軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七話 総帥の味

Ⅶ 総帥の味

叔父、バ・リョウキの名で届けられた文には、早々に戻るとの内容が綴られていた。それを見て文字通り青ざめるリビを前に、修練を終えたばかりのア・シャラは、汗を拭いつつ訝った。

「どうした、剣聖殿が戻られる事がそれほどに恐ろしいか」

リビは慌てて取り繕う。

「だ、だれも恐れてなど……おそらく、宮中からの呼び出しの原因が小事にすんだということですから、むしろ喜んでおります」

「ごまかすな。恐い、と顔に書いてある」

シャラは中指をはじいてリビのデコを叩いた。

「たッ──おふざけは勘弁していただきたい」

赤くなった額をなでながら、リビは抗議した。

「まあ、いい」

追及を止め、シャラは城塞一階の廊下を歩き出す。

リビは、手にした文をもみくちゃにしまい込み、暗い表情で後に続いた。

「付いてくる気か?」

「あ、いえ……ア・シャラ殿は、これからどちらに」

「汗をかいた。部屋で湯浴みをする」

「でしたら、部屋の前まで送らせていただきたい」

控えめに同行を申し出るリビが、話をしたがっているのだと、シャラは察した。

「わかった」

広い廊下を歩く道中、すれ違う者達はシャラを見る度に深々と頭を下げた。

リビは隣に並ぶでもなく、少し後ろをついてくる。その様子がいかにも自分を立てているように見えた。

このところ見せるリビの卑屈な態度に、シャラは若干辟易していた。

「お父上のご様子はいかがでしょうか」

「ぴんぴんしている。腹の肉をはずませながら音痴な鼻歌をうたっていたし、機嫌も良いようだ」

「それは、ムラクモに勝利を得たのですから、さぞ気分がよいことでしょう」

シャラは冷めた目で笑う。

「あれが意味のある勝利であったならば、そうであろうな」

「そんな……叔父上の言葉は気にされますな。大樹のように根を張るあの大国を相手に、見事な勝利を得たのです。それを成し遂げたお父上は傑物です。きっと南山の歴史に名を残すことでしょう」

リビの言ったその言葉に、背中の産毛がぞわぞわとさかだった。

「私の機嫌をとろうとして父将を褒めたのなら、無駄な努力もいいところだッ」

わずかに漏れた怒気を察知してか、リビは狼狽した。

「そ、そのようなつもりはッ」

「我が父ア・ザンの評判が、けしてよいものではないと知っている。子供の頃からいやというほど聞かされた。成り上がり、小心者、ごますり、あげくは母に取り入り、地位を固めたと、宮中では未だに笑い話にされているという。バ・リョウキ殿の言った事はすべて真実だ。父将は目先の武勲を求めてあの戦に臨み、使える手をすべて使い必死に戦力を整えたのだろう。遠謀なく目先の利を追い求めた小人の行いではあるが、私はそれを責める気にはなれん。自分に自信のない人間は、時に筋の通らない行いをするものだッ」

早足で歩きながら一気にまくしたてると、リビは哀れに見えるほど怯えた顔を見せた。

「お、怒らせるつもりは──」

言い訳を述べる間も与えず、シャラは振り返ってリビの前に手のひらを突き出した。

「ここまでだ」

「ですが、まだお許しを──」

シャラは尚も食い下がろうとするリビの胸を強く押した。

「着替えを見せるほど、気を許した覚えはない!」

ぴしゃりと言うと、リビはようやくそこがシャラの部屋であると気づき、あ、と声を漏らした。

だからといって外に出るでもなく、親とはぐれた子のように不安げな顔を見せるリビに苛立ちを覚え、シャラは思いつくままに、下腹部に強烈な蹴りをくれてやった。

「グヮッ!?」

腹を押さえ、廊下でもんどりうつリビを見下ろす。

「多少は骨のある男だと見直していたがな。次にまた顔を見たとき、見え透いた世辞を思いついたら腹の奥にしまっておくのが身のためだ」

颯爽と言い放ったシャラは力強く戸を閉めた。

「──がございますが、どちらがよろしいでしょうか」

若い書記が何事か告げる言葉も、ア・ザンの耳にはろくに届いていなかった。

「ああ」

生返事をするが、書記は困惑した様子に視線を迷わせた。

「いえ、ですからあの……祝宴会で振る舞われる主菜は、肉と魚どちらがよろしいかとお聞ききしたのですが」

「ん? ああ……みな肉は喰い飽きただろう、主菜は魚料理がいいだろう」

「はッ、それはよろしゅうございます。ですが、相応の量を仕入れるとなると、いましばし時間が必要です。宴の予定もそれに合わせ、少しずらすことになりますが」

ア・ザンはぼんやりとした視線で、かしこまった書記の顔を眺める。

「かまわん。用事がすんだのならしばらく一人にしてくれ」

書記を手で払うと、直後に元気よく戸を叩く音がした。

「入るぞ」

許可を与えるまでもなく我が物顔で入室してきた娘、シャラは軽やかな足取りで執務室の長いすに腰を下ろした。

着席したシャラは、すらりとした細い足を交差して組む。つなぎの赤い修練着からのぞく、なまめかしい脚に見とれる若い書記に気づき、ア・ザンは大げさに咳払いをした。

彼があわてて退室したのを見届け、あらためて娘に目をやる。

まだ若いが、すでに豊満な魅力を備える体つきは異性の興味を引くに十分な魅力を発揮している。優れて美しい面立ちは、誰も信じはしないだろうが、面影は強く自分の特徴を受け継いでいた。

「ここ数日、総帥閣下の様子がおかしいと噂になっているぞ。知った以上娘としては放っておけないのでな、機嫌を伺いに参じた」

くりりと光る自信に満ちた双眸に見つめられ、ア・ザンは娘から視線をはずした。

「噂話に惑わされるな。私はなにもかわらん」

「しかし、祝勝に浮ついて鼻歌を奏でていたかと思えば、ほんのわずかな間に部屋に引きこもり出てこようとしないのは、噂を真実と断定するのに十分な要素であると思うがな」

この勇ましい物言いもなれたものだ。聞く者によっては、シャラの言葉はひどく傲慢に聞こえるだろうが、それは間違っている。彼女は誰に対しても平等にこうした話し方をするのだ。それは祖父である王であれ、生みの母や父であれ、同じ事だった。

ア・シャラという人物は、生まれながらに王侯の品格を備えていた。

生まれ落ちたその日から、ろくに泣くこともせず、しれっとしていた肝の据わった赤子だった。幼くして武術に興味を抱き、人形を一度も手にすることなく、見よう見まねで技を磨くことに執心した。

重みのある語り口と堂々たる態度、麗しい容姿を前にすると、多くの者達が彼女の前で膝を折りたくなってしまうのだが、その中には情けない事に父である自分も含まれていた。

「腹をこわしただけだ」

「ほう、それは心配だ」

言葉だけで、シャラは実際に心配をしているような顔は見せない。この娘は見抜いているのだ、父の嘘を。

「そ、それより、シャノアの若武者とはどうなのだ。戦以来、共に居るところを多く見かけると聞いたぞ」

ごまかしに言うと、シャラはめずらしくうんざりしたような表情を見せる。

「さて、頼んでもいないのになにかと付いて来るのでな」

なにげなく言った事だったが、ア・ザンはそれを聞いて眉をあげた。

「リビ殿はおまえを嫌っているように思ったが」

「ふむ、実際そうであったように私も思う」

なにやら心変わりでもあったのか、シャノアの英雄の甥御は、どうにも娘に興味を抱いたようだ。

「なるほど……」

牛が草を食むように頷くと、シャラはキッと眼に力を入れる。

「あの戯れ言を繰り返す気ではなかろうな。バ・リビは悪い人間ではないが凡夫だ。この身を捧げるにはふさわしい相手ではない」

「ああ、わかった。お前がそういうのだから、これ以上は言うまい」

「賢明だ──ところで、シャノアの剣聖殿が戻るらしいと聞きましたが」

突然の情報にア・ザンは眉をあげた。

「いつの話だ?」

「二、三日前にリビ殿から聞いた話だ。父将のところにも話は通っているのではないか」

ア・ザンは執務机に目を落とした。そこにはここのところ放置しっぱなしの、山になった文や書が散乱している。この中にバ・リョウキの再来訪を知らせる書簡が埋もれていてもおかしくはない。

「さて、顔も見たことだし、私は行く。戦の功労者を一度もねぎらわんのはどうかと思う。剣聖殿が戻りしだい、早々に顔を合わせてはいかがか」

さりげなくお節介を残していった娘を見送って、ア・ザンは腰をずらして椅子にどっと背中をあずけた。

娘の前に居るだけで、ひどく疲れる。バ・リョウキの甥を指して言った凡夫という言葉も、他人事に聞こえなかった。口先と卑怯な手段で並ぶ者達を追い落とし、今の地位を築いた自分こそ、まさに凡夫と呼ぶにふさわしい。

若くして優れた武術を修めた娘。腕っ節だけで地位を得て、大国の王から宝剣を下賜されたバ・リョウキ。彼らは皆、自分を見る度にひどく目の色を暗くする。その視線に、哀れみや侮蔑を感じるたび、強烈な自己嫌悪にかられた。

他の者達もそうだ。皆、自分がどうやってこの席を手に入れたか知っている。表向きには屈服しているように振る舞う者達も、内心では女を利用し、もみ手で王にとりいって高位を得た自分を笑っているのだ。

こんなとき、自信を取り戻させてくれる、唯一無二の神聖なる空間は、しかしただの獲物として放り込んだはずの、名もなきムラクモ軍人によって意味を失った。

命を危険にさらされ、受ける苦痛を想像して怯えるはずの男は、バ・リョウキやシャラのように、自分を見下すように見つめ、脅しまでかけてきたのだ。

「ええいッ、いつまでこうしているきだ!」

一人言って叫び、ア・ザンは椅子を蹴って重い体で立ち上がった。

──取り戻してやるぞ。

欲しいものは何をしてでも手に入れる。それがア・ザンという人間であり、この強欲こそが、今あるものすべてを与えてくれたのだ。

これまで大切にはぐくんできた憩いの場を、ただ一つの異物のせいで失うのはあまりに口惜しいとア・ザンは思った。

気合いを入れるため、たるんだ腹を強く叩いた。

自分が自分であり続けるためにも、苦手は克服しなければならない。

「おかえりなさいませ、バ・リョウキ様!」

開いた門の先で出迎えた番兵に、バ・リョウキは馬上から頷きを返した。

他国の人間から、おかえりと呼びかけられる事は不思議に感じるが、歓迎されているのだと思えば悪い気はしない。

本国シャノアから連れてきた補佐役の武官に黒兜を預けると、早々にリビの姿を探した。

目立つ場所にその姿はうかがえず、バ・リョウキは借り部屋に足を向け、そこにだらしなく寝台に体を横たえた甥の姿を見つけた。

「真っ昼間からなにをしとるかッ!」

一喝され、リビは即座に体を起こして起立した。

「も、申し訳ありません! 今日のお戻りとは……」

謝罪し、腰を折るリビの顔は暗い。バ・リョウキは甥の異変を察し、説教を飲み込んで椅子に腰を下ろした。

肩を叩きつつ、リビに問う。

「なにがあった」

「あの、べつに……」

「お前の事は寝小便をたれていた頃から見てきたのだ、ごまかせると思っているのか。正直に話せ」

立ち尽くすリビは、観念したように唇を濡らし、話し始めた。

「じつは──」

事の顛末を聞いて、バ・リョウキは快活な笑い声をあげた。

「公主に嫌われたからとて、一人で半べそをかいていたというのか」

「き、嫌われたかどうかは、まだ……。ただ派手に怒らせてしまっただけです」

「まったく……気にかけて無駄をした。我が一族の男は代々色事には疎いのだ。女一人の事で気に病むな」

「はい……」

戦いでの心構えを説くことはできても、恋に悩む若者の相談にのってやる事は難しい。誰にでも得手不得手があるのだ。

「まあそれはいい。それより、預けていった事はどう──」

言いかけた言葉を、リビは慌てて別の話題でかき消した。

「サンロの件がどうなったのか気になります。戻りしだい聞かせていただけると、文に書いてありました」

「ん? たいしたことはなかった。流罪にあった太子の一人が、聴衆を集めて現王の即位は不当だと触れ回っていただけにすぎん。王后殿下がそれを知り、謀反の兆しだと大げさに騒ぎ立てたのだ。人をやり、事はすでに治まった」

「そう、ですか」

知りたがっていたわりに、リビは早口でそう言うに終わった。

「リビ、ごまかしたな」

瞳を揺らし、生唾を飲み込んだ甥を見て、確信する。

バ・リョウキは佇むリビの肩を掴み、猛獣の唸りにも似た声で問い詰めた。

「偽りがただの嘘ですむうちに、隠している事をすべてはき出せ」

「おい……」

気だるそうに自分を呼ぶ声に、シュオウは顔をあげた。

「……どうした」

「なんだよ……生きてやがったのか。まる一日びくともしねえからくたばったと思ったぜ」

「起きていても、体力を減らすだけだ」

ガ族のシガと名乗ったこの男とは、ちらほらと会話をする程度には打ち解けた関係を築いていた。

南方で一大勢力を有していたというガ族のたどった顛末や、落ち延びて細々と隠遁生活を送っていた経緯などを聞き、唯一の育ての親であった祖父が死んで後、シガはわずかばかりの蓄えを抱えて都へ赴き、派手に金遊びをして一文無しになった。その後は本来隠すべき素性を明かし、それを利用しようとする者達の間で右往左往しているうちに、最後はかくまわれるはずだったここサンゴの城にて、酒に酔わされたあげく幽閉されたというオチがつき、話は終わった。

その場ののりで適当に生きてきた男の身の上話は、なんら面白みもないものだったが、ことこの状況にあっては、それなりに退屈を紛らわせる事のできる娯楽にはなった。

シガの腹から鳴った低い音が牢の中で響いた。

「もう、何日喰ってない……」

シガは雑巾を絞ったような声でそう言った。

「四日か、五日か……」

シュオウがア・ザンにとった態度が原因か、あの日から今まで一度も食料の供給はなく、一日二回の水の配給だけが命綱となっていた。

飢えるという事に慣れているシュオウは、こうした状況では考える事なく、じっとしている事が一番だとよく知っている。だが、シガは空腹に耐えるという事に耐性がないらしく、日を追うごとに衰弱が酷くなっていた。あまり眠れていないのか、目の下は落ちくぼんで真っ黒なクマができている。

「こんなはめになるなら、てめえがあの豚を追い払ったのを喜ぶんじゃなかったぜ」

愚痴るシガに、シュオウは涼しげに返す。

「黙ってやられていればよかったのか」

「ああ、そのほうがずっとましだったかもな」

シュオウはむっとして押し黙った。

「おい、ちょっと待てよ、来たぞ……やつだッ」

弾む声でシガが言うと、直後に牢部屋の入り口の扉がきしむ音がきこえた。

なぜか上半身裸で登場したア・ザンを見て、うれしそうにシガは笑む。そんな矛盾した姿を見て、シュオウは場違いに吹き出しそうになってしまうのをこらえた。

「おい、どういうことだよ! もう十日もなにも喰ってねえんだぞ!」

誇張して言うシガを歯牙にもかけず、ア・ザンはシュオウを睨みつけた。

「どうだ、飢えたか? 腹が減っては、もう前のようにへらず口はたたけなかろう。誰が生殺与奪の権を握っているか、身にしみたはずだ」

思わず言い返したてやりたくなる衝動を、寸前で堪える。シガが言っていたように、場合によっては怒りをかって、さらに状況を悪化させる事にもなりかねない。

この男は他者をいたぶる事を喜びとしている。つまり、それに付き合っているかぎり、直接的に命を奪おうとはしてこないはずだ。

シュオウは打算をはたらかせた末、うめき声をあげて弱っているふりをしてみせた。

ア・ザンはそれを受け、うれしそうに鼻息をこぼす。

「そうだ、皆私を恐れるべきなのだ。この渦視を統べる者はだれだ? 黒僧将にまでのぼりつめ、王族を娶ったのはだれだ! 私なのだ、このア・ザンこそが英雄なのだ! あの老いた将でもなく、腕っ節を誇るだけの我が娘でもないッ。ましてや剣腕が立つだけの生意気な囚人でもないのだぞ!」

我が身を誇るア・ザンの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。

ア・ザンは興奮した様子で肩から湯気をあげ、腰に差した短鞭を手に、シュオウのいる牢の中に押し入った。

「鞭で打つだけでは生ぬるい、貴様は一度反抗してみせたのだからな。多くの者らが泣き叫び命乞いをした方法で苦しませてやろう」

言って鞭を投げ捨てたア・ザンは、釣り上げられたシュオウの右手を掴み、人差し指を強く握った。

「骨の痛みを味わった事はあるか? 打たれる痛みとも、切られる痛みとも違う。体の芯から生じる痛みは、人間に耐えがたい苦痛をもたらすのだ。幾人も拷問にかけてきたが、屈強な精神の持ち主でも、骨を折られれば最後には泣きながら許しを願い屈服した。お前はどうだ、せいぜい正気を保つがいい。誰かのように、小娘みたいに泣きわめかれたら興ざめだからな」

誰か、という部分に当てはまると自覚があったのか、シガが抗議の声をわめき散らした。

ア・ザンは自分を罵る声を無視し、その意識のすべてをシュオウに集中させている。はあはあと小刻みに呼吸を荒くし、悦に入ったような顔で、握ったシュオウの人差し指を横に折り曲げた。

「どうした、指を折られた痛みで声もでんか? 遠慮はいらん、叫ぶがいい、泣きわめけ、敗者の声を聞かせろ」

だが、シュオウはア・ザンの期待に応えることなく、ただ静かに顔をあげた。

「この程度の事で、泣き叫ぶわけがないだろ」

低い声でそう告げると、加虐趣味の総帥は、呆然として後ずさった。

「……え」

「今のは末節骨がはずれただけだ。指の脱臼は見た目ほどの痛みはない」

ア・ザンは目を白黒させ、

「な、なにを言ってる」

背後からシガの笑い声がした。

「だから、折れてねえって言ってんだろうが、ばかが」

シガに嘲笑され、ア・ザンは顔を赤くした。

「この程度の事も知らずに、あれだけの脅し文句を吐いていたのか──」

ア・ザンは狼狽している。あれだけ強い態度を見せていたかとおもえば、今は痩せた野良犬のように怯えて頼りない姿をさらしている。その様に、苛立ちすら感じた。

シュオウは自身の立場と状況を忘れ、越えてはならない一線に踏み込む。

「お前のしている事はすべて中途半端だ。一方的に人を傷つけて、自分が強くなった気になりたいだけの、ただの臆病者じゃないか……敗者はお前のほうだ」

この言葉は、ア・ザンに残された最後の自尊心を打ち砕くには十分すぎるほどの威力があった。

ア・ザンは怒りに打ち震え、激しく息を切らし、

「お、おのれぉれええ!」

半狂乱にわめきつつ、腰に差していた短刃の剣を抜き放った。頭上に掲げた剣で切りつけようと、一歩踏み込んできた瞬間を、シュオウの眼は見逃さななかった。

足を拘束している鎖のわずかなゆるみ。その限られた行動範囲の内で、右足のかかとを持ち上げ、踏み込んできたアザンの左足、そのくるぶしの下を踏み砕いた。

突然の痛みに轟声をあげ、体の支えを失ったア・ザンはシュオウに向かって前のめりに倒れ込む。

シュオウは前倒しに向かってくるその巨体の首に、全力で食らいついた。

ア・ザンの悲鳴が牢の中にこだます。

錯乱して藻掻く体を絶対に離すまいと、シュオウも必死の形相で首に歯を差し込んだ。両手を拘束された状況下で、自分にできる唯一の反撃手段をもって、命を奪う覚悟で臨むも、しかしたっぷりと贅肉のついたア・ザンの首の肉は予想以上に厚く、人であるシュオウに、それを咬み千切るほどのあごの力はない。

すぐに異変に気づいた番兵と従者が来て、主の首に食らいついた囚人の顔面を殴りつける。

勢いに負け、ア・ザンの首から咬みこんだ歯がはずれた。

口の中いっぱいに広がった塩辛い汗と、鉄の臭いがする生温かい血を吐き捨て、口元を赤く染めながら、突然の出来事に戸惑う番兵達を見つめる。彼らの背後にある牢からは、あっけにとられた様子でぽかんと口を開けているシガの姿があった。

「こ、殺せえええ! いますぐその男の息の根を止めるのだッ!!」

歯形の残る首筋からしたたる鮮血を押さえながら、ア・ザンは吠えた。

まだ状況を飲み込めていない様子の兵達は、それでも忠実に主の命令を実行しようと試みる。一人が剣を抜き、切っ先をシュオウに向けた。だがその瞬間、

「待てッ!」

雷鳴のように空気をつんざく怒声が、混沌とするこの場の空気に水を差した。

「ば、バ・リョウキ様……」

番兵の一人がそうつぶやくと、声の主である黒い皮鎧をまとった、見覚えのある老兵が現れた。

老兵は状況を見回し、険しい顔で溜息を落とす。

「くだらん事を……」

静かにそう言ったかと思えば、地響きがしそうな勢いで、尻餅をついて呆気にとられるア・ザンを素通りし、シュオウに向けて剣を構える番兵の腹に拳を突き入れた。

一撃で気を失った番兵は手から剣をこぼし、倒れ込んだ。

「な、なにをなさるか!」

怒るア・ザンに、老兵は冷静に応じる。

「そのお言葉を返そう。虜囚をなぶる趣味をとやかく言う立場にはないが、この者には縁がある。できれば命を預かりたい」

突然の事に、シュオウは目を見開いた。

ア・ザンは口元を引きつらせ、老兵の申し出を拒絶した。

「いや……いやいやいやいやいや! ならん、なりませぬぞ! いかな老将の申し出とはいえ、我が軍の星君を多数殺め、私をも殺そうともくろんだ者を放免にするなどと!」

「……私は、戦の折にこの者とつけそこねた決着を望んでおります。これほどの武人をなぶって殺すにはあまりに惜しい。まっとうな手段での勝敗をつける事を、せめて先の戦の報奨として検討いただきたい」

老兵の申し出に、ア・ザンは鼻の穴を膨らませ、何事か思考を巡らせた。

「近日中に、祝勝の宴を催す手はずを整えている。その場での余興として、老将殿がその者の命を絶つと約束してくださるのであれば……」

老兵は力強く頷いた。

「異存はござらん。ではそれまで、この者の身は預からせてもらおう」

老兵は視線をシュオウに当てた。皺を刻んだ双眸が、一瞬驚きに見開いたのに気づき、シュオウは爛れた皮膚を隠すように顔を逸らした。

老兵は黙って周囲に目をやり、ア・ザンが投げ捨てた眼帯を拾って、おもむろにシュオウの顔にそれを戻した。

呆然として立ち尽くす番兵に向け、老兵は問う。

「この者の剣はどこか」

しかし問われた男は、黙って首を横に振るだけだった。

「リビッ!」

老兵が怒鳴るように言うと、いつのまにか片隅に佇んでいた若い男が、引きつった顔で背を伸ばした。

「は、はい!」

「命に背いた償いの機会をやる。この者が扱っていた剣を探し出せ。対で刃は長からず短からず。犬か狼に似た獣の紋が刻まれていたはずだ」

「か、かならず見つけてまいりますッ!」

拘束を解かれ、新たに簡易の拘束具をつけられ、促されるまま老兵と共に牢を後にする。途中、自分も対戦をと強く望むシガの声を、老兵はただ静かに受け流していた。

長時間の拘束と空腹でふらつく体で、老兵の後に続く最中、長い廊下でぽつんとたたずむ、場違いに美しい容姿をした少女が、小さく口を開けてじっと視線を寄越していた。