下旬。

ロンドンは初夏の湿気を帯びた空気に包まれていた。

ホワイトホール通りに建つ陸軍総司令部、ホース・ガーズの執務室において、パーシバル・シャルトン名誉少佐は、これまでにないほどの焦燥感に苛まれていた。

彼の机の上には、オランダのオステンド港から前線のブリュッセルへ向かう補給物資の輸送状況を示す書類が、積み上げられている。

ゴードン少将と共に構築した「統合輸送調整委員会」による定刻運行システムは、今は問題なく機能していた。

大砲、弾薬、食料、軍靴、そのすべてがウェリントン公爵の率いる連合軍の集積所へと滞りなく送り届けられている。

ロンドンで彼にできることは、文字通りすべてやり尽くした状態であった。

しかし、大陸の連合軍司令部から正確な情報が2日前からぷっつりと途絶えていた。

それは、両軍が極めて近い距離に接近し、情報伝達網が遮断されるほどの本格的な会戦状態に入ったか、詳細な報告を書き上げる余裕がないことを意味している。

パーシバルの脳裏には、自分が歴史に干渉して生じさせた「1週間のズレ」という暗い影が、常に付きまとっていた。

もし、その1週間のズレのせいで、ナポレオンの進軍ルートが変わり、ウェリントン公爵が不利な地形で戦うことになっていたら。

もし、合流するはずのプロイセン軍の到着が史実より遅れ、連合軍が各個撃破されてしまったら。

もちろん、パーシバル自身の資産はすでに安全な現物のコンソル公債に変えてある。

たとえウェリントン公爵が敗北しても、彼個人が破産することはない。

しかし、自分が引き起こしたバタフライ・エフェクトによって大英帝国の歴史が敗北へと転がり落ちることへの恐れが彼の精神を鋭く削り取っていた。

「シャルトン少佐。また帳簿の計算をやり直しているのか」

不意に執務室の扉が開き、直属の上官であるジェームズ・ウィロビー・ゴードン少将が顔を出した。

その手には、火のついていない葉巻が握られている。

「……閣下。いえ、オステンド港に昨日到着したはずの輸送船の積載量を確認していただけです」

パーシバルはペンを置き、姿勢を正した。

「ここ数日、君は少し落ち着きがないな。普段冷静な君らしくない」

ゴードン少将は部屋に入り、パーシバルの机の前に立った。

「無理もないことだ。我々はロンドンの安全な部屋で数字をいじっているだけだが、海の向こうでは今この瞬間にも、我が国の運命を決する会戦が行われているかもしれないのだからな。

だが、我々にできることはもう何もない。ウェリントン公爵と兵士たちを信じて、結果を待つだけだ」

「頭では理解しております。ただ、すべての手立てが本当に十分であったか、不安が拭えないのです」

パーシバルが率直に答えると、ゴードン少将は力強く頷いた。

「君の提案した輸送方式のお陰もあり前線には潤沢な物資が届いているのだ。

私が保証する。我が軍に敗北はないだろう。

もし我が軍が負けるとしたら、それは弾薬のせいでも食料のせいでもない。純粋な戦術と運命の結果だ。君が責任を感じる必要はどこにもない」

その日の深夜。

ホース・ガーズの建物が寝静まり、パーシバルがランプの灯りの下でただ一人、意味もなく書類の文字を目で追っていた時のことだった。

窓の外の中庭から、石畳を激しく蹴立てる馬の蹄の音が鳴り響いた。それは通常の伝令の速度ではない。馬を潰す勢いで駆け込んできた、異常な響きであった。

直後、1階の玄関ホールで怒号のような声が上がり、慌ただしい足音が階段を駆け上がってくるのが聞こえた。

パーシバルは弾かれたように椅子から立ち上がり、廊下へと飛び出した。

同じく執務室から出てきたゴードン少将の姿もある。二人が向かった先の大広間には、泥と汗にまみれ、軍服をボロボロにした一人の騎兵将校が、息も絶え絶えに司令官に向かって書状を差し出しているところだった。

ドーバー海峡を越え、早馬を乗り継いで駆けつけてきた特別な伝令である。

当直の司令官が震える手で封を切り、その中身に目を通した。

司令官の顔に、信じられないものを見るような驚愕が走り、次いで、爆発するような歓喜の色が広がった。

「ブリュッセルからの急報!」

司令官の声が、深夜のホース・ガーズの大広間に響き渡った。

「ワーテルローにて大規模な会戦! 我が連合軍は、ナポレオン率いるフランス軍を完全に撃破せり! 敵軍は潰走し、現在プロイセン軍が追撃中とのこと!」

その瞬間、大広間にいたすべての将校、書記官、衛兵たちから、地鳴りのような歓声が上がった。

帽子が宙に舞い、見ず知らずの者同士が抱き合い、神とウェリントン公爵への賛美を叫んでいる。

パーシバルはその歓声の中の中心に立ち尽くし、全身の力が一気に抜け落ちていくのを感じた。

勝った。

歴史のズレという不確定要素を乗り越え、大英帝国は勝利を掴んだのだ。ナポレオンの百日天下は、ここに終焉を迎えた。

彼を数ヶ月にわたって締め付けていた見えない恐怖と緊張の糸がプツリと切れ、莫大な安堵感とカタルシスが胸の奥底から込み上げてきた。

パーシバルは近くの壁に手をつき、深く、長く息を吐き出した。

「やったな、シャルトン少佐!」

ゴードン少将がパーシバルの肩を力強く叩いた。その目には、歴戦の将軍らしからぬ涙が薄らと浮かんでいた。

「公爵はやってくださった! 我々の送った弾薬で、あの怪物を打ち倒したのだ!」

「ええ、閣下……。我々の勝利です」

パーシバルは壁から手を離し、少将に向かって深く頷き返した。

翌日以降、ロンドンの街は歴史的な大勝利の報せに熱狂の渦に包まれた。

テムズ川の船は祝砲を鳴らし、教会の鐘は一日中鳴り響き、市民は通りに繰り出して歓喜の歌を歌い続けた。

金融市場では、コンソル公債の価格が信じられないほどの勢いで暴騰を始めていたが、パーシバルはそれすらももはや遠い世界の出来事のように感じていた。

数日後、パーシバルはゴードン少将の長官室に呼ばれ、机の上に広げられた戦場の地図を前にして、公爵からの詳細な戦況報告を聞くことになった。

「本当に、薄氷を踏むような勝利だったようだ」

ゴードン少将は地図上のワーテルロー南方の村を指差した。

「ナポレオンの軍勢の圧力は凄まじく、我が軍は幾度となく防衛線を突破されそうになった。

しかし、午後遅くになって、ブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍がフランス軍の右翼に到着した。これが決定打となった。

彼らとの完璧な挟撃により、フランス軍の戦列は完全に崩壊し、潰走に至ったのだ」

「プロイセン軍の到着が間に合ったのですね」

パーシバルは、史実通りの展開に安堵を覚えながら言った。

「ああ。だが、それだけではない」

ゴードン少将は声のトーンを落とし、極めて真剣な眼差しでパーシバルを見つめた。

「ウェリントン公爵からの報告書には、我が兵站総監部に対する最大限の賛辞が記されていた。

プロイセン軍が到着するまでの地獄のような数時間、我が軍の歩兵たちは方陣を組み、フランス軍の猛烈な騎兵突撃を何度も跳ね返した。

ネイ元帥の指揮するフランス重騎兵の突撃は、軍事史に残るほどの凄まじさだったそうだ。

通常であれば、弾薬が尽きるか、恐怖と疲労で兵士の士気が崩壊し、方陣は破られる」

少将は机の上の報告書を軽く叩いた。

「だが、今回の方陣は決して崩れなかった。なぜか分かるか、シャルトン少佐」

「……兵士たちの訓練と、公爵の指揮の賜物でしょう」

「それもある。しかし公爵はこう書いている。『我が軍の歩兵が最後まで方陣を維持できたのは、彼らの背後から、弾薬の箱が途切れることなく前線へと運び込まれ続けたからだ』と」

少将の言葉に、パーシバルは息を呑んだ。

「戦闘の最中であっても、我々がロンドンから送り出した予備の弾薬と火薬が、集積所から各部隊へと分配され続けていたのだ。

兵士たちは、弾切れを一切心配することなく、ただ目の前の敵に鉛玉を浴びせ続けることができた。

さらに言えば、会戦の前の数日間、我が軍の兵士たちは誰一人として空腹を訴える者はいなかった。

前線には常に十分なパンと塩漬け肉が配給され、兵士たちの士気と体力は完全に満たされた状態であった」

ゴードン少将はパーシバルの目をみて語りかけた。

「シャルトン少佐。

君が各省庁の壁を壊し、無理やりにでも定刻で船を出させたあの執念が、ワーテルローで戦う兵士たちの命を繋ぎ、彼らに武器を与え続けたのだ。

これは、君が構築した兵站が勝利に大いに貢献したということだ。

公爵も、その事実をはっきりと認めておられる」

パーシバルは少将の言葉を聞きながら、己の頭の中で一つの巨大なパズルが解けるのを感じていた。

史実のワーテルローの戦いは、確かにイギリスの勝利であった。

しかし、彼が前世の知識として持っていたその戦いの記録は、弾薬の不足に苦しみ、飢えた兵士たちが泥まみれになりながらギリギリの精神力で耐え抜いたという、悲惨で凄惨な泥試合の側面が強かったはずである。

しかし、今ホース・ガーズに届いている報告書の内容は違う。

連合軍は、潤沢な弾薬と十分な食料に支えられ、極めて組織的かつ強固に防衛線を維持し、ナポレオンの猛攻を正面から完全に粉砕したのだ。

それは、パーシバルが知る史実の勝利よりも、遥かに盤石で、圧倒的な大勝利であった。

(なんという、歴史の皮肉だ)

パーシバルは内心で、静かな驚きと深い満足感を噛み締めていた。

前年の春、彼は自身の有能な兵站管理によってウェリントン公爵の進軍を早め、ナポレオンの退位を史実より「1週間」早めてしまった。

その歴史のズレが、ワーテルローでの敗北に繋がるかもしれないという恐怖に、彼はこの数ヶ月間ずっと怯え続けてきた。

そして、ウェリントン公爵の召集に応じ、ロンドンのバラバラで旧態依然とした補給システムを破壊した。

結果として何が起きたか。

自分が引き起こした「歴史のズレ」という危険を、自分自身がロンドンで構築した兵站システムの力によってカバーし、ねじ伏せてしまったのだ。

自らの手で生み出した危機を、自らの手で解決し、本来の歴史以上の完璧な勝利という結果を大英帝国にもたらしたのである。

「閣下。

私はただ、数字の計算と書類の整理を行ったに過ぎません。

すべては、前線で戦った兵士たちと、閣下のお力添えの賜物です」

パーシバルは静かに、しかし深い実感を込めて答えた。

「だが、この勝利はその努力が実った結果なのだよ、シャルトン少佐」

ゴードン少将は満足げに笑い、再び葉巻をくわえた。

ワーテルローの戦いという歴史の大きな転換点は、パーシバル自身の知る歴史よりもさらに強固なものとして、その結末を完全に固定されたのであった。

■1815年7月。

ワーテルローの原野で繰り広げられた歴史的な大激戦は、ヨーロッパの運命を完全に決定づけた。

ウェリントン公爵とブリュッヘル元帥が率いる連合軍の前に完敗を喫したナポレオンは、少数の護衛とともにパリへと逃げ帰った。

しかし、一度敗北した彼に政治的な求心力は残されていなかった。

軍の再建を主張するナポレオンに対し、フランス議会は完全に見切りをつけ、退位を要求した。

6月22日、ナポレオンは再び帝位を退き、ここに彼の「百日天下」は完全に終焉を迎えたのである。

フランス第一帝政は崩壊し、7月上旬には連合国軍の保護の下、ブルボン家のルイ18世が再びパリに入城して王位に復帰した。

20年以上にわたってヨーロッパ全土を血で染め上げたフランスとの戦争が、今度こそ本当に終わったのだ。

ヨーロッパに真の平和が訪れ、イギリス国内は前例のない熱狂と歓喜に包まれていた。

そして、その平和の恩恵を最も明確な数字として受け取っていたのが、ブルームズベリーの邸宅に住む若き名誉少佐、パーシバル・シャルトンであった。

7月のある朝。パーシバルは書斎の机に座り、届けられたばかりの新聞と、ブローカーのダニエル・バーンズから送られてきた市場の報告書を見比べていた。

市場の動きは、パーシバルの持つ歴史の記憶を正確になぞっていた。

ワーテルローでの勝利とナポレオンの降伏が伝わると、ロンドンの金融市場を支配していた国家破産の恐怖は一瞬にして消え去った。

代わりに市場を支配したのは、平和な時代の到来による猛烈な買い戻しである。

投資家たちは、もはや政府が戦費調達のために国債を乱発することはないと確信し、安定した利回りを求めて一斉にコンソル公債を買いに走った。

パーシバルがパニックのどん底で、バーンズに指示して買い集めさせた現物のコンソル公債。平均して54ポンドで仕込んだその価格は、戦勝の報せとともに60ポンド台を軽々と突破し、今朝の市場ではついに62ポンドにまで急騰していた。

「完全に、相場は回復したな」

パーシバルは報告書を机に置き、深く息を吐き出した。

彼の手元には、額面100ポンドのコンソル公債が426単位、すなわち額面にして42,600ポンド分の債権が存在している。

54ポンドで買ったものが65ポンドになったことで、市場で売却すればその瞬間に4,600ポンド以上の売却益が得られる計算になる。しかし、パーシバルはもはやこの公債を売却して現金化するつもりは毛頭なかった。

現物を持ち続ける限り、大英帝国が存続する限り、額面42,600ポンドに対する3パーセント、すなわち年間1,278ポンドという巨額の利息が、彼の手元に転がり込み続けるのだ。

当時のイギリスにおいて、地方の 地主(ジェントルマン) が広大な領地から得る年間の地代収入が、およそ500ポンドから800ポンド程度であった。しかし、地主には農作物の不作や、小作人からの地代の取り立て漏れといった様々なリスクがつきまとう。

それに比べ、パーシバルの手に入れたコンソル公債は、領地を管理する煩わしさも天候のリスクも一切負うことなく、ただロンドンの邸宅の椅子に座っているだけで、地方の大地主を遥かに凌ぐ巨額の現金収入を永遠に得られる権利であった。

これこそが、資本の力である。相場の乱高下に一喜一憂する必要もなく、破産のリスクに怯える夜もない。パーシバルはついに、一生遊んで暮らせるだけの盤石な利回りと含み益を手に入れたのである。

「旦那様、お茶をお持ちいたしました」

ノックの音とともに、家令のウィリアムが書斎に入ってきた。

「ありがとう、ウィリアム。……ああ、そうだ。今日の午後、馬車の用意をしておいてくれ。ホワイトホールのホース・ガーズへ向かう」

「ホース・ガーズへでございますか。しかし、戦争は終わりました。部隊への補給物資の手配も、もう以前のように急ぐ必要はないのでは?」

「その通りだ。だからこそ、区切りをつけに行くのだよ」

パーシバルは静かに立ち上がり、クローゼットに掛けられた赤い軍服を見つめた。

その日の午後。

ロンドンのホワイトホールにあるホース・ガーズ(陸軍総司令部)の建物内は、開戦前の張り詰めた緊張感から解放され、どこか緩んだ空気が漂っていた。

パーシバルは兵站総監部へと足を運び、直属の上官であるジェームズ・ウィロビー・ゴードン少将の長官室をノックした。

「入れ」

ゴードン少将は、相変わらず書類の山に囲まれて執務机に座っていたが、その表情は5月の頃のような苛立ちに満ちたものではなかった。

「シャルトン少佐か。よく来たな。君のおかげで、ウェリントン公爵からの小言の手紙もすっかり止んだよ。今は戦後処理で大陸に駐留する軍の食料手配と、傷病兵の帰還作業を進めているところだ」

少将は葉巻を勧めようとしたが、パーシバルは丁寧にそれを断り、一枚の書類を机の上に差し出した。

それは、パーシバルの辞表であった。

ゴードン少将は書類を一瞥し、ゆっくりと葉巻を置いた。

「……これは、どういう意味だ。シャルトン少佐」

「文字通りの意味です、閣下。私は兵站総監部付・特別副官の職を辞したいと考えております。急な話で申し訳ありませんが、翌月末、すなわち8月末日をもって軍を完全に退官するお許しをいただきたいのです」

パーシバルがあえて即日退官ではなく、1ヶ月余りの猶予を設けたのには理由があった。彼が立ち上げた統合輸送調整委員会を、自分が抜けた後も機能するように引き継ぎを完了させるためである。

「早すぎるのではないか」

少将は不満げに眉をひそめた。

「確かに戦争は終わった。だが、大陸に展開した数十万の兵を本国へ帰還させ、武装を解除し、元の生活に戻すという巨大な輸送計画が残っている。

君が構築した定刻運行のシステムは、その撤退作業にも不可欠だ。君の実務能力があれば、平時の軍政においてもさらに高い地位を用意できる。

……軍に残る気はないか」

ゴードン少将の言葉には、優秀な部下を手放したくないという実務家としての純粋な未練があった。

官僚の縄張り争いを言葉巧みに突破したパーシバルの手腕を、少将は誰よりも高く評価していたのである。

しかし、パーシバルの意思は揺るがなかった。

「もったいないお言葉ですが、お断りいたします」

パーシバルは背筋を伸ばし、淡々とした声で答えた。

「私が一時的に軍へ復帰したのは、ウェリントン公爵からの直接の依頼があり、目前に迫った国家の危機に対処するためでした。

しかし、平和が訪れた今、政府は間違いなく大規模な軍縮と予算削減に乗り出します。

限られた予算を巡って、大蔵省や海軍との政治的な駆け引きや縄張り争いが、再び始まるでしょう」

パーシバルは少将の目を見据えた。

「平和となり軍縮が行われる状況下で、数字の論理よりも政治的な面子や手続きが優先される平時の軍隊に、私の居場所は不要でしょう。

撤退作業や平時の補給に関するマニュアルは、8月末までにすべて作成し、委員会の各担当者に引き継ぎます。

私が不在でも、十分に機能する状態にしてから去ることをお約束します」

ゴードン少将はしばらくの間、黙ってパーシバルを見つめていた。

若き名誉少佐の目に、軍における出世欲や権力への執着が微塵も存在しないことを、実務家である少将は正確に読み取った。

この男は、初めから軍という組織に縛られる気などなかったのだ。

これ以上引き留めても無駄であることを悟り、少将は深いため息をついて辞表の書類にゆっくりと署名をした。

「……分かった。君の言う通り、平時の退屈な軍政や予算の分捕り合いは、君のような才能には窮屈すぎるだろう。

8月末日をもって、貴官の退官を認める。それまでの間、後任の文官たちに君の輸送管理の論理をしっかりと叩き込んでやってくれ。

ウェリントン公爵には、私から君の多大な貢献を正しく報告しておく」

「ご配慮に感謝いたします、閣下」

「ところで、民間人に戻ってこれからどうするつもりだ?」

パーシバルは微かに口角を上げた。

「当面は、ブルームズベリーの邸宅で本でも書きながら、静かに過ごすつもりです。

幸い、生活に困らないだけの蓄えは得ることができましたので」

「そうか。君の提案のお陰でフランス軍を打ち破ったことは、私が決して忘れはしない。

……あと1ヶ月あまり、頼んだぞ、シャルトン名誉少佐」

「閣下の下で働けたことは、私の誇りです」

パーシバルは完璧な敬礼を行い、ゴードン少将の長官室を後にした。

ホース・ガーズの石造りの廊下を歩きながら、パーシバルは肩の重い荷が下りるのを感じていた。

これで、彼を縛り付けていたすべての義務の終わりが、明確な日付として確定したのだ。

ホース・ガーズの建物の外に出ると、夏の眩しい日差しがロンドンの街を照らしていた。

大通りには、パーシバルを迎えに来た黒塗りの馬車が停まっている。

御者台にはスローターが座り、扉の前には家令のウィリアムが静かに控えていた。

「お疲れ様でございました、旦那様。何か進展がございましたか」

ウィリアムが馬車の扉を開けながら尋ねた。

「ああ。ゴードン少将から退官の了承を得た。8月末日をもって、私は正式に軍を離れる。引き継ぎのための期間は残っているが、実質的な私の役目は終わった」

「それは……素晴らしい知らせでございますね」

ウィリアムの顔に、心からの安堵の笑みが浮かんだ。

かつて戦場を共にした家令にとって、主人が完全に軍から離れ、安全な生活に戻ることが何よりの喜びであった。

パーシバルは軍服の窮屈な襟元を緩めた。

国家の危機という名目で着せられた赤い軍服。それは、彼が社会で生き残るために必要な重い鎧であった。

8月末が来れば、彼は軍という重い鎧を完全に脱ぎ捨てる。

これからは誰の命令を受けることもなく、自らの資本と意思だけで世界を渡り歩く、真のジェントルマンとして生きていくのだ。

「屋敷では、ミセス・ブラウンが旦那様の好物のローストを手配して待っております。今夜はゆっくりと、平和な夜をお楽しみください」

ウィリアムが恭しく頭を下げた。

「そうだな。これからは、自分のためだけに時間と金を使うとしよう。……屋敷に帰ろう、ウィリアム」

パーシバル・シャルトンは馬車に乗り込み、深く、快適な座席に身を委ねた。

馬車がゆっくりと動き出し、歓喜に沸くロンドンの大通りを抜けてブルームズベリーへと向かっていく。

(第9章 完)