作品タイトル不明
狂い始める距離
朝。
昨夜の火が嘘の様に、空は静かだった。
だが——戦場そのものが静かになった訳ではない。
むしろ逆。
燃えた放棄村の結果は、確実に敵軍全体へ広がり始めていた。
元領境中間地点。
クラウスは、朝一番の報告を受け取っていた。
昨夜の火攻め。その後、当然ながら——敵も動く。
「……放棄村に、別部隊と思われる偵察小隊」
報告は淡々としていた。
焼け跡確認。生存者確認。罠確認。予想通り。
「……まあ、そうだろうな」
ぽつり。
先行隊から報告が無い。
あるいは、断片的過ぎる。
なら——別働確認は当然。
敵将も、甘くはない。
「……」
クラウスは、特に驚かなかった。
むしろ——そこまでが想定内。
昨夜の火で重要だったのは、先鋒撃破そのものではない。“何が起きたか分からない”状態を作る事。確認に人も時間も使わせる。それだけで意味がある。
更なる報告。
「他方面偵察より」
「……」
「敵侵攻速度、全体的に低下傾向」
「……ほう」
「特に街道進軍部隊」
「……」
「エドワルド様側の偽道標効果と思われます」
「……」
クラウスの口元が、僅かに上がる。
「……ふ」
短く。
「距離感と」
一拍。
「地図が、ズレ始めたか」
そう。進軍とは、前へ進むだけではない。
今、何処か。あと、どれくらいか。補給は届くか。その“当然”が狂えば——速さは落ちる。
疑い。確認。再計測。
それだけで、兵は遅くなる。
「……」
優秀な敵ほど、雑に進まない。
だからこそ——狂わせる価値がある。
副官が、少しだけ言いにくそうに続けた。
「それと……」
「……?」
「クラウス様設置の、追加道案内標識も」
「……」
「更に混乱を」
一瞬。
「……イタズラ道案内標識」
ぽつり。
周囲が、僅かに沈黙する。
クラウスは、静かに視線だけ向けた。
副官、少しだけ姿勢を正す。
「……戦術標識」
「……そうだ」
即答。
「イタズラではない」
低く。
「戦術だ」
「……」
「……はっ」
実際。放棄村、火、偽標識、偽道標。
それぞれ単体でも厄介。
だが今、厄介なのは——“重なっている”事。
敵からすれば、何処までが自然で、何処からが罠か。
判別精度が落ちる。つまり——確認が増える。
クラウスは、地図を見る。
良い。この“遅れ”は、そのまま弟側にも効く。
「……」
泥。水。堰。準備時間が増える。
「……兄弟で、一つか」
ぽつり。悪くない。
その頃。
エドワルド宿営地。こちらにも、報告が届いていた。敵侵攻速度低下。全体。特に街道部。
エドワルドは、報告書を見ながら小さく息を吐く。
火、放棄村、確認遅延。
兄。
「……兄上」
ぽつり。
「……やるな」
短い。だが——十分だった。
敵が遅い。それだけで溜池、泥濘、補助工事、大型クロスボウ配置。
全てに、余裕が増える。
そして偽道標。自分の仕掛けも、効き始めている。
少しずつ。火で止まり。道で迷い。距離を誤る。なら次は——
「……足を、奪うか」
泥。
そこまで来れば、本命。
「……悪くない」
春の朝。
敵は、まだ進んでいる。
だが——昨日までと同じ速度ではない。
止まり、見て、疑い、測る。
その全てが、少しずつ。確実に“予定より遅い”
戦とは、勝つだけではない。
遅らせる。迷わせる。削る。
そうして、相手の“予定”を壊す事。
そして今。
クラウスの火と、エドワルドの道は——敵軍の進軍そのものを、静かに狂わせ始めていた。