作品タイトル不明
第二十七話 逃走の計算
夕日が沈みかけていた。
赤い光が荷車の影を長く引き伸ばす。
峻は円の中央に立たされていた。
周囲には護衛が五人。
剣。槍。弓。
距離――三歩から五歩。
(殺す配置ではない)
包囲は甘い。いや、違う。
(逃がす前提の配置)
試されている。
盧景が天幕の前に立つ。
「簡単な遊びだ」
穏やかな声。
「ここから逃げ切れ。日没まで生き延びれば自由にしよう」
護衛たちが薄く笑う。
狩りの前の顔。
「条件は?」
峻が聞く。
「武器なし。馬なし。助けなし」
盧景は指を立てた。
「そして――」
わずかに間を置く。
「我々は本気で追う」
静寂。
峻は周囲を見る。
地面。
荷車。
積荷。
人の重心。
数える。
いつものように。
(恐怖は後回しだ)
今必要なのは計算。
「始めろ」
盧景が手を下ろした。
次の瞬間――
峻は走らなかった。
護衛が一瞬戸惑う。
予想外。
峻はゆっくり後退する。
視線は荷車。
積まれているのは兵糧袋。
麻袋。
縛り紐。
(重さ、三十斤前後)
落とせば崩れる。
峻はわざと、足を引っ掛けた。
兵糧袋が崩れ落ちる。
「なっ――」
砂塵。
視界が遮られる。
峻はその瞬間、横へ走った。
矢が飛ぶ。
背後をかすめる音。
(弓兵、二)
振り返らない。
荷車の隙間へ滑り込む。
狭い通路。
大柄な兵は追いにくい。
(速度差が生まれる)
後方で怒号。
「右へ回れ!」
指揮が早い。
統率された集団。
やはりただの商隊ではない。
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峻は走りながら数える。
足音。
一、二、三――
(追跡は三人)
十分だ。
荷車の外へ抜ける。
目の前は林。
川沿いの薄暗い道。
峻はそこで初めて全力で走った。
肺が焼ける。
足が重い。
だが止まらない。
(逃げ切る必要はない)
必要なのは、追跡を崩すこと。
峻は突然、方向を変えた。
川へ。
背後から声。
「川へ行ったぞ!」
その通りだ。
わざと聞かせた。
川岸に到達する。
水は浅い。
流れは速い。
峻は躊躇なく入った。
冷水が脚を奪う。
そして――
十歩進んで止まる。
振り返る。
(ここだ)
岸へ戻る。
同じ足跡を踏みながら。
草むらへ滑り込む。
身を伏せる。
呼吸を殺す。
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数秒後。
追手が川へ飛び込んだ。
「下流だ!」
「急げ!」
水音が遠ざかる。
峻は目を閉じた。
(人は“続き”を追う)
流れを見れば、先を追う。
止まる発想はない。
静寂。
夕暮れの虫の声だけが残った。
峻はゆっくり立ち上がる。
脚が震えている。
だが思考は澄んでいた。
(逃げ切れた……いや)
まだ終わっていない。
背後。
拍手が聞こえた。
峻が振り返る。
木陰から盧景が現れた。
一人で。
「見事」
穏やかな笑み。
「予想以上だ」
峻の背筋が冷える。
(読まれていた)
盧景は近づきながら言った。
「人は前へ逃げる。君は“計算”で消えた」
数歩の距離。
護衛はいない。
「約束通りだ」
盧景は肩をすくめる。
「今日はここまでにしよう」
峻は警戒を解かない。
「なぜ見逃す」
盧景は答える。
「価値があるからだ」
夕日が完全に沈む。
「次に会う時――」
盧景の声が低くなる。
「君は敵として立つだろう」
一拍。
「その時が楽しみだ」
踵を返す。
闇の中へ消えていった。
峻はその場に立ち尽くす。
胸の鼓動がようやく現実に追いつく。
手の中。
握りしめていた紙片。
補給官の印。
(戦は、もう始まっている)
峻は本営の方角を見た。
戻らねばならない。
報告するために。
そして――
誰も信用できない軍へ。