作品タイトル不明
弟の手
「……はぁ」
深く、息を吐く。
椅子に身体を預けたまま、クラウスは首を軽く回した。
「……まさか、ここまでとはな」
泥。
想定はしていた。
だが——実際は、それ以上だった。
進まぬ足。沈む車輪。削られる体力。
「……行軍そのものが、鈍る」
ぽつりと漏れる。
戦う前に、削られる。
扉の外から、控えめな声。
「クラウス様」
「……入れ」
グレゴールが一礼し、部屋へ入る。
「少しは、お疲れ取れましたか」
「……少しはな」
短く返す。
完全ではない。
だが——止まる程でもない。
「……偽装村は」
視線を上げる。
「如何だった?」
「はい」
グレゴールは即答した。
「更に、防御を強化しております」
「……そうか」
小さく頷く。
「実戦となれば——」
一拍。
「更なる罠も配置予定です」
「……解った」
悪くない。
置ける所に、置く。削れる所で、削る。
それでいい。
そして。
「エドワルドは」
ぽつりと問う。
「……」
グレゴールは少しだけ考え、
「一時、書庫に籠っておりました」
と答えた。
「……ほう」
「ですが、自隊到着後は休暇を指示。その後——」
一拍。
「配置予定地へ視察に」
クラウスの口元が、僅かに動く。
「……なるほどな」
読むだけでは終わらなかった。
現地も見たか。
悪くない。
「……それと」
グレゴールが続ける。
「表向き、治水工事として」
「……?」
「何やら、思い付いた様子です」
「……企み、か」
小さく笑う。
「……細かくは?」
「全てではありません」
グレゴールは首を振る。
「ですが——」
視線を上げる。
「配置地域後方に、溜池建築を開始しております」
「……」
一瞬。
クラウスの指が、止まる。
「……溜池」
「はい」
「溜めた水を、一気に戦場へ流すつもりかと」
沈黙。
そして——
「……ほう」
低く、落ちる。
「……やるな」
その一言だった。
泥。自分も、理解した。
進めぬ。削れる。鈍る。
なら——それを、意図的に作る。
「……」
クラウスは、小さく息を吐く。
「……そう来たか」
俺とは違うが——悪くない。
正面から砕けぬなら、足を止める。
口元が、わずかに歪む。
「……面白い」
ぽつりと漏れる。
「……」
父は、防ぐ。
自分は、刺す。
そして——
「……エドワルドは、止めるか」
静かな評価。
グレゴールは、黙っていた。
「……」
クラウスは立ち上がる。
疲労は、まだ残る。
だが——
「……少し、見直したな」
小さく呟く。
弟は、ただ読むだけではない。
考え——形にし始めている。
戦は近い。
ならば——
「……楽しみになってきたな」
その声だけが、静かに残った。