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婚約破棄された夜、私は隣国の王太子に求婚されました。お断りしましたが。

作者: 春樹凜

本文

夜会に向かう馬車の中で、窓の外に流れる夜の街並みを眺めながら、ヴァルフ公爵家の令嬢ステファニーは、重いため息をついた。

美しく着飾っているというのに彼女が浮かない表情の理由は、今夜もきっとあの王子に何か言われるだろうと、そう確信めいた予感をしているからだ。

婚約者であるこの国の第二王子であるエリックとの関係は、もうずいぶん前から綻び始めていた。

いや、正確に言えば、最初から嚙み合っていなかったのかもしれない。

エリックは小柄で可愛らしい、自分を立ててくれるような令嬢が好きだ。

ステファニーはそのどれにも当てはまらなかった。

背は高く、成績はステファニーの方が上位、社交の場での立ち居振る舞いも隙がない。

そういうところをエリックは気に食わないと感じるらしく、言葉の端々に、ずっとそれが滲んでいた。

そして半年ほど前から、エリックには通っている学園にお気に入りの令嬢ができた。

男爵家の令嬢のニーナだ。

彼女は小柄で儚げでエリックを慕う大きな瞳が愛らしいと、婚約者であるステファニーの前で、エリックは堂々と彼女の素晴らしさを語っていた。

ステファニーも確かに彼女を目にした時、エリックの好みだと思った。

問題は、そのニーナが学園内で浮いているということだ。

男爵家という低い家格であるにもかかわらず、突然王子の側にべったりとくっつくようになったという事実。

それ以外にもでろでろとした表情でニーナを取り囲む男子生徒はかなりの数がいた。

エリックをはじめとした婚約者持ちも多い。

当然、周囲の令嬢たちがよく思わないのは想像に難くない。

もちろんステファニーも、婚約者持ちの男性に近づくのは……と注意をしたことはあるが、そのたびにエリックが、

「ニーナが学園で孤立して辛そうにしている。お前がひどい言葉を投げかけていじめているからなんじゃないか!?」

とステファニーを責め立てた。

エリックがステファニーをなじるのはいつものことだ。

これまでも、教師に賄賂を贈っているから成績がいいのだろうとか、完璧な振る舞いを見せつけて自分を馬鹿にしたいのかとか、そういった言いがかりをずっとかけ続けられてきた。

今回はその内容が、ニーナへの嫌がらせというものに変わっただけのことだ。

放課後の人気のない廊下で呼び出され、証拠もなく一方的に決めつけられる。

否定しても、ニーナがそう言っていると繰り返すだけで、聞く耳を持たない。

泣いても怒鳴っても同じだと分かっていた。

だからステファニーは、折れていないように見えるよう、表情を動かさず静かに否定し続けた。

もともとステファニーは強いわけではない。

これまでのエリックとのやり取りから、そう見せるしかなかっただけだ。

ただ、エリックに怒鳴られた日の帰り道、いつの頃からか、一人でいるステファニーの前に決まって現れる人物がいた。

フェリックス・オズワイズ。

隣国オズワイズの王太子にして、現在この学園に留学中の人物だ。

背が高く、鍛えられた体躯と整った顔立ちであり、隣国の王太子という肩書きがなくとも、人目を惹く佇まいだった。

学園でも一際目立つ存在で、令嬢たちの黄色い視線がいつも集まっていた。

「大丈夫かい?」

フェリックスの問いかけは穏やかながらも、ステファニーを心配しているように聞こえた。

「ええ」

ステファニーは背筋を伸ばし、口元に微笑を浮かべる。

「ご心配なく、フェリックス殿下。ご覧の通り至って平気でございますわ」

フェリックスは少しだけ目を細め、困ったように微笑んだ。

「君はいつもそう言うね」

「事実ですので」

そしてフェリックスは必ずこう言うのだ。

「僕は君が無実だと知っているよ。どんな時でも、君の味方だから」

他にも、今日のエリックはひどかったとか、君はよく耐えているとか、いくつかの言葉を添えて。

声は優しく、表情は誠実で、どこからどう見ても、ステファニーのことを心の底から気にかけてくれている人の顔だった。

ひとしきり言葉をかけ終えると、フェリックスは、

「じゃあ、また」

と言って立ち去っていく。

ステファニーはその背中に一礼をしながら、いつも無言で見送っていた――。

「お嬢様、到着いたしました」

御者の声掛けにステファニーがはっと我に返ると、すでに夜会の会場に到着していた。

今夜は王家主催の夜会だ。

学園の関係者も多く出席するということで、フェリックスも隣国代表として参加するという話は聞いていた。

おそらく今夜も顔を合わせることになるだろう。

そう考えると、彼女の胸がかすかに揺れた。

ステファニーが会場に入ると、すでに多くの令嬢と令息が集まっていた。

煌びやかなシャンデリアの光の中、ドレスが花のように咲き乱れている。

ステファニーの今夜のドレスは深いネイビー色だが、生地やデザインから見ても明らかに一流の仕立て屋のドレスだと分かる。

ちなみにこれを選んだのはエリックではなく、ステファニー自身だ。

いつの頃からか、エリックはステファニーに贈り物一つしなくなった。

それは別に構わないのだが、問題は、今夜はついにエリックのエスコートもなかったことだ。

これには、さすがに彼女の父であるヴァルフ公爵も、娘を蔑ろにされたと怒りを滲ませていた。

公爵と陛下が仲の良い級友だったこともあり結ばれた婚約だが、この分だとそれもなくなる可能性もあるとステファニーは考えていた。

実際父親から、水面下でその準備を進めていると聞かされた。

一人で現れたステファニーに、周囲が明らかにざわつく。

好奇心たっぷりの視線にうんざりしつつ、ステファニーは学園の友人と談笑をする。

そんな、陛下たちが会場に姿を現す前の、まだざわめきが残る時間帯だった。

エリックが鼻息も荒く近づいてきた。

ニーナを隣に連れて。

ステファニーは視線でそれを捉え、内心で小さくため息をつく。

これは面倒なことになりそうだと。

そしてエリックは、周囲に人が集まっている、よりによってその場所で、高らかに告げた。

「ステファニー・ヴァルフ! 俺はお前との婚約を破棄する! お前は俺の大切な人をいじめていた。そんな人間を妻にはできない」

ステファニーはゆっくりとエリックに向き直った。

騒ぎ立てる周囲とは反対に、彼女の表情は動かない。

心臓が少しだけ跳ねたが、それだけだ。

驚きは、ほとんどなかった。

怒りはあったが、それよりも妙な納得感があった。

ああ、彼ならば何の証拠もなくこんな愚かな宣言をしてもおかしくないと。

ステファニーはゆっくりと口を開いた。

「そうですか。……ところで殿下、私がいつ、どこで、何をしたのか、具体的に教えていただけますか? 私には全く身に覚えがないのですが」

エリックが言葉に詰まる。

「それは……みんながそう言っている」

「みんな、とは誰でしょう」

ステファニーは微笑んだまま続ける。

「夜会のこのような場でこうしてお声がけになるのですから、当然証拠はおありですよね。陛下もお見えになる前に、このようなことを公言なさるのですから」

エリックは何も言えず、隣ではニーナが顔を青くしている。

やはり何も証拠はないようだ。

しかし、これは好機である。

ステファニーは、ゆったりと一礼した。

「分かりました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」

これだけ大勢の前で公言してしまえば、やはりなしに、とはできまい。

そもそもステファニーには身に覚えがないし、どうせ近いうちになくなる予定だった婚約だ。

その時期が早まっただけのことだ。

ようやく肩の荷が下りたと、ステファニーが安堵で胸を撫でおろそうとした、その時だった。

「ステファニー!」

よく通る明朗な声が、会場中に響き渡った。

次の瞬間、ステファニーに向かって人波がさっと左右に割れる。

まるで示し合わせたかのように、自然と彼女の前に道ができた。

現れたのはフェリックスだった。

普段の学園での姿も十分目を引くが、正装に身を包んだフェリックスはさらに際立っていた。

夜会の華やかな灯りの中でも、その容姿はひときわ映えている。

老若男女問わず、その場にいた全員が思わず息を呑んだほどだ。

フェリックスはまっすぐステファニーの前まで来ると、ゆっくりと片膝をついた。

突然の王太子の行動に、会場が凍りつく。

けれどそれには構わず、フェリックスはステファニーの手を取る。

「ずっと、君に伝えたいと思っていた」

フェリックスの声は穏やかだが、確かな熱を持っていた。

「学園での日々、僕はずっと君を見ていた。ステファニー、君はどんな時も乱れず、凛として、誰にも頼らずに立っていた。元婚約者にどれだけ責められようと、決して折れず、強くて、美しかった」

「…………」

ステファニーの頬がぴくりと動く。

それを見て、フェリックスは白い歯がこぼれんばかりの笑顔を浮かべた。

「……そんな君のことが、ずっと好きだったんだ。よければ僕の妻として迎えたい」

次の瞬間、会場のあちこちから金切り声にも似た声が上がる。

隣国の王太子が、夜会の場で、公衆の面前で片膝をついて求婚している。

しかも相手は今し方婚約破棄されたばかりの令嬢だ。

おとぎ話のような光景だからだろうか、その場にいた全員が現実感を失っているようだった。

横からふと視線を感じたのでステファニーがそちらを見ると、エリックの顔が青を通り越して白くなっていた。

隣のニーナは、ぽかんとした顔でフェリックスを見ている。

「あちらの方が優良物件……」

と言いたげな、そういう顔だった。

いや、実際にそう呟いていた。

ステファニーは視線を戻すと、未だに跪くフェリックスを見下ろす。

フェリックスの目には、まるで疑いの色がなかった。

断られる可能性を、本気で考えていない。

ステファニーは、ゆっくりと微笑んだ。

そして、静かな声ではっきりと言った。

「お断りします」

「…………え?」

フェリックスが、何を言っているか分からないと言った顔で固まる。

その場にいた者たちも同様で、空気が再び凍りついたが、ステファニーは笑顔を崩さないまま続ける。

「フェリックス殿下が私のことを強くて美しいと言ってくださったこと、大変光栄に思います。ただ、少し誤解があるようなのでお伝えしてもよろしいですか」

フェリックスがゆっくりと頷いたのを確認してから、ステファニーは口を開く。

「私が折れなかったのは、強いからではありません。折れた姿を見せても何も変わらないと学んだから、折れているように見せなかっただけです。……本当は、幼い頃からエリック殿下に理不尽なことを言われるたびに傷ついていました。悲しくもありました。ただ、泣いたり怒ったりしても無駄だと分かっていたので、我慢していただけです」

エリックがびくりと体を揺らしたのが横目で見えたが、ステファニーはちらりとも首を動かして彼を見ない。

「フェリックス殿下。殿下は学園で私に何度も声をかけてくださいましたね。君が無実だと知っている、どんな時も君の味方だと。その言葉も、はじめは嬉しかったです。嘘ではありません」

フェリックスが何かを期待するように、わずかに表情を和らげる。

「そ、そうか。では僕の申し出を断るのはなぜなんだ? 僕は、ずっと君のそばにいた。君の話を聞いてきた。それでも、足りなかったというのか?」

ステファニーは心の中で嗤った。

フェリックスがステファニーの話を聞いたことなど、一度もない。

彼は自分が好き勝手に話し、相槌を打つステファニーにただただ満足した様子でいた。

ステファニーが何かを話す隙すら与えられなかったというのに、彼はそのことにまるで気がついていなかったのだ。

フェリックスの今の顔は、僕という存在が、ずっと君の心を救っていただろう? と言わんばかりの表情だ。

ステファニーは、一呼吸置いてから言った。

「殿下がいらっしゃるのはいつも、エリック殿下が去った後でした。誰もいない空間で、二人きりの時だけ。話を聞いてやるという顔で現れて、自分の言いたいことだけ言って帰っていく」

エリックに詰められている時、フェリックスは決して現れない。

他の令嬢たちがこそこそと陰口を言っている場でも、フェリックスは素知らぬ顔で通り過ぎていく。

彼は他国の王太子。

この国の内情に口を出せないという事情は分かる。

それでも。

「ただそれは、殿下が動けなかった理由であって、私が助けられた事実にはなりません。私は一度も、フェリックス殿下に助けていただいたと思ったことはありません」

意地悪な見方だとは分かっているし、フェリックスの言葉が全て嘘だとも思わない。

それでも、ステファニーはずっと感じていた。

フェリックスは、ステファニーの味方になって、彼女の心に寄り添ってあげている自分に酔いしれていたことを。

だからこそ先ほど求婚した時も、こんなに素晴らしい自分が申し出るのだから当然受け入れられると、そう信じている顔だったのだ。

二の句が継げず固まるフェリックスに、ステファニーは言った。

「強くて美しいと、私をそう見ていてくださったなら。その強さがどこから来ていたのか、一度でも考えてくださいましたか。私はずっと、一人で耐えていただけにすぎません」

ここでステファニーは、穏やかに微笑んだ。

「そういうことですので、強い女性の役目は、私では担えそうにありません。殿下の理想の方は、どうか他でお探しくださいませ」

ステファニーはフェリックスの手からするりと自分の手を引き抜くと、一歩下がり、深く、優雅にお辞儀をした。

「それではフェリックス殿下、また学園で、一生徒としてお会いいたしましょう」

そしてステファニーは、背筋をピンと伸ばし、二人の王子の前を通り過ぎて歩き出す。

会場が妙な静けさに包まれる中、ステファニーは誰とも目を合わせず、足も止めない。

ヒールが大理石の床を打つ規則正しく軽快な音だけが、自分の耳に響いていた。

扉をくぐると、夜風が頬を撫でる。

馬車の手配を待ちながら、ステファニーは夜空を見上げた。

星の瞬く空は、まるで今の自分の心を映したようにキラキラと輝いている。

これでようやく自由になれた。

きっともう、フェリックスが学園で近づいてくることもないだろう。

彼の相手をすることもまた、ステファニーにとってはエリックと対峙するのと同じくらい心がすり減ることだったのだ。

善意の皮を被った相手ほど面倒なものはない。

それにしても、ステファニーは、一夜にして婚約破棄をされ、そして求婚を断った。

しかもどちらも相手が相手だ。

社交界の話題をしばらく独占することになるだろうし、今後婚約の打診が来なくなるかもしれない。

父親には申し訳ないことをしたかもしれないと、一応は反省をする。

それでも。

ステファニーは口元に手を当て、小さく笑った。

明日のことは、明日考えればいい。

今夜だけは、この晴れやかな気持ちのままでいさせてほしいと、そう思った。

後日、風の噂に聞いた話がある。

エリックは国王陛下にひどく叱責され、社交界での評判もあの夜を境に地に落ちていった。

ニーナとの仲もその後うまくいかなくなり、最終的には陛下よりも年上の、とある女侯爵に婿入りすることになったそうだ。

フェリックスはといえば、帰国後に別の令嬢たちに求婚したものの、なぜか次々と断られていると聞いた。

まあ、どちらも自分には関係のないことだ。

ステファニーはそう思って、それきり二人のことを頭の片隅から追い出した。

それから一年後、ステファニーは、穏やかな春の日に嫁いだ。

相手はカルヴェラ侯爵家の嫡男のヘンリーという男だ。

あの夜会の一件は、予想通り、社交界でしばらく語り継がれた。

新たな婚約者候補の何人かと顔合わせをしたが、その誰もが、ステファニーに同情するような顔をしながら、目の奥では好奇心をきらきらと光らせていた。

気の毒だと思いながら、内心では面白がっているその白々しさが、ステファニーをひどく疲れさせた。

同情されるくらいなら、いっそ野次馬丸出しで聞いてくれた方がまだ気が楽というものだ。

ヘンリーとの顔合わせの前、彼は少し年上で粗野なところがあると噂に聞いていた。

なるほど、現れた男は無骨そうな見た目で、洗練された社交の場には少々不似合いな雰囲気を纏っていた。

ところがヘンリーはステファニーと向き合うなり、ややぶっきらぼうな口調でこう言ったのだ。

「あー、ステファニー様はなんも悪くないってのに、色々噂されて大変ですよね。俺には話を聞くことしかできないですけど、今日は見合いの場とか関係なく、言いたいことあるならぶちまけてもらっていいんで、遠慮なく話してください」

同情でも好奇心でもなく、ただまっすぐにそう言った。

お世辞にも洗練されているとは言えないが、その言葉に嘘はなかった。

ヘンリーが浮かべた、不器用ながらも嘘のない笑顔を見た時、ステファニーの中で何かがすとんと落ち、彼に一目で惹かれたのが自分でも分かった。

あの夜があったからこそ、この人に出会えた気がする。

そんなことをふと思いながら、ステファニーは穏やかな春の日差しの中で、ヘンリーの隣で幸せそうに微笑んだ。