【エピ追加ラスト!】「少しは私の都合も考えてくれ」と言われ続けたので、王太子の婚約者を辞めることにしました
作者: 福嶋莉佳
本文
エルディア王国、王宮東棟の執務室。
窓際の小卓には、遊びかけのチェス盤が置かれている。
白の王妃だけが、盤の端へ追いやられていた。
「少し出かけてくる」
「えっ?」
机の書類へ視線を落としていた私は、顔を上げた。
机の上には、今日中に確認しなければならない書類が積まれている。
隣国グランツェル使節団への返書も、王都東区の視察予定も、まだアレクシス殿下の最終判断を待っていた。
「殿下。まだ本日の分が……」
王太子アレクシス・レーヴェン殿下は、封蝋の箱を閉じながら、気怠げに目を細めた。
「確認なら、君ひとりでもできるだろう」
「……最終のご判断は、殿下にお願いしなければなりません」
「では、戻るまでに要点をまとめておいてくれ」
「ですが……」
「ミレーヌ、少しは私の都合も考えてくれ」
言いかけた言葉が、喉の奥で止まった。
「……承知いたしました」
ああ、まただ。
何度目だろう。
その言葉を言われるのは。
その時だった。
「殿下、リゼット様がお越しです」
侍従の声に、アレクシス殿下は顔を上げた。
先ほどまでの気怠げな表情が、目に見えてやわらぐ。
「通せ」
カチャリ、と扉が開く。
淡い桃色のドレスを揺らし、真珠を縫い込んだリボンを髪に結んだリゼット様が入ってくる。
「失礼いたします、殿下」
軽く膝を折ったあと、彼女はすぐに顔を上げた。
「お仕事は終わられましたか?」
「ああ。ちょうど一区切りついたところだ」
彼女は嬉しそうに殿下へ歩み寄り、その腕へそっと触れた。
「では、王都一番街の仕立て屋へ行けますのね。花冠祭のドレスを、殿下に選んでいただきたかったんです」
「もちろんだ。君の願いを後回しにはできないからな」
「嬉しいです。リュミエール織りの春絹が入ったそうなんです。殿下に選んでいただけたら、きっと特別な一着になりますわ」
「ほう、それは君に似合いそうだ」
殿下は穏やかに笑う。
リゼット様がこちらに気づき、ぱっと表情を明るくした。
「あら、ミレーヌ様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、リゼット様」
「お忙しいところ、ごめんなさい。わたくし、殿下にどうしても見ていただきたくて」
申し訳なさそうな声音。
しかし、その身体は殿下の腕へ自然に寄り添ったままだった。
「構わないさ。君は何も気にしなくていい」
殿下は私ではなく、彼女へ向かって言う。
「では、あとは頼む」
「……承知いたしました。お気をつけて」
二人はそのまま執務室を出ていく。
扉が閉まり、部屋が静かになった。
ドレス、か。
最後に仕立て屋とゆっくり布地を選んだのは、一昨年の秋だった。
それ以来、私の衣装は侍女と仕立て屋が、王宮の場にふさわしいものを見繕ってくれている。
花冠祭用のドレスも、すでに用意されていた。
王太子の婚約者として失礼のない、淡い青の礼装だ。
よくできたドレスだと思う。
けれど、その淡い色合いは、私の心のどこにも落ち着かなかった。
私は冷めかけた紅茶に口をつけ、喉だけをうるおした。
それから再び、目の前の書類に目を通す。
ひとつずつ確認し、必要な箇所に赤を入れていく。
次いで、王家主催の春の祝祭――花冠祭に関する書類を開いた。
王都東区の聖ルカ慈児院の子どもたちを招く件。
それは、リゼット様の思いつきだった。
――花冠祭の日、聖ルカ慈児院の子どもたちにも王宮の花を見せてあげたいんです。
そう言った彼女に、殿下は深く頷いた。
――素晴らしい考えだ。君は本当に優しいな。
その場に控えていた宮廷貴族や女官たちも、微笑ましそうに目を細めていた。
リゼット様が褒められ、殿下が喜び、私は黙って書類を整える。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
そして翌日、殿下は当然のように、その書類を私の机の上に置いた。
「殿下。リゼット様のお心は、とてもよいものだと思います」
「ああ、そうだろう」
殿下は満足げに頷いた。
「ですが……花冠祭に慈児院の子どもたちを招くとなると、少し調整が必要です」
「必要ならば、調整すればいい」
「正式な王宮行事として扱うなら、確認すべきことが多くなります。貴族客の導線、警備、休憩所、菓子や飲み物の配布場所……。それに――」
「ミレーヌ。君は今、リゼットの善意に水を差しているのか?」
私は言葉を止めた。
「……いいえ。そのようなつもりではございません」
「ならば問題はない」
殿下は、机上の書類へ視線を落としもしなかった。
「リゼットには、心配させたくない。彼女の優しさを、面倒な話で曇らせる必要はないからな」
「……承知いたしました」
「頼んだぞ。君ならできる」
私は黙って、ペン先を走らせた。
窓の外から、リゼット様の笑い声が微かに聞こえた。
思わずそちらへ視線を向けると、窓際のチェス盤がまた目に入った。
白の王妃は、まだ端にあった。
――王太子は、自ら駒を進めない。
ただ、誰をどこに置くかを決める。
けれど、殿下が盤上に置いた駒のうち、いつも動かされるのは私だった。
私の机には、殿下が手放した書類ばかりが積まれていく。
私のための余白は、いつの間にか消えていた。
「レオンハルト殿下がお越しです」
侍従が扉を開けると、王子宮に席を置く第二王子レオンハルト殿下が立っていた。
「レオンハルト殿下」
慌てて立ち上がろうとすると、レオンハルト殿下は片手でそれを制した。
「そのままでいい。兄上は?」
「先ほど、リゼット様とお出かけになりました」
「……そうか」
レオンハルト殿下の視線が、机の上に落ちた。
積まれた書類の隙間に、赤を入れかけた花冠祭の控えが挟まっている。
端に寄せた茶器からは、もう湯気も立っていなかった。
「申し訳ございません。片づいておらず……」
「いや」
殿下は短く答え、茶器へ目を留めた。
「冷めているな」
「……後ほどいただきます」
「淹れ直させてもいいだろう」
「冷めていても、飲めますので。わざわざ淹れ直させるほどではありません」
レオンハルト殿下は、わずかに眉を寄せた。
「そういう話ではないと思うが」
私は曖昧に笑った。
レオンハルト殿下は、手にしていた書類を机の端へ置いた。
「兄上の確認が必要だったが、この様子ではあなたに回すしかないな」
私はそれを手に取り、軽く目を通した。
花冠祭における王族の巡回順と、王宮騎士団の警備配置の控えだった。
「孤児院の子どもたちの入場時刻と、王族の巡回が重なっております。こちらは少しずらした方がよろしいかと」
「王族側の巡回だけを見れば問題はないが……理由は?」
「子どもたちは王宮に慣れておりません。殿下方のお姿が見えれば、足を止めます」
「なるほど……そこへ貴族客の列が重なれば、導線が詰まるのか」
レオンハルト殿下は小さく息を吐いた。
「あなたが淡々とこなすから、兄上も任せてよいものと思うのだろうな」
「……レオンハルト殿下も、同じではございませんか」
本来なら、王太子が確認すべき書類だった。
けれど、それを弟であるレオンハルト殿下が持ってきている。
私と同じだ。
「私はまだいい。最初から予備の駒だ」
「ご自分をそのように仰るものではありません」
「では、あなたもだ」
私は言葉を失った。
レオンハルト殿下は窓の外へ視線を向けた。
「……あの方と関わるようになってから、兄上はますます執務室にいなくなった」
私は目を伏せた。
リゼット・ベルティア。
新興伯爵家に迎えられた養女で、元は平民だったと聞いている。
「……ですが、リゼット様を大切に扱うことで、喜ぶ方々もおります。殿下が新しい家々に目を向けていると示すことにもなるのでしょう」
「では、納得しているのか」
「納得すべきことだとは、思っております」
「すべき、か。あなたはいつもそう言う」
私は答えなかった。
私は執務室に残る者。
リゼット様は、外へ連れ出される者。
いつの間にか、そう配置されていた。
「兄上は、あなたに礼を言ったことがあるか」
私は少し考えた。
そして、思い出せなかった。
思い出せるのは、机に置かれた書類の中身ばかりだった。
「……レオンハルト殿下」
「どうした?」
「……少し、ご相談があります」
◆
「顔色が優れないわね」
公爵夫人である母はそう言って、自分の茶器を静かに受け皿へ戻した。
ヴァルトハイム公爵邸の小サロンには、静かな空気が流れていた。
春を待つ淡い光が窓から差し込み、銀の茶器から紅茶の香りがゆるく立ちのぼる。
「少し疲れているだけです」
精神的なものだけではない。
王宮での時間は、以前より明らかに増えていた。
午前は妃教育の講義を受け、午後は式典の下準備に回る。
各家への礼状を書き終える頃には、殿下の確認書類が机に届いていた。
紅茶を口にする。
香り高い温かな茶のはずなのに、味だけが分からなかった。
ひとつひとつは、決して難しいものではない。
けれど書類は、片づける端から机の上を埋めていった。
そうして予定表の余白から、私のための空欄だけが削られていった。
ヴァルトハイム公爵である父が、低く息を吐いた。
「王宮で色々あるのだろう」
「……そうですね」
母は心配そうに眉を寄せる。
「あの娘のせいで、つらい思いをしているのね」
「……」
「だが、ミレーヌ。あの娘は、殿下の寵を受けているだけだ。お前は王太子妃になる女だ。同じ土俵に下りてはならない」
「……わかっています」
「不快なのは分かる。だが、王家へ嫁ぐというのは、夫婦仲だけの話ではない」
母はそっと私の手に触れた。
絹の手袋越しでも分かるほど、母の手はやわらかかった。
それに比べ、私の指先は書類とペンに擦れ、薄く硬くなっている。
「今を越えれば、あなたの立場は揺るがなくなるのよ。もう少しの辛抱よ」
「……はい」
父も母も、私を案じていた。
けれど、案じる先に逃げ道はなかった。
王太子妃の座は、公爵家にとって重い。
王家との縁も、家の面目も、妹の縁談も、そこに結びついていた。
けれど。
誰も、
「降りてもいい」
とは言わなかった。
「お前なら耐えられる」
父の声は、穏やかだった。
「昔から、そうしてきたのだから」
私は膝の上で指を組んだ。
結局、都合を合わせるのは私なのだ。
殿下の都合。
王家の都合。
公爵家の都合。
それらはいつも、私より先に置かれた。
私はその隙間に、自分の都合を差し込むことさえできなかった。
「……王家との縁があれば、それでよいのかしら」
「何か言った?」
私は顔を上げて微笑んだ。
「いいえ。何でもありません」
◆
翌日、私はアレクシス殿下と向かい合っていた。
執務室ではない。
王宮の奥にある、小さな応接室に来ていただいた。
人払いを願い出ると、殿下は不機嫌そうに眉を寄せる。
「改まって、何の話だ」
「殿下に、お伺いしたいことがございます」
「手短に頼む。花冠祭の件で、まだ確認が残っている」
その確認を、誰が片づけていると思っているのだろう。
そう指摘したくなる気持ちを抑え、私は息を吸った。
「……私は、殿下にとって何なのでしょう」
殿下は、意味が分からないという顔をした。
「何、とは?」
「婚約者として。いずれ妻となる者として。殿下は私を、どのようにお考えなのでしょうか」
「王太子妃になる女だろう」
迷いのない声だった。
「君はそのために教育を受けてきた。家格も申し分ない。実務も理解している」
「それだけ、ですか」
「それだけとは何だ。何か文句があるのか。……もしかして、リゼットに嫉妬しているのか?」
私は思わず、薄く笑った。
私と殿下の間に、嫉妬するほどの愛情があっただろうか。
支えれば、いつか隣に立てるのだと思っていた。
けれど殿下は最初から、私にそれ以外を望んでいなかった。
「王太子妃として殿下を支えることは、当然だと思っております。
ですが、私は殿下の駒ではございません」
殿下の眉が動く。
「いずれ夫婦となるのであれば、一度くらい、私自身に向き合っていただきたかったのです」
「ミレーヌ、私に甘い言葉でも囁けと言うのか。君は、そんなものを欲しがる女ではないだろう」
殿下は、まるで私を諭すように息を吐いた。
「君には君の役目がある。リゼットにはリゼットの役目がある。それを混同するな」
「役目……ですか」
「ああ。君は私を支える。彼女は私を休ませる。それだけのことだ」
胸の奥が、静かに冷えていく。
「……そうですか」
「正妃の座は君に与えるのだぞ。ならば、それ以上を求めるな」
その言葉で、ようやく分かった。
殿下にとって私は、婚約者ではなかった。
盤上の駒だった。
「分かりました」
私は静かに頭を下げた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございました」
「待て。何が分かった」
「殿下のお考えです」
「ミレーヌ」
「花冠祭の確認書類は、机の上にまとめてございます。最終判断は殿下にお願いいたします」
そう告げると、殿下は一瞬だけ言葉に詰まった。
私はもう一度礼をして、応接室を出た。
長い回廊を進んで、角を曲がったところで足を止める。
レオンハルト殿下が、窓辺に立っていた。
「……どうしてこちらに」
「あなたが兄上と話すと聞いたからな」
殿下は私の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「話は、終わったのか」
「はい。王太子殿下との婚約解消を、願い出ようと思います」
「そうか」
驚いた様子はなかった。
「……私は、王太子妃として相応しくなかったのでしょうね」
「なぜそう思う?」
「こんなにも、自分の都合を優先しようとしているのですから」
レオンハルト殿下は、わずかに眉を寄せた。
「自分のことを考えるのは、悪いことではない」
「ですが……」
「兄上の都合を考え、王家の都合を考え、公爵家の都合を考えた。そのあとで、ようやく自分の都合を口にしたんだ。それを自分勝手とは言わない」
「……殿下を巻き込むのですよ?」
「私は、自分でここに立っている。
……正直なところ、ありがたい話でもあった」
私は目を瞬く。
「兄上の補佐として王宮に残っても、私は半端な立場のままだ。だが、公爵家へ入れば動きやすさが違う」
「……そう言っていただけて、気が楽になります」
「それに」
「はい」
「利害の話だけなら、他にも道はある」
殿下は少しだけ視線をそらした。
「その中で、あなたが私の名を挙げてくれたことは……悪くなかった」
◆
家族に婚約解消を告げると、父も母もまず私の疲れを案じた。
だが、口にする言葉は結局同じだった。
「もう少しだけ頑張れないか」
「王太子妃の座を、ここで手放すの?」
私を心配する言葉の中に、降りる道だけは用意されていなかった。
しかし私が、
「第二王子レオンハルト殿下が、我が家へ婿入りしてくださるそうです」
と告げると、父は動きを止めた。
「……第二王子殿下が?」
父はしばらく黙り、それから椅子に深く座り直した。
「……王宮からも、近頃の殿下については幾度か話が来ていた」
「そうなのですか……?」
「ああ。ベルティア嬢に傾倒するあまり、執務が遅れているとな。お前に回される仕事の量も、知られていないわけではない」
父は低く息を吐いた。
「王家との縁を失わず、火種だけを移せるなら……向こうも拒みはしないだろう」
父は静かに頷いた。
「王家にとっても、我が家にとっても、落としどころにはなる」
王家も、最終的にはそれを認めた。
兄弟間で婚約を改める形なら、醜聞も抑えられる。
王妃陛下は長く黙っていたが、最後には静かに頷いた。
「アレクシスには、しかるべき形で言い聞かせます」
国王陛下も、深く息を吐いた。
「ミレーヌ嬢には迷惑をかけた。レオンハルトとの婚約については、王家として認めよう」
その言葉が謝罪だったのか、処理の一部だったのか。
私には、最後まで分からなかった。
「レオンハルトに逃げるとはな」
アレクシス殿下は、冷たく笑った。
「まあいい。王太子妃教育を受けた令嬢など、君ひとりではない」
殿下はそう言った。
少しだけ早口だった。
「君がしていたことは、王宮に仕える者たちで分担できる」
「そうでございますか」
「私を支える者が、君でなければならない理由はない」
その言葉に、私は頭を下げた。
「殿下のご健勝と、花冠祭のご成功をお祈り申し上げます」
それ以上は何も言わず、私は部屋を出た。
◆
花冠祭当日。
王宮の庭は、春の花で満ちていた。
白い柱には薄布がかけられ、色とりどりの花飾りが揺れている。
楽団の音色もやわらかく、華やかな催しとなっていた。
今日は、第二王子レオンハルト殿下の婚約者として、この場に招かれている。
「疲れていないか」
隣から、レオンハルト殿下が静かに尋ねた。
「大丈夫です」
そう答えながら、私は視線を庭の奥へ向けた。
聖ルカ慈児院の子どもたちが、王宮の庭へ案内されている。
けれど、その列は花壇に沿って大きく迂回させられていた。
本来なら、子どもたちは庭園脇の小門から入り、奥に設けた休憩所へ通すはずだった。
だが今は、正面の大階段の前を通されている。
貴族客の視線が、自然とそこへ集まった。
子どもたちは緊張した様子で足を止め、互いに身を寄せ合っている。
ああ、そこは目立たせてはいけなかったのに。
扇を持つ指先だけが、わずかに強張った。
以前の私なら、すぐに侍女へ指示を出していた。
今は、扇を握り直すだけだった。
殿下はきっと、花に囲まれた大階段の前を歩かせれば、美しい場面になると思ったのだろう。
やがて、リゼット様が子どもたちの前へ出た。
「皆さん、遠慮しないで。今日は王宮の春を楽しんでくださいね」
明るく、やさしい声だった。
けれど、子どもたちはますます緊張したように身を寄せ合った。
リゼット様は少し困ったように笑い、アレクシス殿下を見上げた。
殿下は軽く咳払いをして、用意された壇へ上がる。
「本日は、リゼット・ベルティア嬢の優しい願いにより、この花冠祭に聖ルカ慈児院の子どもたちを招くこととなった」
その言葉に、新興貴族たちは微笑んだ。
古くから王家に仕える家々の何人かは、静かに表情を消している。
続く寄付者の紹介でも、順番が悪かった。
長年孤児院へ多額の寄付を続けてきた侯爵家より先に、リゼット様の養家であるベルティア伯爵家の名が呼ばれたのだ。
侯爵夫人が、扇で口元を隠す。
隣にいた夫人が、かすかに視線をそらした。
菓子の配布も、滞った。
子どもたちへ菓子袋を配る場所が、貴族客の通り道に近すぎた。
菓子袋を受け取ろうとする子どもたちの列と、庭園を移動する貴族客の列が交ざりかける。
護衛は困惑し、侍女たちは互いに指示を待つ。
リゼット様が慌てて声を上げた。
「皆さん、慌てないでくださいませ。たくさんありますから」
侍女の一人が、慌てて菓子袋の残りを確認した。
その動きで、周囲の空気がざわついた。
リゼット様の笑みが、わずかに引きつる。
「どうして……こんなの、ちゃんとできていないじゃない……」
その小さな声は、近くにいた夫人たちには届いた。
先ほどまで微笑ましげだった視線が、すっと冷える。
アレクシス殿下の顔が、目に見えて険しくなった。
花冠祭は、失敗と呼ぶほど大きく崩れたわけではなかった。
花は美しく、音楽も止まらない。
招かれた子どもたちに怪我もない。
ただ、すべてが少しずつ噛み合っていなかった。
「……今年は、妙に落ち着きませんわね」
花壇のそばで、夫人たちが小さく扇を寄せ合った。
「ええ。アレクシス殿下、こういう段取りはお得意でしたでしょうに」
「寄付者の順番も、あれは少々……」
「以前は、もっと綺麗に回っていた気がいたしますわ」
「……ベルティア様の件以降、殿下も変わられましたものね」
「ああ……」
それ以上は、誰も口にしなかった。
王宮の催しは、そういう小さな歪みを隠しきれない。
「行こう」
レオンハルト殿下が、私にだけ聞こえる声で言った。
「はい」
私は頷き、庭を離れようとした。
その時だった。
「ミレーヌ」
背後から、アレクシス殿下の声がした。
振り返ると、殿下がこちらへ歩いてくるところだった。
その表情には、隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。
「見ていただろう」
「何のことでございましょう」
「……花冠祭だ。なぜ何も言わなかった。第二王子の婚約者なら、王家の催しに口を出すこともできただろう」
「本日の催しを任されたのは、殿下とリゼット様です。私が横から口を挟めば、かえって失礼になります」
「っ……君なら、すぐに直せただろう」
「直す権限も、責任も、すでに私にはございません」
殿下の顔色が変わった。
「ミレーヌ。少しは私の都合も考えろ」
相変わらず同じ言葉だった。
私は、静かに息を吸った。
「殿下」
「何だ」
「私の都合も、考えてくださいませ」
殿下が言葉を失う。
その隣で、レオンハルト殿下が一歩前へ出た。
「兄上。彼女には、私との予定があります」
「レオンハルト……」
「失礼いたします」
レオンハルト殿下はそれだけ告げ、私へ手を差し出した。
「仕立て屋へ行くのだろう。急がなければ閉まる」
「そうですね」
「そのドレスも似合っている。だが、あなた自身が選んだものも見てみたい」
私は一瞬だけ目を瞬いた。
「……少し、照れますね」
苦笑しながら、私はその手を取った。
アレクシス殿下が何か言いかけたが、もう振り返らなかった。
【プチエピローグ】
仕立て屋へ着いた頃には、王都の空は淡い夕色に染まり始めていた。
その店は、王宮御用達の大きな仕立て屋ではない。
一番街の奥まった通りにある、私が以前よく利用していた仕立て屋だった。
婚約者になってからは、かえって足が遠のいていた。
表の窓には季節の布が飾られ、春らしい淡い色のリボンやレースが、やわらかな光を受けている。
「こちらへどうぞ」
女主人に案内され、私は奥の部屋へ通された。
壁際には、色とりどりの布が並んでいる。
淡い青、白、薄桃色、若草色。
――懐かしい。
以前は母に連れられ、この奥の部屋で布を広げてもらうだけで胸が弾んだ。
それなのに今は、何を選べばいいのか分からない。
「お好みの色はございますか?」
そう問われて、私はすぐには答えられなかった。
好みを考えるなんて、久しぶりだった。
王太子の婚約者としてふさわしいもの。
公爵令嬢として失礼のないもの。
アレクシス殿下の隣に立っても、目立ちすぎず、控えめで、けれど貧相には見えないもの。
そういう基準なら、いくらでも考えられる。
けれど改めて問われると、自分が何を着たいのかは、すぐに出てこなかった。
「……迷われますか」
レオンハルト殿下が、少し離れた場所から静かに尋ねた。
「はい。……色々考えてはいたのですが、いざ目にすると、分からなくなってしまって」
「急がなくていい」
その言葉に、胸の奥がふっと緩んだ。
「……ありがとうございます」
私は小さく息を吐き、もう一度、並んだ布へ視線を戻した。
「ですが……お待ちになるのは、苦ではないのですか?」
「待たされているとは思っていない」
「え?」
「あなたが自分のものを選んでいるところを、見ているだけだ」
「……お上手ですね。慣れていらっしゃるとか?」
少しだけ意地悪く尋ねると、レオンハルト殿下は目を瞬いた。
「慣れてはいない」
「そうなのですか?」
「兄上に待たされるのは、嫌だったな」
思いがけない言葉に、私は小さく苦笑した。
「……それは、否定できませんね」
「だろう」
レオンハルト殿下も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その短い返事が、妙におかしくて。
私は、久しぶりに肩の力を抜いて笑った。
女主人が、そっと布を広げる。
「こちらなど、いかがでしょう。春の夜明けのような薄青でございます。品よく、どのような場にもお召しいただけます」
「淡い青……」
私は無意識に、その布へ手を伸ばしかけた。
エルディア王家の色は、深い藍だ。
その隣に立つ婚約者には、昔から淡い青が好まれてきた。
王宮で、私のために何度も選ばれてきた色だった。
けれど、指先が触れる寸前で止まった。
「……綺麗ですね」
「お嫌いか?」
レオンハルト殿下が尋ねる。
私は少し考えてから、首を横に振った。
「いえ、そういうわけでは……」
「ああ、でもさすがに着飽きたのでは?」
「……そうかもしれません」
布に軽く触れる。
「思っていた以上に、長く着ていたみたいです」
「なら、今日は別の色にすればいい」
レオンハルト殿下はそう言って、並んだ布へ視線を向けた。
しばらく黙って見ていたかと思うと、ふいに一枚の布を指さす。
「これは?」
「え?」
女主人が広げたのは、淡い桃色の布だった。
春の花びらをそのまま染めたような、やわらかく甘い色。
若い令嬢が、花冠祭や庭園茶会で身にまとうにはよく似合う色だ。
けれど。
「……わたくしが、ですか?」
思わず、そう聞き返してしまった。
レオンハルト殿下は不思議そうに瞬きをする。
「そうだが」
「殿下、その……少し、可愛らしすぎませんか」
「そうか? 似合うと思う」
あまりにまっすぐに言われ、私は返す言葉を失った。
女主人が、布を私の肩口へそっと合わせる。
「まあ……お似合いでございます」
「……そうかしら」
私はそっと鏡を見る。
見慣れない色だった。
浮いている気もした。
けれど、今着ているドレスより、顔色が明るく見えた。
「ミレーヌ様の髪色にも肌にも、よく映えますわ。甘いだけでなく、品もございます」
「……本当に?」
「はい。こちらに白の薄布を重ねれば、可愛らしさが少し落ち着きます。刺繍を銀糸にすれば、子どもっぽくはなりません」
私は鏡の中の自分を見つめた。
「……こういう色は、リゼット様の方がお似合いになると思っていました」
言ってから、しまったと思った。
けれどレオンハルト殿下は、首を横に振った。
「別に、誰かの色と決まっているわけではない」
胸の奥が、かすかに揺れた。
それは、そうだ。
色なんて、誰か一人のものではない。
だが、あの執務室では、王太子の婚約者は淡い青で、愛される彼女は桃色だった。
――いいえ、違う。
私が、勝手にそう位置づけていたのだ。
「……そうですね」
私はもう一度、鏡を見た。
「この色にします」
そう言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。
「よく似合う」
レオンハルト殿下が、短く言った。
私は鏡越しに彼を見る。
「……ありがとうございます」
鏡の中の私は、少しだけ幼い顔で笑っていた。
◆
花冠祭から二週間後。
アレクシスは、国王の執務室へ呼び出されていた。
「お前は……分かっているのか」
国王は、額を押さえたまま低く言った。
「花冠祭のあと、宮廷の亀裂が目に見えて広がっている」
アレクシスは眉をひそめた。
「大げさです。あれは、そんなに目立つ失態ではありませんでした」
「目立つ失態がなければ問題ないと思っているのか」
「実際、そうでしょう。子どもたちにも怪我はなく、客も最後まで残りましたし」
「それだけでは、王宮の催しとして足りんのだ!」
国王の声が、執務室に響いた。
「名を呼ぶ順ひとつで、軽んじられたと受け取る。それが貴族だ。それが宮廷だ」
「……旧貴族が、これ見よがしに粗を探しているだけです」
「その粗を与えたのはお前だ」
アレクシスの顔が強張った。
「ただでさえ、お前は新興貴族に肩入れしすぎていると言われている。そこへベルティア伯爵家を、長年の後援者より前に出した。どう受け取られるか、考えなかったのか」
「父上も、新興貴族の取り込みは必要だと仰ったはずです」
「必要だ。だからといって、旧貴族の顔を潰せとは言っておらん」
「ですが、近頃の旧貴族は口うるさいだけです。何をしても古い慣例を持ち出して邪魔をするではありませんか」
「だからといって、王家がその均衡を崩してどうする!」
国王は深く息を吐いた。
「王家は、どちらか片方の家々だけで立っているのではない。新興貴族を取り込みたいなら、旧貴族の顔も立てる。それができずに、何が王太子だ」
「……花冠祭ひとつで、そこまで騒ぐことですか」
「騒ぎになっているから言っている!」
国王は机の上の報告書を叩いた。
「ここにきて、旧貴族どもがヴィクトルの名を口にし始めた」
「叔父上を……?」
アレクシスの声が、わずかに揺れた。
「そうだ。王宮儀礼に詳しく、軍部にも顔が利く。本人は隠居のつもりでも、周りがそう見ておらん」
「叔父上は、王位に興味などないはずです」
「だから厄介なんだ。王位を欲しがらぬ者は、“王家の良識”として担ぎやすい」
「……まさか、叔父上を次の王に据えると?」
「そこまでは言っておらん。だが、お前への不信を口にする時、あやつらはヴィクトルの名を出すようになった」
アレクシスは唇を引き結んだ。
「それに、ヴィクトルの息子だ」
「エーベルハルトが、何か」
「お前が後回しにした東区視察の報告書を、宰相があいつに確認させていた。騎士団の配置案にも目を通し、孤児院の後援者への詫び状の文面まで用意している」
「……勝手なことを」
「勝手をさせたのは、お前だ」
国王の声が冷えた。
「旧貴族の間で言われ始めている。王太子殿下より、傍系の若君の方がよほど話が通じる、とな」
アレクシスは、初めて言葉を失った。
【ミレーヌside】
花冠祭から十日が過ぎた午後、仕立て屋からドレスが届いた。
その日は、レオンハルト殿下が公爵邸へ迎えに来る日でもあった。
行き先は、王都劇場。
春の新作歌劇が評判だと聞き、殿下が席を用意してくださったのだ。
「……」
鏡の前で、私はしばらく言葉を失った。
淡い桃色の布地に、白の薄布がふわりと重ねられている。
胸元と袖口には、細い銀糸で小花の刺繍が入っていた。
仕立て屋の女主人が言っていた通り、銀糸のおかげで、浮ついた印象は抑えられている。
……はずなのだが。
「……かわいすぎないかしら」
思わず呟くと、背後に控えていた侍女が、一瞬だけ返事に迷った。
「……やっぱり、そうなのね」
「い、いえ。ミレーヌ様」
侍女は慌てて首を横に振った。
「その……見慣れていないだけでございます」
「見慣れていない」
「いえっ、その、お顔色がとても明るく見えて、よろしいかと……!」
「……そう」
鏡の中の自分を見る。
たしかに、これまで着ていた淡い青の礼装より、顔色は明るく見える気がした。
けれど、そのぶん落ち着かない。
侍女は、手袋をさっと差し出した。
「少なくとも、レオンハルト殿下はお喜びになるかと」
「……そうかしら」
その時、扉の外から声がした。
「ミレーヌ様。レオンハルト殿下がお越しです」
「分かりました」
私はもう一度だけ鏡を見てから、侍女に手袋を整えてもらった。
玄関広間へ向かうと、レオンハルト殿下がすでに待っていた。
今日は王宮で見る礼装よりも、少しだけ柔らかな装いだった。
深い灰青の上着に、白いクラヴァット。
銀の飾りボタンだけが、控えめに光っている。
殿下は私に気づくと、ふと動きを止めた。
その視線が、私のドレスで止まる。
「……」
何も言われない時間が、妙に長く感じられた。
「……正直に仰っていただいてよろしいのですよ」
そう言うと、レオンハルト殿下はようやく瞬きをした。
「いや、よく似合っている」
「……ありがとうございます」
「仕立て屋で見た時も似合うと思ったが、こうして着ている方がいい」
あまりに真っ直ぐに言われ、私は少し戸惑った。
「殿下は……そういうことを平然と仰いますね」
「平然と?」
「ええ」
「いや。平然とは、していない」
「え?」
レオンハルト殿下は、わずかに視線を横へそらした。
「言葉を選んだ結果が、これだ」
その言い方が不意打ちで、頬が熱くなる。
「では……選んでいただいた言葉として受け取ります」
「そうしてくれ」
殿下はそう言って、私へ手を差し出した。
「劇場へ行こう。開演前に、少し時間を取ってある」
「何かご予定が?」
「あなたが甘いものを嫌いでなければ、劇場近くの菓子店に寄りたい」
「……まあ」
私は差し出された手に、自分の手を重ねた。
「それは、楽しみです」
「ならよかった」
殿下の声は、いつも通り静かだった。
けれど、重ねた手を包む指先には、いつもよりほんの少しだけ力がこもっていた。
それに気づいてしまって、私は少しだけ視線を落とした。