軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

37 お迎えは馬車タクシーで

木箱を抱え、私は広い庭園を進んでいた。

昼下がりの光はまだ高く、しかしわずかに傾きを見せ始めている。長い石畳の小道に濃い影が帯を引き、その間を縫うように雑草ひとつない緑の芝が続いていた。

先ほどまでの資料室の閉ざされた空気と違って、外の空気はどこか解放的で、それだけに肌に刺さる危うさもあった。

庭園は思っていたよりも広大だった。見える範囲だけでも、ざっと五つ以上の花壇が区切られ、色とりどりの花が咲き乱れている。

整えられた芝の上には、時折大理石の彫像が立っている。ギリシャ風の神像らしき裸身、あるいは羽を広げた天使。苔むすこともなく磨き上げられているあたり、この庭園が人手を惜しまず維持されていることが分かる。噴水の音もかすかに耳へ届いてきた。

だが美しいはずの庭園は、今の私には逃げ場の乏しい舞台にしか見えなかった。

木箱を両腕に抱え込む形で持ち上げ、腰を少し反らせるようにして歩を進める。荷物運搬を任された新米メイドに見えるだろう。

幸い庭園の手入れをしている庭師の姿は見えない。今のところ怪しまれる気配はなさそうだ。

だが、いつ誰が現れるかは分からない。この庭は広すぎて、身を隠せる場所はほとんどないのだ。

背後から鳥の羽音が聞こえた。視線を巡らせると、噴水の縁に鳩が二羽、首を傾げて水をついばんでいる。

耳を澄ませば、水音が静かに響き、風が木々を渡る音に混じってどこか遠くで人の声がした。庭に面する廊下を、使用人たちが往来しているのだろう。

私は足取りを速めた。落ち着いているように見せかけながら、心臓の鼓動はどんどん速くなる。

その時、視界の端を、影が横切った。

キョロキョロと落ち着かない視線を走らせながら、小走りに駆けてくる影が目に入る。

現れたのは、まだ若い男だった。年は二十代前半、くすんだ茶色の髪を後ろで結わえ、それなりに仕立ての良い服を着ている。腰に剣はなく、手には小さな紙片を握り締めている。その姿は、典型的な「従者」あるいは「中間管理職の使い走り」といった風情だった。

だがその顔は焦りに歪み、息も少し荒い。彼は庭園の小道を走り、こちらに気づくと声をかけてきた。

「あ、君!」

咄嗟に足を止め、反射的に返事をする。

「え、はい……」

デジャブ。

先ほどの文官に書類を押し付けられた時と同じだ。嫌な汗が背を伝う。

男は私の前に立ち止まり、短く息を整えてから低い声で切り出した。

「人を探しているんだ。黒髪黒目の女性で……見かけなかったか?」

──見かけているどころか、今まさにその人物がここにいる。

けれど表情に出してはいけない。ここで狼狽えれば、一巻の終わりだ。木箱を抱え直し、私は眉を寄せて首を振った。

「いえ、見ていません。……お客様ですか?」

自然を装いながら、少しばかり探りを入れる。あくまで“何も知らない新入り”として。

だが、従者風の男は私をまじまじと見つめ、ほんの一瞬言葉を選ぶような仕草をした。

「あ、いや……そんな所だ。見かけたらすぐ知らせてくれ」

「かしこまりました」

会釈を返すと、男は踵を返し、そのまま駆け出して行った。

走り去る背中を見送りながら、内心で冷たい汗が滲む。

脱獄からすでに一時間以上が経っている。牢には見張りはいなかった。だが、定期的に様子を見に来る者がいたのだろう。あるいは私に用事があったのかもしれない。そこで私がいないことに気が付かれた。

しかし妙なのは、探しているのが兵士や警備ではなく、従者らしき者だという点だ。

もし"牢に捕らわれていた者"を本気で捕縛するつもりなら、武装した兵士を動員し屋敷全体を封鎖するのが常道だ。だが実際に動いているのは、ごく一部の従者だけに見える。

……この件を知っているのは限られた人間。侯爵に近い立場の、信頼のおける者たちだけ。だからこそ、館全体に大々的に通達されていないのだろう。

裏を返せば、今のところは“まだ”逃げられる可能性がある。

私は小さく息を吐いた。

だが、安堵している暇はない。このままでは時間の問題だ。やがては兵士にも命が下り、家中が総出で探すことになる。そうなれば、人目の多い庭園を抜けて脱出することなどほぼ不可能だ。

視線を上げると、屋敷の二階の窓を横切る人影。慌ただしく行き来するのは、やはり人探しの指示が出ているからだろうか。胸がひやりと冷える。

すぐに脱出するしかない。

木箱を抱え直し、私は庭園の出口を目指して歩を進めた。

息を潜めるように歩きながら、視線は常に周囲を走らせる。噴水の陰、低木の向こう、館に面した廊下の窓。誰かが見ているのではないかという疑念が、背中を突き刺した。

風が吹くたびに花が揺れ、葉がざわめく。それすらも誰かの忍び寄る足音のように聞こえる。

庭園を一周するように、私は塀の位置を確認しながら歩き回った。

館の周囲を囲う塀は白灰色の石造りで、部分的に蔦が這っているが、手がかりにして登れるほどではない。

上部には飾りのように金属の柵が付けられているが、先端は槍の穂先のように尖っていて、無理に越えようとすれば衣服が裂け、怪我を負う可能性が高いだろう。

だが完全に不可能ではない。──梯子さえあれば。

問題は、人目だ。塀の内側は防犯のためか、ほとんど遮蔽物がない。見つからずに近づける場所は限られている。

私は目を凝らし、庭の隅に視線を走らせた。

やがて視界の隅に、小さな木立と古びた小屋が映った。庭師の作業小屋か、道具入れか。

その小屋を覆うように木立が伸びており、他の場所に比べれば多少は視線を遮れる。

庭師本人の姿は見えない。作業に出ているのか、あるいは今日は休みか。ともあれ、今が好機だ。

人がいないことを何度も確かめ、私は足早に木陰へと滑り込んだ。

小屋の陰に入り込むと、木箱を地面に置き、紐を取り出した。肩に食い込む重さは覚悟の上で、箱を背に括りつける。両手が自由にならなければ、梯子を扱うことも塀を越えることもできない。

ぎゅっと結び目を締めると、息を整えて周囲をもう一度見渡した。誰もいない。

館の方から人の声は聞こえるが、この中庭の隅までは届いてこない。

私は梯子を取り出し、足音や声が近づいてきやしないかと耳を澄ませながら、慎重に塀に梯子を押し当てた。

まずは上へ。

梯子を一段ずつ登る。背中の荷が揺れるたびに、梯子が小さく軋む。

木の枝にぶつかって葉擦れの音が鳴るたびに、全身の筋肉がこわばった。だが、幸運にも誰も駆けつけてはこない。

塀の上部に到達し、そっと向こう側を覗き込む。外の景色が目に飛び込んできた。

幸い、こちら側は人通りの多い通りではなかった。館の裏手にあたるらしく、石畳の街道から一本外れた小道が走っている。通りすがりも馬車も兵士も、今は影すら見えない。

私はしばし耳を澄ませる。遠くで鳥が鳴く声のほかには、人の気配はない。よし、と心の中で呟き、塀の上に身体を乗せた。

尖った金属柵が衣服をかすめ、ひやりとした感触が背中を走る。慎重に身を屈め、背負った木箱をずらさないよう注意しながら、外側へと重心を移す。

呼吸を整え、視線を走らせる。……よし、今だ。

私は梯子をアイテムボックスに収納した。突然姿を消したように梯子が消え、塀の上には私だけが残る。

落ち着く間もなく再び取り出し、今度は外側に設置。梯子が安定しているのを確かめ、外側に立てた梯子へ足を掛ける。木箱を背にしたまま慎重に体を移し、外へと降りていった。

やがて足が地面を踏みしめた瞬間、全身の緊張がわずかにほどける。

塀の外に立っている。視界に広がるのは館の庭ではなく、外の世界だ。

……やっと、脱出した。

だが、油断はできない。

ここが侯爵家の本邸なのか別荘なのかは知らないが、近隣には情報網があるだろう。記録にないメイドの外出の目撃情報が上がって怪しまれ、そこから足跡が辿られるかもしれない。まずはどこかで変装の衣装替えをしなくては。

ここから先、どの方向へ進むかを誤ればすぐに追いつかれる。私はもう一度周囲を見渡した。

だが間もなく、遠くから石畳を叩く蹄の音が風に混じって耳に飛び込んできた。ガラガラと車輪が地面を鳴らす。

視線を巡らせれば、道の向こうから一台の馬車が現れた。

紋章もなく、塗装も地味で質素。誰の目にもただの運搬用か、さして重要ではない私用の馬車にしか見えない。

だが、その歩調が徐々に緩み、私の立っている辺りで速度を落とした時点で、ただの通りすがりでないことは明らかだった。

何気ない風を装いつつ視線を向けると──突如、バタン、と馬車の扉が開いた。

「掴まれ!」

低く鋭い声と同時に、馬車の奥から大きな手が伸びる。

思考より先に体が反応していた。私は木箱を背負ったまま、その手に自分の手を叩きつけるように掴んだ。

片足を備え付けの踏み板に引っかけ、全身の力を込めて身体を持ち上げる。

次の瞬間、強い力でぐいっと腕を引かれ、私は馬車の中へと引き込まれた。勢い余ってそのままもつれ込むように転がり込み、気づけば彼の膝の上に乗っかる格好になってしまう。

背後で扉がバタンと閉まり、次いで馬車の速度が一段と上がった。地面を蹴る蹄のリズムが鼓動のように耳へ響き、外の景色が窓の外をすっと流れていく。

「お迎えご苦労、レオナルドくん」

わざと軽口を叩いてみせると、頭上から深々とした溜息が降ってきた。

彼には来るなと伝えていたのに、来てしまったらしい。まぁ外に出ず人目には触れていないようなので、セーフか。

「……まったく、君は……」

困惑と安堵と呆れが入り混じった声音だった。

レオナルドが膝の上に横たわる私の顔を両手で包み込む。

ひんやりとした指先が頬をなぞり、逃げ場を奪うように正面から視線を捕らえた。眼鏡の奥、夜明けを閉じ込めたような淡い色の瞳が、まっすぐこちらを覗き込んでいる。

髪が乱れて額にかかるのを、彼の親指がそっと払った。

「怪我は?」

低く、しかし抑えきれない切迫を含んだ声。普段の冷静沈着な言葉遣いは影を潜め、ただ心配だけが剥き出しになっていた。

「ないよ。ちょっと埃っぽくて乾燥したくらい」

そう告げると、レオナルドの肩からほんのわずかに力が抜けるのが分かった。彼は険しかった眉を緩め、安堵を隠すように再び小さく息を吐いた。

馬車は揺れながらも一定の速さで進んでいる。外からは遠ざかっていく館の気配。

塀越えの緊張がまだ心臓を掴んで離さないのに、こうして彼の膝に頭を預けていると、張り詰めていた糸が急に切れそうだった。