作品タイトル不明
第8話 家族の形
第8話 家族の形
冬の足音が近づいていた。
空は高く澄み渡り、冷たい風が街路樹の葉を揺らしている。
その日、森田凛子は久しぶりの休日を迎えていた。
朝からよく晴れていた。
大学病院での夜勤が続いていたが、今日は完全な休みだ。
凛子はベージュのニットに紺色のロングスカートを合わせ、白いスニーカーを履いていた。
手には大きなエコバッグ。
中にはスーパーで買った食材が詰まっている。
鶏もも肉。
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
ブロッコリー。
牛乳。
そして子どもたちが好きなプリン。
行き先は決まっていた。
あおぞらホーム。
自分が育った場所だった。
住宅街の中に建つ二階建ての建物が見えてくる。
白い壁。
小さな花壇。
子どもたちが植えたパンジーが風に揺れていた。
門をくぐった瞬間。
「凛子さーん!」
元気な声が飛んできた。
真央だった。
制服の上に紺色のカーディガンを羽織っている。
凛子の姿を見るなり駆け寄ってくる。
「おはよう!」
「おはよう、真央ちゃん」
「今日は何作るの?」
「シチューにしようかな」
「やった!」
真央が飛び跳ねた。
その声に釣られるように子どもたちが集まってくる。
「凛子さん来た!」
「今日も料理するの?」
「俺も手伝う!」
賑やかな声が玄関に響く。
凛子は自然と笑顔になった。
「みんなで作ろうか」
「はーい!」
食堂へ向かう。
大きな窓から冬の日差しが差し込んでいた。
厨房では施設長の恵子がエプロン姿で野菜を洗っている。
「あら、おはよう」
「おはようございます」
「休みなのにありがとうね」
「私が来たいんです」
恵子は優しく微笑んだ。
「そう言ってくれると嬉しいわ」
料理が始まる。
じゃがいもの皮をむく子。
玉ねぎを切る子。
ブロッコリーを洗う子。
真央は真剣な顔でにんじんを切っていた。
「指気を付けてね」
「分かってます!」
そう言った直後。
「いたっ」
「ほら」
「ちょっとだけ!」
真央が頬を膨らませる。
その様子に周囲が笑った。
食堂に笑い声が広がる。
凛子は鍋をかき混ぜながら、その光景を見つめた。
温かかった。
ただそれだけなのに。
胸の奥がじんわり温かくなる。
結婚していた頃。
食事は義務だった。
作るのが当然。
後片付けも当然。
感謝されることはなかった。
だがここでは違う。
「凛子さん、味見して!」
「うん」
「どう?」
「美味しい」
それだけで子どもたちは大喜びする。
食卓を囲む時間が楽しい。
それが当たり前になっている。
昼食の後は勉強会だった。
リビングに机を並べる。
真央が数学の問題集を持ってきた。
「これ教えて」
凛子は椅子に座る。
「どこ?」
「二次方程式」
「懐かしいなあ」
ノートを覗き込む。
鉛筆の匂い。
紙をめくる音。
窓の外では子どもたちが縄跳びをしている。
平和な午後だった。
「分かった?」
「うん!」
「本当に?」
「たぶん!」
「たぶんかあ」
二人で笑う。
真央は鉛筆を回しながら言った。
「凛子さん」
「ん?」
「前よりよく笑うようになったよね」
凛子の手が止まった。
「そうかな」
「うん」
真央は真剣だった。
「前は疲れてる顔してた」
胸が少しだけ痛む。
図星だった。
あの頃の自分は余裕がなかった。
いつも誰かのために走っていた。
誰かの機嫌を気にしていた。
自分のことを後回しにしていた。
「そうだったかも」
凛子は素直に認めた。
「今は?」
真央が聞く。
凛子は窓の外を見る。
笑う子どもたち。
花壇の花。
冬の青空。
そして。
ここにいる自分。
「今は幸せ」
自然に言葉が出た。
真央が嬉しそうに笑う。
「よかった」
夕方になる。
夕食はみんなで作ったクリームシチューだった。
サラダ。
ロールパン。
デザートのプリン。
テーブルには湯気が立ち上っている。
「いただきます!」
元気な声が響いた。
子どもたちが競うように食べ始める。
「おかわり!」
「早い!」
「俺も!」
大騒ぎだった。
凛子は笑いながらシチューをよそう。
ふと視線を上げる。
恵子と目が合った。
恵子は何も言わなかった。
ただ優しく微笑んでいた。
その笑顔を見ていると、不思議と涙が出そうになる。
血は繋がっていない。
名字も違う。
顔も似ていない。
それでも。
家族だった。
苦しい時に受け入れてくれる人がいる。
帰る場所がある。
笑い合える時間がある。
それは血縁よりもずっと大切なものかもしれない。
食事の後。
玄関先で帰り支度をしていると、真央が駆け寄ってきた。
「また来週来る?」
「来るよ」
「約束ね」
「約束」
小指を差し出される。
凛子は笑いながら指を絡めた。
「絶対だからね!」
「絶対」
夜風は冷たかった。
けれど心は温かかった。
凛子はあおぞらホームを振り返る。
明かりの灯る窓。
楽しそうな笑い声。
懐かしい匂い。
自分を待っていてくれる人たち。
そして改めて思う。
ここが自分の居場所なのだと。
誰かに与えられた場所ではない。
自分自身が帰りたいと思える場所。
本当の家族がいる場所。
凛子は穏やかな笑みを浮かべながら、冬の夜道を歩き始めた。