軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

攪乱 4

攪乱 4

「司祭、お怪我を……?!」

ふらつく足取りで教会に戻ったエヴァチを、助祭のハースが驚いた様子で出迎えた。

くたびれた様子で髪を乱したエヴァチの顔面には目立つ打撲痕がある。異常事態を察し、ハースはエヴァチを支えながら、信徒用の長椅子に座らせた。

「戻りが遅いので心配していました、いったいなにがあったのです」

髪を整え、汲んできた水を飲ませる。ハースは甲斐甲斐しくエヴァチの世話を焼きながら、経緯を尋ねた。

エヴァチは水を一気に飲み干し、

「……葬儀はどうなった?」

「それは、無事に終わりました……」

濡らした布を受け取り、エヴァチはおもむろに汗ばんだ顔を拭いた。

「聞いたか……?」

ハースは深刻な顔で頷いて、

「はい……大公が遠征の費用を集めるとか……」

エヴァチは虚ろに虚空を見つめて笑みを浮かべる。

「言った通りになっただろう……早く負けて終わっていればよかったものを……先へ進むほどに、あれが足りぬ、これが足りぬと、その度にものをねだりだすッ」

次第に大きくなっていく声に、ハースが慌てて制止する。

「声が響いていますよ……下手な相手に聞かれでもしたら……」

エヴァチは手にしていた濡れ布を放り投げ、

「なぜだ、城にあれほどの人間がいながら、なぜ誰一人として主の愚行を諫めようとしないッ。あの愚か者が増税をのたまった時、抗議の声をあげた者を城の兵士たちは躊躇うことなく暴行した。外からおかしな傭兵たちを連れ込み、民を痛めつけ、子どもを死なせ、飢えた者たちからさらに物、金を奪おうとする。聖典にも書かれている、羊あっての羊飼い、牛あっての牛飼い、民あっての王だ……なぜそれがわからない……ッ」

激高し、前列の椅子の背を激しく叩きつけるエヴァチに、ハースが慌てて止めに入る。

「司祭、どうか冷静に……あなたが気を惑わせれば信徒たちにも悪影響がでかねません。ただでさえ、みんなぴりぴりとしているときです」

エヴァチはハースの忠告に反応を示すことなく、呆然と前を見つめる。

「以前は違った、ここまで酷くはなかった……このターフェスタにはあの方がいた……銀星石をその身に宿す、信仰と慈悲に厚い、プラチナ様が……」

過去を懐かしむように、エヴァチはその名を口ずさむ。

ハースはエヴァチの隣に座り、震える拳にそっと手をかぶせ、

「この国で、我々にできることなどしれています。いっそ、銀星石様にこの件をご相談されてみるというのは……」

虚ろに泳いでいたエヴァチの視線がハースを捉える。その表情は妙案に気づかされた、というような様子で、一瞬エヴァチは目に光を宿した。しかし、

「……ワーベリアムは大公家に忠誠を誓う。現状を知らせれば、プラチナ様を困らせるだけだ。主君に諫言すればあの方のお立場が危うくなり、両家の関係に傷を生む。銀星石は北部一帯を睨むターフェスタの真の盾だ、それを失うことにでもなれば、この国にまた新たな乱を生む。私のようなものが、軽々しく手を出していい領域ではない」

ハースは暗く顔を落とし、

「いったい、どうすれば……誰に救いを求めればよいのでしょう……」

エヴァチは深刻に表情を曇らせ、

「……近日中に、城に向かう」

ハースは青ざめた顔で、

「いやいやッ、やめてくださいよ、どうか短気を起こすのだけは――」

エヴァチは首を振り、

「勘違いをするな、ジュナ様に目通りを願うのだ……」

「……ジュナ様に?」

「多くは次の徴税に耐えられないだろう。本格的に餓死を迎える家が増えはじめる。その前に、現状をよく調べあげ、必要なものをまとめて、あのお方に手を貸していただけないか、願ってみる。あの慈悲深く、聡明なお方であればきっと……」

必死の形相で縋るように言うエヴァチを、ハースは力なく見つめ、

「ここへ来て間もない異邦のお方に対して、行きすぎた願いではないのでしょうか……?」

追い詰められた様子で、冷静さを欠いている司祭に対し、ハースは気を逆なでしないようやんわりと忠告を挟んだ。しかし、

「どんな手を使われているかはしらないが、城に隠された食料を上手く外へ送ってくださる。誠心誠意現状をお伝えし、助けを求める他にない。あの方が……ジュナ様であれば、きっと……」

祈りのように一人の人物の名を呟くエヴァチの耳に、ハースの心配は一欠片ですらも届いてはいなかった。

外界に音を伝えず、完全に気配を断つことのできるリリカにとって、潜入と諜報はなにより向いた仕事である。

自分、という存在を消し去り、世界を見る行為は、箱の中に開けた小さな穴を覗く行為とよく似ていた。

箱の中では命が蠢き、彼らは己の人生を生きながらも、観客がいることには気づいていないのだ。

リリカは今、箱の中を覗いていた。箱の名は教会、中で人生という名の劇を演じるのは、司祭のエヴァチと彼の助手であるハースという名の男である。

このごろ、主の命令でこの箱の中を覗く機会が増えていた。その任務をこなしていくうち、リリカは箱の中に起こる小さな変化に気づく。

ジュナ・サーペンティア――縁もゆかりもなかったはずのその名が、この箱の中で語られる機会が日増しに増えているのだ。

両者の接点が、エヴァチに目を付けたジュナの意志によるものだと、この箱の中にいる者たちは知る由もなく、今日この日もまた、箱の中から、その名の気配が、にわかに匂いを漂わせ始める。

ドン、と強い音が箱の中に響いた。激高したエヴァチが拳を座席に打ち付けたのだ。

箱の中の演劇は熱を帯び、そこで語られる言葉の一つずつが、強く意味を帯びていく。

「ジュナ様に――」

エヴァチの口から、またその名が呟かれた。

司祭はこの頃、追い詰められた感情の先に、縋るようにその名を口ずさむ。それは、リリカが異国の地であるターフェスタに足を踏み入れて以降、時と場所を選ばずに耳に届く、神への祈りによく似ていた。

――依存。

心の中に、その言葉が降って湧く。

エヴァチはジュナが用意する食料を頼り、その施しに依存しつつある。彼は食料を自らのために使うことなく、教区の貧しく、とくに経済的に追い詰められている家々にこっそりと配給していた。弱者への救済のために権威や金に執着しない司祭にとってそれは、自我の同一性に骨を組む、重要な行いとなっているようだ。

ジュナはエヴァチと会うごとに、提供する食料の量を増やしている。エヴァチが日増しにジュナへの依存心を強めているのは、そのせいもあるのかもしれない。

こうなることが望みだったのだろうか、と、気丈に振る舞っていたエヴァチの変化を目の当たりにしているリリカは、主人の真意を思わずにはいられなかった。

――だめ。

ふと、沸き起こった疑念と好奇心を押し殺す。

影に隠れ暗躍する組織、アデュレリアという大家の意志と加護によって運用される影狼という名の組織に育てられたリリカは、自我が役目を果たすために邪魔であることをよく知っている。

ユギクやレキサが、聞き心地の悪い醜い名を与えられていたように、影の中で生きる者にとって、個人の意志など不要なのである。

現在目の当たりにしているものこそは、命じられていた、エヴァチに起こった変化の兆候である。ただ、与えられた役割を忠実にこなすための仕事人としての勘が、そう告げていた。

悲劇を語る二人の聖職者たちから目を離し、リリカは急ぎ、主の元へと急行した。

街中が暗くなった頃を見計らい、リリカは注意を払って城の中へ侵入する。そのままいつもの経路でジュナの部屋に侵入した。

「しゅぴり――ッ」

一人で着地と同時に決め台詞を吐いた直後、

「わッ!!」

突如、背後から脅かすような一声と共に肩を掴まれた。

リリカはあっさりと振り返り、背後に立っていたユギクをぼうっと眺める。

「ちょっとでも驚かないのかよ……」

心底残念そうにユギクが言った。

度々背後から脅かしている報復か、と当たりを付け、リリカは冷ややかな視線をユギクに送った。

「ずっとここで待っていたのだとしたら……暇人」

ユギクは険しい顔で歯を剥き、

「暇じゃねえよッ、起きた瞬間から寝るまで立ちっぱなしだっての。たまたま通りがかったらお前が降りてきたんだよ」

リリカは淡々と、

「へえ――じゃ」

ジュナの元へ向かうと足を出した直後に、ユギクがリリカの腕を強く掴んだ。

「待て、戻ってくるのが随分早いな、なにかあったんだろ?」

リリカは口元に横線を引き、

「ぬい――リリカは、黙して語らず」

ユギクは眉を顰め、

「ちょっとぐらい、いいだろ」

「ちょっとでもたっぷりでも、だめに決まってるじゃないですか」

ユギクは睨みを効かせつつ、リリカから手を離さない。リリカは空いた手でユギクの腕を掴み返した。

「張り合おうとしたって無駄ですよ、あなたとリリカでは、それぞれ得意とする世界が違うのですから」

ユギクは我慢比べのようにリリカと視線を交え、やがて耐えかねたように視線と拘束を同時に外した。

リリカは掴まれて赤くなった腕をさすり、

「妬いてるんですか? 自分もジュナお嬢様に褒めてもらいたいからと」

ユギクは途端に耳を赤く染め、

「そ、そんなこと思ってないッ、ふざけんなよ――」

リリカに勢いよく飛びかかった。

リリカは軽やかに身を躱し、

「そうですかそうですか――リリカは軽やかに手を振り、嫉妬深いユギクさんに、さようならの挨拶をします、じゃ」

「待て、このやろ! 取り消せッ」

むきになって飛びかかろうとするユギクをいなしつつ、リリカは主の元へと馳せ参じた。

いつもの如く、暖かい微笑を浮かべてリリカを迎えるジュナに向け、

「ご報告があります」

いつもと同じ言葉を切り出した。

日を跨ぎ、急な面会を申し込んできたエヴァチに対して、ジュナはその要請に快く応じた。

表向きはジュナの側からの緊急の呼び出しということにして、司祭から受ける授業の前倒しという体を取りつつ、この日、予定にはなかった面会が果たされる。

エヴァチはジュナの部屋を訪れるなり、

「突然の申し入れを受けていただき、ありがとうございます」

低く頭を下げて辞儀をする。

迎えるジュナは、

「突然のことでしたので少々驚きましたが、司祭さまからの申し入れであれば、いつでも喜んでお迎えいたします」

二人の面会を片隅から俯瞰しつつ、ユギクはジュナの言った、驚いたという言葉に白々しさを感じずにはいられない。

彼女は平然と嘘をつく。

ジュナはエヴァチが訪問を画策していることを知っていた。事前の報告を挙げたリリカから話を聞いたときから、こうなることは当然のように予測済みなのである。

エヴァチが応接用の席に座ると、 衝立(ついたて) で隠された部屋の作業場に立つレキサに向けて、ユギクは首を振って合図を送った。

レキサは慣れた手つきでてきぱきと茶を用意し、運ぶ盆の上に軽食も載せて持ち上げる。

レキサが配膳を終えると、エヴァチはあごを引き、隠すように唾を嚥下する。ユギクはその所作の一つずつを見逃すことなく観察していた。

「どうぞ、お召し上がりください」

いつものように、ジュナが食事を勧めると、

「……ありがとう、ございます」

エヴァチは躊躇いがちに茶をすすり、用意された軽食をかじった。発酵茶葉に、軽食は煮詰めた野菜をチーズと混ぜて固めた北方の伝統的な保存食で、どちらもリリカが調べたエヴァチの好物である。

エヴァチは茶と軽食を喉に流し、温かい湯に浸かったかのように、目元を緩ませる。だが、直後に顔を沈め、苦しそうに口元を歪ませた。

それは、ものを食べ、美味しいと感じることを恥じている様に見える。万民の苦しみを知りながら、自分が心地良くなることを許せないのだろう。

――面倒な奴。

とユギクはエヴァチという人物を端的に評価する。

ジュナは茶をゆっくりと喉に通す。柔和な微笑みと、時に年齢よりも幼く見える純真な気を身に纏いながら、彼女もまたエヴァチという人物が見せる小さな所作の一つずつを、その目に捉えて離さない。

そもそもの両者の関係が、すべてジュナの意図によって紡がれたものであるということを、訪れているエヴァチは知る由もない。

ここは巣穴、猛毒を持ち、手足なく地面を這いずる、蛇の住処だ。

そうとも知らず、エヴァチは縋るような視線をジュナに向け、ここへ来た本題を語り出した。

「立て続きの戦勝に沸き、国の横暴は酷さを増すばかり。いったいどこから呼び寄せたのか、質の悪い傭兵たちが市中に放たれ、市民に暴行を加える者もいます。つい先日、奴らの手により、一人の子どもが命を失いました……」

ジュナは両手を口元に当て、

「そんな……」

驚いた顔をして、目元を潤ませる。

ユギクは表情を変えずにちらとジュナの顔を覗いた。

彼女はすべて知っている、外に張り巡らされた監視役のリリカは、どんな手を使っているのか、たった一人で的確に情報を拾い集め、主の元に届けるのである。

エヴァチは感情を露わに拳を握りしめ、

「そのうえ、大公は戦地に向かう遠征の費用を重税で賄おうというお心なのです。国の取り立ては厳しい、このようなことにだけは一分の隙もなく、徴税官たちは仕事をこなします。パンの欠片で食いつないでいるような家もあるなか、さらに状況が厳しくなれば、各所で行われている配給も、もはや意味を成さなくなるでしょう……もう……限界、なのです」

重く、暗く、エヴァチは民の窮状を訴える。

ジュナはよく通る綺麗な声で、

「聞いているだけでも心が苦しくなる思いです。私のようなものにも出来る事があればよいのですが……」

エヴァチは痩せこけた顔に血走った眼を揺らし、

「……じつは、今日はそのことで、お願いがあってまいりました」

「お願い、ですか?」

ジュナは白々しく聞き返す。

エヴァチは言いにくそうに唇を濡らし、

「提供していただいている食料について、その量と頻度を、上げていただきたいのです……」

もはや、エヴァチはジュナの顔を見ることができていない。低頭し、臣下が王に願うように頭を垂れた姿勢で願いを語る。

静寂が降り、外から聞こえる冬の突風の音だけが、断続的に耳に届く。

燃える暖炉の薪がぱちんと弾けた直後、ジュナは声を低くし、

「できません」

と、酷な言葉を返した。

エヴァチは錆び付いた車輪のように顔を上げ、

「あ……あの……できない、とは……」

一目でわかるほど、激しく動揺を露わにする。

ジュナは心底辛そうに視線を下げ、

「城内の倉庫から食料が抜き取られていることが知られてしまいました。依然として倉庫から食料を取り出す手段は残されていますが、こちらに協力をしていただいていた出入りの業者が疑われた結果、それを使ってまとまった数を外に持ち出すという手段は、もう使えそうにありません」

ジュナはまた、嘘を語る。城の内外を行き来する出入りの業者のほとんどは買収済みだ。加えて、掴んだ秘密によって脅迫という手段で縛り付けてもいる。最悪の場合でも、他者の記憶と心を操作する、レキサの力も行使できる。

食料を隠して外に持ち出す手段などいくらでもある。だが当然、エヴァチにそれがわかるはずがない。

「ああ……そんな……ッ」

エヴァチは大股を広げ、その間に顔を落として、両手で頭をかきむしった。司祭らしからぬ挙動の果てに、惨めで悲しい嗚咽を、人目も 憚(はばか) らずに漏らし始める。

エヴァチがどれほど追い詰められ、縋る思いでジュナに会いにきたのかが、その態度からはっきりと窺えた。

ジュナは日増しにエヴァチに与える食料の量を増やしていった。一番近いところでいえば、数台の馬車を埋めるほどの量となり、それはエヴァチにいたずらに救世の夢を見せるには十分な量だった。

与え、そして、奪う。

小さな子どもが一匹の虫の生殺の運命を握りながら遊びに用いるのと同じように、ジュナはエヴァチという一人の人物の心を、確実に意図してもてあそんでいる。

ジュナは潜むように声を落とし、

「司祭様、どうかお心を安らかに。そう、慰めにもなりはしないでしょうが、司祭様にご覧に入れたいものがあるのです。もしよろしければ――」

まるで今この場でひらめいたかのように、したたかに提案を囁いた。

「このようなところに勝手に入ったことが知られれば、あなた方の身が危うくなるのではありませんか……」

城の関係者しか入れない深部に足を踏み入れ、エヴァチは周囲を気にした様子で視線を回す。

そこは城内の敷地に佇む食料倉庫の一つだった。

ジュナは車椅子に乗りながら、倉庫の入り口の前で止まり、

「ご心配なく。このような身ですから、城の敷地の外にでも出ない限り、私の行動はほとんど気にもされていません。それにこの倉庫は、もうすでに掌握済みですから」

「……掌握?」

通常、近寄ることすら危うい場所でありながら、レキサの力で警備兵を支配下に置き、出入りは自由自在であり、使いもしない食料を貯め込んでいるだけの場所で、倉庫の中を気にかける管理者は誰もいない。

「いい?」

ジュナに言われ、ユギクとレキサは同時に頷き、重たい扉を開けた。

扉の奥から薄暗い倉庫の中一面に敷き詰められた食料の山が現れる。ユギクにとっては見慣れたそれも、初めて見るエヴァチにとっては、あまりに刺激が強すぎたようだった。

「ああ……これは……」

山のような食料を前にして、エヴァチはうめき声を漏らしながらその場に膝を落とす。

「ここにあるものでも一部です。これまで、司祭様に提供してきたものは、ここから取り出したものをご用意させていただいていました」

エヴァチは見開いた眼で目の前の光景に釘付けになりながら、

「これで……一部……?」

ジュナは車椅子を倉庫の中に進め、

「城内にいる限られた少数の人たちのお腹を満たすものは十分に足りているのでしょう。ここや他の場所に保管された食料はただ寝かされているだけなのです」

エヴァチは目の下に暗い影を落とし、

「これだけのものがあれば……どれだけの民が冬を越せるか……」

ジュナは深刻な顔で頷いて、

「ここにあるものすべてを今すぐ人々に開放するべきだと思います。ですが……」

エヴァチは、悲観と納得を合わせて頷き、

「無理、なのですね……」

「隠して持ち出すには方法に限りがあり、使える少ない手段も潰えました。あとはもう、無理矢理にでも運びだす以外に方法はないのでしょうが。大公は近々、遠征で戦地に向かわれます、付き添いに人手がとられ城内の警備も手薄にはなるので、不可能ではないのかも……」

ユギクは思わず、口にたまったものを喉に流した。

親身な態度をみせつつも、ジュナの語る言葉は猛毒だ。 胡乱(うろん) に満ちた可能性を聞かせ、短絡的な道へと誘う魔性の声――

「……ふははッ」

突如、笑声を漏らしたエヴァチの声にユギクは身を固く緊張させた。知的で穏やかだった声音は消失し、一段低くなったその声が、広い倉庫内を空虚に埋め尽くす。

ゆっくりと立ち上がり、ゆらりと体をふらつかせながら、倉庫の奥へと進んでいく。その先にいるジュナを案じて、ユギクはさっと車椅子を後退させた。

警戒するユギクの視線を受けつつ、まるで他者の存在を忘れてしまったかのように、エヴァチはのそのそと倉庫の奥へと足を向けた。

エヴァチは大きな瓶詰めのジャムを手に取り、

「子どもたちが骨を浮かせてその日の食べ物を探し歩いているというのに……使いもしないものを……よくもこれだけ……ッ」

エヴァチは手にしたジャム瓶からぱっと手を離した。大音を立てて、ジャム瓶が石床に落ち、中身を零しながら飛散する。

「なにを――」

止めようとしたユギクを、

「待って」

ジュナが止めた。

エヴァチは狂ったように保管されていた食料を地面に叩きつけていく。白い小麦粉が飛び散り、砂糖漬けの果物が転がり、干し肉が地面に落ち、埃をつける。

息を荒げて肩を揺らすエヴァチは、破壊を繰り返した末に、跪いて散らばった食料を 貪(むさぼ) りだした。

理性的だった聖職者の成れの果てのような姿を前に、ユギクは血の気が引くような思いで、その光景を呆然と見つめる。

肉を噛みちぎり、地面に落ちたジャムをすする司祭を見ながら、ジュナは一切の動揺を見せず、その姿を凝視している。

「お一人にしてさしあげましょう。きっと、我慢の日々で、飢えておられたのでしょうから」

エヴァチを残し、三人が揃って倉庫の外へ出た。

ジュナは外の空気を胸いっぱいに吸い込み、両手を空に向けて伸びをした。

ユギクは振り返り、

「どうするんです、あれ――」

背後にある倉庫の中からは、獣のような鼻息で食料を貪るエヴァチの息づかいが聞こえてくる。

「満足いただけるまでそのままに、終わったら司祭様を無事に外までお送りして」

ジュナはレキサを見て指示を伝えた。

ジュナはユギクへ視線を移し、

「私たちはお先に失礼しましょうか」

エヴァチを置いて、ユギクはジュナを乗せた車椅子を押し、部屋へと戻る道を辿る。

道すがら、

「……あの司祭、変なことを考えてるんじゃ」

ジュナは微笑を浮かべつつ振り返り、

「変なことって?」

ユギクは小さく、

「わかってるくせに」

ジュナは前に向き直り、

「私はただ、司祭様とお話をして見せただけ。でもそれも、今日でおしまいになるかも」

相手は政に不満を持ち、市井の民に強い影響力を持つ教会の司祭。不安を糧に不満を育て、救世の希望は、個人の欲へと墜ちていく。

「……司祭はどうなるんですか」

進みながら聞いた一言に、ジュナは躊躇いなく口を開き、

「どうなるのかではなく、どうされるのか、大事なのはそこ。これから忙しくなる司祭様のためにも、たっぷりと食べて、体力を戻してくだされば、それでいい」

ユギクは声を低く落とし、

「あの善良な司祭さまが、ひどい目に遭うかもしれません、それをお望みなのですか」

ジュナは声も顔も、常からなにも変えることなく、

「この小さな身で投じることができるのは、手に持てるだけの小さな石。けれど、どれほど小さくても、石を投げ入れれば 水面(みなも) に波紋は広がる。私はね、ターフェスタという名の秩序を 攪乱(かくらん) したいだけなの。水は濁っているほうが泳ぎやすい、濁りを生むために投げ込む石がどうなるかは、私には関係のないことだから――」

ジュナは語った後、

「――軽蔑する?」

ユギクに問うた。

蛇の道を知るユギクにとって、それは愚問に等しかった。

ユギクは一瞬だけ視線を上げ、

「いいえ――まったく」

頬を微かに緩ませる。

自身が、無責任に投じられる石にされたことも知らぬまま、平常心をかき乱した司祭を置き去りにして、ユギクは現在の主人が座す車輪をつけた小さな玉座を、全身の力を込めて押し進めた。