軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

倶利伽羅陀羅尼幻影剣

「レフィールさん。あなたの剣には、怒りと焦りと見て取れます」

クラリッサは三角屋根の上、もう茜色に傾いた陽光を背にして、レフィールを見下ろしながらそう戒めのように口にした。

戦い始めてからときは経ち、最早夕刻に迫りつつある。レフィールはやけに眩しい夕陽に目を細めつつ、彼女の言葉に訊ね返す。

「それは、どういうことだ」

「そのままの意味です。剣筋に焦燥が滲んでいる。曇っているとまでは申しませんが、均衡がとれていません」

クラリッサの指摘の言葉を、レフィールは鼻を鳴らして否定する。

「そういう手管を使う相手とは戦ったことがある。自分と相手の力量が拮抗しているために、勝利の糸口を掴むために戯れ事を口にして揺さぶりをかける姑息な手だ」

「これは忠告です。レフィールさんは勝利といいますが、私にこの戦いで得たい勝利など存在いたしません。それは私たちの目的がわかっているのなら自ずと判るはず。それに、あなたは気付いておられるでしょうか? そんな戦いに勝利がどうかと口にしている時点で、あなたが自身、勝利に焦っていることに」

「……知った風な口を利かないでいただきたい」

「上から浴びせられる忠告ほど耳に痛いものはありません。私も、覚えがあります。忠告が要らぬお節介はおろか、強者の立場で振る舞われることが何よりの苦痛となる」

それは確かに穿った物言いだった。戦いの最中の忠告じみた言葉は、何より腹が立つ。それをわかっていて口にするのだから、苛立ちも余計増す。

剣撃を浴びせ、黙らせてやりたい。そう思うが、そうやすやすとはできないのがまた痛い。クラリッサのいる場所は、レフィールにとって手の届かない場所ではない。だが、ここで剣を振るって赤迅が絡む剣撃波を浴びせても、クラリッサには決して当たることはないのだ。

ゆえに、レフィールはクラリッサの知ったような口を、聞いていることしかできない。

「レフィールさん。その忠言を乗り越えてこそ、人は強くあれるのです。誰しもが何にも負けない強さを得るのは、私の望み。いえ、私たちの望みなのです」

そう、聞いてもいないことを高らかに演説する姿は、全く救世教会の神官と言えよう。

だが、レフィールにも言いたいことはある。

「……シスター、私からも忠告しておこう。戦う相手へ高説を吐くのは勝ってから行うものだ。相手を地にこすり付け、ぐうの音も出ないほど打ち据えたそのうえでこそ、高らかに謳う権利があると知れ」

「確かに。仰る通りにございましょう。ご忠告痛み入ります」

「――ッツ」

聞き入れる。礼を述べる。厳しく断じたレフィールに、クラリッサは屋根の上で恭しく頭を下げた。

この状況にあってなおそんな態度を見せる女が、レフィールの心を逆撫でする。

「ですが――」

クラリッサはそう前置きして、ふんと鼻を鳴らす。そして――

「そのクソほども役に立たない矜持にこだわっているばかりでは、いつまでも敗北のヘドでその身を汚すことになりましょう。そんなゴミクズのような犬死にには、微塵も価値などありません」

彼女が見せたのは、いままでの慇懃な態度からは全く想像できないほど、粗野な言葉遣いと態度、そして殺気だった。

お前は、勘違いをしている。そんな風に言外に言われたような気がして、背筋がひやりと冷たくなる。

しかしてそれでクラリッサは話を終えるか、屋根の上から弾かれたように飛び、一直線に向かって来る。

獣のような速度は優に超え、もうその速さは目にも留まらない。動き自体がまさに斬線だ。彼女が脇を通り過ぎるだけで、爪か、それとも牙なのか定かでない攻撃で切り裂かれる。

「くっ……」

いまレフィールに見えるのは、何かが通ったあとに尾と引く残像らしき線のみだ。それに剣を打ち込むことはできる。だが、相手を捉えられないゆえに、その斬撃は闇雲なのだ。相手のどこを斬っているかもわからない剣の、どこに必殺がこもるのか。当たればいいなと願望のように振り出された剣などが、相手に当たるはずもない。

「はぁっ!」

斬線の通り道を予測して、赤迅と共に剣を振り下ろす。

だがいくら声を上げて斬りつけても、剣はただ空を斬るばかり。

それゆえ、焦りが背中を焦がす。このままでは、自分は負けてしまうと。

ふと頭に浮かんだそんな予想に、レフィールは心の中で頭を振る。敗北など受け入れてはならないと。自分はもう、決して負けてはならないのだと。

「ならばっ……!」

当たらないのなら、当たるようにすればいい。それこそ、肉を切らせて骨を断つ。あとのことなど端から無視し、斬撃に及ぶいまそのときだけに全てを懸ければ、必殺の一念は通ずるはず。その解のもと、レフィールは斬線の前に立ちはだかり、渾身の斬撃に及んだ。

「おぉおおおおおおおおおおおおおおおお!」

だが、

「甘いですわ」

剣は空振り、懐に入られた予感と共にそんな指摘の言葉が投げかけられた。

「ぐぁ!」

次いでこの身を襲った衝撃に、なすすべもなく吹き飛ばされる。見えたのは、ひじ打ちだった。咄嗟に急所だけは外したが、かかった力はまともに受けてしまった。

そのまま、地面を転がる。聞こえてくるのは、フェルメニアたちの悲鳴のような声と、ジルベルトの怒鳴り声。一瞬意識が薄れるが、ここで気を失ってはならないと力ずくで意識を手繰り寄せ、転がる勢いを利用して立ち上がる。

「さすがは精霊の神子様ですわ」

「ち……」

まるで血振るいでもするかのように爪を払い、悠然と歩いてくるクラリッサ。その動きからは有り余るほどの余裕が窺え、己とは対照的なその様子にレフィールは、先ほどの指摘を再度突き付けられたような気がした。

そんな中、突然地面に魔法陣が描かれる。先ほど見たような光景に、レフィールやフェルメニアたちは歯噛みし身構えた。

だが、やがてそこから現れたのは、先ほど魔法陣の中に落ちていった水明だった。

「どこのどいつかは知らねぇがやってくれたじゃねぇか……」

片膝を突いた状態で、その静かな怒りをらしい悪態で表す水明。衣服は黒のスーツに変わっているが、どうやら特に怪我はないらしい。

そんな彼に、レフィールが声をかける。

「スイメイくん、無事だったのか……」

「ああ……っておい! レフィ大丈夫か!?」

「なんとかね」

レフィールが無理をしたような笑顔を水明に向けた折、

「――ですが、私との戦いは敗北と言っていいでしょう」

足裏の擦れで舞った風塵を横に流し、レフィールの目前に迫るクラリッサ。その、あまりに訳知り過ぎる物言いに、レフィールのまなじりが悔しさと苛立ちで吊り上がった。

レフィールが動けないことを察し、水明が庇いに入る。すると、クラリッサは彼との戦いに危機感を持っているらしく、後ろへ大きく飛び退いて距離を取った。

その様子見な態度の合間に、水明はフェルメニアたちの方にも確認の言葉を送る。

「フェルメニア、そっちは!?」

「な、なんとかっ……」

「初美!」

「こっちはこっちで手一杯よ!」

「っつ……」

フェルメニアはジルベルトの巨大な仕込み斧槍に対し、防御の魔術を展開している。どこから襲って来るかは、小柄なドワーフの女性にのみぞ知る絶殺の攻撃に、障壁を全周展開。彼女の後ろで補佐をするリリアナと共に四つの目で、着弾地点を見極めんと腐心している。

防御は出来るが、防戦一方。

その近くで剣を振るう初美は、白づくめの少女との戦いに釘づけだった。

――ひとつひとつ、どうにかしていくしかないか。

水明が現状の対処にそんな答えを出し、一気に魔力を高めると、ジルベルトが叫んだ。

「おい、クララ!」

「わかっています!」

クラリッサは呼びかけに応じ、距離を取る。片やジルベルトも斧槍の先を柄に引き戻して、クラリッサの隣に立った。

「ジル、油断なされぬよう。スイメイ様はローミオンを討ち、あのインルーに認めさせたお方」

「何でこんな奴がと思ったが、なるほど『普段の奴』じゃねぇ。擬態が極まってやがるぜ」

水明の力を目の当たりにして、ぺっと唾を吐き出すジルベルト。彼女たちも、まとう武威は強烈だ。あのインルーとなんら引けは取らないその力の表れに、水明も悪態を返す。

「擬態どうこうは人のこと言えないだろうが」

「ま、そうなんだが」

そうジルベルトが認めると、隣のクラリッサが再度の提案を口にする。

「スイメイ様。レフィールさんたちを連れてお引きになっては頂けませんか?」

「それはこっちの台詞ですよシスター。何をやろうとしているのかは知りませんが、別の手立てをお考えいただきたい。どうにかなりませんかね?」

「それができりゃあな……」

ふと流れが変わったのは、ジルベルトが答えたそのときだった。

「――クラリッサ、ジルベルト。いまはもう良い、下がるがいい」

空から、突然うら低い男の声が降ってくる。水明は茜色の空を仰ぎ、声のした方に視線を向けると、平たい三角の切妻屋根の上に人影が見えた。

「ちぃ、また増えやがった――あ?」

毒づいてすぐ、水明はおかしいことに気付く。もうすぐ日も傾き、しばらくすれば日没というところだが、それでも遮蔽物のない屋根の上に立っていれば、その姿は明らかになるはず。

だが、クラリッサたちに撤退の命を出したと思われる人物は、まるで蜃気楼の中にでもとらわれているかのように、何故かその像がはっきりしなかった。

再度クラリッサたちに向かって男の声が通る。

「行くぞ」

「よろしいのですか?」

「時機がずれたのだ。遅れると、いらぬものに巻き込まれるぞ」

「巻き込まれるとは――」

クラリッサが蜃気楼の男へとそんな訊ねを返したとき、ふとサヨナキドリの囀りの音がどこからともなく聞こえてくる。直後、震撼する世界。それは地震とも違う不可思議な空間の揺れであり、やがてサヨナキドリの 囀(さえず) りが、巨大な鉄が軋んだときに発せられるような音へと変化した。

「……このタイミングで、 神秘力場揺動(マナフィールド・バイブレーション) だと?」

そんな困惑の声を上げたのは水明である。魔術師である彼にとってこの揺動は近しい現象だが、現状で起こるような要因がまるで思い当たらなかった。それに加え、いま起こっている揺動はいつも魔術を使う際に起こる揺動と比べ、何と言っては能わないような違和感があった。

一方、この尋常ならざる現象に驚きの声を上げたのはジルベルト。

「な、なんだこれ!?」

彼女はこの現象に初めて遭遇するらしく、地震とは違う震動に困惑している。隣にいるクラリッサの方もそれは同じらしく、ジルベルトと共に水明たちに気を配りながらも辺りを油断なく見回していた。

「落ち着けジルベルト、クラリッサ」

「ですがゴットフリート様!」

「問題はない。これも想定の範囲内だ。揺れは大人しくしていればすぐに収まる」

その声の教えの通り、やがて揺れは収まった。

沈静化を確認して、フェルメニアが訊ねてくる。

「スイメイ殿! これは?」

「いや、俺にも……」

発生の原因も、この揺れがどんな事態の前触れなのかも、水明には皆目見当がつかなかった。 神秘力場揺動(マナフィールド・バイブレーション) の発生原因は、高位格存在の顕現、大魔術の行使などの前兆として発生する。

しかしこの状況ではそのどちらも、発生条件に当てはまらない。

だが実際にそれは起こり、何らかの変化を知らせている。

では何故起こったのか。水明がそう考えたとき、ふといまが『何の時刻なのか』に気が付いた。

「そうか、黄昏時か!」

そう、昼と夜の間の曖昧な時間である夕暮時。この時間には、『怪異』『終末のケ物たち』などと呼ばれる存在が現界する可能性があるのだ。

そのひらめきが正解だと肯定されるかのように、夕陽の沈む反対方向。夜の帳が翳りとなり、藍色の波が夕陽に照らされた地面をゆっくりと這うように冒す領域に、ぽっかりと黒い点が穿たれた。

そこから、突如として真っ黒な獣があふれ出す。

「な、なにあれ!?」

真っ黒な獣――怪異が暗穴から次々に噴き出すのを目の当たりにして、驚く初美。一方、レフィールは彼女に比べ多少なり冷静なのか、その正体を見極めんと観察する。

「犬……いや、狼か?」

「何か気味が悪い、です」

その真っ黒な姿が、リリアナには罪深き姿や禍々しき者を思わせたのだろう。彼女は怪異を見るや否や反射的にレフィールの後ろに引っ込んだ。

しかしてその獣の姿は、レフィールの呟いた通り犬のようでもあり狼のようでもある曖昧な姿をしており、身体を染める黒は黄昏時に見える闇の影を思わせる。瞳らしき部分は鮮血のように赤くおどろおどろしく、周囲に影のような帯を舞わせていた。

フェルメニアはどこか見覚えのあるその姿に、目を丸くさせる。

「スイメイ殿、これは……?」

「これは怪異って存在だ。俺たちの世界の化け物……いや、化け物よりも 性質(タチ) が悪い存在だ」

そういま目の間にいる犬とも狼ともつかないものは、魔術師の内では 終末事象(トワイライト・シンドローム) の一種、丙種怪異に区分されるものである。

この現象が一番最初に観測されたのがフランス地方だったゆえに、最初期に現れる現象が「犬と狼のあいだ(Entre chien et loup)」のものとしてその概念が定着したのだという。

安寧の内に現れる危殆という意味を持って付けられたこの言葉が、その現象に形を与えてしまったのは、この上ない皮肉だろう。

あふれ出した怪異の動きには規則性がなく、あるいは影に潜み赤い瞳を輝かせ、あるいは夕陽の届かない領域で低く唸り、いまかいまかと生ある者に狙いを定めている。

それは水明たちだけではなく、ジルベルトやクラリッサも例外ではなかった。

昏い場所を伝って攻めてくる怪異に、ジルベルトが舌打ちをする。

「ち、こいつら、こっちにも」

「捨て置け、ジルベルト。あれは 剣主(ソードテイマー) か魔術師でないと倒せぬものだ。手を煩わせるだけ無駄というもの。手を出さずともよい」

「それはわかてるけど……」

「ゴットフリート様……」

このままでは、マズいのではないか。そうクラリッサが目で訴えかけるが、屋根の上に立つ蜃気楼の男はやはり否定的だった。

「いいや。我らが倒すには及ばない。黙っていても、その男がどうにかするだろう。できないはずがない。やらないはずもない。そうだろう?」

そう区切って、蜃気楼の男が口にしたのは、

「――魔術王ネステハイムの弟子、 現代魔術師(スペリオル・ウィザード) よ」

その素性を知っているかのような物言いに、水明は慌てて屋根の方を向く。

「知っているのか!?」

叫ぶが、蜃気楼の男は答えない。まるで水明のことを言葉で弄んでいるかのよう。だが水明には像のはっきりしないその顔に、薄い笑みが浮かんだように見えた。

「みな、引き上げるぞ」

蜃気楼の男はそう言ってクラリッサやジルベルト、白服の教団員たちに撤退を促す。

「待て! 俺の質問に」

「答える義理はないが、そうだな、一つだけ伝えておこう。我らのことは、普遍の 使徒(ウニベルシタス) と、そう覚えておくがいい」

「ウニベル……?」

水明が困惑の表情を浮かべていると、蜃気楼の男は追跡を防ぐためか、呪文を唱える。

「――Code pragmatic.Flame resist kenon. To become one, it turned into mud」

(――図像を示す。炎と抵抗、質量のあるケノン。それら概念は我が言葉によって一つとなり、泥にまとまれ)

神秘の行使。そう察した瞬間、水明たちとクラリッサたちの間の空間に、魔力光によって図形と記号が描かれる。かと思うとそこから炎が無作為に飛び出し、辺りに燃え広がった直後、それらが全て陽炎を生む赤い泥へと変化した。

赤い泥はさながら炎が延焼するかのように増殖を始め、その周囲にも炎を生み出し、迫りくる怪異に壁となって立ちはだかる。怪異もクラリッサたちに追い縋ろうとするが、結局その泥の存在する領域を突破することができなかった。

一方、その術の行使を見て驚いたのは水明だった。

「いまの術は……」

魔力光が浮かび上がらせた記号と図形に見覚えはないが、いまの術はこちらの世界のエレメントを利用した魔法ではなかった。つまりは、魔術。しかも、水明には思い当たる節のある術だった。

「スイメイくん! 何に驚いているかは知らないが固まっている暇はないぞ!」

「あ、ああ! そうだな!」

レフィールに指摘され、水明は自分たちの方に向かってくる怪異の方に意識を集中させる。いまは、それどころではないと。気付けばすでに夜の帳は近くにまで及んでおり、怪異たちもすぐそこまで迫ってきていた。

「――あまねく風をその伝えとし。揺らぎに映えるその炎を御もとへと。我が声よ届け、汝白く染まりしアイシム。我が声よ届け、汝あらゆる厄災を振り払えしアイシム」

フェルメニアが怪異に向かって白炎薙の魔術を放つ。白熱した光線が怪異を薙ぎ払うが、しかし怪異は何事もなかったかのように平然とそこにあった。

「スイメイ殿、これはどうすればいいのですか!? 魔術を撃ってもあまり効果が……」

「下がるんだ! こいつらは普通の魔術を撃っても倒せない! フェルメニアはリリアナを連れて後ろに!」

「わ、わかりました!」

フェルメニアは水明の指示に従い、レフィールの後ろにいたリリアナを連れてまだ昏闇の迫っていない後方へと下がる。そんな中も、水明はレフィールの方を向いて、

「レフィも下がれ! そいつらは特殊で……」

「待ってくれ。試してみる」

と言って、レフィールは下がらずに赤い風を剣先にまとめ上げて、影から飛び出してきた怪異に向かってそれを叩きつけた。

精霊の力の一部である赤い風は怪異に対しても効果があるのか、怪異は蟠った赤い風の乱流に取り込まれ、真っ黒な血を傷口から噴き出して崩壊していった。

「いける。こっちは任せてもらおう」

「すげ……ああ、わかった。あとは……初美?」

ふと水明は近くに幼馴染みがいないのに気付き、その姿を探して視線を走らせる。どこにいるのか。すぐにその姿を見つけるが、彼女はすでに怪異に取り囲まれていた。

「な……」

つい先ほどまで確かにそこにいたのに、どうしてそんな離れたところにいるのか。昏い闇の領域で、初美は絶えず群がってくる怪異に対し剣撃を叩き込んでいる。しかし斬撃はまるで怪異に通用しない。打ち据えたり、弾いたりはするのだが、傷の一つもつけることもままならなかった。

――人間は襲い来る現象に対して対策を講じ、払いのけたり、身を守ったりすることができる。だがその現象自体をこの世から失くすことができないように、終末事象と呼ばれる『現象』である怪異には、ただの剣撃では消し去ることができないのだ。

「こいつら、どんどん増えてくる……!」

怪異に刀を打ち付けながら、初美は表情に焦燥を浮かべる。

「初美! ダメだ下がれ! こいつらは俺がどうにか……」

「そんなこと言ったって、このままじゃこいつら向こうにまで!」

その言葉で、水明ははたと気付く。いま初美がいる場所は、橋の手前だ。そしてその向こうにも、沢山の人がいる。こちら側は自分たちが居るためどうにかなるだろうが、怪異をそちら一匹でも行かせてしまえば、大変なことになってしまうだろう。

数で攻めてくる怪異であるため、範囲攻撃が有効だが――

「くそ、もう少し時間が経てばすぐなんだが……」

空はまだ明るく、夜になりきっていない。星空の魔術を使いたくても、使うことができなかった。

一気に倒せないのがもどかしい。水明はそう思いながらも、魔術を使い、怪異を一体一体処理しつつ、一人取り残された初美のもとに駆けつけようとしたとき。

「……きゃっ!」

初美はバランスを崩したところに怪異から体当たりを受け、跳ね飛ばされる。そして、投げ出された彼女の前に、犬の姿をした怪異が一気に攻めかけてきた。

「あ……」

彼女の口から漏れたのは、絶望の混じる呼吸。だがどうしたのか、彼女は逃げるどころか、まるで金縛りにあったように動かない。怪異に怯えた視線を向けたまま、刀の柄を握る手をカタカタと震わせていた。

「くそっ! 初美ぃいいいいいいいいいい!」

動けない彼女の前に、水明はなりふり構わず飛び出した。

――怪異に突き飛ばされた。そう思ったときまでは、まだ己の心はしっかりしていたと思う。だが投げ出された先の地面で身体を打ち付けたとき、突然身体を、覚えのない恐怖が支配した。

怪異の持つその牙で、その爪で、殺されるとそう考えてしまったとき、手が震え、心が震え、急に身体が動かなくなったのだ。

魔族に立ち向かっているときも、こういうことは何度でもあったはずなのに、何故か金縛りになったかのように動けない。怖い。怖いものが前にいる。そんな言葉が頭の中に浮かんではガンガンと響き、何もできなくなった。

そこで、ふと気付く。これは、あのとき彼が陥っていたものではないのかと。そう 心的外傷(トラウマ) だ。自分にとってのそれが、目の前にいるこれなのではないのか。それに気付かせられてしまったがゆえに、いま動けなくなったのだ。

怪異が跳びかかるその機微を察したとき、ぎゅっと、目を瞑ってしまう。恐ろしくて。

だが、迎えるはずの痛みはいくら待って訪れることはなかった。

不思議に思い目を開けると、そこには黒のスーツをまとった少年がいた。

八鍵水明。いまは銀色の刀を携え、荒い呼吸を発している。庇いに入ったときに傷を負ったのか、スーツの肩口が切り裂かれていた。

「あ――」

見えるのは、少し前、龍人と相対したときのように自身に向かって差し出された背中。いつか夢で見た、そしていまの自分が思い出せぬ過去にあったはずの、この背中。

何度目だろうか。こうして、彼が自分のことを助けに来てくれたのは。森で一人、彷徨っていたときや龍人が現れたとき以外にも、覚えてはいないがおそらく何度もあるのだろう。

こんな姿が不甲斐ない。あのときもそう思ったのに、どうしていつも自分はこうして、彼の背中に甘んじているのか。

強くなったはずなのに。剣を覚え、ひたすら振り続け、戦うことができるようになったはずなのに。それなのに、いまこうして震えている。

果たしてそん在り方が、自分の望んだ姿なのか。

「――違う」

そうだ。守られているばかりが嫌だから、強くなろうと思ったのだ。そんな女では彼と一緒にいることができないと思ったから。誰かを守るために進む彼の隣で、一緒に歩くことができないから。

だから、

「――いまの私は、違う」

そうだ。だから、彼に置いて行かれぬよう、強くなろうと思ったのだ。

そう、だから――

「私は、剣で強くなろうとしたの……」

そう、自然と思い浮かんだ言葉を口にした直後、忘れていた全てが、怒涛のように戻って来る。自分が何者であって、どこにいたのか。誰と一緒にいて、何をしていたのか。いつかの過去が、いつか抱いた思いが。残らず全て回帰する。

滂沱のように流れてくる記憶に眩んだまま、刀を握り直して立ち上がると、水明が心配そうに声をかけてくる。

「大丈夫か?」

「ええ、大丈夫。ごめんなさい、いろいろ心配かけて」

「……?」

不思議そうな顔をして見返る彼に、再度心配ないと返す。

「もう、大丈夫だから」

「お前初美、まさか」

その言葉で、気付いたか彼は。驚いている水明の前に出て、脇の方から飛び出してきた怪異に狙いを定める。

そして――

「我が 心剣身幻(こころけんみまぼろし) に、三毒を破する技とせん。岩よりこの身を擲ちて、捨つる命は不動くりから……」

倶利伽羅陀羅尼幻影剣。この剣技と共に伝わってきたその言葉を、静かに唱える。

水明が使う呪文ではないが、ひとたび口にすれば心穏やかとなり、剣に意識が集中する。

怪異は剣では倒せないし、ダメージも与えることはできない。だが、攻撃を受け流し、剣で打ち払って押しのけることは出来るのだ。

真っ黒な牙を突き立てようとする怪異を剣撃で打ち飛ばす。すぐに他の怪異も四方八方から押し寄せてくるが、慌てず、刀を鞘に戻した。そして、

「――倶利伽羅陀羅尼幻影剣、 禅頂(ぜんじょう) 、 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) の太刀……」

陀羅尼を口にするように呟いて、刀を抜く。刹那をさらに切り分けた時間の中で、剣を振る都度は二十四。その全てを、怪異に対して叩き込んだ。

周囲の人間の目には、銀色の斬線が自身の周りで閃いたようにしか見えなかっただろう。跳びかかってきた怪異は全て、剣撃に弾き飛ばされて舞い上がる。

そこに間髪容れず、水明が光輝の魔術を打ち込むと、怪異はすぐさま崩れていった。

「初美お前……記憶戻ったのか」

魔術の余韻で周囲に魔力光の残滓が散る中、良かったと、思いがけず嬉しいことがあったというような顔をする水明。そんな彼に、見返って言い放つ。

「水明。あなたには言ってやりたい文句がおなかいっぱいあるけど、お礼だけは先に言っておく。ありがと」

少しひねくれたが、精一杯の感謝の気持ちのつもりだった。だが彼は、何故か慄いたような表情をする。

「お、お兄ちゃん投げるのは勘弁して欲しいな、なんて」

「……よく言うわよホント。あといつからあなたは私のお兄ちゃんになったのよ?」

「えーだって昔はさぁ」

「昔は昔、いまはいま! ……でも」

そう言って、思い出すのは昔に彼が助けに来てくれたときのこと。そう、

「あのときも、犬だったわね」

「……? ――ああ、そういえばそんなこともあったな……っと、れはともかくだ」

下がれと目配せする水明に、頭を振る。

「嫌よ。逃げたくないの」

「だが」

「向こうに行かないようにするから、倒すのお願い」

自分も戦いたいと。隣で戦いたいとそう言うと、水明は諦めのため息を吐いた。そして、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、

「任されよ」

そんな、頼もしい言葉が返る。そして、いま自分がやるべきことに取り掛かる。

橋の向こう側に行こうとする怪異を、剣撃によって弾き飛ばすこと。一匹も、決して通さないこと。

その意思を胸に怪異を叩き伏せていると、水明が暗さの増した空に向かって手を掲げた。

何かの準備が整ったのか。やがて彼は魔力を解き放ち、口を開く。

「――Velam nox lacrima potestas.Olympus quod terra misceo misucui mixtum.Infestant militia.Dezzmoror pluviaincessanter.Vitia evellere. Bonitate fateor.Lux de caelo stella nocte」

(――帳の内。夜の流す涙の威。其は天地の標を綾なして、現に蔓延る不条理へ、目眩く降り注ぐ。彼の嘆きしものは悪。彼の謳いしものは善。全てはあの擾乱の先にある彼方の瞬きより来たる、瞬きの星芒)

夜空に浮かぶ大小無数の魔法陣。それらがまるで砲口を向けるかのように動く。そして水明が「星天よ、落ちよ――」と口にした瞬間、辺り一帯に光が溢れた。

……その光が収まったあとには、怪異は残らず消え去っていた。同じように、ぽっかりと空いた黒い穴も、何事もなかったかのように消失していた。

もとの姿を取り戻した、静かな夜の街。先ほどまでの出来事は全て白昼夢だったのか。そんな風に思えてしまうほど、辺りは穏やかになっていた。

「終わったな」

「ええ」

笑顔を見せる水明に、笑顔を返す。それだけで、大切な全てがもとに戻ったような気がした。

ふとフェルメニアたちの方はどうなったかと、目を向ける。すると、何故か彼女たちは大きな声で騒ぎ、取り乱していた。

何かあったのか。そう危惧して駆けつけようとしたとき、ふと水明がクラリッサたちの去った方を一人険しい表情で見詰めているのが目に入った。

初美が先に水明に言葉をかけようとしたとき、

「アルス・マグナ・ライムンディ……いや、あの魔術は――」

そんな水明の呟きが、暗くなった空に響き渡ったのだった。