軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

凱旋 1

凱旋 1

暖気の籠もったその部屋に、一人寝台に横たわる男がいる。

「ぜえ……はあ……」

同じ調子で苦しげな呼吸を繰り返し、時折苦しげに鼻の中で、ごぽごぽと汁気を泡立たせる。

ターフェスタ軍によって占領された深界の拠点、城塞ムツキ、その一室で介抱されているクロムは、虚ろな目、死人のような肌色で、寝台に腰と腕を強固に縛りつけられた状態で寝かされていた。

部屋に二人の男たちが入ってくる。一人はクロムの世話をしている兵士で、もう一人は手伝いを頼まれた下働きの労働者だった。

「ぜえ……ヴァガ……キビ……はあ……」

荒い呼吸のなかに、クロムはうわごとのように一つの言葉を繰り返す。

「この人、バカキビって言いました?」

下働きの男が聞くと、

「あん? さあ、ずっと同じようなことを言ってるが、なんて言ってるのかまではわからんね」

世話役の兵士は興味なさげにさらりと流す。

クロムはまた、

「ヴァガ……キビ……」

まともに聞き取ることのできない声で呟いた。

下働きの男はクロムの顔を覗き込み、

「また言いましたよ、バガキビ? バガキビってなんですかね、なにか植物の名前のようにも聞こえますけど。もしかして、秘密の暗号だったりしませんか……?」

世話役の兵士はうんざりと首を振り、

「知るもんか。そいつは一部で有名な変人だ、冬華であるカルセドニーの家名がなければ、とっくに石を切り落とされてるような奴さ。大公様に何度も不敬を働いたって話だしな」

下働きの男は感心したように頷いて、

「へえ……カルセドニーですか、そう言われると、さすがに高貴なお顔をされているようにも見えますね」

世話役の兵士は、げっそりと痩せこけた顔から滝のような鼻水を垂らしているクロムの青白い顔を見て、

「これが高貴、か……?」

盛大に首を傾げた。

そのまま卓の横に置いてある食器に目を移し、

「ああ、また一口も食べてないよ……」

手つかずの冷めた粥を見て愚痴をこぼした。

世話役の兵士は待機していた下働きに声をかけ、

「温め直してくれ、食欲を誘うようなものがあればなんでもいい、適当にぶちこんで煮込んでおけ」

下働きはがっくりと肩を落とし、

「ええ、もう何度目です? 食欲がないなら放っておけばいいじゃないですか」

「そりゃそうしたいさ、だがこいつの兄君である冬華のネディム様直々に頼まれてるんだ。大きな声じゃ言えないが――」

部屋の扉が閉まっている事を確認して懐から財布を取り出し、

「ネディム様からしっかりと心付けをいただいている。お前にも分け前をやるから、黙って手を貸してくれ。ここのとこまともに眠れていないんだ、こんなのの面倒を一人じゃ到底見切れん、頼むッ」

言いながら、財布から金を取り出し、拝むように手の平に握らせた。

下働きは手の中の硬貨を見つめ、

「わかりました、待っててくださいよ」

しばらくして、湯気のたつ粥が戻ってくる。温め直されただけではなく、中には薬効のありそうな香りを漂わせる刻まれた植物の根のようなものが入れられていた。

世話役の兵士は粥をすくってクロムの顔の前に差し出し、

「ほら、一口でも食べてくださいよ。あなたになにかあれば、カルセドニー卿に一任されている私の身が危うくなるんです」

言葉使いは丁寧だが、熱々の粥を強引に口元へ押しつける仕草からは、敬意のかけらも感じられない。

クロムは大きな鼻水を垂らしながらぼうっと虚空を見つめ、

「ヴァガギミは、いぶこへ……い、いぶ……おげほッごほおッ」

下働きの男はクロムの顔を心配そうに覗き込み、

「本当に具合が悪そうだ、大丈夫なんですかね、このままにしてて」

「医師には診せたさ、ただの風邪らしい」

下働きの男は肩の力を抜き、

「なんだ、風邪ですか……」

クロムが意識を取り戻した後に、そのあまりの具合の悪さに一瞬、大病が疑われた。無理がたたったのではないかとも思われたが、医師の診療の結果、クロムはただ風邪をこじらせているだけだと言われ、寝かせて食わせればすぐに治るという診断を得て、話は終わったのである。

クロムは咳き込み、鼻水をすすりながら、

「ヴァガギビに……ヴァガギビに……」

と同じ言葉を繰り返しながら、幽鬼のようにふらふらと寝台から降りようとする。が、腕や腰に巻かれた縄が、その身を寝台の上に引き戻した。

下働きの男は眉を顰め、

「それにしたって、病人をこんな風にしばりつけておくのは気の毒ですよ……」

世話役の兵士は、

「……知らないからそんなことを言えるんだ」

服をめくって、肩についた痛々しい青あざを見せる。

「この人にやられたんですか?」

世話役の兵士は鷹揚に頷き、

「なにかの拍子に暴れるんだ、こいつが……こんなへろへろのくせに、やたらに力が強くて……それに、すぐにどこかに行こうとするし」

痛々しい痣を見つめ、優しさを見せていた下働きの男は、クロムを恐れるように、少しずつ距離をとる。

世話役の兵士は溜息を吐き、

「さっさと治してもらって解放されたいんだ。最初は美味い話だと思ったが、これじゃクマの世話でもやいてるほうが遥かに楽ってもんだぜ」

言って再び熱い粥をクロムの口元に運び、

「ほら、食べれば体力だって戻るんです、自由になりたければ、ゆっくり休んでしっかり体調を整えて下さいよ」

クロムの世話を頼んでいったネディムは、ターフェスタ国内でも有数の権力者だ。その弟の世話を引き受けながら、その身に万が一のことがあれば、と考えるだけで、世話役の兵士は我が身の無事を心配せずにはいられない。

世話役の兵士は、すでに冷めかかっている粥を差し出し、

「ほら、口を明けて、あーんですよ、あーん」

クロムは逆に硬く口を閉ざしてぷいと顔を横に向ける。

「ヴァガギビの……ぜえ……ぜえ……」

下働きの男はクロムの苦しそうな息使いに耳を傾け、

「苦しそうですね。そうだ、鼻をどうにかしてやったらどうかな――」

クロムの鼻に、汗拭き用の布巾を押しつけた。

「ふん、ちーんッ」

クロムは爆音を響かせながら思いきり鼻をかんだ。ずびずびと音を立てながら吹き出される鼻水をすべて受け止めた布巾が、どろどろになって下働きの男の手元を濡らす。

「やめときゃよかった……」

後悔の一言を吐きながら、糸を引く鼻水まみれの布巾をゴミ入れに放り投げた下働きの男の横で、クロムはしっかりと通った鼻から、爽快な鼻呼吸を繰り返す。

すっきりと鼻の通ったクロムは、

「我が君はどこだ、どこにおられる?」

これまでが嘘のように、美声で尋ねる。

世話役の兵士は、

「え、わがきみって言いました……?」

首を傾げて聞き返した途端、突如、外からわっと歓声があがった。

クロムはぎょろりと目を剥き、

「なにがあった、あの騒ぎはなんだ?」

世話役の兵士は扉のほうを振り返り、

「ああ、あれは――」

また、わっと歓声が起こると、

「もしや、我が君が戻られたのでは?!」

クロムは音のしたほうへ顔を向ける。

世話役の兵士は今日の予定を知っていた。支配下に治めた東方の地を目指し、遠征隊を引き連れたターフェスタ大公が、ここムツキに立ち寄ることになっている。

外の歓声から察するに、おそらくその大公が到着したのだろう。

クロムは腕を縛る縄を思いきり引っ張り、

「あれは、我が君なのかと聞いているのだが?!」

ドスの利いた声と、殺意すら感じる眼力で世話役の兵士を睨みつけた。

迫力に気圧されながら、世話役の兵士は、我が君という言葉が誰を指しているのか、と考えを巡らせる。

クロムのターフェスタでの身分は、輝士ではなくともターフェスタ大公の家臣であることは間違いない。そのクロムが言う、我が君という言葉が誰を指すか、当然のように、ターフェスタの国主であるドストフ・ターフェスタの顔が思い浮かぶ。

それゆえに世話役の兵士は、

「ああ……そうですよ……? 今日到着予定で、たぶん――」

クロムは眼光を鋭く光らせ、

「お迎えに向かわねば。我が君よッ、今すぐこのクロムが参ります、お待たせいたしましたァッ!!」

言った直後に、頑丈な縄を強引に引き千切った。

世話役の兵士と下働きの男は、千切られた縄と壊れた寝台の破片を浴びながら、

「ひいッ?!」

「うえッ!?」

驚いて背中から床の上に転げ落ちた。

千切れた縄を引きずったまま、クロムが疾風の如き早さで部屋を出て行く。

残された二人は顔を見合わせ、

「ど、どうします……?」

問われた世話役の兵士は青ざめた顔で、

「きっと熱のせいでおかしくなってるんだ……あんなのを大公の前に出したら……」

二人は同時に頷きあい、慌ててクロムの後を追いかけた。

クロムが颯爽と部屋を飛び出したその瞬間から、しばらく前のこと――

「テイファニー卿、後続が遅れています、また連中が勝手に足を止めたようで」

部下からの報告を受け、エリスは天を仰いで肩を落とした。

「いい加減にして……」

遠征隊は深界を貫く広大な白道を東に向かって進行している。

国軍の輝士と従士は前方を行く大公の隊列につき、後方には物資やその他の役割を担う者たちが編成されているが、そこに置かれている遠征隊の見かけを補うためだけに連れて来られた安物の傭兵たちが厄介だった。

いかにも質の悪い傭兵たちは、各々が好き勝手に行動し、道中に休息のために立ち寄った宿場でも、たびたび問題行動を繰り返している。

深界を歩けばすぐに気を散らし、腹が減ったと足を止め、狂鬼を見たと言っては怯えて逃げようとし、練度の高いターフェスタ軍の兵士たちとは比べるべくもなく、その質は底辺そのものである。

エリスの部下は、

「いっそ、連中をこっちに混ぜてはどうでしょう、監視をしながらのほうが早く動けます」

エリスは苛立たしげに髪に指を通し、

「あの人たちを殿下の側に置いておきたくないの、かといって監視役に割けるほどの人員も足りていない。後続に合わせて行くしかないでしょうね」

「このままじゃ、暗くなる前に向こうに到着するのは難しくなりますね。一泊は覚悟することになりそうです」

エリスは神妙に頷いて、

「太道とはいえ、なにごともなければいいのですが」

前方を行く大公を載せた馬車が、がたりと大きな音をたてて激しく揺れた。

「うおおお――」

馬車が跳ね上がり、音に驚いた馬が前足をあげて悲鳴をあげる。

「殿下ッ」

エリスは慌てて馬を降り、馬車を明けてドストフの無事をたしかめる。

「な、なにがあった――」

ドストフは椅子から転げ落ちながらも、とくに怪我をした様子はみられない。

エリスはほっとしながら、足元に注目する。

ちょうど、馬車が通った道に敷かれた白道に、深いへこみができていた。一帯を見渡すと、前へ行くほどに欠けた地面や変色した箇所が多く見られる。

エリスは一人で前へと歩き出し、地面の前で屈み込んだ。

「……血の痕」

近くはないが、遠くもない。まだ完全に消えきっていない血痕を見つけ、周囲の白道の状況から、ここが戦場の跡地であると気づく。

エリスは馬車へ戻り、

「殿下、ここがおそらくムラクモとの戦いの地であるかと」

聞いたドストフは目を輝かせ、

「ここか……ッ」

馬車を降りた。

一帯を眺めてからドストフは咳払いをして、

「……まずは、天に帰った我が軍の死者たちを鎮魂する。神官たちを呼べ、楽団と芸術家たちもだ」

予定になかった儀式の支度を促すドストフに、エリスは一瞬止めに入ることを考えた。同じ考えを持ったのか、部下が小声で、

「よろしいのですか」

「……どのみち泊まることになるのなら、同じことでしょう。儀式の支度を整えるついでに、停泊の支度も終わらせておきましょう。取り仕切りを始めなさい」

「はッ」

神妙な顔をして膝を折り、祈りを捧げるドストフの顔は、誰がどうみてもゆるみ、その行いほどには厳かな空気を感じない。

帯同する絵描きが、そんなドストフを見て、

「いいですよ、ここは絵になる――」

その一言により、ドストフがなにを目的として足を止めたのかを察し、エリスは誰にも聞こえないよう、小さく溜めた息を白い煙へ変え、吹き抜ける風に流した。

翌日、なにごともなく深界の旅を続け、遠征隊はムツキの門前にまで辿り着く。

先行して到着を知らされていたムツキに詰める兵士たちは、大公の到着と共に勇ましい戦鼓を打ち鳴らして歓迎の空気を演出した。

ズン、ドンと勇壮な音色は大地を震わせ、太鼓の音に色を添えるように、兵士たちが雄叫びを斉唱する。

「ふふ、すごいぞ――」

一心に前を見つめながら、ドストフは無邪気に笑みを零した。

戦いによって制圧した敵国の拠点に、勝利を収めた自国の兵士たちから盛大な歓迎を受ける図、というのは、まるで物語や聖典の中で語られる征服王や歴戦の将軍の見ていた景色をなぞっているような心地になる。

多方の機嫌を伺いながら、他者からの視線に怯え卑屈に視線を落とし、悪口に胃を痛めていた日々は、もはや遠い過去のこと。

多大な危険と引き換えにして戦争を始め、日々失われ続ける莫大な財と引き換えに戦いを継続してきたが、勝てばすべてが報われる。

止めた者、嗤った者、説教をたれた者、彼ら皆にこの光景を見せつけてやりたい。ほくそ笑み、頭の中で口うるさいプラチナの顔を思い浮かべながら、ドストフは胸を張ってムツキの門を潜り抜ける。

万雷の拍手を受けながら、ドストフは拠点の中庭に用意されていた演壇に立ち、笑顔を向けてくるターフェスタの兵士たちに手を振って応えた。

同行する楽団の演奏家たちが忙しなく楽器を準備し、画家が画具の用意を始める。彼らの支度が終わるまでの間、ドストフが手を振り続けているため、拍手は鳴り止むことなく続いていた。

支度が長引き、しだいに拍手をする者たちが疲れた様子で顔を見合わせ始めた。拍手の音がしだいに弱まってきた頃、

「用意が完了いたしました、殿下」

エリスが告げると、ようやくドストフは手を振るのを止め、大きく咳払いをして、身なりを整えた。

拍手が止まり、ドストフは演説を始めようと大きく口を開いた、その時、

「わがきみぃぃぃぃぃぃ――」

静まり返った拠点のどこからともなく、大声が突如響き渡る。

「わぁがぁきぃみぃぃぃ――」

おとぎ話に出てくる人喰いの化物でも叫んでいるかのように、不気味な声が断続的に聞こえてくる。

その異様な声に場の空気はざわつきはじめ、

「――おい、なんだこれ?」

と、訝しげに首を捻る者たちの声が大きくなっていく。

ドストフの側につく精鋭輝士たちが警戒を強める間もなく、ソレは突如として現れた。

雑な造りの茶色い寝間着を着て、ぼさぼさの髪とひげを伸ばした一人の男が、荘厳な空気を纏っていた祝福の会場に突如姿を現したのだ。

その身なりに一瞬首を傾げつつも、ドストフはすぐに、ソレをしまい込んでいた記憶の倉庫から見つけ、忌々しい記憶と共に拾いあげる。

かつて、石名を受けるという成人の儀式を拒んでまで、ドストフ・ターフェスタに忠誠の誓いを拒否した人物。

歴史ある名家に生まれながら、輝士という栄誉ある称号を受けられず、屈辱としかいえないはみ出し者で構成された監察としての身分を受け入れてまで、ドストフを拒絶した一人の男、その名は――

「――クロム・カルセドニー」

ドストフがその名を口ずさむと、その瞬間に気づいた様子でエリスが大きく目を見開いた。

クロムの見開いた目は、猛禽の如く世界を鋭敏に捉えていた。

中庭に集った兵士たち、壇上に立つ上級輝士たち、その中心に佇む見覚えのある平凡な顔。

「どこだ――どこにおられる――我が君はッ」

クロムは酷く焦っていた。体力の消耗から気を失い、数日間に渡って眠っているうちに、仕えるべき主の姿がどこにもいなくなってしまっていたのだ。探そうにも熱に冒された体は言う事を聞かず、ここに留めようとする看病人に拘束までされ、無為に時間を消費した。

主の不興を買い、挽回のためにさらなる努力が必要な局面でありながら、ただ寝て過ごしていたなどというのは、とうてい受け入れられる現状ではない。

「我が君、お戻りであられますかッ、あなたの忠実なる 僕(しもべ) 、クロムはここにおります!」

大勢の視線を浴びながら、クロムは大声で主君の姿を求めた。だがその時、背後から追いついてきた看病人たちが、

「そ、そこにおられるじゃありませんか――」

息を切らせながら、クロムの肩に手を乗せた。

クロムは人相険しく看病人の首を引き寄せ、

「どこだッ、我が君はどこなのだ!」

看病人は震える指先で、

「あ、あそこに……」

壇上で呆然と佇むドストフ・ターフェスタを指さした。

目元に暗い影を落としながら、クロムはじくじくと背後を振り返る。

「あれが、我が君だと……?」

言葉と共に、演壇に立つドストフを強烈に睨みつける。

ドストフはその視線を受け、怯えたように後ずさった。

「く、くるじぃッ――」

抑えきれず、看病人の首を掴む手の力が強くなっていく。

手元で藻掻く看病人を放り投げ、

「ぎゃあッ――」

もう一人の顔面に拳を叩き込んだ。

崩れ落ちる雑兵たちの声を聞きながら、次第に明るさを取り戻していく思考の中に沸き起こる、一つの大きな違和感に、クロムは激しく首を傾げた。

「……おかしいぞ、奴がなぜここにいるのだ」

ドストフと、それにへばりつく家臣たちは、普段は城に張り付き外に出ることなど滅多にない。ここは敵地を目前に控えた辺境の地、そんな場所で、いったいターフェスタ大公がなにをしているのか。

「もしや、我が君の身になにかあったのでは……?」

クロムの頭の中に、突如として一抹の不安がよぎった。

天運に纏ることと、仕えるべき主君に関わる場合において、クロムの思考は酷く短絡的なものへと堕落する。

敬愛する主君の姿が見えず、代わりに、ここにいるはずのない愚劣なターフェスタの国主の姿が在る。この二つの事実と、酷くこじらせた風邪が原因となり、クロムの思考は当然のように一つの推測を導き出した。

「お前なのか――」

おもむろに走り出し、戸惑う兵士たちを弾き飛ばしながら壇上に駆け上がり、輝士たちを蹴り飛ばして、怯えて後ずさるドストフに全身で飛びかかる。

「ひッ、や、やめろッ」

クロムに組み敷かれ、情けない悲鳴をあげてドストフが必死に足をばたつかせた。

クロムはドストフの両手を押さえ付けながら鼻が付くほどの距離まで顔を寄せ、

「我が君になにをした、この 腐朽(ふきゅう) の凡愚めが、なぜここにいる、ここでなにをしていた!」

混乱して暴れるドストフは、

「し、知らん、なにを言っているのだ、なにをするんだきさまッ、私を誰だと――」

必死に首を振りながら理解不能であることを示した。

「その者を捕らえなさい!!」

背後から女の声があがり、直後にクロムは、輝士や兵士たちに全身を掴まれ、無理矢理にドストフから引き剥がされた。そのまま複数人からのし掛かられ地面に押さえ付けられる。

「ぬぐぐ――」

病み上がりの体では指先を動かす程度の抵抗しかできず、クロムは完全に制圧された。

「殿下ッ――」

女がドストフに駆け寄り、

「――ご無事ですか? お許しいただけるのであれば、この者をこの場で処罰いたします」

組み敷かれ横向きに地面しか見えない状況下で、クロムは聞こえてくるやりとりにだけ耳を澄ませる。

「だ、大丈夫だ、たいしたことは、あいたたた……」

「お体を痛めておられます。殿下、この狼藉は大公家への反逆ともいえる大罪、即断で刑を与えたとしても――」

「……ああ、いやいや、腐ってもカルセドニーだ、ネディムはこの度の戦勝に関わる功労者、その身内に手を下したとあっては不吉であろう。いいから牢にでも入れておけ、あとでネディムになんとかさせる」

「……かしこまりました」

女はクロムの前で屈み込み、顔を覗き込みなあら、冷たく軽蔑の眼差しを向けてくる。

女は視線を外し、

「ここに牢はありますか」

そう周囲に問いかけた。

淀んだ冷気と暗い室内。そこはクロムにとってすでに見慣れたかつての敵地の中にある牢部屋のなかである。

五人がかりで押さえ付けられ、左手の彩石に封じの手袋をはめられた状態で、クロムは牢のなかに放り込まれた。

さきほどの女輝士が、

「あなたは……相変わらず、おかしなことばかりして」

クロムは首を傾げ、

「はて、会ったことがあったかな」

女輝士は呆れ顔で肩を落とし、

「エリス・テイファニー、あなたの兄君と同じ、冬華の一人よ。何度顔を合わせたら覚えるの」

クロムはエリスへの興味を一切示すことなく、

「そんなことよりも、我が君をどうした、今すぐに答えろッ」

「いったいなにを言っているの……?」

エリスは訝りながら周囲にいる者たちと視線を交わす。が、誰も反応に困ったように首を横に振るだけだった。

エリスは溜息をつき、

「その命が無事でいられるのは、あなたの兄と、それに殿下のご気分が偶然にも良かっただけであると知りなさい。次に殿下が戻られるまでの間、ここでしっかりと反省しているように――あなたには言うだけ無駄でしょうけどね」

エリスは一方的に言って、背を向けて部屋を後にする。遠ざかっていく声から、今後の予定について話し合ういくつかの言葉をクロムの耳は拾い上げていた。

「――向かう――ユウギリ――到着の前に――ネディム――」

途切れ途切れに聞こえた掛け合いの中に、主君が目標としていた地の名と、兄の名を捉え、クロムは疑念に確信を得る。

「やはり、奴らが我が君の居所を知っている」

ドストフとその一味は、主君の居所になんらかの関わりがあるのは間違いない。

「こんなところにいられるものかッ」

クロムは自由に動かせる右手を使い、牢の格子をぐりぐりとイジりだした。そのうちの一本にぐらつきを感じて力を込めると、がこっと音を立てて、頑丈な鉄の棒がずれ動き、そこに通れる程度の隙間が生じる。

生じた隙間は、主君へと通ずる道の入り口だ。それを見て、クロムは一人、暗い部屋の中でにやりと笑みを浮かべて頷いた。

翌朝。

「昨日到着したばかりだっていうのに、もう出発だなんてな」

遠征隊の編制された一人の輝士がそう零すと、同僚の輝士が大あくびをして伸びをした。

「早く現地に到着したいんですよ。気持ちはわかります、私だってわくわくしていますから、なんといったって、あのムラクモの領地を奪いとったのですからね」

大公を乗せる馬車の近くに配置された二人の輝士は、疲れのとれない体を気にしつつも、たあいない日常会話を交わしていた。

そんな一時に、突如二人の視界の中に、こそこそとうごめく黒い影が入り込む。

「なんだ……?」

一人がそう呟くと、黒い影は巧みに馬や物資の隙間をかいくぐりながら、徐々に大公の乗る馬車へと近づいてくる。

やがて、少しずつその正体が鮮明になり、二人は呆然としてその姿に目線を釘付けにした。

黒い影の正体、クロム・カルセドニーは、黒い外套を二重にして着込み、早朝の薄暗さに紛れながら、隊列の中に入り込む。

偶然にその姿を視界に捉えていた二人は、クロムがまるで煙のようにするりと大公を乗せる馬車の下に潜り込む様を、はっきりと最後まで目で追っていた。

一人が慌てて指を指し、声を上げようとした直後、

「やめろ――」

もう一人が慌てて口を塞いで首を振った。

「でも、あれッ、放っておけるわけが――」

困惑する一人に向け、もう一人は青ざめた顔で、

「しばらく前に、クロム・カルセドニーの行いに公然と抗議の声をあげた輝士がいた。そいつがどうなったか、知らないのか」

「……し、知らないが」

「抗議の声をあげた輝士は異端者として審問にかけられ、リシアへ出頭したままその後は行方不明、その輝士の身内は全員辺境の山小屋に飛ばされた。そこにあるのは誰のものかもわからない古びた墓所だけだ。似たような話は他にも山のようにある……」

声をあげようとしていた輝士はクロムが滑り込んだ馬車を見つめ、

「じゃあ、あれは……?」

「見なかったことに……カルセドニーとは関わるな。俺たちはなにも見ていない、いいな?」

後方の門から大公が現れ、二人は互いに視線を残しつつ、背筋を伸ばして出迎えの姿勢を整える。

まるでなにごともなかったかのように、まもなくして遠征隊はユウギリへ向かう旅路を再開した。