軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

最終章:真名が告げられる時

式典の三日後、王宮で大舞踏会が開かれる。王都でも最大級の恒例行事だ。

地方から戻る貴族には、名門と縁を結ぶ絶好の場。

若い令嬢には、社交界デビューの関門で、無数の目に測られる試験でもある。

会場は王宮南殿の祝賀広間だ。

天井は高い。白い大理石の柱が列をつくり、梁の金細工が光を拾う。

壁には古王朝の舞踏画。深紅の絨毯が足音を吸い、中央では楽団が弦を合わせている。

ここでは、言葉より先に『身分・作法・衣装』が物を言う。

誰と腕を取り、どこに立ち、どの順で名を呼ばれるか。退席の時刻でさえ意味がある。

相府が新任人事の発表をこの夜に合わせたのも意図的だ。観衆がそろい、噂が最速で広がる。

扉が開き、名簿官の声が広間に響いた。

「ロルフ・ライヒ殿、並びに、ジゼラ・ローゼン嬢」

歩き出したジゼラは、黄色のドレス姿のリサを見つけ、口元をわずかに緩めた。

その奥では、薄紫のドレスのコルネーリアがこちらを見ていた。淡い色は愛らしさを引き立てるが、同時に幼さも強調する。

……まだ庇護される少女のままだ。

シュヴァルツ伯爵夫人が、この装いを好むとは思えない。

今こちらを射抜くような視線も、未熟さの裏返しに見える。

応じる理由など、どこにもない。

照明をまといながら歩み出たジゼラの姿に、周囲の視線が吸い寄せられる。

深いワインレッドのドレスは、王都でも評判の仕立て屋による一点物。同じ色も曲線も、他にはない。

肩を覆う細い絹紐のケープ、胸元を彩るガーネットの列。装飾は控えめでも、一つひとつが計算され尽くしている。

首元の石と、耳に揺れる光が、衣装と呼応して落ち着いた輝きを放っていた。

ロルフは黒の礼装。

飾り気のない織地に、紋章を付けず、襟元には同色のタイ。

華やかさに頼らずとも、一目で完成された品格が伝わる。

ロルフの腕に手を添えたジゼラの足取りにぎこちなさはない。

呼吸も歩幅も自然にそろい、視線はまっすぐ前を向いていた。

二人が広間に姿を現すと、あちこちで視線が集まり、息を呑む気配が広がった。

──ローゼン伯爵家の……例の長女か?

──婚約を破棄されて修道院に入ったのではなかったか?

──いや、地方で書記官をやっていると聞いたが……。

──まあ、なんて美しいドレスなの。宝飾品も素敵。どこの工房のものかしら。

──どうして、あんなに素敵な殿方が田舎に引っ込んでいらっしゃるの?

ひそやかな囁きが交わされても、誰ひとり声を張り上げようとはしなかった。

次の瞬間、司式官が壇上へ進み出た。

金糸の文書箱を開き、厳かな声で王命文を読み上げる。

「ロルフ・ライヒ──改め、アゼルリート公爵家嫡長子、ロルフ・アゼルリートは、四年半にわたりハーバウク地方に赴任し、政務・財政の両面で顕著な成果を挙げた」

広間がざわめく。

「ライヒ家ではなかった?」「アゼルリート?」「あの体の弱い嫡男?」「後継は親戚のはずでは……?」

司式官は動じず、言葉を続ける。

「貿易路の再編を主導し、東西の物流を安定させた。それだけでなく、アストリウス王立農学機関の研究にも協力し、『砂漠芋』や『速生豆』の育種管理を支援。持続可能な農地拡大にも貢献した」

耳慣れぬ単語に顔を見合わせる者もいれば、静かに頷く者もいる。

「これらの功績により、アゼルリート公爵家現当主および次期当主の推挙を受け──」

そこで一呼吸。

視線が一点に集まる。

「よって、アゼルリート公爵家嫡長子、ロルフ・アゼルリートを、王都政務長官補佐に任ず」

深紅の絨毯の上に、沈黙が落ちた。

その職が意味するものは、一つしかない。

王都政務長官補佐──中央行政における最高会議へ、発言権を持って列席する地位。

名家の嫡子という肩書きだけでは届かぬ座であり、事実上の次期宰相候補と目される役職でもあった。

その名が読み上げられた瞬間、空気が変わった。

会場の奥、最敬礼を捧げた老侯爵たちが頷く。

広間の大半が、ようやくその意味を理解した。

壇上のロルフが一歩進み出て、深々と一礼した。

礼装に身を包んだその姿は、威圧ではなく静謐な存在感で空間を支配する。

「公務に臨むにあたり、婚約者ジゼラ・ローゼン嬢の支えを得る所存です」

ややあって、壇の下から声が響く。

「ローゼン家現当主として、許可します」

低く、重みのある声。ジゼラの叔父が、立ち上がりながら応じた。

その横をすれ違う時、ジゼラの耳元に低く声が落ちる。

「手紙にも書いたが、異母兄様には、先週引っ込んでもらった」

「……読んでおりませんでした」

「はあ、だろうな。次からは目を通しなさい」

「……は、はい、申し訳ありません」

ジゼラは息を呑み、頬を赤らめた。

てっきり縁談の話だろうと思い込んでいたツケが、今、回ってきたのを実感する。

「まあいい。異母兄様と後妻殿も、今は涼しい田舎で過ごしておられるだろうから心配はするな」

一見穏やかに聞こえるその声の裏に、容赦のない決断が透けていた。

そして、黄金の令印がゆるやかに捺された。

その音もなく交わされた合意が、空気を変える。

ひときわ高い位置にいたコルネーリアの顔が蒼ざめた。

口元を引き結び、肩を強張らせたまま、視線は壇上に縫いつけられている。

──公爵家の婚約者? お姉様が? そんな……。

声は出ておらずとも、唇の動きが言葉の形をなぞる。

その隣で、グレゴールは拳を握り締め、奥歯を噛んでいた。

──なぜあの時、手放したのか。

ざわめきの中、ジゼラはロルフの立つ壇上をただ見つめていた。

◇◇◇

名前一つ加わっただけで、周囲の目はここまで変わる。

そんなことは分かっていた。

分かっていたはずなのに。

正面を向いたまま、ジゼラはゆっくりと息を吐く。

今日の言葉も、振る舞いも、以前と変わっていない。それなのに、周囲の態度だけは明らかに違っていた。

「ご婚約、おめでとうございます」「まあ、なんてお似合いでいらして」「政務長官補佐閣下、どうかご寛容に」

どの言葉にも、甘さと媚びが混じっている。

立場が変われば、人はあっさり態度を変える。

それが、この場にいる者たちの常識なのだ。

……驕ってはならない。決して。

偉いのは隣に立つ人であって、自分がその席に座っているわけではない。

そう、自分に言い聞かせる。

それから、叔父を誤解していた自分を思い出す。

決めつけていたことを思い返すだけで、顔がじわりと熱を帯びる。

信じ切るのは、やはり難しい。

幼い頃の刷り込みは、簡単には抜けない。

それでも、変わらなければならない。自分の意志で。

ジゼラの周囲の誰もが変わって見える中で、変わらなかったのはリサだけだった。けれど、あのような友人には、今後もう出会えないかもしれない。

だからこそ、これからは人を見る目が必要になる。

周囲からの賞賛は、途切れなく続いていた。

ジゼラは、視線の気配を感じ取った。

無言のまま、意識だけが隣に向く。

言葉では語らずとも、その眼差しがすべてを包んだ。

続く称賛に背を向けるように、ジゼラは頷きを返した。

目が合うだけで通じる気がした。

楽団が演奏を始める。

婚約者同士の王子と隣国の姫が踊る為の特別な曲である。

視線が中央に集まり、会場は緊張感を帯びていた。

舞踏会で最も格式ある場面が始まった。

その只中に、声が届いた。

「お姉様、お時間をいただけますか」

振り返ると、コルネーリアが立っていた。

姿勢は保たれていたが、その眼差しには迷いが滲んでいる。

ロルフが一歩踏み出す。

「無理に応じる必要は──」

「少しだけなら」

遮るように言って、ジゼラはロルフの袖を軽く引く。

控え室に向かう途中、ロルフはなおも視線を向けていた。

気にしないで? と言うように、ジゼラは一度だけ首を振る。

「ロルフ、中まで来なくていいから……会場に戻って?」

「扉の前にいる」

「ねえ」

「嫌だ。これは妥協だよ」

言い切る声音に、強い意志がこもる。

「もう、仕方ないわねえ……」

ジゼラは微かに笑みを浮かべて頷いた。

控え室の扉が閉まり、ジゼラはコルネーリアと二人きりになった。

「……お時間をくださり、ありがとうございます」

「いいのよ。それで? 話というのは?」

丁寧に頭を下げる異母妹。

けれど、その言葉の後に続いたのは、遠慮のない本音だった。

「グレゴール様が、私を見てくださらないの。もう、ずっと前から……。私、すごく頑張ってるのに……」

ジゼラは口を挟まない。

「……試験も難しいし、先生も意地悪でひどいことばかり言うんです……」

「そう。でもそれは自分で決めたことでしょ?」

「それはそうですけど……お姉様はこんなに大変だなんて教えてくれなかったもの……」

「話というのは、『今が辛い』という弱音を訊いてほしいということ? それとも励ませばいいのかしら?」

「いいえ……その……」

「何?」

膝の上で手を組んだまま、コルネーリアは視線を下げた。

そして、深呼吸を一つ。

顔を上げ、ジゼラを真っすぐ見つめる。

「お姉様。婚約者を、交換していただけませんか?」

「それはできないわ」

即答するジゼラの声に、コルネーリアの顔がこわばる。

「……どうして?」

「理由は、あなたが一番よく分かっているはずよ」

ジゼラの声音は、あくまで淡々としていた。

「伯爵夫人になる為の勉強も、まだ終わってないんでしょう? 課題にも答えられず、先生の教え方が意地悪だと言ってしまう。そんなあなたが公爵夫人になって、何ができるというの?」

「お姉様も、叔父様も、意地悪ですっ!」

わあっ、とコルネーリアが泣き出した。

だけど、ジゼラは異母妹がいつでも泣ける人間であることを知っている。涙を武器にすることも、逃げ道にすることも、心得ている。

彼女に向いているのは、社交界より舞台かもしれない。伯爵夫人になるよりも、女優の姿のほうが想像しやすい。

「グレゴール様との婚約は白紙に戻して、予定通り王宮侍女として出仕しなさい。社会を知るところから始めるべきよ。……そうね、叔父様に任せるのが一番いいと思うわ」

言い終えると、ジゼラは迷いなく踵を返す。

「お姉様っ……! 待ってくださいっ! お願いです!」

「では、ごきげんよう」

部屋を出ると、扉の前に控えていたロルフが、何も聞かずに歩調を合わせた。

控え室の中から、癇癪を起こした子供のような泣き声が聞こえるが、扉を閉めれば、その音は届かなくなった。

「大丈夫?」

心配するロルフの腕に、腕を絡めて「大丈夫よ」と答える。

──コルネーリアが自分で変わろうとしない限り、変化は訪れない。

冷たいと思われるかもしれない。

けれど、してきたことが還るのだとすれば、それもまた学びの一つ。

気づくかどうかは、あの子自身の問題だ。

ジゼラは視線を前に向けた。

「……忙しくなりそうね」

言葉にして初めて、重さを実感する。

ハーバウクに戻れば、新人書記官の教育が待っている。

引き継ぎ資料の作成、未決の案件まとめ、連絡文書の再確認。途中で止まっている政務課題も山積みだ。

最短でも半年。どうやり繰りしても、それだけは動かない。

けれど、隣にいる人物は、当然のように言い切る。

「王都の住まいは、もう用意してるよ」

ロルフは、そこのところは抜かりがないので、すぐにでも王都での暮らしに入れるだろう。だが、ジゼラはそうはいかない。

「私は、半年はハーバウクを離れられないの。一人で住むことね」

ジゼラの、ツンとした声に、ロルフは肩を竦める。

「正直、君がいないと仕事が手につかない。二人で一緒にやれば……二か月半で片付くだろ? 頼むよ、ジゼラ。遠距離なんて耐えられない。……一人寝なんて嫌だ」

勝手な男だ、と思いながらも、否定の言葉は出てこなかった。

なんせ、ジゼラだって遠距離は避けたい。悔しいが、頷かざるを得ない。

──この時のジゼラは知らない。王都へ移るのが、本当に二か月半後になるとは。

有言実行してしまうところが、この男の長所であり……もしかすると、少しだけ恐ろしいところでもあるのかもしれない。

◇◇◇

王都に移り、公爵家の夫人としての生活が始まってからも、ジゼラの暮らしは相変わらず多忙だった。

式典、訪問、文書の山。

政務補佐の配偶者といえば聞こえはいいが、求められるのは社交だけじゃない。

王命を受ける立場ともなれば、どんな質問にも即答できるだけの理解と判断が求められる。

けれど、ジゼラに揺らぎはなかった。

知識と鍛錬、誇りと冷静さで地位を固めてゆく。

リサは、時折、訪ねてきた。

昔のように冗談を飛ばし合うことは減ったが、代わりにお互いの近況を語り合える関係になっている。

コルネーリアが王宮侍女として働いているという話は、リサから聞いた──何を隠そう、リサはとんでもない情報通なのだ。

配属された最初の頃の異母妹は、何かと失敗が多かったそうだ。

指示の内容を正確に覚えられず、準備の順序もあやふやで、何度も確認を取り直すことになったという。

報告や伝達も曖昧なままで、聞かれたことに答えられず、相手の表情を曇らせる場面が少なくなかった。

叱られると黙り込み、頭を下げるわけでもなく、そのまま立ち尽くす。

気まずさを取り繕うように笑ったことが、かえって反感を買ったとも聞く。

そんな中でも、最初のうちは助けてくれる者がいたらしい。

若い騎士や男性使用人の中には、愛らしい容姿のコルネーリアに気を留め、掃除を代わってくれたり、忘れた備品を届けてくれたりする者がいたという。

けれど、それが長く続くはずもなかった。

何もできないのにちやほやされている、と。

そう見た同僚の侍女たちの間に、次第に不満が溜まりはじめた。

些細なことがきっかけで口論が起き、周囲の空気は明らかに変わっていった。

さらには、騎士たちの間での内輪の諍いが隊長の耳に入り、上からの注意が入ったとも噂されている。

そうなれば、崩れるのは早い。

そう、誰もコルネーリアに関わろうとはしなくなる。

何を尋ねても返事は遅れ、報告は回ってこない。掃除当番だけが一人分増やされ、荷物運びも任される。

明確な叱責よりも、そうした無言の拒絶のほうが、よほど堪えるものである。

それでも辞めてはいないらしい。

いや、正確には辞める場所も、戻る場所もなかったからなのだが……。

叔父が正式に家を継ぎ、両親も辺境に引いてしまった今、戻れる場所が残されていないのだ。

つまり、王宮に残るしかないということだ。

ジゼラは思う。

辛い状況から、自分の足で這い上がってほしい、と。

あの子は、いい意味でも悪い意味でも素直だ。そして、諦めが悪い。

だからこそ己と向き合い、変わろうとする日が、いつかあの子に訪れると信じたい。

グレゴールは、婚約が白紙となった数週間後、王命により辺境の寒村へ赴任させられたという。

この話は、リサからではなく叔父から聞いた。

表向きは人事異動という体裁だったが、実際には権限のない名ばかりの役職で、護衛もつかない処遇だったという。周囲の貴族たちは、誰も彼の異動に異を唱えなかったらしい。

叔父の采配だと分かっていても、ジゼラは何も言わなかった。

最近では、シュヴァルツ家の『次代』という言葉そのものが、別の名とともに語られるようになった。

親戚筋の少年が養子に迎えられたと聞くが、その報せの中に、もはやグレゴールの名は含まれていない。

社交の場で彼の名が挙がることはなく、知らぬ者には最初から存在しなかったように扱われている。

一方で、ジゼラとロルフの暮らしは変わらない。

朝を共に迎え、政務に臨み、日が暮れれば書類を脇に置き、言葉を交わす。

もっとも、ほんの少しだけ変わったことがあるとすれば、ロルフの気遣いが以前よりも過剰になったことだろうか。

椅子から立ち上がるだけで、すぐに視線が向けられる。

落ちたブランケットを拾おうとすれば、代わりに立ち上がるのは決まってロルフだ。

本人は何も言わないが、原因は明らかである。

それは、医務官に告げられた言葉──「ご懐妊です」がきっかけだ。

せめて紙一枚持っただけで騒ぐのはやめてほしいが、それが嬉しいと思う自分もいるのでジゼラも大概である。

【完】