作品タイトル不明
商人の仮面
「……随分と、静かなものだな」
男はそう呟きながら、ゆっくりと市場を見渡した。
粗末な外套。
日に焼けた顔。
腰には短剣一本。
どこからどう見ても、ただの行商人だった。
だが——その目だけが、異様に冷静だった。
隣に立つ若い男が、思わず小声で呟く。
「しかし、クラウス様。髪の毛まで色を変えて……」
男は肩をすくめる。
「中々似合うだろ?」
軽く前髪をかき上げる。
元の髪色とは違う、くすんだ色合い。
よく見なければ分からないが、確実に印象は変わっていた。
「それと」
クラウスは少しだけ口元を歪める。
「俺の名は——そうだな。“シュトライヒ”だ。そう呼べ」
「……分かりました」
若い男は一瞬言葉に詰まりながらも頷いた。
「それともう一つ」
シュトライヒは淡々と続ける。
「俺は商人のボンボン息子だ。親に追い出されて、商売を学びに来た設定にしてある。甘い所もあっていい」
「はい」
「口数は少なめでいい。余計な事は喋るな」
「はい」
短いやり取り。
だが、その中に無駄は無い。
シュトライヒ——クラウスは、再び市場へ視線を戻した。
「どう見ます?」
護衛役が尋ねる。
「初めて来た街にしては、落ち着いてますな」
「当たり前だ」
シュトライヒは肩をすくめた。
「ここはまだ“余裕がある側”だ」
視線の先。
穀物が積まれた荷車。
笑い声。
値段交渉をする商人達。
どれも、普通の光景。
「……だから狙う」
ぽつりと呟く。
「例の場所は?」
「見たか」
「はい。北側の外れ。警備は二人。交代も遅い」
「甘いな」
シュトライヒは小さく笑う。
「平和ボケってやつだ」
歩き出す。人の流れに自然と紛れながら。
「お前らは目立つな。いつも通り、農民の顔をしていろ」
「はい」
後ろの数人が頷く。
半農半武。
鍛えられてはいるが、兵には見えない。
それでいい。
「兵は疑われる。商人は通る。農民は見られもしない」
シュトライヒは淡々と続ける。
「それが答えだ」
日が傾く。
市場の喧騒が、少しずつ静かになっていく。
シュトライヒは倉庫の裏手に立っていた。
「……ここだな」
木造の壁。
乾いた藁。
積まれた穀物袋。
「燃えやすい」
小さく呟く。
「都合がいい」
後ろから一人が声を潜める。
「本当に、やるんですか」
その声には、わずかな迷いがあった。
シュトライヒは振り返らない。
「やらなければ、どうなる」
静かに問う。
「……」
男は答えられない。
「こっちが焼かれる。水も、食料も奪われる。そうなってからじゃ遅い」
淡々とした声。
感情は、ほとんど無い。
「だから、先にやる」
それだけだ。土瓶を取りだし中には油。
そして、細工された藁。
「長さはこれでいいな……」
何度も試した。
どれだけで燃えるか。
どれだけで火が回るか。
「……問題ない」
火を付ける。
じりじりと音を立てる。
小さな火。
それを、静かに置く。
「行くぞ」
振り返らずに言う。
「はい」
全員が動くが足音を消し。
自然に。
まるで、何もしていないかのように。
人の流れへ戻る。
しばらくして。
遠くで、声が上がった。
「火だ!」
「火事だ!」
煙が上がる。
ざわめき。
走る人影。
混乱。
シュトライヒはその様子を、遠目に見ていた。
「……早いな」
ぽつりと呟く。
「よく燃える」
隣の男が震えた声で言う。
「……本当に、燃えましたね」
「燃えるようにしたからな」
当然のように答える。
「これで、備蓄は一部使えなくなる。対応に人も割かれる。遅れる」
それでいい。騒ぎの中。
子供の泣き声が聞こえた。
「母ちゃん……!」
一瞬だけ視線が向く。
だが——すぐに逸らした。
「行くぞ」
それ以上、何も言わない。
夜。
簡素な宿の一室。
クラウスーシュトライヒは一人、座っていた。
机の上には簡単な地図。
倉庫の位置。
井戸の位置。
人の流れ。
「……予定通り」
静かに呟く。
「帰りは水だな」
淡々と。
「これで、もう一段鈍る」
ふと、思う。
「弟は、どうする」
口元がわずかに歪む。
「理解するか。それとも——悩むか」
どちらでもいい。
「……どっちでもいいな」
小さく笑った。
「守れるなら、それでいい」
灯りが揺れる。
外では、まだ騒ぎが続いている。
だがこの部屋は、静かだった。
戦は、もう始まっている。
見えない場所で、確実に。