軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第一章:異母妹の『お願い』がもたらした婚約破棄

コルネーリア・ローゼンの世界は、今日も優雅で、不自由とは無縁である。

昨日より素直に、思い通りに物事が運ぶ。明日も、きっと同じはず。

崩れる理由なんて思いつかない。

すべてが滑らかに進み、人も空気も、コルネーリアにとって心地よい形におさまってくれる。

両親の対応はいつも決まっている。「コルネーリアが欲しいと言うなら」と、望むものをすぐに手元へ届けてくれる。

姉は少し意地が悪いけれど、最後には折れてくれるから、根っこの部分は優しいのだとコルネーリアは確信している。そんなふうに姉の良いところを見抜ける自分は、きっと誰よりも心が広い、とも。

ふと、子供の頃に好きだったお伽噺を思い出す。

立ち居振る舞いは立派でも、最後まで物語の中心には立てない登場人物たち。

姉は、そういう役によく似ている。

物語のヒロインは、いつだって表情豊かで天真爛漫なお姫様。

そう、コルネーリアのような。

◆◆◆

朝からジゼラの胸には嫌な影があった。何か、良くないことが起こる、と。

その胸のざわめきを抑えるように、ジゼラは刺繍に没頭していた。

緑の糸が布を渡るたび、蔓の模様が少しずつ浮き出していく。針を表から裏へ、裏から表へ。この単調な往復が、不安を鎮めていく。

しかし、不意に扉を叩く音が響き、部屋の空気が冷たく張りつめた。

ああ、 こ(・) れ(・) か──ジゼラは予感の正体を悟った。

「失礼します」

返事も待たずに扉を押し開けたのは、ジゼラより半年若い異母妹コルネーリアだった。

淡いピンクのドレスを纏い、立ち姿は菓子細工の人形のように可憐。

金の髪は軽く揺れるたび光を散らし、その下で葡萄色の瞳が甘えるように潤んでいた。

昨夜の光景が脳裏をかすめる。……月明かりの下で、この瞳は甘い吐息に濡れていた。

温室裏の回廊で、コルネーリアは、ジゼラの婚約者であるグレゴール・シュヴァルツと身を寄せ合い、口づけを交わしていた。

『愛してる、コルネーリア』

『いけません、あなたはお姉様の婚約者です』

『分かっている。だが、誰に責められようが、この気持ちは揺るがない。君しか愛せないんだ』

『ああ、グレゴール様……嬉しい。私もです!』

『コルネーリア!』

二人は芝居じみた言葉に陶酔していた。

そんな場面を目にするのは、一度や二度ではない。

見慣れた光景だ。

けれど、心地よいはずがない。

胸に手を当てる仕草、震える声、首の傾け方、言葉の置き方。幼い頃から少しも変わらない。

「何?」

短く返しながら、ジゼラは視線を布に戻し、あと一針で完成する模様を見つめた。

この刺繍が終われば、子爵令嬢への見本として届けることができる。王都の淑女学院を受験する令嬢が、「お手本を見せていただけませんか」と丁寧な手紙をくれたのだ。

「グレゴール様の婚約者のお立場を譲ってほしいんです」

コルネーリアの一言に、部屋の空気がぴたりと止まった。

分かって言っているのだろうか、この子は。

初舞踏会の髪飾りも、誕生日の扇も、王宮の夜会用に仕立てたドレスも、お気に入りのハンカチも、欲しがれば何もかも渡してきた。

でも、今回の『お願い』は、それとは違う。

「……はあ」

声を出すより先に、ため息が漏れた。

そして、二つ呼吸を置いてから、ようやく口を開く。

「聞かなかったことにしてあげるわね」

「そんな! ひどいです!」

ひどいのは、どちらなのか。

そんなことも分からないらしい。

「あなたは、シュヴァルツ伯爵夫人からの教育も、女官長の研修も、宮廷の礼儀作法も受けていないでしょう?」

「明日から受けます!」

「つい先月、自分で『王宮の侍女になる』って言っていたことを、もう忘れたの?」

いつも思いつきで行動し、昨日の決意を今日には変えてしまう子だ。

案の定、質問には答えない。

「グレゴール様は、私を選んでくださったんです! 私も、あの方を愛しています!」

「そんなに声を荒げなくても聞こえるわ」

「……っ」

コルネーリアの涙が光に触れる。

まるで悲劇のヒロインだ。

「父上への願い出は、もう済んでいて?」

「そ、それは……まだ、です。その……お姉様から伝えてもらいた──」

「私から父上に申し上げればいいのね? 昨夜、温室の裏で拝見したことも添えて」

ジゼラの言葉に遮られ、コルネーリアは息を呑んだ。

「お姉様は、私に怒ってるんですね……?」

「いいえ。ただ、あなたとグレゴール様が責任を分け合う覚悟があるかどうか、確かめたいだけ。その決意は本物なの?」

「お顔が怖いわ……。やっぱり怒っているんでしょう?」

自分に都合が悪い問いかけには答えない。

この子の癖だ。驚きはない。

「今は、笑おうとしても無理なの。分かるでしょ?」

「……」

ジゼラはため息をこらえ、刺繍枠に布をかけてから、椅子をコルネーリアの正面まで引き寄せる。

「愛を選ぶ気持ちが本物なら、手続きも自分でやりなさい」

「お、怒らないで……怖い……」

コルネーリアの目から、涙がぽろりと零れた。

「……怒ってないわ」

実際には、火種のような苛立ちがある。

けれど、それを口にすれば、この子は泣き喚いてさらに面倒になる。

怒ってないと言っても泣くのは分かっているが、まだこのほうが建設的だ。

茶器に手を伸ばし、二つのカップに湯を注ぐ。

コルネーリアは潤んだ瞳で紅茶の面をじっと見つめ、何も答えない。

頭がじんと痛む。

この異母妹と話すと、いつもこうだ。

「はあ……」

そして、ジゼラは観念した。

「父上のところへは、三日後に行くわ」

「ありがとうございます! ……でも、もっと早く言いに行ってほしいです!」

「三日後になるのは、今日が宴会で明日は領主会議だからよ」

「あ……そうでしたね、はい」

「それと、父上のところへはあなたも一緒に言いに行くの」

「え?」

「自分の口で言わなければ、意味がないでしょ」

「……っ、ぅ……ひどい……っ」

コルネーリアの細い肩が震える。

それを無視し、心の中で段取りを組む。

まず私的家計簿から持参金の数字を抜き、解消に必要な補償額を算出する。証人は領地参事をあてる。書式は四通。印章は父上、叔父、ロイネル卿、そして自分。

思案していると、コルネーリアがおずおずと尋ねてきた。

「お姉様。もしも、お父様が反対なさったら、私、どうしたら──」

「説得しなさい」

「わ、私が、ですか?」

「本気で、グレゴール様と生きると決めたのでしょう?」

「もちろんです! でも……っ!」

「ならば父上のお考えを動かしなさい」

「うう、ひどい。……ひどい……」

また泣き出すコルネーリア。

「父上は反対しないはずよ。昨夜のことも、私からは言わないから」

「……ひ、っく、うう、ぐす」

頬に残る涙の跡へ指を伸ばしかけ、途中で止めた。

手を引き、巾着からレースのハンカチを取り、そっと机に置く。

「……分かったわ。分かったから。……はあ。私から言うから、泣くのはやめて」

ジゼラが諦めたのは、ほだされたからではない。この場を早く収めるには、それが一番手早いからだ。

コルネーリアはハンカチを握り、深く礼を執った。

「感謝いたします、お姉様。本当にありがとうございますっ!」

言い終わるや否や、部屋の外にいる自分付きのメイドに報告する様子に脱力しかない。

「……」

卓の上にはまだ熱の残る紅茶と、覆い布に包まれた刺繍枠がある。

花の終端に金糸を落とすのは夜に回そう。

今は準備を進めるほうが先だ。

ジゼラは筆記具を手に取り、羽根ペンを紙上に滑らせた。

三日後、日が傾きはじめた頃の応接間。

暖炉の残り火が橙色の光を揺らしながら、紅い絨毯に長い影を落としていた。

父・ローゼン伯爵は執務椅子にもたれ、半開きの帳簿を机に置いたまま数字も見ず、万年筆を指でくるくると回している。

継母は肘掛け椅子に身を預け、香の濃い扇を膝に伏せている。

ジゼラの母がまだ生きていた頃から、この継母は父の傍にいた。正妻ではなかったのに、自分こそが女主人であるかのように。

そして、病に伏して儚くなった母の座に、今はさも当然のように座っている。

いつも通り、二人のどちらの目にも愛情の色は見受けられない。

ジゼラは文書箱を腕に抱き、コルネーリアと並んで部屋へ入り、深く一礼をしてから、婚約の辞退届と婚約承継証書を机の上に差し出した。

「まあ、多少めんどうだが、可愛いコルネーリアの為なら許可しよう」

父の承諾は口先だけ。この後のやり取りや細々とした手続きを、自分が一切担わないからこそ言える言葉だ。

「父上、簡単に許可などと言ってもいいのですか? 家と家の契約を──」

父は鼻で笑い、「当主に逆らうつもりか」とジゼラの言葉を遮った。

本来なら、姉の婚約を妹に譲るなど笑い草になる話だ。

けれど、この国では家の長が認めさえすれば、どんな理不尽も通ってしまう。

「シュヴァルツ家の当主は倅に甘い。頼まれれば、断るはずがない」

その言葉に、ジゼラは何も言い返せなかった。これまで幾度となく、シュヴァルツ伯爵がグレゴールを甘やかす場面を目にしてきたからだ。

父が書面を上から下へ目で追い、金縁眼鏡を指で押し上げる。

「お父様、ありがとうございます!」

コルネーリアが歓喜の声を上げる。

「コルネーリアが婚約したほうがうまくいきそうね。美貌も可愛げもあるもの」

継母が笑みを深めながら言う。

父は万年筆を取り、印章の位置を確かめる。

「手続きはセヴランに回覧させよう。印は彼奴の決裁が下りてからだ。めんどうなことは全部あいつに任せる」

──五年前、父が病で執務の大半を離れた際(という体)、家政を預かったのは、父の腹違いの弟・セヴラン卿だった。

歳入の立て直しで王家と評議会の信を得た手腕は確かで、領内の文官たちも頭を下げるほど。実務を重んじる人柄で、今では領務も財務も彼の許しなくしては進まない。

それでも父は、自らの権限が形ばかりになっていることに、危機感を抱いている様子はなかった。むしろ叔父を、言いなりで仕事を押しつけられる便利な男としか見ていないのだろう。

その『便利な男』こそが、やがて次期当主となる未来は目前に迫っているのに……。

ジゼラはそれを不満に思わない。情がなくとも、叔父の判断には信を置ける。

ジゼラは心の中で段取りを組んだ。

一週間もあれば書類は戻る。そのあいだに旅支度をして、赴任の願いも仕上げてしまおう。

もっとも許可が降りてもすぐには発たず、残務や挨拶の為、しばらくは王都に留まるつもりではいるが。

継母が扇を開き、何でもないことのように軽くあおぐ。

「ジゼラ、次の縁談は急がなくてもいいわよね?」

「はい」

「じゃあ、二~三年、静養したらどう? 田舎に良い修道院があるらしいの。行ってらっしゃいな」

継母の言う『良い修道院』が、言葉通りの場所のわけがない。

「ご心配には及びません。私は王都を離れて地方書記官としての任務を申請するつもりです。本来は男性文官の席ですが、王家財務顧問でもある叔父様と、王妃付き女官長の推挙があれば、特例任用が下りる見込みです。叔父様と女官長にも、そのように手紙を書きました」

誤解がないよう、はっきり伝えると、継母の口角はスッと下がった。

「ふうん、自分で居場所を作れるなんて、たいしたものねえ」

急に興味を失ったかのように表情が消える継母には、いつまで経っても慣れない。

ジゼラが黙っていると、コルネーリアが明るい声を上げた。

「私、グレゴール様と力を合わせ、シュヴァルツ家にもローゼン家にも恥じぬ成果を残してみせます!」

父が「はははっ」と機嫌よく笑う。

「コルネーリアが婚約者なら、シュヴァルツ家の倅も鼻が高かろう」

「そうねえ」

コルネーリアは両親の声に頬を緩め、口角を上げた。

その隣に立つジゼラの顔には、陰りの欠片すら浮かんでいない。

幼い頃より、シュヴァルツ伯爵夫人から「人前に感情を晒すものではありません」と繰り返し教え込まれてきたのだ。

怒りや哀しみを覚えても、そうした顔は人前で決して見せないよう教え込まれてきた。それが身についた習いだった。

わずかな日数で、王都には噂が駆け巡った。

「ローゼン家の長女、婚約を破棄したらしいわよ」「妹に譲ったんですって」「譲った? 違うでしょ、取られたのよ」「『淑女の鑑』が台無しね、ふふっ」

扇の陰でひそひそと囁かれた噂は、あっという間に広まっていった。

この異様な早さは偶然ではない。

継母が裏で幾人もの上流夫人に吹き込み、火を大きくしたのだろう。

本来であれば、報告から十日ほどで旅立つ手はずであった。

しかし、女官長の親族に不幸があり、さらに叔父が国を離れていた為、承認は大きく遅れることとなった。

この遅延により、屋敷を離れる日程はずるずると後ろへとずれ込み、結果として、身を置くはずのなかった噂の渦中に立たされることとなったのである。

数週間も経つ頃には、以前は引く手あまただった社交の招待状も、ぴたりと止まった。

懇親会では隅の席に通され、茶会では主催夫人が話題をそらす。

声をかけられることはなく、視線だけがすれ違っていく。

侮蔑でも同情でもない。誰からも距離を取られた。

噂は一種の娯楽にすぎず、真実なんて誰も気にしていない。

大事なのは、自分が『傷ついた側』にならないことだけだ。

そんなある夜、舞踏会の隅。楽団の奏でる円舞の向こうで、グレゴールがジゼラのもとへ足を運んできた。

見慣れた礼装。けれど、襟元には異母妹の好む花飾りが添えられていた。

「君を嫌いになったわけではないんだ。ただ、心がコルネーリアを望んでしまっただけなんだ」

この言葉で、彼という人間の本質が透けた。

グレゴールは一度たりとも謝らず、自分の気持ちだけを正当化する。

そもそも、彼には『裏切り』という概念がないのだろう。

「ええ、あなたたち、とてもお似合いですわ」

異母妹と彼が惹かれ合ったのは、似た者同士だからだ。

自分の言葉に酔い、相手の気持ちよりも、己の欲望ばかりを大切にする。

そんな二人なら、確かにお似合いだ。

「母には怒られたよ。君と結婚すれば安心だったのにって……でも、僕はあの子しか愛せない。もう、どうにもならないんだ」

グレゴールが、ちらりと寄越す視線には、「僕に未練があるのは知っているよ。でも君なら僕の幸せを願ってくれるよね?」とでも言いたげな色があり、頬が引き攣る。勘違いもここまで来れば才能だ。

「どうか、あの子を泣かせないでくださいね」

「当然だ」

「泣かせるのも、慰めるのも、これからはあなたの役目ですよ。分かっていますか?」

「分かってるが?」

「本当に?」

「はっ。……未練がましい」

鼻で嗤うグレゴールに、ジゼラは込み上げる息を呑み込む。

「……では、失礼します」

彼の顔を確かめもせず、ジゼラは踵を返した。

書類はすでに準備済みで、叔父の承認も昨夜届いた。

◇◇◇

荷車が門前に据えられ、小間使いが最後の確認を終えた。

革紐を締める音、後扉の金具を打つ音は控えめで、別れの空気を乱さないように配慮されている。

正面玄関の階段を降りきったところで、軽い足音が背後に響いた。

「お姉様!」

ジゼラは足を止めたが、振り向かない。裾の擦れる気配が寄る。

「本当によかったんですか?」

「もちろんよ」

正面を見据えたまま答える。

語尾をきっちり切ったので、これでもう話は終わるだろう。

そう思った。

だが、コルネーリアは黙らなかった。

「私、きっと幸せになりますわ。お姉様の分まで」

「……そう」

異母妹はきっと口元に微笑を浮かべているのだろう。見なくても分かる。

門扉の先、荷車の傍らに従僕が一礼した。

その仕草に合わせ、ジゼラは歩みを進める。

絹布を巻いた旅行鞄が、馬車の後部棚に載せられていた。

中には馴染んだ筆記用具と旅装、自ら選んだ最低限の品々。

内ポケットには、叔父の署名入り辞令──口添えも、情けもない。

求められるのは、いつだって結果だけだ。

「お気をつけて、お姉様」

異母妹の声が、背後から届いた。

ジゼラは立ち止まらず、返事もせずに、足台を踏み、馬車へと乗り込んだ。

座席に身を置くと、すぐに扉が閉じられる。

薄布越しに見えた玄関の石段に、コルネーリアの影がまだ残っているのが見えた。

馬車がゆっくりと動き出す。

呼吸が浅くなり、胸が焼けるように痛む。

グレゴールに恋していたわけではない。神に誓って。

ただ、これまでの努力を思うと、どうしようもなくむなしい。

伯爵家の婚約者として相応しくある為、シュヴァルツ伯爵夫人の厳しい指導に必死で応えてきた。

甘味は遠ざけ、華やかな色や流行の意匠も控え、生活のすべてを『伯爵家の望む娘』として律してきた。

婚約解消の際、夫人は何度も「本当にごめんなさい」と頭を下げてくれた。最後まで「この縁談は続けるべきですわ!」と反対してくれたのも夫人だ。

それでも、グレゴールに甘い伯爵の意向には逆らえなかった。伯爵夫人の立場では、決定に従うしかなかったのだ。

努力も我慢も、『愛される者』の『お願い』で否定される。

それが悔しくて、苦しい。

それを押しとどめるように奥歯を噛むと、頬を伝ったものが襟元へ落ちた。

けれど、この出発は敗北でも追放でもない。

誰がどう言おうと、ジゼラの選択だ。