軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

潜入 2

潜入 2

山を間近に控える深界は凪のように穏やかだった。

見知った植物を採集しながら、シュオウは歩き方を熟知している深界を庭のような感覚でスイスイと歩いて行く。

木々を潜り抜け、毒気を帯びた茂みを避け、小型の肉食獣の痕跡に注意しながら歩を進める。

歩きながら、シュオウはこれからの段取りを考えていた。

――森を抜けて山に入る。

深界から上層界へと入る。深界を抜けて道のない山中を警戒している者好きなどそうはいない。知られることなくユウギリへと潜入できる自信があった。

――そのあとは。

思考中、シュオウは足を止めていた。

いまや大軍を率いる身になっているせいで、とりとめもなく様々な事が頭の中に浮かぶ。だがそのなによりも、サーサリアが不安げに見つめてくる顔が、脳裏に浮かんで消えなかった。

捕虜から聞いた王女失踪という話が、心の中に染みのようにこびりつく。

――とにかく、ユウギリに。

雑多な思考に区切りを付け、歩みを再開しかけたとき、シュオウは自分の着込む服を見て首を振った。

「これはだめだろ」

服をつまみながら独り言を呟く。

カルセドニー兄弟から贈られた豪華な外套の下に着ている衣服も、司令官という立場への箔付けのために高価なものを纏っている。

潜入という手段に、目立つ格好は相応しくない。

シュオウは鼻を鳴らし、空気の湿り気を追った。

森の地形は一定ではない。崖や川など様々な地形が存在するが、シュオウはこの時、水気が淀む湿地のような場所を探していた。

降った雨や湿度が淀む場所は珍しくない。雑草や苔の量を計りながら目的の場所を探すと、間もなく地面のぬかるんだ小さな沼地に辿り着いた。

上層界には生息していない羽根虫やトカゲなどの姿を見つけつつ、シュオウは泥をすくって自身の服に塗りつけていく。

上質な衣類の質感は、瞬く間に泥にまみれて粗末な風貌へと変化した。

――これでいい。

心地良いとはいえない匂いに包まれながら、再び山を目指して森を歩く。

地面が徐々に隆起していく上下の境までくると、途端に灰色の木々が力を失ったかのように、生育がまばらになっていく。

シュオウは目の前にそびえる崖地を見上げ、

「ここだな」

所々に手をかけられそうな出っ張りを見つけて注視した。

危険な崖昇りも、シュオウの眼は役に立つ。握力を継続できる短時間の間に、どこに手をかけるのが最善か、視ることに集中し、僅かな変化も見逃さずに最善の選択をすることができる。

たいして時間もかからず崖を登り切ると、空気が一層冷たさを増した。

多少荒くなった息を整えながら周囲の様子を観察する。

――ここは。

ユウギリの関所があった地点から西側に位置する山中のはず。東側に沿って歩けば、ユウギリの街並みか街道を見つけることができるだろう。

獣道すらない山の中を歩く。

冬の山中に、生息する動植物の息吹はほとんど感じられない。

だが突如、不気味なほど静かな空気を、突如破る異質な音が聞こえてきた。

「うああああ!」

人の叫び声だ。声は高く、女か小さい子どものように聞こえる。

「うあああああッ!!」

また同じ叫び声が聞こえてくる。

声には怯えの気配が混じりながらも、弱々しい悲鳴とは違い、猛々しさも含んでいた。

その声から、

――威嚇だ。

シュオウはそう感じる。

山中に断続的に響く叫び声の出所を探る。

でこぼことした傾斜を昇り、小高い場所から周囲を見渡すと、大柄な黒い塊の前に立ち尽くす、幼い少女の姿を発見した。

――熊。

黒い塊の正体は巨体の熊だった。

大柄だが、所々骨が浮いて見え、口から白い泡を吹きながら血走った目で少女を凝視している。おそらく、冬眠に失敗したのだろう。

「うあああああ! くるなあああッ!」

少女は青ざめた顔をしながらも、勇敢に熊を威嚇しつつ叫び続けていた。

周囲には岩肌も見える険しい傾斜が広がっている。逃げ隠れできそうな場所もない。

熊は醜い声を発しながら後ろ足だけで直立した。太い前足を空に掲げ、一層大きく吠えちらす。

シュオウは反射的に走り出していた。泣き出しそうな顔で震える少女に向かって一直線に駆け寄る。

熊が振りかぶった前足を少女に振り下ろす一瞬の間に、守るように少女の体を抱きかかえた。直後に鋭い爪がシュオウの背中を浅くかすめる。

痛みに顔を歪めつつ、シュオウは飛び込んだ勢いのまま、少女を抱えて岩陰の奥に転がり込んだ。だが、

「――ッ?!」

死角になっていた岩陰の奥に、地面はない。

ゆっくりと眼に映る情景は、広大な鈍色の空だけだった。

腕の中で抱えた少女をしっかりと抱きしめながら、ただ落ちていくだけの時間に身を任せる。

その直後、シュオウの身体は激しく地面に打ち付けられた。

上から物欲しげな顔で見下ろす飢えた熊の顔を見ながら、シュオウの視界は徐々に暗闇に閉ざされていく。

遠ざかる意識のなかで、少女が必死になにかを叫びながら身体を揺する感覚が伝わってきた。

痛みと寒さを感じながら、シュオウの意識は深い霧の中に飲まれていった。

強い香草の匂いが鼻をつく。

シュオウは 微睡(まどろみ) のなかで誘われるように鼻を鳴らした。

干した根、樹脂、花、それに温泉のような匂いがする。

――薬?

複雑に入り交じった匂いの正体をぼんやりと想像すると、ふつふつと湯を沸かす音が耳の奥をかすめた。

「う……」

胸と背中に締め付けられるような痛みが走る。

目を開けると、そこは柔らかな寝台の上だった。

足元にある火鉢の上に、水を溜めた鍋が置かれている。白い湯気に満たされた室内には、各所に草や干物が吊されていた。

怪我の治療に用いる道具、それに薬の調合に使う鉢と棒が置かれているところをみるに、ここは診療所のような場所だろうと推測する。

――そうだ。

目の奥に焼き付いた熊の顔相が突如記憶から蘇った。

覚えている最後の出来事を思い出し、急ぎ自分の身体を確認する。

上半身には丁寧に包帯が巻かれ、その奥からすっと鼻が通るような香りが漂ってきた。

全体の状況から、手厚く看護をされていたことを知り、シュオウは僅かに緊張を緩めた。

「起きられましたか」

部屋の隅から長い白髭をたくわえた老人が姿を現した。

老人は濡れた手を白い作業着で拭きながら、シュオウの額に手を伸ばす。

シュオウは反射的に身体を仰け反らせ、鋭く老人を睨めつけた。

老人は柔く笑みを浮かべ、

「熱を測ろうかと……あなたが眠っておられるあいだ熱病の入りを感じたので、勝手ながら薬湯を飲んでいただきました。よろしければ、効果の具合を確かめたいのですが」

穏やかな態度と視線に、シュオウは少しの間を置いて老人に身を委ねる。

老人はシュオウの額に手を当て、

「……ふむ、いい具合に熱が引いてる。これならもう心配はいらないでしょう、丈夫なお体をお持ちのようだ」

シュオウは周囲を見回し、

「ここは……?」

老医師は仕事道具を片付けつつ、

「ここはユウギリ、下層の貧民街にほど近い診療所のなかです。私はここの主で医師をしております、ミヤシロと申します」

シュオウはミヤシロを見つめ、

「医師……」

ミヤシロは鷹揚に頷き、

「じつは、あなたにお会いするのはこれが初めてではありません――」

言って、ゆっくりとその場にひざまずき、シュオウの前で平伏した。

シュオウは思わず腰を浮かせ、

「なにを……?」

ミヤシロは深々と頭を垂れたまま、

「サーサリア様の要請により、意識を失っておられたあなた様の治療にあたりました。このような粗末な場所に身を置いたことを、どうかお許しください」

シュオウは話を聞き、サーサリアの招きでユウギリを訪れていた際に、体調を崩した時のことを思い出す。

老医師のミヤシロが、まるで王侯を相手にしたような態度をとっている理由にも思い至り、シュオウは寝台から降りて、平伏するミヤシロの肩に手を当てた。

「ムラクモ王家と俺は関係ない、そんな態度をとられる理由はなにもないんだ」

ゆっくりと膝をたてるミヤシロを手伝い、腕を支えて立ち上がらせる。

ミヤシロはシュオウを見つめながら目元を細め、

「関係がない、とは、あの時のサーサリア様のご様子を間近に見た者としては、信じられるものではありませんが。あなたを見つめるあのお方のお顔は、愛深き相手に向けられる眼差しそのものでありました。あなたは、このムラクモを統べる未来の王の寵愛を受けるお方であられ、伏礼を受けるに値する高貴なご身分にあられる」

シュオウは大きく首を振りながら寝台の上に腰を落ち着け、

「サーサリアとはただの知り合いだ、特別な相手じゃ――」

ミヤシロは愉快そうに笑い、

「ムラクモ王家の姫、サーサリア様を呼び捨てにできるお方は、おそらく天に召された先代の天青石様やご両親様くらいのもの。あなたの態度からは、やはり特別なお相手であられると思わされます」

含みのある言い方に、どこか春を思わせる気配が混じっている。

「違うんだ――」

誤解を解こうとシュオウが口を尖らせたとき、ミヤシロはしわがれた手の平を突き出した。

「あなたもまた誤解されておられます。私が頭を下げたのは、あなたがサーサリア様の思い人であるからというだけが理由ではありません。どうぞこちらへ――――」

ミヤシロはすたすたと部屋の奥へと歩き出した。

シュオウは上半身の痛みを感じつつ、床に足を付けてミヤシロの後に続く。

案内されたのは、明かりが灯された倉庫のような作りになっている広々とした部屋である。

ミヤシロは壁一面にかけられた暗幕を手に取り、それを大きく横にずらした。

「これは……」

壁一面を埋め尽くす薬品らしき物品の数々に圧倒される。

色とりどりの瓶に入った液体や、詰め込まれた丸薬。香草の束に、細かな字が書かれた札を貼り付けた高そうな木箱がずらりと並んでいる。

ミヤシロは薬棚の前に立ってにたりと笑みを浮かべ、

「あなたを診た後、王家付きの医官様方からたっぷりとこれらの品をいただきました」

シュオウは思わず首を傾げ、

「医官たちから?」

「高名な医官様方はあなたの体調が快復しないことをサーサリア様から酷く咎められている様子だった。私はあなたを診た際、医官様方の診断にけちをつけることなく役割を果たした。他人に恥をかかせなければ、褒美を得られることもある……もっとも、私が診断後にサーサリア様の前で医官様がたの仕事を褒めそやしたからこそ、かもしれませんが」

シュオウは自分の知らないところで起こっていた出来事の結果に思いを馳せ、

「……俺が役にたったのなら、よかった」

後ろ頭をかきながら言った。

ミヤシロはしたたかに頷き、

「ここにあるのは生涯を三度繰り返したとしても得られぬであろう高価な品々ばかりです。上手く売れば、金のない者たちに治療や薬を施してやれる。これもすべて、あなたのおかげです」

再び平伏しようとしたミヤシロの腕をとって止め、

「それよりも、教えてもらいたいことが――」

聞きかけたところで、腹の奥からぐうっと鈍い音を奏でた。

ミヤシロは朗らかに笑って、

「向こうに鶏肉を煮込んだ粥を用意してあります、話は食べながらにでもいたしましょう」

調理場に向かって歩き出した。

調理場の隙間から外の様子が窺える。そこから見るかぎり、いまはもう夜を迎える頃のようだった。

促されるまま食卓についたシュオウは、

「ここへ運ばれてからどれくらいたったのか知りたい」

もし何日も経っていたら、という不安が頭をよぎる。

「ご安心を。セナが騒ぎながらあなたのことを知らせにきたのは今日の昼前のこと。若い衆に手伝わせてあなたをここに運び込み、手当をしてからまだ日を跨いではおりません」

シュオウは安堵しつつ、

「セナっていうのは」

「あなたが助けた娘の名です。孤児ですが、この診療所に出入りしている者で、遠からず私の弟子のような者です」

シュオウは熊に向かって必死に叫んでいた少女の姿を頭に浮かべ、話の経緯からその無事を知り安堵する。

「よかった……」

ミヤシロは湯気の立つ粥を手に、

「そのことについても、重ねて感謝を――」

粥を入れた器を掲げるようにしてシュオウに辞儀をした。

「ありがとう――」

シュオウは礼を言って粥を受け取り、熱々の粥を飲むように腹に流し込む。

ミヤシロが呆然とその様子を見つめ、

「沸き立つほどに温めたばかりですが……火傷をされてはおりませんか?」

シュオウは口を閉ざして咀嚼しながら首を横に振ってみせた。

ミヤシロは不思議そうに鍋の中の粥に触れ、その熱さをたしかめた後、不思議そうな顔で粥に触れた手に冷たい息を吹きかける。

「美味かった……」

シュオウは鶏肉入りの粥をさっと食い上げ、ほかほかの息を吐き出す。

ミヤシロはシュオウが空にした器に手を当て、

「ううむ…… 面妖(めんよう) な……」

唸りながら首を傾げた。

「聞きたい事が色々とある。その前に――」

シュオウは姿勢を正してミヤシロに視線を向け、

「――今の俺は、ムラクモと戦争をしているターフェスタの軍人だ。ターフェスタ軍は国境の拠点ムツキを制圧して、今はこのユウギリの目前に陣を敷いている」

ミヤシロは驚いた顔で、

「……それもまた、面妖なことですな。外がそのようなことになっていたとは」

「なにも聞いてないのか?」

「はい、ユウギリはここのところの短い間にすっかり様相を変えてしまいました」

「そのことについて詳しく聞きたい。ただ、俺の立場はこの街の人間にとっては――」

ミヤシロは視線を下げて、

「ムラクモの王女様に介抱されていたお方が、今や敵国の軍人とは、数奇な運命を歩んでいらっしゃるようだ……あなたはユウギリで暮らす私から見れば、まさに侵略者ということになる、とそうおっしゃりたいのでしょうな」

シュオウはゆっくりと頷き、

「これだけの手厚い看護も、食事も、俺にはそれを受け取る資格がない。それを承知のうえで、俺の質問に答えてもらえるなら、感謝する」

「……なるほど、重々理解いたしました。本来ならば、早くここから出て行けと怒鳴るのが適切なのかもしれませんが、何分この身はすでに老骨です。私ひとりが抗ったところで目の前にある嵐を止めることなどできはしない。医師として二度、あなたを診ることになったのもなにかの縁かと……なんなりとお聞き下さい、私の知る事であればすべてお伝えいたします」

覚悟を持って了承を告げたミヤシロに、シュオウはじっくりと頷き、

「ユウギリにあった変化というのを詳しく聞かせてほしい」

ミヤシロは沸かした湯を湯飲みに注ぎながら、

「少し前のことですが、頻繁に街中で見かけていた王家付きの輝士様方の姿が突然見えなくなりました。その後間もなく、どこかから馬車や使用人を引き連れた貴族の集団と共に輝士や兵士がこの街に入られた。老若男女が入り交じり、どこか着の身着のままという雰囲気で、なにごとかと噂にもなりましたが、その貴族様方の姿もある時からぱったりと見えなくなってしまい。その後、街の下層を取り仕切るやくざ者たちが大手を振って街を仕切りだした。それと同時期です、南の出身者らしき者達が突然街中をうろつきはじめました。先にお話したやくざ者たちと共に我が物顔で街を仕切っている、おそらく雇われの用心棒のような者たちなのではないかと皆は話しておりますが」

親衛隊の消失、その後に現れた貴族家の人々、南方人の傭兵。各個の話がシュオウの頭に刻み込まれていく。

シュオウは言葉を慎重に選び、

「……俺がここを出る前、サーサリアはまだこのユウギリにいたはずだった。その後どうなったかは?」

ミヤシロは首を振り、

「残念ながら、王女殿下は雲上の遙か彼方の存在です、このような下流の診療所になど、その動向が伝わるはずもありません。ただ……」

シュオウは身を乗り出し、

「ただ?」

「ユウギリに異変が起こる少し前、街中のあちらこちらに親衛隊の輝士様方が立っておられたことがありました。物々しい様子で、隣の地区に移動するだけでもあれこれと止められるので、住民らは文句を言っておりましたが」

「……そうか」

シュオウが深く考え込んでいると、

「……もしや、サーサリア様の身になにかあったのでは」

ミヤシロが不安げに声を揺らす。

シュオウは渋い顔で、

「わからない……それも知りたくてここに来た」

「そういう、ことでしたか……見たところお体の傷は深くはありませんが、今日のところはゆっくりとここでお休みください」

シュオウは脇腹を押さえながら立ち上がり、

「いや、もう十分だ」

「今すぐに行かれるおつもりですか」

「すぐに戻ると仲間に約束した、あまり時間をかけられない。戦いになる前に、ユウギリの内情をできる限り把握しておきたいんだ、そうしなければ――」

戦いに巻き込まれるであろう多くの者たちの事を思い、シュオウは喉の奥を詰まらせる。

「――俺には知っておく義務がある」

命を賭ける兵士たち、故郷を侵略される街の人々、それに安否が気がかりなサーサリアを思い、吐き出す言葉に力がこもる。

ミヤシロはごろっと喉を唸らせ、

「わかりました。少しお待ちくだださい――」

言って部屋の奥へ消え、そこから戻った時、ミヤシロの手には一着の粗末な衣服が折り重なって置かれていた。

「ここで看取った者の残した遺品です、このような物しかありませんが、もしよろしければ着ていかれませ。その患者服では目立ちますし、あなたがお召しになられていた服は泥に塗れて酷く汚れておりましたので」

シュオウはミヤシロから服を受け取り、

「ありがとう、借りていく――」

上半身の痛みに顔を歪めながら着替えを終えた。

「ユウギリは元々、色事に酒、闇市が横行しているような無法な街です、無頼の輩が多く、先に言った謎の南方人たちもうろついている。重々お気をつけくださいますよう。ですが、あなたが欲しておられるような情報を知るのも、おそらくそうした類の者たちでしょうが」

「やくざ者、か」

ミヤシロは頷き、宮中作法のように整った辞儀をする。

「叶うのであれば、この街の者たちに、僅かにでも慈悲をおかけくださいますよう……」

「…………」

シュオウは返事を出来ず、黙したまま診療所の出口に体を向けた。その時、

「ああああッ!」

水桶を抱えて立っていた黒髪の少女が、シュオウを見つめて大きく破顔した。

シュオウは少女の顔を見て、

「あ……」

自らが助けた相手であると気づいた。

「よかったぁ、起きたんだ! 揺すっても叩いても目を開けないからよっぽど酷いんじゃないかって思ってたんだ。どこか痛いとこない? あ、お腹減ってない? 美味しい井戸水をわざわざ遠くから汲んできたんだ、体にいい薬湯茶でも入れてあげようか?」

少女はよく通る瑞々しい声で絶え間なくまくし立てる。

シュオウは圧倒されつつ、ミヤシロを見やり、

「この子が――」

ミヤシロは頷き、

「セナと申します。申し訳ありません、体力が有り余っているようで」

シュオウはセナに向けて微かに微笑み、

「無事でよかった」

セナは微かに顔を上気させ、

「へへ、あの時、もう死んだって思ったけどね。占いで今日は特別な日になるって出てたから、その時はまさか自分の死期を見ちゃったのかってたけど、そうじゃなかったみたい。そうだ、あなたのことも占ってあげるよ、ミヤシロのじいちゃんに教わって勉強したんだ、〈レキ経〉っていうんだけどさ、ねえほら、見てやるからこっちおいでよ」

早口で言って、セナはシュオウの腕に絡みつくように体を寄せた。

ミヤシロが慌ててセナを睨み、

「セナ、やめなさい、そのお方はな――」

シュオウはミヤシロを見つめ、その先を制するように微かに首を振って見せる。

ミヤシロは素早く察し、直後に重く沈黙した。

セナはシュオウとミヤシロの顔を交互に見つめ、立ち尽くす。

シュオウは腕にからみつくセナをはずし、

「ありがとう、もう行きます」

短くミヤシロに感謝を伝えた。

「あ、ちょっと――」

引き留めようとするセナの手をするりと潜り抜け、シュオウは診療所の外に向けて歩き出した。

がたついた扉を開けて外に出ると、一面の星屑が瞬きを繰り返す夜空が広がっていた。

「あー、さらっと行っちゃうんだ、まだお礼も言えてないのに」

シュオウの引き留めに失敗したセナは不満げに診療所の入り口を睨みつける。

その時、

「ああ、しまった……」

ミヤシロが声をあげる。

「どうしたの?」

「あの方に渡しそびれたものがあってな」

セナはミヤシロが手にしていた物を覗き込み、

「帽子?」

ミヤシロが持っていたのは耳まで覆うような冬用の帽子である。

セナはにんまりと微笑みを浮かべ、

「届けてくるよ!」

ミヤシロの手から帽子を器用に取り上げた。

ミヤシロは取り返そうと手を泳がせ、

「いや、それは――」

「大丈夫ッ、ちょっと渡して、ちょっと話してくるだけだから」

言った直後には、すでにセナの姿は消えていた。

ミヤシロは深く溜息を吐き、

「ご迷惑をおかけしなければいいが……」

一人、外に向け深々と頭を下げた。

診療所を出たシュオウは、脇道の先から漏れてくる明かりと喧騒に注意を向ける。

――なにからやる。

ユウギリの現状を探りに来た、とはいえ、その目的はあまりにも漠然としすぎている。

知りたかったことのなかでも、具体的な目的があるのは一つ。

――サーサリア。

その足跡を辿れば、ユウギリについても見えてくることがあるはず。

シュオウは頷き、

「まずは親衛隊だ」

小声で独り言を呟いた。

王女の動向を庶民が把握しているとは考えにくい。それなら、ぞろぞろと王女について回っていた、目立つ親衛隊の動向を探るのが手っ取り早い。

賑わいの気配を辿って脇道に入る。建物の隙間から覗き込むと、そこは飲み屋が多く建ち並ぶ、賑やかで人通りの多い賑やかな大通りだった。

酒に酔った柄の悪い男たちが行き交う通りをじっくりと観察する。

――話を聞くか。

酒を煽りながら道ばたにたむろしている若い男たちに狙いを付けて一歩を踏み出したとき、

「やめといたほうがいいよ」

後ろから声をかけられ、シュオウはその場に踏みとどまった。

振り返って声の主を見たシュオウは、

「セナ」

見知ったばかりの少女の名を呟いた。

セナは目を輝かせ、

「名前を覚えてくれたんだ、いい名前だろ、自分でつけたんだ」

破顔しながら駆け寄ろうとするセナに、シュオウは手を突き出して制止した。

「これから少し手荒なことをするかもしれない、来ないほうがいい」

止められたセナはむすっとした表情でシュオウを見つめ、

「する、じゃなくて、されるの間違いじゃないの? あいつら巨利の館の下っ端たち、寝ぼけた熊よりよっぽど質が悪いんだ。連中に目を付けられて、酷い殺され方をした人たちを大勢知ってる……本当に酷いんだよ……」

話ながら、セナの顔色が悪くなっていく。

シュオウはセナの視線を受け止めつつ頷き、

「わかった、気をつける」

セナは焦りながら詰め寄り、シュオウの服の裾を強く掴んだ。

「って、言いながらまた行こうとしてるッ。あいつらにいったいなんの用があるっていうの?」

「少し聞きたい事がある」

セナは恐る恐る、

「……どんなこと?」

シュオウは視線を空に向け、

「……人捜し、だな」

「ならもっとまともな奴のとこに連れてってやるよッ、あいつらはほんとにやばいんだって、手が早いだけじゃなくて頭も悪い、金と女と酒って言葉以外なにも通じないんだから――」

シュオウはセナの拘束をするりとはずし、

「急いでるんだ。もう戻れ、絶対についてくるな――」

道の先に飛び出した。

「あ、ちょっと待ってってッ」

呼び止めるセナの声は、夜の街の喧騒に一瞬に飲まれて聞こえなくなった。

柄の悪い男たちの一人が、向かって来るシュオウに気づいて、

「あ? なんだよお前」

鋭い睨みを効かせて立ち上がると、その他の者たちも殺気だった目を向ける。

シュオウは男たちの目の前で足を止め、

「聞きたいことがある」

男たちは顔を見合わせ、げらげらと大声で笑い出した。

男の一人が片刃の剣を抜き、

「聞きたいことってそりゃ、自分がどうやって死ぬかってことだろッ」

シュオウを目がけて振りかぶった。

急所を狙った一撃ではない、刃が落ちる先にあるのは肩口だ。

それは相手を即死に至らしめる行動ではなく、痛めつけることを目当てにした手法だった。

話しかけた直後にこれでは、セナの言っていた通り、彼らの日頃の行いが透けて見える。

シュオウは立ち尽くしたまま、武器を振り下ろす男の手元を凝視した。まともな訓練も受けていない素人の動きから、ゆるくだらしない握りに目を付ける。

次の瞬間、血走った目で笑いながら腕を振り下ろした男の手に、剣はなかった。

振り下ろしたはずの剣がなく、 空手(くうしゅ) の拳が、むなしく空気をからぶる。

「…………あ、あれ?」

男が消えた武器を探してきょろきょろと足元を見回した。

「ここにあるぞ」

言ったシュオウが振り上げた拳に、男が持っていた剣が握られていた。

男が反応する前にシュオウは強く剣を振り下ろす。男が狙っていたのと同じ肩口を狙って叩き降ろすと、

「ひぎぃぃッ――」

男は肩を押さえながら無様な悲鳴を上げて尻餅をついた。

地面をのたうち回る男に、他の男たちが駆け寄るが、

「お、おい……血がでてねえぞ」

男たちに一斉に睨まれながら、シュオウは剣の刃がない部分を見せつける。

肩を打たれた男は歯を剥き出して、

「楽には死なせねえからなあ!」

唾を飛ばしながら喚き散らした。

男たちが身構えた直後、シュオウは先手を取って相手に仕掛けた。

剣の背で一人目の顔面を強打する。

「ぶがッ――」

その体が倒れるより早く、その奥にいた二人目の手首を掴んで引き寄せ、地面に倒して枝のように腕をへし折る。

「ぎゃああ――」

その隣に座っていた三人目は、懐から隠し持った武器を取り出す寸前だった。まるで体勢を整えていない姿勢のまま、大きく見開かれた目を狙い、汚れた靴の裏で思いきり頭を蹴り飛ばした。

「ぶぎゃ――」

それぞれが別々の方法で叩きのめされた三人は、各々に個性的な悲鳴をあげながら地面に倒れ込む。

シュオウは未だ手をつけていない残りの男たちを鋭く睨み、視界に捉えた。

戦いを挑もうという直前の姿勢のまま、男たちは身動きをとれずに固まっている。それぞれの視線は、一瞬にして打ちのめされた仲間の苦しむ姿に釘付けにされていた。

小者とはいえ、荒事に関わる者であれば相手との力量差には敏感なものだ。一瞬で三人を叩きのめしたシュオウを前に、残された者たちの表情からは、すっかり敵意が失せていた。

「チッチッ――」

無傷の男の一人が、なにかの合図を送るように規則的に舌を鳴らすと、その他の者たちが一斉に四方に向かって散り散りに逃げ出していく。

シュオウは置き去りにされた三人の前で屈み込み、

「話せるか?」

三人の顔を覗き込みながら問うた。

最初に顔面を強打した男は顔から鼻血を垂らしながら、

「……俺らをどうするつもりだ」

シュオウは淡々と声音を変えず、

「話を聞きたいだけだ」

男は僅かに怯えた目でシュオウを見上げ、

「それだけか……?」

シュオウは無言で頷いた。

三人はそれぞれ視線を交わし、無言のまま意思の疎通を終えたのか、一人が代表してシュオウに向けて首を縦に振って見せる。

「わかった、なにを話せばいい……」

シュオウは周囲からの視線を気にかけ、

「向こうの小道で聞く、立って歩け」

シュオウの指示で三人がふらつきながらとぼとぼと歩き出す。そのうち、腕を折られた一人は顔面を蒼白にして脂汗を滲ませながら、空気に縋りつくような足取りで奥の小道へと向かった。

人気のない暗い小道に三人を並べ、

「膝をつけ」

ごつごつとした地面に膝を落とさせた。

「それじゃ――」

シュオウが問いかけをしようとしたその時、三人のうちの一人の視線が、シュオウの背後にぎょろりと向いた。

「……うわ、まじか」

手の中に帽子のような物を握りしめたセナが、並べられた三人を見て声を漏らす。

肩を並べて膝をつく男たちの視線がセナをはっきりと捉えた瞬間、シュオウは手の内にある刃のない部分を表にしていた剣を、音もなく逆さに持ち替えた。