作品タイトル不明
第五十二話 完遂の帳簿
太行山脈の谷間。
絶望の叫びが 木霊(こだま) する。
「……計算が合わない!」
敵の将、豪族の連合を束ねる男が、
降り注ぐ火矢の中で狂ったように叫んだ。
彼らの手元にある
「峻が盗ませた偽の帳簿」
によれば、
曹操軍の矢は、
昨夜の時点で底を突いているはずだった。
だが、目の前で空を埋め尽くしているのは、
偽りなき鉄の豪雨だ。
峻は、乱戦から少し離れた高台で、
冷徹に算盤を弾いていた。
「……誤差、 零(ゼロ) 」
峻の指先が弾いた数字は、
敵の戦意が完全に折れる
「損耗率」を示していた。
「 韓恢(かんかい) 殿。
……右翼の敵、足が止まりましたね。
彼らの『期待値』が、
恐怖に書き換わった瞬間です」
傍らに控える韓恢は、
冷や汗を流しながらその光景を見ていた。
「……恐ろしい男だ。
お前は、敵が『勝てる』と信じ込む
ギリギリの嘘を吐き、
彼らに全財産(全兵力)を賭けさせた。
……その上で、すべてを没収したんだ」
「投資にはリスクが伴う。
……事務屋なら常識です」
峻は立ち上がり、
本陣へ向けて旗を振った。
伏兵の合図ではない。
**「回収」**の合図だ。
斜面を駆け下りてきたのは、
曹操自らが率いる精鋭騎馬隊。
その先頭で、
曹操の咆哮が戦場を支配した。
「全軍、 蹂躙(じゅうりん) せよ!
事務屋が用意した『余白』を、
敵の血で埋め尽くせ!」
敵軍は、
逃げ場を失っていた。
峻が事前に補給路を「管理」し、
彼らの退路にある橋や井戸を、
事務的な『老朽化点検』を名目に
破壊、封鎖していたからだ。
「……峻、お前、
あっちの谷の出口も塞いでいたのか?」
郭嘉が、返り血を拭いながら戻ってきた。
「はい。三日前の帳簿に、
そこの工兵資材の『廃棄』を計上しておきました。
……実際には、石垣を作るのに使いましたが」
「……お前の帳簿は、
死神のリストより始末が悪いな」
峻は、最後の一行を木簡に書き込んだ。
戦場に転がる敵の数。
奪い返した軍資金の額。
そして、 盧景(ろけい) という不純物の消失。
「――計算、終了」
峻が筆を置いた瞬間、
戦場の喧騒が遠のいた。
太行山脈に、
曹操軍の 勝鬨(かちどき) が鳴り響く。
だが、峻の目はすでに、
次のページに向けられていた。
盧景の主――袁紹軍の奥深くに潜む、
真の「不適切な管理者」の元へと。