軽量なろうリーダー

だって、あなたは敵でしょう?

作者: 針沢ハリー

本文

ノグリーダ帝国皇帝の第一子であり、正妃の一人娘である皇女イザベラは不機嫌だった。

目の前に、数ヶ月後に結婚を控えている、大嫌いな婚約者がいるからだ。

侍女によって繊細に編まれて垂らされた金色の髪が肩にかかるのが煩わしくて、私はそれを肩から弾き落とした。

彼のこともそうやって視界に入らないように出来ればいいのにと、切実に思う。

皇女である私が降嫁する相手は、ユペール侯爵家嫡男のフェルナンドだ。彼と婚約したのは三年も前のことだけれども、これまで心の距離は少したりとも近づいていない。

フェルナンドは文官として皇宮で役職についている。私よりも五歳年上で、この年二十三歳になった。

彼は銀色の髪に緑の瞳を持つ美男子だけれど、はっきり言って好みではない。私は騎士のようなたくましい男性を好ましく思っているからだ。

「相変わらず、あなたは頼り甲斐のない見た目をしているわね」

優雅にお茶に口をつける彼に、唐突に声を掛けるのはいつものことだった。

身分上、彼の方から声を掛けることは基本的に出来ない。皇女である私が先に彼に話しかけない限りは。

「ご心配なさらずとも、初夜の寝室で殿下を抱き抱えられる程度の力はございますよ」

「なっ……っ!!」

「それをご心配になったのでは?」

「違うわ! あなたのような文官ではなくて、武官の方が結婚相手だったらよかったのにと思ったのよ!」

フェルナンドは音を立てずにカップを置くと、いつものように穏やかに微笑みながら答える。

「残念ながら、武官の家柄で、殿下と同年代で、家格が釣り合う独身の者は現在おりませんね」

「知っているわ! それくらいっ」

「ご同情申し上げます」

フェルナンドと話しているといちいち神経を逆撫でされる。

声を荒げるなんて淑女としてあるまじき振る舞いだ。とても子どもっぽく見えるだろうことは、よく分かっている。

そして、自分はただの淑女ではなく、皇帝の娘なのだという矜持も持ち合わせている。

それなのに、彼と話しているとそのような大切なことさえ忘れてしまうのが、また腹立たしい。

もう彼と同じ部屋にいたくない。顔も見ていたくない。私は彼を見据えて、立ち上がりながら言った。

「もう、あなたとはお話ししたくないわ。お帰りいただける?」

「ですが、本日こそ殿下のお部屋の内装を決めていただきませんと」

彼はテーブルから離れてひっそりと立っていた二人の人物にちらりと視線を向けた。

二人はユペール侯爵家の人間だ。私たちの会話に顔色を無くしながらも、無表情を貫いている。

私と視線を合わせられる身分ではない二人は、床を見つめて立っていた。

そして、彼らの横には壁紙や家具に使われる布地の見本がワゴンの上に積み重なっている。これは、今後暮らすための部屋を飾るものを私が選べるように皇宮に持ち込まれたものだ。

とはいえ、ユペール侯爵家に用意されていると言う居室の数々は、すでに 設(しつら) え終わっているらしい。

一年近く前に、私の好みを知る侍女たちから伝えられた通りに準備が整っているとフェルナンドが報告にやってきた。

でも、その早さが私は気に入らなかった。少しでも早く私を皇女の位から引きずり下ろそうとする者たちの作為を感じたからだ。

だから、私の部屋の様子を語り聞かせてきたフェルナンドに、「それは以前の好みであって、今は違う」のだと難癖をつけた。

彼は「では変更いたします」と、女性を虜にしてやまないという、美しい顔に微笑みをたたえたまま言ったものだった。

私はそれからも、「好みとは変わるものだから、もっと結婚が近くなってから決める」と言い張った。

そして、何度となく催促された後、ようやくこの日に壁紙や布類の選定をすると侯爵家からの手紙に返事を書いた。

それは、侍女たちに強くそれを促されたからだった。

私のわがままには慣れている侍女たちは、外してはいけない場面では決して引かない。

彼女たちの態度から、これは本当に手を付けなければいけない事柄なのだと感じとり、嫌々ながら、この日彼と会うことにしたのだった。

「あら。すっかり忘れていたわ。でも、あなたとお話しする気分では無くなったと申し上げたはずよ。出直してくださる?」

彼に向かって退出を促すように扇を振ると、斜め後ろに控える侍女の咳払いが聞こえる。

注意されていると分かっているけれど、嫌なものは嫌だ。

ところが、フェルナンドは困ったように眉を寄せた笑顔のまま、椅子から動かない。

これは大変に無礼な態度だった。

「……なぜ出て行かないの?」

「本当にそうしてよろしいのですか?」

「……何を言っているのかしら」

意味が分からなくて首をかしげると、フェルナンドが 懐(ふところ) から一枚の紙を取り出して、こちらに見えるようにそれをテーブルに広げた。

それは、皇帝陛下の署名がされた命令書だった。

私は彼が置いた上質な紙を取り上げて、それが本物の命令書かどうか確かめた。

しかし、偽物なわけがない。皇帝からも気に入られているという、フェルナンドが持ってきたのだから。

「……なぜ、こんな物を?」

「このままでは我が家は万全の状態で殿下をお迎え出来ません。致し方なく、皇帝陛下より、イザベラ皇女殿下の我が屋敷への外出許可をいただきました」

「私に足を運べと言うの? 嫌よ」

本当に彼の家になど行きたくなかった。

命令書に睨まれた気分のまま、無理を承知で「絶対に嫌」と繰り返すものの、彼は笑顔のまま穏やかな声で言った。

「皇帝陛下のご命令でございます。その撤回は陛下にしかお出来になりません。では、本日は失礼致します。二日後のこの時間にお迎えに参ります」

私が答えられずにいる間に、彼は家人を連れて部屋を出て行ってしまった。

フェルナンドを嫌っていても、彼が残して行ったお辞儀は非常に優雅であることは認めざるを得なかった。

そんなところも気に食わない。

「最終手段を使ってこられましたわね」

「殿下はフェルナンド様のどこがご不満なのですか?」

私はその理由を思い出して、ほんの少しだけ体を震わせた。それは恐怖からくるものだ。

でも、侍女たちに聞かせて、彼女たちまで怖がらせるつもりはない。

「これを撤回させたいなら、皇帝陛下に言えと、あの男は言ったのよね? では、そうするしかないわね」

私は命令書を掴むと、一人で歩き出した。すると侍女たちは慌てだす。

「殿下! 撤回させる必要がございますか?」

「もし本当にお会いになるのならば、正式な手続きを踏みませんと!」

そんなことは分かっている。でも、こうせずにはいられない。

直情的なのがよくないと人に言われているのは知っているけれど、これは性分なので自分でもどうにも出来ない。

私が本気で皇帝に会おうとしていると理解した侍女が、慌てて一人ついて来た。

皇女である私が皇宮の表側である西棟に現れるのは珍しいことだった。

廊下を歩いて行くと、私の存在に気づいた官吏や侍従たちが、驚いた様子で廊下の端に寄って頭を下げる。

私はその人の多さに、今まさに向かおうとしている皇帝の執務室に父親がいることを確信した。

侍従に取り次ぎを頼むと、少し待たされただけで父親である皇帝ローランド三世の執務室に通される。

侍女を前室に残し、私はそこに足を踏み入れた。

父に叱責されるのを覚悟しながら進むと、そこにフェルナンドを嫌うのと同じくらいに嫌っている弟がいるのに気づいた。彼は巨大な執務机の向こう側に座っていた。父のすぐ横に席を用意されているということだ。

どうやら、彼が父親から執務を教わっている時間にかち合ってしまったらしい。

弟も突然押しかけたのだろう。

もともと入っていた予定だったら私もそれを知っていただろうし、侍従がその場に自分を通すはずがない。

私は不快感を内心に押し込むと、父親である皇帝に深々とお辞儀をする。

「何事だ? 突然訪ねてくるとは」

声を掛けられたことで発言の許しを得たので、私はゆっくりと頭を上げた。

目の前には重厚な執務机に座る、茶色い髪に青い瞳の細身の男性がいる。それが、父親である皇帝ローランド三世だった。

その肉付きが乏しい体と同じく頬がこけた顔は、皇帝が実年齢以上の月日を生きてきたかのような印象を周囲に与える。

昔は違ったのに、皇帝がこのように変化してしまったのはいつ頃からだっただろうかと、私はふと思った。

そして、その横には、少年と青年の間といった風情の、側妃の子である母親違いの弟が座っている。

弟のアーロンは、私よりも二歳年下で、今年十六歳になった。髪の色も目の色も父親である皇帝にそっくりだ。

正妃の子に優先的な皇位継承が定められているこの帝国の、次の玉座の主となるのは私のはずだった。

それなのに、アーロンの伯父にあたるカーディ侯爵らが私の降嫁を皇帝に認めさせた。

父は、愛したこともない正妃の娘より、寵愛する側妃の息子に跡を継がせたいと思ったのかもしれない。

そんなわけで、アーロンが次の皇帝になることは、ほぼ決まっている。

私が結婚して皇室を離れてしまえば、それは確実なものになる。

私はアーロンを無視して、皇帝である父に非礼を詫びた。

そして、先ほどフェルナンドから受け取った命令書の撤回を求めた。

「なぜ撤回せねばならんのだ? そなたが協力的ではないから、ユペール侯爵家が最終手段としてあれを求めてきた。どうせ、今日も難癖をつけて追い返されるだろうからと。まったく……。余計な手間をかけさせているのはそなたではないか」

こめかみに手を当てている父の声は冷たい。

私は政略の駒としてしか認められていない皇女だ。父の近くに席を用意されたことも、執務を教わったこともない。

それは腹立たしいけれど、今では仕方がないと割り切っている。

しかし、嫌なものは嫌なので、婚約者の屋敷へ行かなくていいように、こうして皇帝の執務室までやってきたのだ。

「きちんと指示を送ります。それで作業は出来るはずですから、この命令は不要なのです」

どうせ 煩(わずら) わしく思われているのだからと、わざわざ皇帝にまで食い下がるのは私の悪い癖だ。

そして、分かってはいたけれど、父は先ほどよりも、さらに冷たい声で言った。

「では、もっと早くそうすべきだったな。そなたが自分で招いた状況だろう。その程度の責任は果たせ」

皇帝のその言葉と表情に、もうこの部屋を出て行くべきだと私でも分かった。だから、仕方なく、退出のお辞儀をしかけた。

しかし、その行動を途中で遮る者がいた。弟のアーロンが小さく笑い声を漏らしたのだ。

でも私は彼を見なかった。父親から可愛がられ、こうして一対一で帝王教育を授けられている彼は勝ち誇った顔をしているに決まっているからだ。

私は改めて深々とお辞儀をすると、皇帝の執務室から退出した。それ以外にはもう出来ることはなかった。

皇帝の執務室を半ば追い出され、自分の部屋に戻って来た私に、侍女たちはお茶を入れてくれつつ言う。

「やはり無理でございましたか。殿下」

「ですから、今日こそ婚約者様を困らせるようなことはなさいませんようにと申し上げましたのに」

「ですが、ご自分でお部屋を確かめられるのはよろしいことかと。本当はあちらの内装は殿下のお好みそのもののはずですから」

私は大きなため息をつきながら、信頼を寄せる侍女たち相手に唇を尖らせた。彼女たちの前だからこそ出来る顔だ。

「言いなりになるのは嫌なのよ」

「また、そのようなことを」

「未来の旦那様ですのに」

このような会話は日常茶飯事だった。

私には三人の専属の侍女がいる。彼女たちは、年齢の高い方から、ハンナ、リズ、リュシーという。

私はこの三人の前でだけ安心できるのだ。

それは、この三人がやってきてくれた時期や彼女たちが見せてくれた献身に関係がある。

その頃の私は何も信じらなくて、食事さえ満足にとれなくなっていた。

それは、皇帝家族やその縁戚、一部の大貴族しか出席を許されない、皇帝の第五子である第四皇女の誕生を祝う宴で、危うく命を落としかけた直後だったからだ。

それは約三年前、私が十五歳の頃のことだった。

あまりにも衝撃的だったので、その時の出来事は今でも鮮明に思い出せる。

私が席に着いたのは、皇帝とその正妃である実の母が会場に現れる少し前だった。

当時、婚約が内定したばかりだったフェルナンドがすでに隣の席に座っていた。

やがて皇帝夫妻が入場し、決められた順に出席者が祝いの言葉を述べ始めた。

料理が運ばれてくると、誰とも話をする気がなかった私は黙々と食事をしていた。

こちらから話し掛けなければ、身分上、誰も私に声を掛けられない。

心にもないお世辞を吐く人間の顔を見るのが嫌だった。

子供の頃は素直に受け取れた言葉や笑顔は、その頃のわたしの目にはすでに、とても薄汚いものとして映るようになっていた。

そんな時、たまたま給仕の人間が私の前にあった、まだ口をつけていなかったグラスを倒した。

それを満たす薄黄色の液体はただのワインに見えた。

その頃はお酒を美味しいとは思えなかったから、飲まずに置きっ放しにしていたのだ。

でも、じきにお祝いの言葉が述べられ終わったら、乾杯のために一口くらいは口にするつもりだった。

ところが、その倒れたグラスからこぼれた液体は不思議な音を立てながら周囲に広がった。

そして、テーブルの端からこぼれ落ちたそれは私のドレスを濡らしたかに見えた。

一瞬の出来事だった。

でも、ドレスが濡れただけだと思ってその様子を呆然と見つめていた私は、突然の痛みに思わず悲鳴を上げた。

そのドレスは、焼けたように煙をたてながら溶けていた。

そこからは大騒ぎになった。

私は誰かに腕を引かれて立ち上がらされ、穴の空きかけたドレスが足から離れる。

それからは大勢の近衛に囲まれながら会場を後にして、治療を受けた。

私の太ももには、その時にできた火傷の痕が今でも残っている。

もし、あの液体を口に含んでいたら、命を落としていただろう。

その暗殺未遂事件の後は、ひたすら部屋に閉じこもり、夜もろくに眠れない日々を送っていた。

そして急に命を狙われた理由を考え続けた。

この少し前に、私のユペール侯爵家への降嫁が決まったばかりだった。

もともと私を亡き者にしたがるのは、異母弟のアーロンを皇帝にしたい、彼の伯父で宰相のカーディ侯爵だろうけど、もうそんな必要はほぼなくなっているはずだ。

それでも、彼らが犯人だという説には、まだ説得力があった。

もし、他の有力な家が私を手に入れ、アーロンやカーディ侯爵家を追い落とそうとすれば、彼らにとっては脅威になるからだ。

側妃への皇帝の寵愛は厚いし、カーディ侯爵は宰相の位についているけれど、それは皇帝の気が変われば覆ってしまう程度のものだ。

だから彼らは、私が女帝となる道を閉ざすために、カーディ侯爵家と非常に近いユペール侯爵家のフェルナンドと私を婚約させたのだ。

でも、念には念を入れたという可能性は捨て切れなかった。

むしろ、他に犯人が思いつかない。

そして、私は出される食べ物にも飲み物にも、全てに毒が入っているのではないかと疑うようになった。

空腹でも、何も口に入れられなかった。

それでも極限まで喉が 渇(かわ) くと、どちらにしても死ぬのだからと、水差しの水を飲む。

そして、それがただの水であったことに涙を流した。

私がそんな風に、恐怖と孤独と飢えに苦しんでいても、助けてくれる人はいなかった。

実の母でさえも。

第一皇女である私を産んだ母は、とある強国から嫁いできた。

母は皇帝の寵愛を得られなかったけれど、他国から嫁いで来たために、一応正妃の座には留まっている。

しかし、娘がこんな目に遭っても、母は犯人探しもしなければ、私を守るために何もしてくれない。母は宮廷内で、その程度の力も持っていなかった。

そんな、心身共に弱り、疲れ果てていた私の元にやってきたのが、三人の侍女だった。

母の部屋でも見かけた覚えのない彼女たちは、新しく皇宮に雇われたのだと言った。

当然、そんな相手を受け入れられるわけがなかった。

敵意を隠さなかった私に対して、彼女たちは嫌な顔一つせず、なぜか毒見役を買って出た。

私は彼女たちに何かあったら嫌だったので止めたけれど、彼女たちは毒味をやめなかった。

そして、食べた直後に何事も起こらなかったとしても、遅く効果が出る毒もあるからと、彼女たちは私をしばらく待たせた。

懐中時計で時間を確認し、「もう大丈夫ですよ、皇女殿下」と三人で微笑んで、私が安心して食事を出来るようにしてくれた。

私は子どもの頃から他人の言うことを素直に聞く人間ではなかったし、彼女たちにも始めは反発ばかりしていた。

でも、私よりも少し年上の彼女たちは、それまでの侍女があからさまに嫌な顔をする場面でも笑顔を絶やさなかった。

それどころか、私をとても甘やかしてくれた。人生で初めての体験だった。

「お口を開かなければ甘いお菓子のようなお見た目ですのに、その落差が殿下らしくあられますわね」

「それが殿下のお可愛いらしいところですわ」

そんなことを言いながら、どう考えても可愛くない私の言動をいなしつつも、根気強く対応してくれた。

そして、そんな彼女たちを私はだんだんと信じられるようになっていった。

やがて、食事や睡眠がきちんととれるようになって体力が回復すると、私は剣の扱い方を習い始めた。

それと同時に薬草学や毒薬の知識も頭に詰め込んだ。

そうして、今でも自分の身を守れるようにと努力をし続けている。

数年前の、今では少し落ち着いて考えられるようになった出来事を思い出していた私の目の前に菓子が置かれた。

「難しいお顔をなさっておいでですね?」

「眉間に皺を寄せてはいけませんよ、殿下!」

そんなことを言われても、眉にはついつい力が入ってしまう。

二日後にユペール侯爵邸へ行かなければならないのが、本当に嫌なのだ。

婚約者のフェルナンドは、私の命を狙ったかもしれない者たちの仲間なのだから。

私が、フェルナンドとアーロンらが密談をしている場面を見てしまったのは、一年と少し前のことだった。

私は皇宮に無数に存在する書庫を渡り歩き、片端から書物を読んでいた。

皇宮から自由に出られない私にとっての書物は、外の世界を知ることが出来る、唯一開かれている窓のような存在だった。

その日は大きなカウチがある、書庫の隣の物置きのようになっている部屋で、書庫から持ち出した本を読んでいた。

ところがそこに人がやってくる音が聞こえて、私は慌てて大きなカウチの陰に隠れた。

侍女たちにも気づかれないように部屋を抜け出して来ていたからだ。

しかし何の因果か、そこに彼らがやって来てしまった。

その声から、彼らの正体はすぐに分かった。弟のアーロン、アーロンの母親の兄であるカーディ侯爵、フェルナンド、フェルナンドの父親のユペール侯爵の四人に違いなかった。

彼らは、フェルナンドが私を大人しくさせ、囲っておくことを確認しているようだった。

それを条件に、私とフェルナンドの結婚後、フェルナンドの父親が副宰相の地位につき、フェルナンドが将来的にその地位を継ぐことになっているらしい。

私は、弟のアーロンの地位を 脅(おびや) かさないために、名門ではあるものの今では特別大きな力はないユペール侯爵家へ降嫁させられる。

そして、そのユペール侯爵家がカーディ侯爵家と姻戚関係にあるのもとっくに知っている。

それに、あの暗殺未遂事件の時、フェルナンドは私の隣の席に座っていた。

彼ならば、あのグラスに毒を仕込むことだって出来ただろうとずっと思っていた。

それが確信に変わった瞬間だった。

彼らがその部屋を出て行った後、私は自分の人生をあの男たちの好きにはさせないのだと心に誓ったのだった。

とはいえ、それから一年近く経った今、もう結婚からは逃げられそうもない。

私の身分では、自由に人と会えない。

何度か夜会で他の家の者との接触を試みたけれど、エスコートはいつも婚約者のフェルナンドが務めていた。

だから、カーディ侯爵らとは別の派閥の者とは、言葉すら交わせなかった。

アーロンと繋がっているフェルナンドに嫁いだら、状況が変われば、あっさりと殺されるかもしれないというのに。

私は結婚後の自分自身をどう守っていったらいいのか考え続けていたけれど、答えはまだ見つかっていなかった。そして、そんな情けない自分が心底嫌だった。

気持ちが沈む中、訪問用のドレスを選ぶ侍女たちはとても楽しそうだ。

私は自分の身を守るため、その日は護身用の短剣を持って行こうと決めたのだった。

その日もフェルナンドは約束の時間通りにやって来て、発言の許可を求めると、私の容姿を「可憐」だと褒め称えた。

とはいえ、何を言われても心にそれは届かない。フェルナンドは、いつもと同じく何の反応も返さない私に、困ったように微笑む。

そして彼は、私と侍女一人をユペール侯爵家の王都屋敷へ連れて行った。

結婚後に私が過ごすことになるのは、ユペール侯爵家の王都屋敷と同じ敷地に建てられた 別棟(べつむね) だった。

調理場や使用人用の宿舎もユペール侯爵家の屋敷から完全に独立した造りになっている。

私は話に聞いていたその建物を見上げた。これが自分の一生を縛るための檻なのかと、暗い気持ちになる。

私の私室として用意された部屋の内装は見事なものだった。

淡い桃色や 橙(だいだい) 色が品よく取り入れられたその部屋は、とても陽あたりがいい。

他にも個人の寝室や応接室があり、どの部屋も同じ色合いの壁紙や家具類で統一されていると言う。

「素敵だわ」

「今ではもう、こちらのような色合いはお好みではないのでは?」

「そんなことはないわ。あれはあなたへの嫌がらせよ」

「やはり、そうでしたか」

彼のその笑いを含んだ声に、神経が棘で引っ掻かれたように不快感でいっぱいになる。

「あなたのことが嫌いなの」

私がはっきりとそう口にしたのは、ここにいるのがフェルナンドと、私の性格をよく知る侍女だけだったからだ。

彼はまた困ったように笑うと、侍女に下がるように言う。

侍女のハンナが部屋から出て行こうとするのを私は止めたかった。一人になるのが怖かった。

でも、フェルナンドに「きちんと本音をぶつけ合っておくべきだと思うのですが」と言われれば、人払いをするしかない。

私は彼らの企みを暴露してしまうかもしれないから。

そして、それを聞いてしまったら、ハンナにまで危険が及ぶかもしれないから。

二人きりになると、彼は静かに話し出した。

「殿下がなぜそうも私をお嫌いになるのかお聞きしても?」

その穏やかそうな微笑みは美しいけれど、そんな仮面のようなものには騙されたりはしないと心の中でつぶやく。

そして、自分を殺すかもしれない相手に本音を言えるわけがないから、私は「あなたが嘘つきだからよ」と誤魔化すように言った。

「まあ、それは否定出来ませんね」

「そういうところも嫌い」

「私は殿下の素直なご性格をお 慕(した) いして、ここまでやって参りました」

私は不思議に思って彼を見た。慕っていると言うのはいつも通りの嘘だとしても、「ここまでやって来た」とはどう言う意味だろうか。

そして、それを考えている間に、私はとてもいいことを思いついた。

アーロンたちは、私が彼の皇位継承の邪魔にならなければいいわけだ。

ユペール侯爵家は地位を得たがっているとしても、それはあくまでも私を抑えておけば与えられる褒美なのではないだろうか。

そこで、私はもともと好ましく思っている、剣の師匠である近衛騎士のことを思い出した。

彼はしがない伯爵家の三男か四男だったはずだけれど、彼をユペール侯爵家か、それと同じくらいの家格の家の養子にし、私と結婚させてくれればいい。

アーロンの企みから遠い人間の方がまだ信用が出来るし、より身分の低い相手に嫁げば私を危険視する目も和らぐはずだ。

何も無理をして侯爵家嫡男のフェルナンドが私を娶る必要はないはずだった。

彼ももう二十三歳だから愛人の一人や二人はいるだろう。

でも、私のような元皇女という、 蔑(ないがし) ろに出来ない相手を妻にしてしまえば、少なくとも公の場にはその人たちを出せない。結婚から一定期間は会うこともままならないだろう。

そう考えた私は、彼にも都合がいいだろうと思ってそれを提案した。

「あなたもお気の毒よね。私がいたら、愛する方とは添い遂げられないもの。そこで、提案なのだけれど、私は皇女の結婚相手として申し分のない家に、ある近衛の方を養子として迎えさせて欲しいの。私はその方に嫁ぐわ。そうしたらあなたも……」

「……ご自分が何を言っているのかお分かりか?」

その低い声に私は驚いて彼の顔を見た。それはいつもの笑顔ではなく、とても冷たい表情だった。

そして、彼はまたしても訳のわからないことを言った。

「あなたは私と結婚しなければ、殺されるんですよ」

私はフェルナンドのその言葉に、どうしようもない怒りを覚えた。

自分を殺そうとした、その実行犯かもしれない男にそんなことを言われるなんて。

「何を言っているの。あなたが私を殺そうとしているのではなくて?」

「は……?」

「そう簡単に私を思い通りに出来ると思ったら大間違いだわ」

私はスカートに隠れた足首にくくりつけていた短剣を取り出した。

「……なぜ、そのような物を?」

「敵地に乗り込むのだもの。武器の一つも持たずに来られるものですか」

「敵地……」

彼は美しい顔を顰めると、こちらに近づいて来た。

そして、彼が目の前にやってきたのに戸惑っているうちに、私は短剣を取り上げられていた。

彼はそれを見ながら「こんな危ない物を」と呟いて、短剣を近くの引き出しに隠してしまう。

私は悔しくてたまらなかった。男性には力では敵わないと分かっていたけれど、認めたくはなかったのだ。

「あなたは誤解をされている」

「誤解? 私はずっと考えていたのよ。私のグラスに毒を仕込んだのは誰なのか。あれはあなたの 仕業(しわざ) だったのではなくて? 計画を立てた黒幕は別にいるのでしょうけれど。それに失敗したから、仕方なく結婚しようとしているように見えるわ。そうしてしまえば、私をどうにでも出来るものね」

言ってしまった、と私は思った。でも、これでいかに彼を嫌っているかは伝わっただろう。

自分を殺すかもしれない人間と同じ寝室で休むことなど出来ない。

私は挑むように彼を睨みつけた。

フェルナンドは私が話している間、ずっと表情を隠していた。

でも次の瞬間、彼はぞくりと背筋が痺れるような 禍々(まがまが) しい笑みを浮かべた。そして、少しずつこちらに歩み寄ってくる。

私もそれに合わせて後ろに下がった。恐怖心で足が勝手に動いてしまう。

「なるほど。何をご存知か知りませんが、あなたの解釈は分かりました。しかし、それはほぼ全て間違いです」

何を言っているのかと、私は彼の言葉を笑った。

その時、彼は突然私の後ろを指さして言った。

「すぐ後ろにソファがありますので、お立ち止まり下さい」

「え?」

足の後ろ側に衝撃を受けると同時に、彼に片腕を取られ、腰を抱かれながら、気づいた時には私はソファに腰掛けていた。

「殺されるかもしれないと思っているのに、退路の確認もしていなかったなんて。扉はもっと左ですよ」

「初めて来た部屋でそこまで見てなんていないわ!」

「ああ。あなたは本当に考えが甘い。だから、私が今までお守りして来たのです」

「……何を言って……あっ、やめっ」

私はいつの間にか、彼に両手首を一緒に掴まれていた。

そして、何を思ったか、彼はスカートの中に手を忍び込ませてくる。

そして、下着に覆われた太ももの、まさにあの暗殺未遂事件の時についた盛り上がった痕を、彼の大きな手がさする。

「放してっ」

「見せて下さい。あの時ついた痕を」

「何をっ」

彼の手は確実に膝下まである下着を脱がせようとしていた。

私は抵抗したものの、掴まれた手を横に引かれて腰が半分浮いてしまう。

そして、その隙に彼の手が下着を膝下までずり下ろしてしまった。

私はまさか彼がこんなことをしてくるとは思っていなかった。言われた通り、自分の考えは甘かったのだ。

それに、細身に見えても、男性の力がいかに強いかを思い知らされて、悔しさに涙が滲む。

スカートは捲り上げられ、下着が下ろされているので、太ももが完全に露わになっている。

色の変わった痕が、白い肌に浮き上がっているのが見える。

私はそれを自分が命を失わずに済んだ証だと思っているけれど、美しいとは言えない。

普通、それは忌避されるものだと思う。

彼は自分の首元からスカーフを抜き取ると、私に覆い被さってきた。そして、彼に掴まれていた手を後手にされ、そのスカーフで縛られてしまった。

私はこのまま犯されて殺されるのかもしれないと思った。でも、恐怖が湧き上がってきても、私は体を起こした彼を睨むのをやめなかった。せめてもの反抗だった。

そんな私を見て彼はいつものように微笑んだ。

恐怖のあまり、どうしても堪えていた涙が目尻からこぼれてしまう。そんな自分が情けなくて仕方がない。

「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。私はあの時についてしまった痕を確認させて欲しいだけです」

彼はそう言うと、ソファに腰掛ける私の前で床に膝をつく。

そして、太ももの盛り上がって色の変わってしまっている痕にそっと触れた。

「やめなさいっ!」

「殿下……」

やめるように言っても、彼はそこから手を離そうとはしなかった。

明らかに彼はその痕に執着心を見せていらようだった。そして、彼は欲望の滲んだ緑の瞳で見上げてくる。

いつものような穏やかさなんてどこかに行ってしまった彼の表情に、胸がぎゅっと絞めつけられたような心地を味わう。

痕を撫でられ、彼に見つめられる時間がどれだけ経ったのか分からなくなった頃、彼が覆い被さってきたかと思うと、私の首筋をその唇でくすぐりながら、私の手を縛っていたスカーフを外した。

そして、私の下着を引き上げてスカートを元に戻した彼は、すぐ横に腰掛けた。

「なんで、こんなことを……? 力を見せつけようと? どうせ私には何も出来ないから」

「殿下……」

私は悔しさのあまり、涙をこぼしてしまった。フェルナンドは何を思ったか、私の頬に口づけ、そこを伝う涙を吸い取った。

「違いますよ、殿下……。あなたがいつまでも私の気持ちを分かってくださらないから」

私は彼の勝手な言葉に腹が立って彼を睨んだ。彼の気持ちなど知らない。知りたくもない。

彼は困ったように眉を寄せていた。でもその不埒な手はまだスカートの上から、あの痕を撫でている。

「あなたの美しい体に痕をつけてしまうなんて。私の計算が外れたせいです」

彼が言う意味を理解して、私は驚きに目を見開いた。

そして、耳元で「そうです」と囁いた彼は、秘密の話だと言いながら、誰かに訊かれるのを警戒するように声を低めて言った。

「確かに三年前、私はあの計画を知らされていました。ですので、給仕の足に自分の足を引っ掛けて、あのグラスを倒させました。でも少し計算が外れて、あなたにあれがかかってしまった……」

「……暗殺計画を、防いだと言うの……?」

「もちろん。私はあなたをお慕いしていましたので」

イザベラはあの時のことを思い出そうとした。

確か、痛みを感じて悲鳴をあげた時、誰かに引っ張られて立たされた。そうでなければもっとたくさんの毒がこの足を焼いていただろう。

引かれた手は左だったと思う。そして、あの時私の左隣に腰掛けていたのはフェルナンドだった。

「あの騒ぎの中、私を立たせたのは、あなた?」

「ええ。遅くなってしまい申し訳ありません。一瞬、人の目が気になってしまって。私があなたを助けようとしたと思われてはいけませんからね」

私は彼を信じていいのか自問自答したけれど、彼がアーロンたちと交わしていた取り引きを聞いてしまっている。簡単に答えは出なかった。

そして、それを私が知っていることを彼に知られていいのかも判断がつかない。

「……私には他に味方がいるのかしら? 例えばあなたのお父様、ユペール侯爵は?」

「父は駄目です。完全に あ(・) ち(・) ら(・) に取り込まれている。あなたを幽閉同然に閉じ込めておけば、優秀な先祖たちのような地位が自分の手にも入ると有頂天ですから」

彼はそう言いながら、先ほどまで縛られていた私の手を確認するように持ち上げる。

跡をつけたか気にしているのだろう。でも、そこまできつく縛られていたわけではなかったからか、私の手首には何の跡もついていなかった。

彼がそこに触れる手は、優しくて丁寧だ。

「なぜ、あなたはお父上や、そのお仲間を裏切るようなお話を私に聞かせるのかしら」

当然の疑問だった。それに対して、彼はこともなげに答えた。

「あなたを愛しているからです。私をあなたのものにしていただきたくて仕方がありませんでした。初めてお会いした時から、ずっと」

彼と初めて引き合わされた時のことは、もちろん覚えていた。私はずっと彼から目を逸らしていたと思う。

誰(・) か(・) の思惑通りの結婚をさせられるのだと分かっていたから、それに反抗を試みていた。

彼に好かれるような行動は確実にとっていない。

「あの時に私を愛するようなきっかけはなかったと思うわ」

その私の疑問に、フェルナンドは答えようとしたようだった。ところが、その時に扉が叩かれた。

無事の確認か、彼の次の予定を知らせるものかは分からなかったけれど、彼は少し待つように扉の向こうに声を張ると、私をいきなり抱き寄せた。

「簡単に信用されるとは思っていません。今度また夜会にご一緒するでしょう? その時にアーロン殿下と会う約束を取り付けます。彼との会話をあなたもどこかに隠れて聞けるようにしましょう」

「……いいわ」

彼は「それから」と、さらに声をひそめて話し出した。

「アーロン殿下から、あなたの心を手に入れろと命じられています。今日のことは脚色して彼に伝えますから、あなたは私に夢中なふりをしていただきたい」

「嫌よ、そんなこと」

私は思わずそう言っていた。人前でフェルナンドにどう接したらそう見えるのかも分からない。

私がそう言うと、彼は「では、私が指示を出しますので、その通りに」と言って、私が反論する間も与えずに家人を部屋に呼び入れてしまった。

「部屋の内装はこのままでよろしいですね、殿下?」

今は、人がよさそうに微笑む彼の魂胆に乗るしか方法がないようだった。

何にしろ、彼の言うことが本当なのか確かめなければならない。自分の身を守るために。

だから私は「ええ」と答えた。

フェルナンドは、微笑みを深くして手を差し出してきた。

これまでエスコートされる時くらいしか、彼にそんな真似を許したことはない。

その手を取ると言うことは、彼を信じるという意思表示と受け取られるかもしれない。

私は少し迷ったけれど、結局はその手に自分の手を重ねた。そして、玄関に向かって歩き出す。

そして、侍女が追いつくのを待つ間、彼がその手に口づけをした。

そうして、満足そうな顔で見送る彼を横目で見ながら、私は馬車に乗り込んだのだった。

フェルナンドとの約束の夜会の日、いつにも増して上機嫌の侍女たちが私を飾り立てていた。

「フェルナンド様から贈られたドレスをお召しになるなんて、初めてのことではございませんか?」

「それに、あちらからもドレスや宝石の色味の問い合わせがございましたもの。きっとお色を殿下に揃えていらっしゃいますね」

「殿下。ようやくフェルナンド様を婚約者とお認めになったのですか?」

私は、自分を完全に権力から遠ざけたがっている弟のアーロンを騙すためだとも言えないから、彼女たちに曖昧に微笑んだ。

しかし、その私の様子を見て三人は歓声をあげる。何でそんなに喜ぶのかと思うほど喜んでいる。

夜会の会場での私たちには、否が応でも注目が集まってしまうだろう。

それがフェルナンドの狙いのようだけれど、私は内心でため息をついた。気は進まないけれど、もう彼の言う通りにするしかなかった。

私がフェルナンドと共にそこに足を踏み入れると、煌びやかなシャンデリアの光に一瞬目が眩んだ。

そして、大きな注目を浴びながら、フェルナンドの腕に手を掛けて歩き出す。

この三年というもの、エスコート役は婚約者のフェルナンドと決まっていた。

彼はいつも私が歩きやすい速度で歩く。彼の方がずっと身長が高いのだから、彼としては歩きにくいと思うのに。

今まではそれは紳士として当然のことと深く考えずいた。

でも、彼の話を聞いた後にその意味を考えると、本当に彼は私が歩きやすいように気を遣ってくれていたのかもしれないと思えてくる。

私が、先に入場していた弟のアーロンの横に案内されて立ち止まると、フェルナンドが耳元で「殿下、手袋を」と囁きかけてきた。

私は手袋を取ってから、今までは手袋越しにしか触れることを許していなかったフェルナンドの手に、自分の手を乗せた。

その瞬間ざわめきが聞こえたけれど、思っていた通りなのでそれは無視する。

それからもこの日の私は、ひたすら周囲を驚かせ続けた。

今までは全くと言っていいほど受けなかった挨拶の数々に、フェルナンドに促される形で応じて見せたのだ。本当は嫌で仕方がなかったけれど。

すると、皆、にこやかな表情を貼り付けたまま、何かを探るような視線を残して去って行く。

「ねえ。これはいつまで続けなくてはいけないのかしら」

私は話を聞かれないように扇を広げて、その陰でフェルナンドに聞いた。

すると彼は「もう少しです。それから私のことは名前でお呼び下さい」と耳元で囁いた。

私は彼の言う通り、フェルナンドを名前で呼び、彼の言葉に素直に応じて見せる。

私とフェルナンドがその調子で会場の中を歩くたびに、周囲の視線がうるさかった。

挨拶を受け終わると、私は打ち合わせ通りに化粧直しに向かい、その帰り道にフェルナンドから聞いていた部屋へ入り込んだ。

彼が手を回して、その部屋を確保してあるのだそうだ。

そして、その部屋の分厚いカーテンの後ろに隠れる。

窓ガラスに触れる肩が冷たくて、体が震えた。こんなことならばショールを持ってくればよかったと後悔するけれど、今さらどうにも出来ない。

少し待ったところで、フェルナンドがアーロンを連れてやってきた。彼の伯父であるカーディ侯爵も一緒だった。

「あの女をよく手懐けたな」

そう言ったのはアーロンだった。私の弟は、姉のことを「あの女」と呼んでいるらしい。

腹立たしくて、口をつぐんでいるしかないのが悔しい。

アーロンたちは、私がユペール侯爵邸を訪ねたことを知っていた。

フェルナンドは明言をしなかったけれど、まるで彼が私を抱き、屈服させたかのように語った。

それを聞いた残りの二人が何やら下品な話題で盛り上がっているのを、私は聞いていなければならなかった。耳をふさげなかったからだ。

身動きをすれば、カーテンが揺れてしまう。

そう言えば、フェルナンドが敵だと確信を持った時にも、自分はこうして物陰に潜んで彼らの話を聞いていたのだったと思い出した。

その時のことを考えて下品な話題から気を逸らしていたところに、聞き逃せない言葉が飛び込んできた。

「あの男ももう長くない。最近の体調や側妃たちとの閨での様子を聞いているか? フェルナンド」

「はい」

アーロンが言った「あの男」が誰を表しているのかは明白だった。

現在側妃を持つのは皇帝だけだ。

私の背中を寒気が這い上がった。たった今、父親である皇帝が、まるで近いうちに亡くなるかもしれないとしか聞こえない発言を聞いてしまったからだ。

しかも、異母弟の口から。

カーディ侯爵も嬉しそうに言う。

「あれは何年もかけて体を蝕むのだろう? さて、殿下が皇帝になられるのはいつのことか」

「伯父上。焦りは禁物ですよ」

彼らが私を暗殺しようとしたのなら、それも納得だった。皇帝さえも手にかけようとしているのだから。

私は父親の老け込んだ顔を思い出した。

自堕落な生活を送っているせいだとしか思っていなかったけれど、それだけではなかったらしい。

自分は確かに甘かった。彼らが権力を握りたがっていることは知っていても、そこまで大それたことをしているとは考えもしなかった。

フェルナンドは本当に彼らから私を守ってくれていたのだろうか。彼を信じてもいいのだろうか。心はどうしようもなく揺れた。

それからもいくつか彼らの政敵を追い落とす計画を話し合うと、二人は去って行った。

何事もなかったかのように馬の話をしながら部屋から出て行った彼らは、いったいどれだけの罪を犯してきたのだろう。

カーディ侯爵はともかく、アーロンはまだ十六歳だ。

でも、侯爵とも対等に話していた。それがとても恐ろしい。せめて、誰かに操られる 傀儡(くぐつ) であればまだよかったのに。

少しするとカーテンが開けられて、フェルナンドが姿を現し、私は彼に引き寄せられた。

私は小刻みに震えるのを止められなかった。それは寒さのせいだけではない。

フェルナンドは顔色が変わっているのだろう私な顔を心配そうに覗き込む。

「カーテンの裏側は寒かったようですね。他の場所を考えればよかった。しかし、広くてベッドや家具があるような部屋には逢引き目的の者たちが入り込んでいるものなので」

彼はそう言いながら、むき出しの私の肩を温めるように手で撫でた。

「少しは信用していただけましたか?」

「お父様が……皇帝陛下が殺されるのを黙って見ているつもり?」

「あれは彼らの勘違いです。いえ、一時期は確かに毒物を少量ずつ与えられていましたが、今は毒を砂糖にすり替えています。ただ、陛下はお酒をおやめになれないのです。こればかりは私にもどうにも出来ません」

そう言われても体の震えは止まらなかった。

「恐ろしいとお思いですか?」

「当たり前でしょう?」

「あなたは大丈夫ですよ。私がお守りしますから」

彼は私の肩に口づけ、震えが止まらないままのこの体を抱きしめてきた。

「愛しています、殿下」

彼にそう囁かれても、返す言葉をまだ私は持っていなかった。

彼の言葉を総合すると、三年も前から彼は私の身の危険を知ると、それを秘密裏に阻止し、私を害そうとしていたアーロンの懐に入り込んでいたということになる。

そして、彼がそうするのは自分を愛しているからだと言う。

そういえば私は、「一番大切」だとか、「愛している」だとか、そんな言葉はフェルナンド以外の誰にも言われたことがないと気づいた。

母には男として生まれなかったことを 詰(なじ) られ、父には見向きもされない。

「……愛されるというのが、どういうものなのか、よく分からないの」

私のつぶやきに彼が微笑んだ。その彼の笑顔は、いつもとは少し違う気がした。

「これからお教えします。私が、あなたに」

私はそう言いながら抱きしめてくるフェルナンドに体を預けてみた。

彼は私の体を優しく、でも力強く支えてくれる。

私たちはしばらくそうしていた。

私はその心地いい彼の腕の中で先ほど冷え切ってしまった体が温まってきたのを感じて、少しだけ安心できた。

結婚式が近づいていた。

イザベラとフェルナンドの結婚式は皇宮で行われた。

それは皇帝を始め、皇帝の妃たちや、新婦の弟妹である皇子や皇女も参列するためだった。一番下のまだ三歳の妹は乳母に抱かれている。

この式は第一皇女の結婚を祝う以上の意味を持っていた。

皇女の降嫁先であるユペール侯爵家は次代を代表する家だと目されている。

イザベラの夫となるフェルナンドが次期皇帝のアーロンの覚えがめでたいことが知られているからだ。

当然、招待された貴族たちは余程の事情がない限りは当主自身が出席している。

玉座に座る皇帝の横には、イザベラの実の母である正妃がいた。

機嫌はよさそうではない、と私は母の顔を見て思った。きっとまた、私が男だったらとでも考えているのだろう。

母は私の支度部屋にやってきた時にも、祝いの言葉も口にしなかった。

他の側妃たちのドレスや宝石の話題ばかりを一方的に話し終わると出て行ってしまった。

喜ばしい出来事ではないと母は思っているのだろうと、私は少し悲しくなった。

弟のアーロンは心から喜んでいるのが見て取れる。とても機嫌がよさそうに周囲と言葉を交わしていた。

私は結婚祝いの挨拶を受け終わると、フェルナンドの指示のもと、着替えもせずにユペール侯爵家の馬車に乗り込んだ。

私は、遠くにでも三人の侍女たちの姿が見えないだろうかと辺りを見回したけれど、その姿は見えなかった。

いくら慌ただしくても、支度が終わった時に、お礼を伝えておけばよかったと後悔が押し寄せる。

三人がいなければ、多分今の自分はいなかった。

私はてっきり本邸に寄ってユペール侯爵夫妻に挨拶をするものと思っていた。

しかし、馬車は二人が暮らすことになる 別棟(べつむね) に向かっている。

「侯爵と夫人へのご挨拶は明日の予定かしら」

「父はまだ皇宮ですよ。母は領地から出ても来ません。挨拶は気になさらなくていいですよ。そのうち領地に行けば会えますから」

「そう」

そういえば、ユペール侯爵夫人は夜会に出て来たところを見たことがない。

噂話に全く興味がなかったから、三年も婚約期間があったというのに、私はフェルナンドの家族のことさえよく知らない。

斜め前に座るフェルナンドと視線が合わないように、私はなんとなく顔を背けた。

この後、自分にどんな運命が待ち受けているのか分からない。

フェルナンドは信じることにしたとしても、この家の中は敵だらけかも知れない。

皇宮でも警戒は解けなかったけれど、まだ信用できる侍女たちがいた。でも、そんな存在がここにもいてくれるかは分からない。

私は手を伸ばしてきたフェルナンドに冷たくなっていた手を握られた。

でも、その不安は消えなかった。

私は執事だという初老の男性から丁寧な挨拶を受けると、以前見に来た自分の部屋へとフェルナンドに案内される。

フェルナンドとは扉の前で分かれた。それぞれ初夜の準備があるからだ。

私は執事が開いた扉の向こうへ、恐れる心を叱咤して、ゆっくりと足を踏み入れた。

そこにはお仕着せに身を包んだ三人の女性が深々と頭を下げて立っていた。私を待ち構えていたようだった。

後ろで扉が閉じられると共に、私は立ち止まった。あることに気づいたからだ。

そして、震える声で「顔を上げて」と声を絞り出す。

顔を上げた三人に、私は何も考えられずに、ただ嬉しくて、泣きながら駆け寄った。

部屋で待っていたのは、ここにはいるはずのない、私の三人の侍女たちだった。

「なんで、ここに?」

私は、流れる涙ものそのままに、一人ずつ顔を見た。視界はぼやけているけれど、それは間違いなく、ハンナ、リズ、リュシーだった。

三人とも、いたずらに成功したことを喜んでいるようだった。

私は涙が抑えきれないでいるというのに。

「まあ、これからお支度をしますのに、泣いてはいけませんわよ」

「フェルナンド様を虜にせねばなりません」

「あら、もう若旦那様よ。それに、今さら何もしなくても、あの方は殿下……いえ、若奥様に夢中でいらっしゃいますわ」

私はとにかく驚いて、泣きながら嗚咽が漏れるのもそのままに、「なんで、あなたたちが?」とまた聞いた。

「私たちの母親たちは皆、フェルナンド様のお母様の実家からついて来たメイドでした」

一番年上のハンナがそう話し出した。

あの暗殺未遂事件の後、没交渉となっていた領地屋敷にいるユペール侯爵夫人の元をフェルナンドが訪ねたそうだ。

三人は「信頼できる侍女を皇宮に送り込みたい」と彼が母親である侯爵夫人に言うのを聞いていたのだと言った。

父親経由で探しては、私の身を余計に危険にさらすことになるだろうし、自分自身には人を見定める目がまだないからと、フェルナンドは父とは不仲な母親に頭を下げて協力を頼んだのだという。

彼の要求に応えるべく、侯爵夫人は三人を選んだ。

この三人は、メイドである母親が、侯爵夫人がユペール侯爵家へ嫁ぐ時に生家からついて来て、そのまま女主人の元で働いている。

そして、彼女たち自身もメイドとして侯爵夫人に仕えていたからだ。

その時に自分たちの雇い主の嫡男であるフェルナンドに頭を下げられたのにはとても驚いたのだと言って、彼女たちは笑った。

「フェルナンド様は、婚約者様がご自分の元に嫁いで来る前に害されることを恐れておいででした」

「それに、殿下がお食事も絶っておられると言って、大変動揺されておりました」

私は、こんなに素晴らしい侍女たちが、よく自分の元に来てくれたものだと思っていた。

でも、それもフェルナンドの采配だった。

「それで、毒味まで?」

「はい。ですが、すでにフェルナンド様がお父上を説得されて、毒を仕込むような真似はしないように手配されていました。でも、殿下はそう言われても、安心してお食事を召し上がれる状態ではありませんでしたでしょう? ですから、毒味をさせていただいていたのです」

私はついに我慢できなくなってしゃがみ込んだ。あふれる涙を隠そうと手で顔を覆う。でも声は漏れてしまう。

まるで子どものようで恥ずかしいのに、それを止められない。

一人で怯えていた日々を、フェルナンドは何も言わずに支えてくれていた。

彼を嫌っていた私に何を言われても、黙って微笑んでいた。

「お側でお守りするようにと命じられておりました」

「でも、もう心から安心してお暮らしになれますよ。この別棟の使用人として集められた者は全て、ユペール侯爵家とは 縁(ゆかり) のない者たちですから」

「若奥様、さあ、お支度をいたしましょう。若旦那様がお待ちですよ」

私は三人に支えられながら寝支度をされた。

涙を堪えるように言われても泣き続ける私に、ついには三人とも寝化粧をするのを諦めた。

「まあ、でん……若奥様は、お化粧などしなくても愛らしくていらっしゃいますから」

「とりあえずこちらに着替えてだけいただけますか?」

「そろそろ参りませんと」

私は寝巻きを着せられ、その上にガウンを羽織ると、金色の髪を完全に下ろした。

その頃には、涙は止まっていた。でも、鏡を見ると目元は赤い。

案内されるままに、廊下に出ることなく、内扉を通って寝室に案内される。

しかしそこには一人用と思われるベッドしかなかった。

「ここが夫婦の寝室……?」

「こちらは、若奥様がお一人でお休みになる時にお使いになるお部屋です。ご夫婦の寝室へは私どもも立ち入りません。どうぞ、そちらの扉から。若旦那様がお待ちです」

私は気恥ずかしさでいっぱいのまま、その扉を開いた。

そこは壁紙も調度類も先ほどまでいた私好みの内装の部屋よりも、ぐっと落ち着いた色合いの部屋だった。各所に置かれた蝋燭に火が灯されている。

私はその炎に魅入られながら、その部屋に足を踏み入れた。

その瞬間、横から伸びて来た腕に体を絡め取られる。驚きはしなかった。その腕がフェルナンドのものだとすぐに分かったから。

「待っていました。……目元が赤い。泣いていたのですか?」

「あなたが黙っていたからよ。ひどいわ。三人がいるのなら、そう言っておいてくれたらよかったのにっ!」

「そんなに驚きましたか? すぐに分かることなので、言うまでもないかと」

「あなたは私の気持ちなんて、少しも分かっていないわ!」

私は、まだ処理しきれていない驚きを彼にぶつけるように、いつもの調子で憎まれ口を叩いてしまう。

彼に礼を言わなくてはいけない立場なのに、なんて生意気なのだろうと自分でも思う。

こんな調子では、すぐに夫に愛想を尽かされるのではないだろうか。

でも彼は笑顔のままだった。

「すみません。これからはもっと近くに居られるので、知るように努力しましょう」

そう言った彼は、なぜかとても嬉しそうだ。

「……怒らないの?」

「何をです?」

何も言えなくなってしまった私の瞳を覗き込みながら、彼は私の唇を指でなぞった。ふにふにと遊ぶように何度も押してくる。

やめて欲しくて睨むと、彼はさらに微笑む。本当によく分からない。

「あなたの青い瞳に自分を映してみたかった。今のように」

「意味が分からないわ」

「本当に……?」

先ほど指で唇に触れられた時のように、フェルナンドは唇を重ねて、それで私の唇を 喰(は) む。

その感触は指よりも柔らかい。

「ずっとこうしたかったんです……。イザベラ殿下」

「もう、殿下ではないわ」

「……イザベラ。私のこともきちんと名前で呼んでください。この間の夜会の時以外、あなたは私の名を呼んでくださったことがない」

そう言われて、三年も婚約していたのに、つい最近までただの一度も彼とまともな会話をしたことがなかったのに私はようやく気づいた。

子どもっぽい真似ばかりをしていた自分が恥ずかしくなる。

「フェルナンド。あなた、私を抱き抱えられると言ったけれど、あれは本当かしら?」

そう言いながら彼の首に腕を回すと、ふっと体重が軽くなって、気づいた時には彼に横抱きにされていた。

フェルナンドはそのまま歩いて、ベッドに私を下ろす。

私はこれから行われることが急に気になり出した。

先ほどまでは、侍女の三人がいてくれたことに驚いて、それどころではなかった。

覆い被さってきた彼の、想像していたよりも分厚くて硬い胸に触れながら、また憎まれ口を叩いてしまう。

「もっと、たくましかったらよかったのに……」

そう言っては見たものの、恥ずかしさを隠しているだけなのが分かってしまっているのは、彼の表情を見れば明らかだった。

彼は眉を寄せて困ったような顔をしている。

「……またそのような、可愛らしいことを……。覚悟はしておいて下さい……。三年も我慢したので……」

「え? あっ」

首筋や胸元に口づけが落としながら彼は言った。

「愛しています。イザベラ」

彼の言葉に心臓が跳ねる。愛していると言われるのは心地いい。

そして、口づけを交わし続ける。口内を舐められて、それを真似して自分からもする。

息が苦しかったし、彼の息が上がっているのも分かる。

ぼんやりとしていると、唇を離した彼が怒ったような声で言った。

「……こんな口づけを、いったい誰に教わったのですか? 答えによっては、大変なことになりますが」

「え……? 全部、あなたの真似をしているだけだわ……?」

「それは……大変物覚えがよろしくて……」

そこで言葉を切ったフェルナンドは私の横に寝転がり、なぜか片手で口元を隠している。心なしか目元が赤い気がする。

「フェルナンド? あなた、何を考えていたの?」

「私を嫌っておいででしたから、秘密の恋人くらいはいるのかと」

私は恋人なんて一度も持ったことはないし、こんなことをするのも全て初めてだ。

正直にそう言うと、フェルナンドはこれまで見たこともない顔をした。嬉しそうで、でも恥ずかしそうな顔だった。

「フェルナンド、顔を見せて。あなた、とても可愛らしいお顔をしていてよ?」

私は彼の様子に胸が締めつけられて、両手で彼の顔を捕まえる。

すると、彼は困ったようにさらに眉を寄せて、何度も触れるだけの口づけをして来る。

「愛しています。どうしようもなく……」

「フェルナンド……」

彼はそう言うと、ぎゅっと私を抱きしめて、首元に顔を埋めてくる。私は彼の体の温かさを心地いいと思った。

それに、知らなかった彼の可愛らしい一面を見て、もっと彼を知りたくなる。

「フェルナンド? もっと可愛らしいお顔を見せてくださらない?」

そう言うと、彼に力強く抱きしめられた。

「まったく。こんなはずではなかったのに……」

「あら。可愛らしいと言われるのが嫌だったの?」

「嫌では、ないですが。あなたを愛しているので」

彼はまたそんなことを言った。私はそれが嬉しかったけれど、やはり理由は分からない。

「私は、あなたがなんで私を愛しているのか分からないわ。初めて会った日も、目を合わせすらしなかったはずよ」

私がそう言うと、彼は笑い出した。そして、私自身が忘れていたことを語り出した。

フェルナンドは、何代も前が最後とはいえ、宰相さえ輩出し、皇室とも縁を繋いだ名家に生まれた。

彼は昔からどこか達観した子どもで、会う人会う人が仮面を被っているように見えたものだった。

誰も本心を見せようとしないし、弱みを握られまいと虚勢を張っている。その最たる者が彼の父親だった。

そして、彼らと同じように笑い、立ち居振る舞うようになっていく自分に気づきながら、他の自分になれる気もしていなかった。

そんな時、父親から、第一皇女と自分が婚約することになったと聞かされた。

まだ一度も会ったこともないその少女もきっと、自分たちと同じなのだと思っていた。

親の言いなりになるしかない、誰かの言いなりになるしかないだろうつまらない人生を送る。そんな自分には似合いの相手なのだろうと想像していた。

でも違った。

二十歳を迎えようとしていたフェルナンドが初めて会った五歳年下の少女は、丸みを帯びていて優しそうな、目尻の下がった顔をしていた。

彼女は、さすが皇女として教育されたのだと舌を巻くような、美しい所作を見せる。

そんな彼女は、始めは無表情だった。皇帝の正妃とフェルナンドの父親がお世辞を言い合っている間中、何の感情も見せなかった。

しかし、二人で庭園に追いやられた瞬間、彼女の態度は一変した。

彼が話しかけても、聞いているのかいないのか分からない、短い答えしか返ってこない。

そして、段差で手を貸そうとした彼の手を彼女は手で払いのけた。

無礼だと思ってもよかったのだろう。

でも、彼女が少し口を尖らせているのに気づいた。

その表情に、彼女が望みもしない結婚に少しでも逆らおうとしているのだという気がした。

だから、フェルナンドは少し距離を取って、ただ彼女が歩くのについて行った。

自分のことなど気に掛けていないと言いたげなその背中は、彼にある欲望を抱かせた。

この、見た目に反して気が強そうで、誰のものでもない彼女が欲しいと思った。

フェルナンドを操るのが当然と思っている人間ではなくて、自分を歯牙にも掛けない彼女のものになりたいと思った。

その時、フェルナンドは、彼女に自分の全てを捧げようと心に誓ったのだ。

彼が語っている最中から、私は赤面していたはずだ。

過去のこととはいえ、もう子どもではなかった自分の行動が恥ずかしくて、顔がとても熱い。

彼はそんな私の手を取って言った。

「私はあなたと初めてお会いした日から、あなたに人生を捧げているのです」

「あなたのお話を聞いても、やっぱり、なぜそうしようと思ったのか分からないわ」

私はそう言うしかない。そこまで想われる意味が、やはり分からないのだ。

「私にも、本当はよく分かりません。ただ、惹かれてしまったとしか」

「不思議ね」

「ええ。恋とはそう言うものらしいですよ」

フェルナンドはまた私に触れるだけの口づけをした。そして、絶対に外では言えないことを言い出した。

「あなたを守るために、私は宰相になりますよ」

「……アーロンを操って? それとも、彼を失脚させて、私を帝位につかせるつもり?」

「それは駄目ですよ。それではあなたが他の男も夫に迎えなければいけなくなる」

確かに私が女帝になったら、側妃に当たる者を自分の権力基盤を固めるために伴侶として迎える必要が出て来るだろう。

フェルナンドは「それは許せない」のだとまた私の手に口づけた。

彼の嫉妬心を聞かされて悪い気はしなかった。胸の辺りがムズムズする。

もともと私は、実権があるかどうかも分からない皇帝になりたいと思ったことなどない。

母が、我が子を帝位につけられなくて嘆いているのを、ただ悲しいと思っていただけだ。

母が私自身ではなく、帝位を継ぐことのできる存在だけを求めていたことに幼い頃から気づいていたから。

「影の権力者になればいいのですよ。二人で」

フェルナンドは、アーロンの弱みは握っているから、と微笑んだ。

その顔は、いつもの貴公子らしいものとは違う、もっと無邪気で、屈託のないものだった。

私はそんな彼をまた可愛いらしいと思ってしまった。

また顔が熱くなってきた気がして、私は彼から顔を背けた。

「あなたが私を守ってくださる限り、あなたを愛して差し上げてもいいわ」

私が照れ隠しにそう言うと、フェルナンドに引き寄せられて優しく抱きしめられてしまう。

「では、一生を共に」

私はそう臆面もなく言う彼から、赤くなっているだろう自分の顔を隠すように、彼の胸元に頬を寄せた。

そして、また彼の口づけを受け入れたのだった。

私は毎朝、フェルナンドの腕の中で目覚める。

式から一週間経ったこの日もそうだった。

そして、起きてすぐに口づけをされ、そのまま抱き合っていたら、扉が何度か叩かれた。

この日から彼は皇宮に出仕しなければならないと聞いている。

「もう時間だわ……」

「……まだ離れたくないですね……」

フェルナンドはそう言いながらも起き上がるとガウンを羽織り、私には掛け布をかぶせてくれる。

彼が声をかけると、メイドたちが入室してきて世話を焼いてくれる。

侍女からメイドと呼び方は変わったものの、三人は信頼出来るし、私のことをよく分かってくれているので気が楽だ。

この別棟では、食事も侯爵家の本邸とは別に作られているから、安心して食べられる。

ユペール侯爵には本邸に用事がある時にフェルナンドと共に挨拶する程度でいいように話をしてくれているらしい。

もちろんフェルナンドは、ユペール侯爵からの報告を受けるアーロンらに、いかに元皇女が大人しく閉じ込められているか印象付けてもいるのだろう。

フェルナンドが出仕の支度を済ませて戻って来た時、私は部屋着に着替え終えたところだった。

そして、この日から皇宮へ出仕しなければならないフェルナンドが私の両手を握りながら、うるさいほど注意をしてくる。

「私がこの別棟に配置した人間以外は信用しないようにしてください」

「分かっているわ。何度同じことを言うのかしら」

「心配なんです。もしあなたに何かあったらと」

私は少々口うるさい夫が、困ったような、あの可愛い顔をしてくれたものだから、彼に軽く口づけて、「分かったわ」と素直に答える。

彼はほっとした顔をした。

少し離れたところで何か言いたげに微笑んでいるメイドたちのことは、このような時は無視することにしている。

「もう出掛けなければならないのではなくて?」

「ええ。玄関まで見送っていただいても?」

「もちろん構わないわ」

もう何日も寝室で二人きりで時間を過ごす日々を送っていたので、体は怠かったものの、彼の腕に掴まりながら玄関にたどり着く。

そして、まだ心配そうな顔で見てくる夫に言った。

「あなたを見送る言葉を考えていたのだけれど」

「どんな言葉ですか?」

私は少し離れた所にいる執事やメイドたちに聞こえないように、彼の耳元で言った。

「早く帰ってきて。愛しているから」

彼は、あの困ったような可愛いらしい顔で私の頬に口づけてくれた。

名残り惜しそうな彼に手を振って笑顔で馬車を見送った後は、私はすぐさま自分の個人の寝室に行ってベッドに倒れ込んだ。

メイドたちからは「何とおっしゃったのです?」「若旦那様があのようなお顔をなさるなんて」と言われたけれど、これは二人だけの秘密だ。

だから、私は「教えてあげないわ」と微笑んだ。

メイドたちは文句を言いながらも、私にかいがいしく食事をさせ、「ごゆっくりお休みください」と言って部屋を出て行った。

私はとても満ち足りた気分で 微睡(まどろ) んだ。

ここは温かくて、優しくて、心地のいい場所だった。

フェルナンドが帰って来た時にも出迎えよう、その時は何と言おうか、などと考えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていったのだった。

結婚から五年ほど経ったある日、ユペール侯爵夫妻となったイザベラとフェルナンドは着飾って皇宮にいた。

それは、一年と少し前に、崩御した父帝の跡を継いで皇帝となった異母弟の結婚式に出席するためだった。

私たちは一般の参加者よりも格が高い者しか使用を許されない、主に皇族とその家族が使用する門からそこへ入り、馬車を降りた。

すると、「イザベラお姉様!」と元気な声が聞こえる。

金色の髪に、私よりも濃い青い瞳を輝かせた異母妹が走りたいのを我慢するように、急ぎ足でこちらに向かって来ていた。

八歳になった末の妹のローレシアだ。亡き父帝の五番目の子で、四番目の皇女だった。

彼女は可愛らしい桃色のドレスに身を包んでいる。

「ローレシア殿下」

私は淑女の礼をし、フェルナンドも静かに頭を下げる。

ローレシアはどうしていいのか分からないと言うように視線を彷徨わせたけれど、そばにいる年配の侍女から耳打ちされて、「顔を上げて」と声を張った。

私は姿勢を元に戻すと、ローレシアに微笑みかけた。

「殿下のご機嫌はいかがですか?」

「あまりよくないわ。みんな、お兄さま……皇帝陛下の結婚式の準備で忙しいからと、遊んでくれないの!」

腰に手を当てながら、怒ったように言う彼女は、また侍女に耳打ちされて姿勢を正した。

「えっと。ユペール侯爵と夫人のご機嫌はいかが?」

フェルナンドは三年前に隠居した父親から、ユペール侯爵家を受け継いでいる。

そのフェルナンドが、小さな皇女殿下に向かって、うやうやしく腰を折る。

「殿下にお会い出来まして、大変光栄でございます」

「私も、殿下にお会い出来て嬉しいのです。よろしければ、式が始まるまでの間、ご一緒に過ごされませんか? お母上も準備でお忙しいでしょう」

私が妹にそう言いながら微笑みかけると、彼女はパッと表情を輝かせた。

前皇帝の最後の側妃となったローレシアの母親は、娘にほとんど関心を示さない。

ローレシアは多くの侍女らに囲まれながらも、母親にも会えず、その身分のせいで自由のほぼない生活を送っている。

だから、その気持ちの分かる私は、この妹に特別に親切にしている。

他にも二人いる妹たちは、両者ともこの数年のうちに他国へ嫁いだ。

ユペール侯爵となり、副宰相の地位にいるフェルナンドの采配によって。

まだ今は、異母弟である皇帝アーロンの叔父であるカーディ侯爵が宰相の地位にいる。

しかし、この結婚式が終わったら、皇帝の信頼厚いフェルナンドが正式に宰相の位に就くと決まっている。

もう何年も、実質的な宰相はフェルナンドだった。

カーディ侯爵は若い妾たちに夢中らしく、今では滅多に宮廷に姿を現さない。

一緒に話が出来ると大喜びのローレシアと一緒に控えの間で待つ間、彼女に聞かれるままに、三人の子どもたちの話をする。

この五年間で私は三人の子どもを産んだ。第一子は男の子で、二人目と三人目は女の子だ。

ローレシアはずっとその子たちに会いたがっているけれど、それはまだ実現していない。

一番上の子でも、とても皇女殿下に会わせられる年齢ではないからだ。

そんな話をしていると、侍従が三人を呼びに来た。

ついに皇帝の結婚式が始まるのだ。

その会場はとても華やかに飾り立てられていた。

皇帝の結婚なのだから当たり前ではあるけれど、その場所は五年前に自分が式を挙げた場所でもある。私はフェルナンドと視線を交わしながら、その頃を懐かしく思い返していた。

やがて、皇帝の入場が告げられた。

二十一になった弟は、正妃に迎えた国内の高位貴族の令嬢に手を貸すでもなく、さっさと玉座に座った。

令嬢も表情ひとつ変えず、夫となる人の隣の席に座る。

二人には笑顔すらない。

イザベラたちの周囲では、小声ながら、「この結婚は大丈夫か」と囁き合う声が聞こえた。

実のところこの結婚は、もちろん秘密裏に、お互いの合意の上で白い結婚を貫くと決められている。

皇帝は今の愛人を寵愛し、側妃にしたがっている。

そして、正妃となる令嬢は身分違いの騎士と恋仲で、三年後にはその相手と結ばれることになっているのだ。

皇帝には側妃に出来ない身分の愛人がいることも、その愛人との間に何人も子どもがいることも広く知られている。

しかし、側妃ですらない者の子に皇位継承権は認められていないため、事情を知らない者たちは、この結婚は皇帝が世継ぎをもうけるためのものだと思っている。

だが、実際は違うのだ。この白い結婚を終えたら、いよいよ愛人をどこか名のある家の養女にして、側妃に出来ると誰かが皇帝に入れ知恵をした。

結婚から三年間経っても子を授からなければ、正妃とであっても離縁が出来ると定められているからだ。

だから、皇帝はこの結婚を喜んで受け入れた。

これはフェルナンドとその側近、そして私だけが知ることだ。

玉座に座る弟は、落ち着きなく、しきりに足を動かしている。彼にはもう、以前周囲に見せていたような利発さや輝かしいまでの笑顔はない。

すっかり、快楽漬けの生活から抜け出せなくなってしまっていて、本来の年齢よりもずいぶんと老けて見えた。

式は滞りなく進み、皇帝は正妃を迎えた。

会場はやや冷めた雰囲気ながら、皇帝の結婚を祝ったのだった。

そして、その一週間後に、フェルナンドは宰相に任じられた。

表面だけは美しく飾られていた皇帝の結婚式から三年後、白い結婚だった皇帝とその正妃は正式に離婚した。

その離婚は誰にも反対されず、むしろ皇帝の世継ぎを産める正妃なり、側妃なりの存在が待ち望まれていた。

私は正妃だった女性と良好な関係を築いていたので、彼女が皇宮での不自由な暮らしから解放されて、心から好き合った相手と結ばれるのを喜ばしく思っている。

しかし、一方の皇帝は、あれほど熱を上げていた愛人を側妃に、という話が持ち上がっても、それを渋っている。

この三年間で、愛し合っていたはずの女性に、彼は飽きてしまったらしい。

皇帝は近頃、身分問わず、時には怪しげな薬さえ持ち込む女性たちを寝所に招き入れて、享楽の日々を過ごしているのだと言う噂が宮廷内外で囁かれている。

さて、これは誰の画策によるものだろうか。

その日、フェルナンドが帰宅したのは、普段よりも早い時間だった。

皇宮からの先ぶれでそれを知った上の子どもたちが騒ぎ出したため、私は「今日だけよ」と約束をさせて、七歳の長男と六歳の長女と一緒に彼を玄関で出迎えた。

長男と長女、そして今日は寝てしまった次女に加え、この三年間でさらに二人の男の子を授かったこのユペール侯爵家の別棟は、日々賑やかだ。

「父様!」

「おかえりなさい!」

馬車から降り立ったフェルナンドは、子どもたちがいるのに驚いた顔をしつつも、抱きついて来た二人の頭を優しく撫でる。

「帰りました」

彼は私に向かって、そう微笑んで言うと、ゆっくりと歩き出す。

そして、ご機嫌な子どもたちに言った。

「こんな時間まで起きているなんて、お母様を困らせたのでは?」

「今日だけとお約束しました」

「だって、お父様とはなかなかお会い出来ないのですもの」

二人は背の高い父親を見上げながら、口々に言う。

宰相になってからと言うもの、たまに休暇を取るくらいで、彼は朝早くから皇宮へ行く。

彼の立場からすれば、家族ごとあそこに住むことも出来るけれど、私にとっては辛い記憶しかない場所だった。

彼は一度も「皇宮に住みたいか」と私に聞かなかった。私がユペール侯爵家の敷地内にある、彼が結婚の時に用意してくれたこの別棟でしか、まだ安心して暮らせないのをよく知っているのだ。

だから、彼は毎日必ず皇宮からこの別棟に帰って、私と一緒に眠る。

母屋の方は来客がある時や、今は隠居した前ユペール侯爵が、王都に滞在する時に使うだけになっている。

子どもたちからの抗議を居間に着いてからも聞いていた彼が、二人に目線を合わせるために片膝を床について言った。

「悪かったよ。今度必ず休みを取るから、その時にたくさん話そう」

「本当ですか!?」

「約束よ、お父様!」

二人はそれで満足したようで、メイドたちに連れられて、自分たちの寝室に向かって行った。

「イザベラ。会いたかったです。早くこちらへ」

子どもたちが居なくなると、すぐに彼は人払いをして、ソファに腰掛けながら膝の上に私を座らせる。

重くはないかと思うけれど、彼が笑顔でいるから、したいようにさせている。

「お疲れなのに、子どもたちの相手は大変だったわね」

「まあ。多少は。でも可愛いものですから」

彼は父親らしい優しい笑顔でそう言いつつ、私に何度も口づける。

そして、がらりと表情を変えて私の耳元で囁いた。

「彼はもう会議にも出てこないので、そろそろ退位をしていただこうと皆で話しておりますよ」

『彼』とは、私の異母弟である皇帝のことだ。

享楽が過ぎたと言うことだろう。

異母弟は、かつては野心で満ちた顔をしていたのに、皇帝の座に就けるのだと確信した途端に、そうではなくなってしまった。

おそらく、誰かの 謀(はかりごと) がそれを加速させたのだろうけど。

私は、うっすらと微笑む夫の頬を撫でながら言った。

「では、後継は私の妹のローレシアね。まだ幼くていらっしゃるから、あなたが支えて差し上げるのでしょう?」

この年、十一歳になった末の妹のローレシアしか、皇家の血を引く者は残っていない。

「もちろんです。私は宰相ですから。それが役目です」

フェルナンドは穏やかに微笑んでそう言った。

異母弟のアーロンには、庶子はいても嫡子はいない。

まさか自分の子が女帝になるとは思っていなかったはずのローレシアの母親は、きっと有頂天になることだろう。さほど力も持たない家から、側妃として皇帝に差し出された女性だ。

これからも出来るだけ大人しくしていていただきたい、と私は思った。彼女自身のために。

きっと今の状況のほとんどを作り出したのだろうフェルナンドは、目を閉じて、頬にある私の手に頬擦りをする。

そんな可愛らしい彼は、とても辣腕を振るう宰相には見えない。

「……あなたは、いったいどこまで私に本当のことを教えてくださっているのかしら」

「……何か聞きたいことが?」

「いいえ、結構よ。嘘をつかれるのは嫌だもの」

「嘘はつきませんよ。『彼』の件ならば、ほぼあなたの想像通りだとだけ申し上げておきましょうか。私は彼の所業を根に持っていますので」

私は首をかしげた。

フェルナンドと弟の関係は、外からは堕落した皇帝を支える忠臣にしか見えない。

何かわだかまりがあるのだろうか。私を守る以外に。

「それは、私を害しようしたこと?」

「いいえ、別件で」

彼によると、婚約期間中に婚約者、つまり私にあからさまに嫌われていた彼は、婚約者としての資質を疑われて、「他の男をあの女の婚約者にするぞ」と『彼』に言われたのだそうだ。

「あなたを他の男のものにしようとしたのは、どうしてもゆるせませんので。それだけの話ですよ」

彼は笑顔だったけれど、その目は笑っていなかった。

そこで、私はようやく理解した。

私はあの頃は、アーロンもフェルナンドも敵だと思っていたけれど、フェルナンドにとっての敵が誰だったのかを。

そして、フェルナンドは『彼』の信用を勝ち取ると、その周りに破滅の糸を張り巡らせたのだろう。

「……あなたにとっての 敵(てき) は、アーロンだったのね……」

そう言った途端、私は彼に抱き締められた。

「愛しています、イザベラ。あなたの平穏のためなら、私は何でもします」

「私も愛しているわ。フェルナンド」

私は彼の髪をゆっくりと撫でながら、愛する夫と口づけを交わした。

そして、彼とゆったりと微笑み合ったのだった。