作品タイトル不明
その名前
男は兄貴といろんな人から慕われていて、顔の広い人間だった。生き別れの妹だと紹介された彼ら彼女らは、苦労したんですねと涙ぐんでいた。
それは私の身なりが、あまりいいものじゃなかったからだろう。王都の大火災で着の身着のまま逃げ出して、それからなんとか資金繰りして孤児院に入ったけれども、服を新調する余裕などなくて、ずっと同じ服を着ていたから、すっかり色褪せて擦り切れていたのだ。
本来孤児院の子供の服だって、孤児院の運営者が調達するものだけれども、賭け事に熱中しすぎて、そのお金に手を出していただろうから、孤児院の誰も、新しい服なんて手に入れていなかった。
つまり裾が擦り切れていて、色もあせたり食べこぼしで汚れていて、私の見た目は酷かったのだ。
孤児院の皆がそんな状態だったから、それに違和感があることを忘れてしまっていた私は、そこで、ああ、自分の見た目はひどいのだと思い出した。
神殿に行くぞ、で連れて行かれた神殿では、お仕えする神様に捧げられた食料品とかが、格安で信者に売られていたらしくて、男はその神様の信者だったのか、懐から見せた信者の印のためか、その食料品を買い求められた。
「色々規律はあるけどな、この砂漠の神様は慈悲深いのさ。怒るとそりゃあ怖いんだがな」
本当に久しぶりに食べた、普通に噛みちぎれる硬さのパンと、毒のあるカビが生えてないチーズと、それから神殿の人が作ったスープは、美味しかった。
男は意外だけれども、食事の前にはお祈りの言葉を唱えていた。私も唱えたほうがいいということで、言った言葉を繰り返した。
「我らが神よ、日頃の糧を与えてくれましたことを感謝いたします。御身の加護がありますように」
意味はさっぱりわからないから、繰り返しだけれども、そのうち意味もわかる様になる、と男が断言していた。
この神殿では、信者以外に格安で食料を売らないらしい。他の宗教の人には、相場の値段で売るらしい。
でも、宗教を変えるって簡単な事じゃないから、安く食料を手に入れたいってだけで信者にはなれないそうだ。
転売も禁止だという。神から与えてもらったものを、儲けのために他の誰かに売るのは教義に反するだとかどうたらこうたら。
男の神様は、砂漠に本殿のある神様で、毎年そこの本殿にお参りにいかなくちゃいけない事も、難易度を高めているらしい。
お参りに行けない人は、それなりの金額を神殿に包んで、お参りに行った代わりのお守りをもらうそうだ。
宗教とお金って絡むと面倒だと思うけれども、そんなものらしい。
「金が必要なのはおれ達人間だけどな。こんな事でっかい声で言えねえけど」
こそこそと言うと男は、神殿の事情の裏側のあれこれをよく知っているのかもしれなかった。
それでも、男の宗教のおかげで、こんな事は久しぶりすぎると思ったくらいにちゃんとお腹いっぱいに食べられて、旅の途中の信者に解放されている寝床を借りられた事は大きくて、男と私は同じ寝台で休んだ。
変な話じゃない。そもそも旅人は宿屋などでは寝台を誰かと共有するのが普通で、一人一台の寝台で寝るなんて普通の旅人じゃない。そう、お金持ちは高いお金を払って寝台を独占するけれども。
男の体温は高くて、国境の冬の冷たい気温でも私が凍えなかったのは、この男の体温のおかげだった。
そのかわりに豪快な寝返りで押しつぶされかけたけれども、ぎりぎり寝返りを打った事で潰れなかった。それだけは安心した。
一晩泊めてもらって、男は神殿の人といくつかの事を話し合っていた。私は、神殿に寄付された古着をもらうために、女の神官の人に、他の似たような目的の人たちと一緒に連れられていた。だから会話の中身は知らない。
古着は色々あるみたいで、これから砂漠に向かうのだと言うと、それ用の服を一式用意してもらえた。砂が多いから、それに苦労しない衣装がいいのだという。
日差しも強いから、日差しを和らげるために布の面積が多いほうがいいのだとも言われた。
「あなたも砂漠に行くの? 砂漠は今大変よ?」
「兄ちゃんが砂漠に行くって言うから、一緒に行くの」
「あらあら、とっても似ていると思っていたの。あなたは彼の生き別れの妹だったのね」
私はまだあの男の名前を知らないから、兄ちゃんと言う形容をしたのだが、やはり他人から見ても私とあの男は似ているらしい。
神殿務めの神官の女性に、納得したように言われた。
でもそうしたら、年の差がかなりありそうだから、どうなのだろう。
否定しようかと思ったけれども、それが面倒というか、どうやって否定するのが正しいのかわからなくて、私は何も否定しなかった。
「砂漠はね、今、水神様の怒りを解く方法を一生懸命に考えているのよ。砂漠で一番の神様だから」
「そうなの?」
「そう。長い長い八年近い大旱魃から、どうにか抜け出したいの。でも、なかなかいい方法が見つからないみたい。あなたのお兄さんみたいに、その方法を探すために、他国に行っている人も多いわ」
大旱魃は私が生まれる前から起きていた事だから、私はそうじゃない世界を知らない。
水が貴重だというのは故郷でもそうだった。毎年毎年、作物の値段が値上がりしているからか、どんどんと食べ物全般の値段が高くなっているとも言われていて、ほそぼそとした生活しか出来ない人達の家計を盛大に圧迫している事は、長屋を運営していたおかみさん達のところに、家賃の減額とか、家賃の支払いを待ってほしいと頼んでくる大勢の人の事情から知っていた。
母もそうだったのだろうか。でも母は、家賃の支払いを遅らせたりはしなかった。いつでもきっかり同じ値段を支払っているのを、私はおかみさんが感心したように旦那さんに話していたから知っている。
その代わりというのはあれだけれども、日常的に食事の量がさみしくなったり質素になったりはしていた。
それを変だと思う事もなくこれまで生きてきたけれど、やっぱりうちも家計が厳しかったのかもしれない。
「あら、あなたの背丈ならこれからぐんぐん伸びるから、ちょっと大きめで袖をまくればいけるわね」
「これ?」
「そう」
神官の女性がそう丈を調整しながら用意してくれた服は、確かに裾も袖も余っていたけれども、彼女は袖や裾をまくって、服を着るために使う細い紐で調整してくれた。
そういう紐で調整するのは、どこでも同じなんだろうな、と私は心の中で感想を抱く事になった。
「おう、ちびすけ。その砂漠の服なら間違いねえな、けっこうけっこう」
服をもらって、まだあの男は神殿の人と話し合っているのだろうか、と男がいたであろう場所に戻ると、彼はよしよしと頷いた。
「にしてもその色、五年前の流行じゃねえか」
「布地が丈夫だから長持ちしているんですよ。気に入らなければ染ものを扱うところで染め直してもらえば良いでしょう」
「確かに最終的には皆、安くて濃い色になるよなあ」
「あなたの着ている服と同じ色にね」
そこで私は、男の衣類が、実はかなりくたびれた布地だという事を知った。何度も繕って染め直しているに違いない。
色が濃くてわからなかったけれども、そういった補強の糸がいっぱいだった。
でも。
「濃い色は高級じゃないの?」
ドレスとか流行とか、そういったものが大好きで、大人と同じくらいに知識を持っていた幼馴染の話していた事を思い出して、私は問いかけた。
濃い色はたくさんの染料を使うから高いのだと、幼馴染が言っていた。なのに男の衣類は暗くて濃い色だ。どうしてだろう。
「そりゃあ、高い染料を使って染めりゃ高いだろ。ちびすけ、お前は知らないのかもしれないが、砂漠の染め物の専門の街だと、この暗い色は一番安い染め粉で染まる色なんだよ。本当に爪の先くらいでもこの色に染まっちまうから、薄めて他の色も混ぜられねえ。だから一番安いんだ。いっぱい手に入る染め粉だからな」
ちょっとでたくさん。なるほどそれなら安いのも納得だ。私は納得して頷いた。
「こっちの国じゃあ、繊細な色合いの染め物をたくさん砂漠から買い求めてるから、その分も値上がりしているだろうけどな」
「ふうん」
そんなものなのか。そう思ってから私は問いかけた。
「これからどこに行くの」
「砂漠の都さ。そこのギルドで受けた依頼の遂行の報告の後に、ちょっくら都の噂話を集めて、都の神殿の話を聞いて。貧乏暇無しだぜ」
貧乏という言葉に悲観的な顔をしないその男を見ていると、少しでなく不思議に思えた。だって誰でも、貧乏と言うと悲惨な顔をしたり空気を醸し出したりしていたから。
この男のように、貧乏だぜ、と明るい態度の人間は見た記憶がない。
「お前はその目玉だからな」
男と話していた神官が言う。目玉? 私は男の目玉を見たけれども、目玉がすごくきらきらした銀色って事以外は何もわからなかった。
そう、わからなかった。それのどこが変なのかも、知識がない私には判断がつかなかった。
「目がおかしいの?」
「バロ、お前妹に何も話していないのか」
「話す事あったか?」
「あるだろう。その目玉がどこでどうしてその色に染まったのか位は」
「目玉の色なんて何色でもおかしくねえだろ」
「その適当さでよくまあ……」
神官は呆れた調子でそう呟いている。そこで呼びかけられた名前を聞いて、私は男の名前がバロだと知った。
それはこっちの国での呼び方だろう。国によって同じ綴の名前でも、呼びかけ方が違うと母が言っていた。
たまにあるのだとか。知らない名前で呼びかけられた時、実はお国の違う人が呼びかけたからだったなんて話が。
シャルロッテとシャーロッテくらい似ている時があれば、アーサーがアルトゥルと呼ばれるくらいに印象が違う事もあるとかないとか。
私の名前も、他の国だと呼び方が若干違うかもしれない。そんなのは気にする事がないから知らないけれども。そもそもそんな場面に出くわした事がないし。
「ほれ、行くぞ、ちびすけ。何としてでも大河を今日中に渡らにゃならん」
「大河を渡った先なの、砂漠の国って」
「そうさ。あのでーっかい河の先に、砂漠の都に続く街がある。その街からずーっと歩いて、紅玉の都と呼ばれる砂漠の都につくわけだ」
紅玉の都。とてもきれいな響きだけれど、街が全体的に赤いのだろうか。
小さい私でも、紅玉と碧玉と金剛石の名前は知っている。その三つしか宝石の名前も色も知らないけれど。
アクセサリーも大好きな幼馴染は、持ってないけど知識はいっぱい持っていた。色と説明が書かれた図鑑も持っていた。たしかあれは、二年分の誕生日のお祝いとして買ってもらった特別なものだと笑っていたけれど、それも火の中に消えている。
「ちび、船酔いするかはわかるか」
「わかんない、乗った事ないし」
「そうか」
「あなたはあるの」
「山程」
けっけっけと自慢そうに笑うバロだが、どうしてそんなに頻繁に大河を渡る事をするのだろう。彼の仕事のためなのか。
よくわからないながらも、私は手を掴んできたバロの手を握り返して、街で携帯食を買った彼が、雑な金勘定なのに、お釣りを不当に減らす計算を見逃さない男だという事を知った。
「おい、お釣りちょろまかすんじゃねえよ、あと銅貨二枚分の釣りがあるだろうが」
「……そういうのは目ざとい」
「毎回ここで買ってんだからお前のやり口は知っている」
「じゃあどうして毎回ここで買うんだ」
「はあ? ここのが一番保存が効くんだよ。あと質が良くてうまい」
「……持ってけ。小さい子のおまけだ。お前の妹なんだろう? 髪の色がそっくりだし、ふとした時の表情が似ている」
「ありがとさん」
そう言って渡されたのは、おまけなのだろう干した果実だった。
男は嬉しそうに笑ってお礼を言うから、私も言った。
「ありがとうございます」
「おや?」
干物商人は何かが気になったらしいが、あまり追求もしない人だったようで、それ以上は何も言わなかった。
「ねえ、あの人は何が気になったの」
「お前のきれいな発音」
「発音……?」
「俺の発音はざらざらだろう」
「うん」
「そこで素直に肯定すんじゃねえよ。それと比べて、お前の発音はいいところ育ちのお嬢様みたいな丁寧な音と響きだ。見た目も普通、衣類も安物、でも発音だけお貴族様。でもこの国の赤い髪のお貴族様は一人も居ない。だからあの商人も不思議に思ったんだろうよ」
「そんなに違う?」
「俺の発音をざらざらだと思ってる時点で違うだろうよ。お前の母ちゃん、どっかの家庭教師だったのかもな。家庭教師は発音とかめっちゃ気にするぜ。いいところのお嬢様やらお坊ちゃまやらは、発音にも命かけるからな」
バロはそう言って、ざらざらした響きの声でけらけらと笑った。笑う声はだんだんと、私の気が楽になるものだった。
この楽観的な態度や調子や口調は、とても安心できたのだ。
大丈夫、なんとかなりそうって事で。
「そういえば、ちびの名前を聞いたことがないな、なんてんだ」
「アイーダ」
「”助ける人”か。因果な名前だなそりゃ」
「助ける人? なにそれ」
「アイーダって名前の語源が、助ける人って意味なんだ。お前の母ちゃんも父ちゃんも、何を考えてそんな意味深な名前をつけたんだかなあ」
「バロの名前に意味はあるの」
「ねえだろうよ。命名の前に捨てられるところだったのを、適当に拾われて適当に名付けられたのが俺様さ」
あっけらかんと、自分の悲惨かもしれない生まれ方を話すバロは、私と考え方が大きく違うのだな、とまざまざと知ったような気分になった。
この男は、不幸を不幸と思わない人生だったのかもしれなかった。