軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

断雲 3

断雲 3

「助かるんだろ?! どうなんだよッ」

連れてきた医師の顔を見て聞いたレイネの顔は必死だった。

山中の拠点に戻った時、セレスは労働者用の小屋に寝かされていた。酷く汗をかき、噛み傷の周辺はドス黒く紫色に変色している。

荒く呼吸を繰り返すセレスは、意識なくただ苦しそうにうめいていた。

医師はここへ至るまでの長い遠回りにくたびれた様子で、セレスの診察をする。だが、その表情は暗かった。

「噛まれてから時間もたっているし、このヘビ毒は即効性が強い。噛まれたのが子供か年寄りなら、もう今頃は死んでいただろう」

レイネは怒りを露わに、

「そんなこと聞いてない! 助けろっていってんだッ、薬とかあるんだろ」

怒鳴られた医師はむくれっ面で、

「あるにはある、が――」

仕事道具を入れた鞄の中から、小さな小瓶を取り出し、

「――深界植物の油だ、これには強い毒消しの薬効がある」

「あるならそれを早く使ってよッ」

医師は下唇を突き出して、

「これはなあ……そうそう手に入るものじゃなくてだな……」

まるで隠しておいた宝物でも眺めるかのように、医師は小瓶を愛おしそうに見つめて目を細める。

レイネは冷たく医師を睨み、

「あんたが物惜しさに仕事をしなかったって、パパに言うよ。私もあんたの顔と名前を一生忘れないから……」

医師は顔を引きつらせ、

「わかったわかった、ちょっと別れを惜しんだだけだ。金払いの約束はついているしな」

普段は上街で暮らす上流階級を相手に仕事をしている医師で、評判の良い男ではないが、腕は確かだ、とヴィシャは言っていた。

医師は焼いた刃でセレスの傷口の周囲を切り、そこに解毒油を染みこませた布を置き、しっかりと縛り付けた。他にも腕や脇など、切り傷をつくり、そこに同じような処置をしていく。

医師が一通りの処置を終える頃、小瓶に入っていた油は、ほとんど底を突いていた。

「よし、これでいいぞ……」

レイネは心配そうにセレスの顔を覗き、

「助かるの……?」

医師は真面目な顔で首を振り、

「わからん。処置はしたが、使った油は薬効があるといってもほとんど毒のようなものだ。あとはこの男の体が、それに耐えられるかどうか」

レイネはセレスの汗を拭いながら、

「すごく熱くなってる……冷やしてやってもいい?」

医師は頷き、

「これからもっと熱を出すだろう。適度に熱をださせながら、死なない程度に体温を調節してやらなければならない。いつまでかかるかわからない寝ずの番になるが――」

レイネは、

「やるよ」

躊躇うことなく即答した。

セレスは汗で全身を濡らしている。湿った衣服を剥ぎ、綺麗な男物の服に着せ替えた。

脱がせた上着を持ち上げると、ぽろりと何か塊のようなものが落ちてきた。

「あ……」

それは、レイネがセレスに投げつけた干し肉である。

レイネは苦しげにセレスを見つめ、

「元気なときに、食っときなよ」

干し肉を着替えさせたセレスの服の中にしまい込んだ。

夜を待ち、拠点が静寂に包まれたのを確認して、ノスリは静かに腰を上げた。

「行くのか?」

隊員に問われ、ノスリは頷き、

「調べてくる、お前は待機だ。私になにかあれば、一人でここから撤退しろ」

闇に乗じて拠点内に侵入し、外から下調べを済ませた建物を調べてまわる。

作業員らしき者たちが出入りしていた建物は予め除外する。人の出入りが少なかった場所に絞り、そこにあるいくつかの建物を入念に調査する。

なかでも特に頑丈そうな造りの建物に注目する。窓や換気口が少ないその建物の頑丈そうな扉には、古くてがっしりとした鍵が取り付けられている。

ノスリは道具を取り出し、鍵穴に差し込む。真っ暗ななかでの作業と、古びて錆び付いているせいで、なかなか鍵は開かない。

――だめか。

正面からの侵入を諦めて、建物の側面にまわり、通気口へと顔を寄せる。ノスリは犬のように、通気口から漂う空気を鼻で嗅いだ。

匂いがする。不潔な囚人が漂わせる濃厚な臭気だ。

通気口は狭く、そこから中の様子を窺うことはできない。だが、ノスリは単純な方法で、中の様子に探りを入れた。

「誰か――」

通気口に向かって声をかける。

夜の暗闇よりもさらに暗い、壁に空いた隙間の奥から、鈍くひとの気配が伝わってくる。

ノスリは続けて、

「ある人物を探してここへ辿り着いた。そこに居るのなら、名を――」

分厚い壁に阻まれながらも、鎖がこすれる音が鳴り、通気口の奥にいる者が、近づいてくる気配が伝わってくる。

しばらくの静寂の後、

「ウィゼ・デュフォス――」

聞き取れるぎりぎりの小さな声で、奥に居る者は、たしかにその名を口にした。

早朝を控えた深夜、プレーズは監察隊のノスリから強引に叩き起こされた。緊急の用件であるという。

ことの経緯を聞いたプレーズは、寝間着姿でノスリをぎろりと睨みつけた。

「……たしかな情報なんだな?」

ノスリは膝を落とした姿勢で、

「姿は見ていません、ですが、男の声でそう名乗りました」

プレーズはぼやけた顔で視線を左右へ滑らせる。寝起きで、だるそうに喉を唸らせながら、首の後ろをがりがりと掻いた。

痺れを切らしたノスリは、

「状況から考えても、あそこに監禁されているのはデュフォス卿で間違いないかと」

「きさまのような輩の推測など求めてはいない。それで、拠点の規模は?」

「小規模の砦ほど。なかに複数人の労働者が出入りしている様子があります」

「……その程度なら数を揃えれば簡単に制圧できるな」

ノスリは慌てて、

「大人数で山中に攻め入れば、事前に気取られる恐れも……。おそらく、我々が把握していない出入り口があるものと思います」

プレーズは煩わしげに舌打ちをして、

「面倒だ、たかが蟻を潰すのに足音をたてられないとはな」

ノスリは視線を泳がせた後に、意を決した様に口を開き、

「現地の警備はぬるく、なかにいる者たちも兵士ではなさそうでした。監察隊におまかせいただければ、少数精鋭を組織して拠点を奇襲し、速やかにデュフォス卿を奪還することは可能であると――」

話し終えるより早く、プレーズは立ち上がってノスリの肩を強く蹴り飛ばした。

「分をわきまえろ、ネズミ。きさまらに作戦を進言する機会など与えてはいないぞ」

仰向けに倒れたノスリの肩を踏みつけ、プレーズは苦痛に歪むノスリの顔を見下ろした。

不愉快だが、実際にノスリの言葉に間違いはない。相手は組織とはいえ軍人でもない平民の集団で、ここまで見つかることなく隠し通してきたことで、油断もしているはずである。

虚を突けばデュフォスを救出することは容易いかもしれないが、しかしそれではあまりにも簡単にすぎる。

この任を引き継いだ思惑は、冬華という地位を得るため。その冬華の長デュフォスの居所を掴んだいま、次の問題は救出の際の演出である。

苦労をし、多大な労も厭わず、命懸けで馳せ参じた救世主。その想像が脳裏を駆け巡り、監禁生活で絶望していたデュフォスは感動に打ち震え、きっとこう言うに違いない。

――プレーズ家を冬華に推薦する。

ノスリを踏みつけにしながら、プレーズは妄想を抱き、下品に頬をゆるませた。

エリス・テイファニーとの約束だけでは安心はできない。推薦は一人よりも二人からのほうが効果が高くなるのは必然である。

「デュフォス卿奪還は次の夜を待ち、俺が直接現地で指揮をとる。きさまは滞りなく目的地にたどり着けるよう、案内の支度をしておけ」

踏みつけにされている痛みに顔を歪めながら、

「し、承知……」

ノスリは重く頷いた。

家名に冬華の冠が載るところを想像しながら、プレーズは現状を俯瞰して笑みを浮かべる。

――おれはついてるぞ。

流れはすべて、良い方向へと向かっている。少なくとも、プレーズ本人はそう強く確信していた。

「お前はクズだ、救いようがねえ――」

過酷な拷問を受けながら、レイネの父親であるヴィシャから何度もその言葉を浴びせられた。

自身に向けられる侮蔑の言葉も、今となっては呆れるほどすんなりと受け入れられる。

受けた罵倒を思い出し、抵抗もなく自虐を受け入れるセレスは、悪夢のなかにいた。

夢の中身は人生そのもの。自分の力ではどうすることもできなかった生まれのこと。持って生まれたものを認めては貰えず、持ち得なかったものだけを評価された。

差別は傷となり、孤独は痛みとなり、苦しみは恨みへ堕ちていく。

すべて失い、達観したつもりになったとしても、傷と痛みは残ったままだ。

己の弱さと愚かしさに向き合う度に、また新たな傷が増えていく。

――僕は。

頭を抱え、うずくまり、顔を隠して叫びたかった。

――僕は、クズだ。

過去に向き合い、そこで犯した罪を後悔している。だが、手を染めた殺人という行為に対して、なんら特別な感情は湧いてはこない。それがまた、終わりのない自虐の種となる。

そこにあるのは後悔だ。憂さ晴らしで行っていた殺人という手段に、なんら意味がなかったということ。どころか、その末路はこれ以上ないほどの転落を招き、失うものが完全に消え失せた今になって、やっと心を苦しめていた雑音が消え去った。

暗闇にいれば、光を探さずにはいられない。

――許してほしい。

――償いたい。

――やり直したい。

頭の中では終わりを受け入れながら、心は救いを求めている。

だが、理性はすべての光を否定する。さまよう心を、矛盾する思考がまるで獲物を追う狩人のように執拗に後を追ってくる。逃げることは許されず、放たれた矢がとどめを刺すまで、その追跡が終わることは決してない。

自分の心を苦しめるものが、また自分である以上、逃げる場所などどこにもない。それでも、心は逃避を求める。

一つ前の苦を忘れ、また次の苦が現れる。繰り返し、繰り返し、後悔と痛みが繰り返される。それこそが、悪夢だった。

――こんなに辛いなら、いっそ。

心は無意識に究極の逃避を口ずさむ。

あの時、全力で挑み敗北した瞬間、あの強烈な隻眼に見下ろされながら、あの男に命を奪われていれば。

得体の知れない強さに圧倒された、あの時の勝者の顔を思い出す。

――なぜ。

セレスは自問し、

――あそこで、死ねなかったんだ。

泥のなかを泳ぐように、ゆっくりと悪夢から浮上した。

「セレス……?!」

聞き心地の良い少女の声に名を呼ばれ、セレスはゆっくりとまぶたを押し開けた。

「あう……ああ……」

まともに声が出せない。全身から骨を抜き取られたように体が重く、指一本動かすのがやっとという有様だ。

仰向けに寝かされた姿勢で、視界の中に覗き込むレイネの顔が映りこむ。

「意識があるんだね?」

セレスは問われ、力を振り絞って、微かに首を縦に振った。

レイネは破顔し、

「よかった。変な毒蛇に噛まれて倒れて意識がなかったんだ。待ってな、塗りつけた薬を拭いてやるから――」

足についた噛み傷や、覚えのない切り傷から、ぬめりけのある布が剥がされる。レイネは水に濡らした布巾を手に、傷口にべっとりとついた油のようなものを丁寧に拭き取った。

それから時間が経つほどに、体の自由が少しずつ回復し、霞んでいた視界が鮮明になっていくのが体感できる。

「レイ……ネ……」

言葉を発せられるほどに体の感覚が戻りつつある。

レイネは嬉しそうに破顔し、

「医者を呼んでくるよ」

小屋から出て行くレイネの背中を見つめながら、セレスは視線を天へと向け、

「また……死ねなかった、よ……」

レイネには聞かせられないその一言を呟いた。

粗末な寝床に体を痛めながら、冬華六家の長、ウィゼ・デュフォスは朝の目覚めを迎える。

捕らえられ、監禁されてから後、待遇は想像を絶するほど酷く、その日々はデュフォスの心身に耐えがたい苦痛を与えていた。

温かい湯で入浴もできず、滅多に交換されない服には汗の染みが黒ずんだ汚れの層となってこびりついている。

汚物をためた壺の横で食事をしなければならず、さらにその食事は家畜に与えるものよりも粗末で、日を追うごとに酷さが増している。

発狂寸前にまで追い込まれていたデュフォスの心は、しかし、この日の朝には無風の湖面のように静寂だった。

――もうすぐだ。

虚ろな目にかろうじて光を灯し、デュフォスは心中でそう呟いた。

それは昨夜のこと、寒さに震えていた夜に、通気口から人の声に呼ばれ、名を問われたのだ。それこそはなによりも待ち続けた救助の兆しだった。

失いかけていた希望がよみがえる。捜索隊が、ようやくこの監禁場所を見つけにちがいない。

デュフォスは、したり顔で自分を閉じ込め、酷い扱いを繰り返した者たちの顔を思い浮かべた。なかでも、ここを取り仕切っている様子の憎たらしい小娘の顔と声、そして名前を心に刻む。

――レイネ。

その名を思うと、自然と拳に力がこもる。

その時、いつもより早く扉が開く気配が伝わった。入り口のほうから冷たい空気が押し寄せ、同時に言い合うような声が聞こえてくる。

「おい離せ! そいつは病み上がりだ、まだ戻すのは早いって――」

「レイネお嬢さん、あきらめてください。絶対に牢の外に置くなってヴィシャさまから厳しく言われてるんです――」

言い合う声は徐々に大きさを増していく。牢から奥を覗くと、ぐったりとした様子のセレスが牢のなかへと運び込まれている最中であった。

押し問答が続き、やがてレイネが諦めた様子で溜息を吐いた。レイネは顔を覗かせるデュフォスを一片にも気にしないまま、

「待ってな、食えそうなものと、まともな寝床を用意してくるから――」

そう言って外へ向かって走り去る。

「うう……う……」

ひとけがなくなり、奥からセレスの苦しげな声が聞こえてくる。

「昨日は戻らなかったな、いったいなにがあった?」

デュフォスの問いかけに、セレスは苦しそうに息を吐き、

「毒蛇に、噛まれて……」

デュフォスは嘲笑し、

「死に損なったのか」

「……はい」

「お前は奴らに随分と大事にされているじゃないか。街の女どもを殺してまわっていた罪人が、どうしてだ? いったいなにをして奴らに取り入った。あの頭の悪い小娘の下僕にでも成り下がったか?」

デュフォスの言葉に、セレスからの返答はない。だが、デュフォスは密かにほくそ笑んでいた。

しばらくの間、近くにいて共に牢に入れられていたことで、このセレスという男に対してその性格や性質を多少なり知るようになっている。

半身が平民という生まれに苛まれながら心を病み、抵抗のできない弱者を殺して悦に浸り、自分を慰めていたような情けない人間だ。

その存在自体を長期間のさばらせていたという事実は、体裁を気に掛けるターフェスタ大公にとっては隠して蓋をしておきたい存在であろうが、デュフォスはこの情けない男が、晶気の扱いに並外れた才気を見せた瞬間を目の当たりにしている。

輝士としての能力においては他より秀でていると自負しているデュフォスが、手も脚もだせないまま一瞬でやりこめられたのだ。それも、命を奪う事なく、ただ気絶させただけに留めている。それがどれほどの力量差から生じる余裕かと思えば、ただ罪人として裁かせるには惜しい存在だ。

手なずけておけば利用価値がある。罪を償わせることもなく負い目を背負わせて側に置けば、それを理由として自由自在にこの男を使役することもできるはず。

デュフォスは一瞬の躊躇いを混ぜつつも、

「もう間もなく、時が来る――」

セレスに、そう告げた。

セレスは、

「時、ですか……?」

興味をもった様子で問い返した。

「近日中、私を救出するために兵がここになだれ込む。その時は私に従い、命懸けで私を守れ。忠実であれば、殿下に願い、犯した罪のすべてを赦免にし、石名を与えて輝士の位に叙任してやる」

顔は見えずとも、セレスが動揺する息使いが伝わってくる。

「僕が……輝士に……」

デュフォスはほくそ笑み、

「天が与えたもうた最後の機会と思え。これをどう使うかで、今後の人生が一変するぞ」

デュフォスの囁きに耳を傾け、セレスは鼓動が早くなるのを感じていた。

――輝士に。

国を表する権力者からの言葉は、甘美な砂糖菓子に等しく、口内に湧き上がる唾液は、喉を鳴らさなければならないほどの量に達していた。

――赦される。

――洗礼を受けられる。

――輝士になれる。

諦めていたものすべてを目の前に差し出される。なにもないはずの牢のなかで、なにも変わってはいないこの瞬間に、頭の中を占める華やかな未来が、怒濤のごとく押し寄せる。

ふと、無意識に握りしめた左手に違和感を覚えた。

「……?!」

見ると、きつく拘束されていたはずの封じの拘束が緩んでいる。毒蛇に噛まれた騒動のどさくさで、これをはめた者が適当に済ませてしまったのだろう。

――これなら。

拘束はされていながらも、締め付けは緩い。手間暇をかければ十分に自力で外せそうだった。

セレスは全身に残るけだるさも忘れ、右手を左手首の拘束へ伸ばす。直後、羽織っていた外衣の内から、ぽろりと塊のようなものが落ち、床の上に転がった。

それは、レイネがセレスに食べさせようとして持ち込んできた干し肉の塊だった。

親身に自分を心配し、心底懐いた様子の少女の顔を思い出し、セレスはその場に顔を沈め、両手で強く耳を塞いだ。

ドストフ・ターフェスタ大公を中心とした遠征隊は、シュオウを指揮官として順調にターフェスタ中央都への帰途についている。

深界の道行きでは狂鬼の気配すら感じられず、凱旋の旅は無風そのものだった。

平穏無事な旅路の途中。休憩中にシガは歯を剥き出し、うんざりとした調子でネディムの元へと向かっていた。屈強な肉体と長い腕の先には、子猫のように首根っこを掴まれたクロムがぶらさがっている。

ネディムは運ばれてきたクロムに気づいて、

「また、ですか?」

シガはクロムを物のように差し出して、

「まただ、何度も何度もこいつは……鳥が鳴いただけで騒いで、馬糞を見るたびに悲鳴をあげながら俺にへばりついてきやがるッ」

ネディムはクロムを引き取り、

「弟が度々ご迷惑を。どうもユーギリでなにかよからぬ事があったようで」

「それがなんで俺にへばりつく理由になるんだ」

ネディムは萎れた野菜のように、くたくたになっているクロムを見やり、

「はっきり理由はわかりませんが……例えば洪水などにみまわれた際、ひとは助かろうとして巨木に掴まろうとするものです。クロムがあなたの側を離れようとしないのも、そういった理由ではないかと」

シガは大きく首を傾げ、

「俺を殺そうとしといてか……? こいつが俺を頼ろうとするはずなんてない……いやまて、そうか、わかったぞッ」

シガはずん、と足を踏み、クロムの前に立って睨みつけた。

「お前、俺に不幸かなにかをなすりつけようとしてるんじゃねえのか」

シガ、そしてネディムからもじっと見つめられながら、クロムは虚ろな表情で、こくりと一回頷いた。

シガは目元をぴくりと震わせ、

「……そいつを俺の所にこさせるな、二度とな。次に来たら森の中に放り投げる、嫌ならそっちでなんとかしろ」

威嚇するようにクロムを指差し去って行くシガに、ネディムは頭を下げて見送った。

ネディムはクロムを隣に座らせ、

「クロム、いい加減に詳しく聞かせてくれないか、あそこでなにがあったのか」

温かい飲み物を手に持たせる。

クロムは重く息を吐き、

「……よくない託宣を受けたのだ」

「託宣? もう少し詳しく」

クロムは遠くを見つめ、

「とある少女に助けられ、その少女に占ってもらったのだよ」

ネディムは肩の力を抜き、

「その占いの結果がよくなかった、と?」

クロムは悲しそうに首肯し、

「恐ろしいほどによく当たる……我が道を完璧に言い当てていた。あの少女との出会いこそ偶然のもの、その少女の口から先の運命を聞かされたのだ、これは天からの言伝以外なにものでもない……」

クロムは言って、震えるように自分の肩を抱き寄せる。

ネディムは昔から変わらない弟を眺めながら微笑みを浮かべた。

「占いは一度で終わるものではないだろう。時を置いてまた占ってみれば、別の結果が出るものだ。占い以外でも運気を計る手段は多い、お前の好きな硬貨の裏表でもいいし、なにかの結果に賭けてみるのもいい」

クロムは変わらず青白い顔で俯き、

「気休めなど……」

言いかけて、突然顔をあげてネディムに顔を寄せて凝視した。

ネディムは上半身を仰け反らせ、

「ど、どうした」

クロムは眉をくねらせ、

「なにかおかしい、なにか引っかかる……最近なにかがあって、それを忘れているような……」

クロムは顔に僅かに生気を取り戻し、何かを思案し始めた。

「占い……運気……? いや、裏表……ちがう……賭けだッ」

ネディムの言った言葉を繰り返し、クロムは答えに行き着いた様子で声を弾ませた。

「賭け……」

ネディムが言うとクロムは何度も頷き、

「すっかり忘れていたぞ、賭けをしたな? 深界での戦場に挑む前、我が君が難を乗り越えられるものかと、ふざけたことをぬかしていたッ」

当然、はっきりと記憶に残っていたネディムは、

「ああ、覚えているとも」

「我が君は難なく戦いで勝利を収めたぞ。つまり、賭けはこっちの勝ちということになるッ」

勝ち誇って言うクロムの顔が、子供の頃に見たままで、ネディムは懐かしさと愛らしさを感じながら、静かに目を細めた。

「そういうことになるな。賭けはお前の勝ちでいい」

クロムは嬉しそうに、

「よしよし、なんでもすると言ったな?」

「たしか、なんでも言う事を聞く、と言ったんだ。まあ同じような意味だが」

クロムは邪悪に微笑みながら手を揉み、

「くっくっく、なにをさせてやろうか……崖の壁面に作られた蜂の巣をとってこさせるか、馬鹿大公の前で裸踊りも悪くない、それとも家の財産すべてを賭けに突っ込ませるか――」

実際、そうなった場合に激しい苦痛が伴うことばかりを妄想するクロムに対し、

「お前は、多少なり家族として兄の身を気に掛けようとは思わないのか」

クロムはつんとそっぽを向き、

「あの馬鹿に忠誠を誓ったときから、もはや兄などとは思っていないのでね」

未だにへそを曲げたままの弟を前にして、

「約束は守ろう。だが、勝者の特権の使い道はよく考えるといい。効果は一度きり、ただしどんなことでも、その時にはお前の意志に従おう――」

真顔になったクロムと視線を合わせた直後、隊列の先頭からシュオウが歩いて向かってきた。

「我が君……」

クロムは目を潤ませつつ、ネディムの背中に隠れるように身を縮める。

ネディムはそんなクロムに、

「どうしたんだ? なにをおいてもお会いしたいご主君だろう」

クロムは声を震わせ、

「こんな弱々しいクロムの姿を、我が君にお見せするわけには……ッ」

そうしている間にシュオウと距離が近づき、ネディムは立ち上がって辞儀をした。

「准砂、おつかれさまです。後方へ向かわれるおつもりですか?」

シュオウは頷いて、

「クモカリのところで食事をもらう――」

ネディムの後ろに隠れたクロムに気づいた。

シュオウはネディムの背後に視線を送り、

「……クロム?」

クロムはびくりと体を震わせ、

「うぐ……ッ」

「いたのか」

言ったシュオウにネディムは、

「はい、いつのまにやら」

シュオウは淡々とした態度で、

「飯を食いに行く、一緒に来るか?」

誘われたクロムがどう反応するかと、ネディムが振り向くと、そこにはもうクロムの姿はなくなっていた。

視線をシュオウに戻すと、一瞬でそこに移動していたクロムが会心の笑みを浮かべて跳びはね、

「我が君ッ、このクロムがお供をいたします! いついかなる時であろうとも!」

シュオウにぴったりとついて歩くクロムは、うきうきと足を弾ませながら、ここへ至るまでの旅路の話を大声で語り聞かせていた。

さきほどまで、不運の兆候に怯えて縮こまっていたクロムの豹変ぶりをおかしく思いつつ、ネディムは幸せそうな弟の様子を温かな目で眺めながら、冷めてしまった飲み物を一気に喉に流し込んだ。