軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百七十六話

それは些細な変化……とは呼べない、明らかな異常だった。

温暖な気候になりつつあるレンディア、その境界に近いヤシャ島は更に温暖な気候。

この島を拠点にする者達は、既に冬着を止め、ある程度の薄着で生活していた。

その住人達が、一斉に身震いを始めた。

実際に気温が下がったわけでもないのに身震いを始めた。

勘違いから自分の身体を温めようとして、初めてこれが『気温由来の震えではない』ことに気がつく住人達。

そう、この震えは、たった一人の人物が市街地を歩いた、ただそれだけの理由で、周囲にいた全ての生き物を『恐怖』で震え上がらせただけだったのだった。

感情と意思を抑えていた。

本人に、家族である『彼女』に自分の心を読まれないように『彼女』を恐がらせないように、抑え込んでいたのだ。

ホテルを出た『彼』、感情を、殺意を隠そうとは、抑えようとはしていなかった。

剥き出しの害意を撒き散らしながら……セイムは迎賓館へ向かうのだった――

昼餐会では、主に使節団に含まれている帝国貴族とレンディアの貴族の交流……ではなく、現地の商人と帝国の使節団に所属する商人の交流が主だそうだ。

では貴族達は何をしているかというと、夜の晩餐会に向け、本格的な『作戦会議』を行っているという訳だ。

無論、それは帝国貴族だけではなく、もてなす側であるレンディアの貴族も。

俺はシュリスさんと共に、迎賓館に集まるレンディア側の貴族の皆さんを顔合わせをしていた。

「どういうことですか! この度の歓待、主目的ではないにしろ、帝国と神公国の結束を強めるため、十三騎士であるシュリス様をご出席させたのではなかったのですか」

「パートナーを連れているとなると……少々展開が変わってきてしまいますな。君、どこの家の者だね? 晩餐会に出る際にはシュリス様と離れてもらいたいのだが――」

恐らく、今回シュリスさんを帝国との関係に利用しようと考えている派閥の貴族が、パートナーとして紹介された俺に苦言を呈す。

「お断りします。今この場で貴方達を殺害しても宜しいでしょうか?」

知っている人間はいないかもしれないが、俺はもう持っているのだ。

『気に入らない貴族を殺してもある程度は罪を軽減してもらえる権利』ってヤツを。

女王との約束だからな。しっかり、この権利は貰っている。

今日の俺の邪魔をするな、本当にもう余裕がないんだ、だから俺を刺激するな。

「んな!? 無礼者! 誰かこいつを捕え――」

「ヴェール卿! どういうことですか! このような犯罪者紛いの――」

現れた衛兵が、瞬く間に拘束する――この二人の貴族を。

「……申し訳ないが、この青年は本当に女王陛下から……貴族粛清の権利を賜っている。私も同じ国の仲間を失いたくはない。しばし、別室にて控えてもらいたい。どうやら……我が国の『ダンジョン踏破者』は虫の居所が悪いようだ」

「っ!? ダンジョン踏破者……!? ではまさか、我が国にコアもたらしたという――」

「『旅団』の副団長……だと……」

「殺しましょうか? ヴェール卿、この二人は国に必要ですか? どうやら帝国とある程度のコネクションを事前に構築している様子ですし、ここで殺しても良いでしょうか?」

「……必要な人材だ。何が君の気に障ったのかは分からない、だがセイム君、どうか矛を収めて欲しい」

「分かりました。……俺は今日、自分の目的の為に晩餐会に出席します。それも、確実にトラブルが発生するであろうシュリスさんのすぐそばで。その妨げをするのなら、俺はたとえ『女王陛下の許し』がなくとも、全員を殺します。いいですか『全員を等しく殺します』」

言外に『たとえ貴方でも殺す』と、釘を刺す。

もうシュリスさんの頼みだとか、国の思惑だとか、国家間の関係性だとかは二の次なのだ。

ただ『大義名分を得て互いの国が許した状態でアンガレスを粛清する機会が欲しい』だけなのだ。

「セイムさん……どうしたと言うんだい……今朝から様子がおかしいよ。何があったんだい、まるで初めて会った時……いや、それ以上の恐怖を君から感じるよ」

「そうですね、それで正しいと思います。……帝国の探索者に俺の家族が傷つけられましてね。昨日泣きながら怪我をして戻ってきました。もしも条件が整えば『旅団総出』で帝国に攻め込んでもいいくらいです」

いや、条件、召喚上限なんて考えなくとも、それに匹敵する武力はすぐに用意できるのだけど、それをしてしまえば取り返しがつかないことになるかもしれない。

だから今回は『その案』はボツにしたんだ。

二人の貴族が別室に連れて行かれ、俺の出席に反対する者がようやくいなくなったところで、俺は部屋のソファに座りため息をつく。

「……そうか、昨日の彼だね? 私のクランにも昨夜の騒ぎの報告は入っていたけれど……メルト君に被害が出てしまったのか……」

「本当に微細な怪我だったんですけどね。でもそんなの関係ないんですよ。彼女が泣きながら帰って来たという事実がいけない。既に、旅団の全メンバーに情報は共有されています。仮に、レンディアが帝国と事を構えることになったら、喜んで全員で参戦しますよ」

「……冗談でもそんなことを言わないでくれるかな。セイムさんが怒っているのは十分承知しているけれど」

「そうですね、国を巻き込むわけにはいかないですね。まぁ……もう帝国の評価は俺の中で地に落ちているので。すみませんね、ヴェール侯爵。どうやら俺は紳士的な好青年で居続けることができないみたいです」

「……どうやら、帝国は決して踏んではならない相手の尾を踏んでしまったようだ。仕方があるまい、人間だれしも、超えてはならない一線が存在する。君が、しっかりと筋を通す方法で決着を望んでいることは私にも理解できる。今はただ、その慎重な決断に感謝するよ」

呆れや失望、恐怖だって向けられているのかもしれないけれど。

もう、関係ないのだ。俺はひたすら、この部屋の中で目を閉じ瞑想する。

この狂おしいほどの怒りの炎が、少しは勢いを弱めてくれるように――

待機していた部屋に差す日差しが茜色に染まる頃、いつの間にか俺の隣に座ったまま眠っているシュリスさんを揺り起こす。

「シュリスさん、起きてください。そろそろ晩餐会が始まる時間ですよ」

「……そう、だね。セイムさん……少しは落ち着いたかい?」

「隣で美人が眠っているのに気が付かなかったり、せっかくの寝顔を堪能し忘れるくらいには冷静ですよ」

「……まったく、君がここまで冷静さを失うなんてね。でも……女として、自分のためにそこまで怒ってくれるというのは、少しだけ羨ましいと思ってしまうよ。メルト君が大切なんだね」

「……すみません、ちょっと今の皮肉は感じ悪かったですね。たぶん、これはメルトのためであると同時に、自分のためでもあるんだと思います。俺は、自分が生きる理由にメルトを含めています。彼女のために生きるって理由を自分に付与して、たぶん色んなことから目を背けようとしているんだと思います。だから、半分は自分のためなんです、この怒りは」

「そっか。やっぱり羨ましいね。恐らく、日中君が追い出した貴族達、なんらかの取り決めを帝国側と結んでいるんだろうね。先程の二名はどちらも、海外貿易に着手している家なんだ。まぁ繋がりを持つことを悪だとは言わないけれど、勝手に自分を使われるのは気分が良くないのは私も同じ。アンガレス、彼が私に興味を持つか否かは定かではないけれど、少なくともアシモフ公爵は私に何かしらのアクションを仕掛けてくると思うよ。それこそ、アンガレスを伴ってね」

「では、その場面に俺は同席しますね。うまい具合に決闘、あわよくば『禁断症状』とやらの影響で、生死を賭けた戦いに持ち込んでも良い。……今日は、この国に来て初めて本気を出すつもりですよ。ダンジョンマスターにすら出さなかった本気、見せてあげますよ」

目の前の彼女が喉を鳴らす。

俺も宣言する。遠回しな『アンガレス殺害』を。

そうして俺達は、人が集まり始めた晩餐会会場へと足を運ぶのだった。

晩餐会の会場は、この温暖な島というロケーションを活用するためなのか、壁の一部が取り払われ、そのまま中庭まで続く形となっていた。

中庭にもふんだんに照明が配置され、そこで星空を見上げながらワインを嗜む優雅なご婦人や、室内で外の様子を眺め談笑している面々、更にはこの迎賓館が海に面していることもあり、中庭には海を一望できる、やや高所に建造された大きなガゼボもある。

何の憂いも怒りもなく、ただこの催しを楽しめる状況だったのなら、あの場所で夜の海を眺めながら、海面に映る星空を堪能する……なんて風流な時間を過ごせただろうに。

「……いるな。出席してる」

「そうだね。ただ……できればこちらから接触するのは避けたい、かな」

「分かりました」

用意された沢山の席には、それぞれビュッフェ形式の料理が置かれている。

給仕のメイドさんも大勢行き交っているが、それでもその所作が優雅なことにはかわりなく、一目でこの催しのグレードがいかに高いのか理解させられた。

「何か飲もうか? セイムさん」

「そうですね、では軽く」

そう言いながら、どこかにワインを配っている給仕はいないかと周囲を見回す。

すると――

「お飲み物をお探しでしょうか、セイム様。こちら、ヤシャ島で一八年熟成された、はちみつを思わせるアロマに、微かなナッツとイチジクが香る極上の白ワインにございます」

近くにいた給仕の女性、いわゆるメイドさんが、俺とシュリスさんの分のワインを運んできてくれた。

俺の名前を……いや、恐らく出席者全員の名前を把握しているのだろうか?

まだ年若そうな、前髪で顔は隠れているが間違いなくまだ二十歳にも満たないであろう女の子だ。

ワインの紹介も出来ているようだし、その説明で一気に興味をそそられる。

「君、珍しい髪をしているね?」

「そういえば確かに」

メイドキャップを被ってはいるが、そこから流れ落ちる長い髪は、美しいつややかな黒髪だった。

前髪のせいで顔は見えないが、もしかして目も黒かったりするのだろうか?

「はい、少し珍しいかもしれません。それでは、私は他のお客様にもワインを配ってまいります。どうぞごゆるりとお楽しみください」

そう言いながら、黒髪のメイドさんが他の人にもワインを勧めて歩く。

何故だろうか……俺は、妙に今のメイドさんのことが気になってしまった。

無意識に彼女の姿を目で追ってしまっていたのか、そんな俺に向かいシュリスさんが――

「感心しないよ? あまり他の女性を目で追うのは。今は私のパートナーなんだから」

「すみません、なんだか妙に気になって……」

「ふむ……確かに。私も何故か気になってしまったよ。髪……いや、声かな」

言われて気がつく。そうだ、声だ。何故か、妙にあのメイドさんの声が頭にひっかかったのだ。

気がつくと、先程のメイドさんの姿は既にどこかへ消えてしまっていた。

……ふむ、今はアンガレスのことに集中するべき、だな。

それから、程良く出席者達にアルコールが行き渡り始めた頃、それはやって来た。

アシモフ公爵が、アンガレスを伴い、中庭で星を眺めているシュリスさんと俺の元にやって来たのだ。

表面上は、他者を見下すような態度をおくびにも出さず、ただ紳士的にこちらに話しかけてくる。

「こんばんは。先日は挨拶も出来ず申し訳なかったね。ヴェール侯爵のご息女にしてレンディアの最高戦力、十三騎士に所属するシュリス殿で間違いなかったかな?」

にこやかに、けれども確実にこちらを値踏みするような鋭い視線が混ざる笑み。

確かに、意識して観察すれば、この人がただの社交的な貴族でないことが分かる。

「これはアシモフ公爵閣下。こちらから挨拶に伺わずに申し訳ありません。ヴェール家長女のシュリスと申します」

「やはりそうでしたか。噂に違わぬ美貌、年甲斐もなくときめいてしまいそうです」

社交辞令か、それとも今日のシュリスさんを前に本気でそう思っているのか、そんな言葉を口にするアシモフ公爵。だが――

「色気づかないでくださいよいい歳した老人が。けど、マジで美人だと思いますよ俺も。これで最高戦力に数えられるってすごいっすね」

アンガレスが、公爵相手とは思えない口ぶりで話に割って入って来たのだった。

「アシモフ公爵、こちらの方は?」

「はは、申し訳ないね。そうだね、君がレンディアの最高戦力の一角ならば……こちらの国の最高戦力の一角がこの男なのだよ。名をアンガレス。単独で帝国のダンジョンを二つ攻略した猛者だよ」

「それは凄い。さぞやお強いのでしょうね?」

「ふふ、そうだね。どうかね? お互い国を背負う戦士という立場、少し二人で話してみては」

先程から薄々感じてはいたが、このアシモフ公爵というのは、一切こちらに視線を向けるどころか、いるものとして扱っていないのが伝わってくる。

選民意識……いや、目的に不必要だと判断した者は認識すら無駄だと感じている、か?

「せっかくの申し出ですが申し訳ありません。私にはパートナーがおりますので、他の男性と二人きりになるわけにはいかないのです。彼が嫉妬してしまう」

そこで初めて、俺に視線が向けられる。その視線を受け、俺はにこやかに会釈して見せる。

「おや、これは気がつきませんでした。ふむ、どうやらシュリス殿のお眼鏡に適う人物のようだ。やはり一角の人物、なのですかな?」

「ええ、そうなんですよ。この方が我が国にダンジョンコアをもたらした人物なのです。無論、その強さは私よりも上、私が認める数少ない男性です」

「ほう……それは興味深い」

ようやく、興味が向けられたのを感じた。視線だけではない、こちらを探るような意思が向けられていると、感覚的に理解させられる。

そんな、老獪な、海千山千を生き抜いた貴族の凄みというのを感じた。

が、どうやら一番興味を抱いたのは、アシモフ公爵ではなく――

「へぇ、アンタがダンジョン踏破者なんすか。んー……面白そうなんでちょっと戦ってみてよ。別大陸の踏破者ってまだヤったことないんで気になるなー」

アンガレスが、こちらから仕掛けるまでもなく食いついてきたのだった。

……なら、もういいか。

「ん? ああ、君が帝国の最高戦力なんだって? んー……風格も凄みも感じないからただの護衛だと思ってしまったよ。アシモフ公爵でしたか? どうやら戦いをご所望な様子なのですが、何分私は手加減が苦手な質でして。殺してしまわないか心配なのでお受けすることができないのですが」

盛大に煽ってやる。

どうだ、そちらも都合がいいだろう。

邪魔な男を排除しシュリスさんとコネクションを結び易くなるぞ、このまま上手く事が運べば。

「おやおや……随分と自信家な人物のようだ。しかし感心しないね、君が思うより世界は広――」

「アシモフさん? なんか今俺、めっちゃ馬鹿にされたんですよね? 許可って貰えます? やっちゃってもいいですかね? 元々邪魔だったんでしょ? ならいいっすよね?」

「こらこら、落ち着きなさい。ふむ……君の名前は?」

「セイムと申します。いや困りましたね……そちらはやる気のようですが、こちらはそちらの人間を殺すわけにはいかないんですよね。ふむ……どうしましょう? もしこの男の勝負を受けて、ついうっかり殺してしまっても遺恨を残さないと約束してもらえないでしょうか……? 流石に国に迷惑はかけたくないので」

極力、神経を逆なでするように。俺が欲しい言葉を口にしやすいように。思い通りの展開に持ち込めるように。俺は思うままに口を動かし、慇懃無礼にアンガレスを挑発し続ける。

「許可してくれよアシモフさん。いいだろ? 船の上じゃ満足にやれなかったんだ、いいだろ!? 元々そういう約束だったろ!? こっちの国で暴れさせてくれるって話だったっすよねぇ?」

「おやおや……セイム君といったかね? 君にも責任の一端はある。勝負を受けて貰えないかね?」

「ならば、こちらが彼を殺してしまっても責任は問わないと約束……いえ、見世物として皆さんに宣言してください。少々この晩餐会、出し物がつまらなかった。どうでしょう? 人が死ぬかもしれない、そんな国対抗のダンジョン踏破者同士の決闘を皆さんにお見せするというのは」

さぁ、このショーの提案に乗ってくれアシモフ公爵。

いいだろう? これはつまり『国力の差を周囲に見せつけるまたとない機会』なのだから。

「ははは、確かにそれは面白い! ふむ、ではここから近い砂浜、そちらに移動しようか。アンガレス、お前もギャラリーに囲まれた方がやる気が出るのではないか?」

「いいっすねぇ。アンタ、中々いい趣味してるな。自殺をショーとして提供するなんて洒落てるね」

「ん? ああ、ごめんごめん。僕に言っていたんだね。あまり君に興味がなくてさ。ただ国賓だからね、付き合ってあげるよ。死んでしまったら自分を恨んで欲しいかな」

楽しいな。こういう好き勝手相手を煽るのって。

アシモフ公爵の働きかけで、晩餐会の人間に話が伝わっていく。

好奇心と刺激に飢えた貴族達が、続々と浜辺に移動していく。

その流れに乗り、俺とシュリスさんも移動するのだった。

夜の浜辺は、月明かりや上の迎賓館からの照明のお陰もあり、思ったよりも明るかった。

波の音とギャラリーの喧騒に混じり、アシモフ公爵の楽しそうな語り口が聞こえてくる。

どうやら、事の成り行きを集まった貴族の方々に説明しているらしく、しっかりその文言には『たとえどちらかが死んでもそれは自己責任』という言葉が含まれていた。

「しっかり武器を持ってきていたんだね? さすが用心深いね?」

「アンタは武器、いらないんすか? なんなら持ってくるまでまっててあげますよ? あ、そのまま逃げるのはなしで頼みまーす」

「ん? ああ、素手でいいよ。というか……もしかして本当に勝負になると思ってるんだ?」

煽る、さらに煽る。

どうやらこのアンガレスという男、感情が高ぶっていても、それを表にはほぼ出さない様子。

会話をしている分には、怒りの感情を感じ取れないのだ。

まぁ全身に力が漲っているのは見ればわかるのだが。

「さて、じゃあそろそろやろうか」

「そっすね。んじゃさっさと――」

アンガレスがガントレットを装着した両腕を構えたその時、突然浜辺で対峙する俺達の間に割って入る影が現れた。

それは、先程妙に気になっていた黒髪のメイドさんだった。

「食前酒ならぬ戦前酒はいかがでしょうか。古の戦士は、戦に赴く前に士気を高めるために酒を呷ったと言います。こちら、港の酒蔵にて長期熟成されたドワーフサカラムにございます。少々度が高い種ではありますが、気分を高揚させる効果があると言われています」

突然、トレーに載せられたジョッキを俺達に手渡しにやって来たのだ。

その胆力と唐突さに、思わず俺もアンガレスも笑ってしまう。

「クク……いいっすねぇメイドさん。貰うよ俺は」

「では僕も」

ジョッキを手を伸ばそうとすると、まるで意地悪するようにメイドさんがトレーを引っ込め、先にアンガレスに酒を手渡した。

なるほど? ある程度客に対する優先順位を守るように言われているのだろうか。

その後、俺もジョッキを手渡され、言われていた通り度数のきついそれを飲み干した。

「ラム酒みたいなものかな」

顔が、熱くなる。

怒りを、思い出す。

望み通りの展開になったことに、喜びが湧きだしてくる。

目に力が入る。全身に血が滾る。

「では、開戦の合図は私が行わせて頂きます。アシモフ公爵、構いませんか?」

「もちろん。これは両国の代表者が許可した正式な決闘。どちらかが命を落としても、今後の関係に一切変化はないと皆さんに知ってもらう為にも、是非お願い致します」

「では。これより、セイム氏とアンガレス氏の決闘を執り行う! 戦闘開始!」

再び、ヤシャ島に『実体のない寒気』が訪れたかのような震えが伝播する。

ヴェール卿の戦闘開始の合図とほぼ同時に、セイムが大きな、とてつもなく大きな雄たけびを上げる。

聞く人間の根源の恐怖を揺さぶるような、悍ましい、地獄の底から聞こえるかのような叫び。

その叫びの正体は――

『ディアボリックハウル』

『剣士/盗賊 最終奥義』

極限の殺意を乗せた雄たけびにて対象の動きを封じそこから繋がる一撃で敵を粉砕する

使用者のレベルと技の使用回数により威力が増加し同時に最終攻撃倍率がランダムで変化する

6倍から666倍まで変動する

セイムが習得している、最強の攻撃。

確定ヒットのその一撃は、準備段階で『クリムゾンハウル』同様の雄たけびが発生する。

だが、それは――魂を揺さぶる、人の声とは思えない、禍々しく暴力的な、凄まじい圧力の言葉だった。

『谿矩?縺ォ豁サ縺ュ豌ク驕?縺ォ闍ヲ縺励a譚・荳悶∪縺ァ辷帙l閻舌l邯壹¢繧!!!!!』

もはや、人の耳では聞き取れない叫び。

一瞬硬直したアンガレス。

次の瞬間にはセイムが目の前に、互いの拳が顔に触れ合うほど近くに迫っていた。

「死ね」

瞬間、砂浜の砂が天高く舞い上がる。

それは、セイムが踏み込んだ足元から巻き上がる砂。

海水を含み重くなった砂ですら、遥か上空まで巻き上がる踏み込みだった。

……そして、その砂よりも遥か彼方、星空の向こうに消えていく影があった。

真っすぐ、一切のブレなく、何をするでもなく、なにかしようとする暇すらなく、天高く舞い上がったのだ、アンガレスが。

一瞬過ぎる出来事に、ギャラリーのざわめきすら消える。

波の音だけが聞こえ続け、そして残るのは、砂浜に出来た巨大なクレーターと、その中心に佇むセイムの姿のみ。

それから数度、波が押し寄せクレーターに流れ込む。

ようやく動き出したセイムは、跳び上がり海水が溜まりつつあるクレーターから脱出する。

「ね? 試合になんてならないでしょう。弱すぎるんですよ、彼」

「ば……馬鹿な……どこにいったアンガレス!!!! どこへ消えた!!! アンガレス!!」

現実を受け入れきれないアシモフ公爵が、珍しく声を荒げ、今しがた完全に敗北したであろう男の名を呼ぶ。

すると偶然か狙い通りなのか、遥か上空に消えたと思われたアンガレスが、海水の溜まったクレーターに落下し、大きな水柱を上げたのだった。

「おお、凄いですね。身体原型を留めているじゃないですか。流石帝国の最高戦力ですね?」

「っ! アンガレス! 返事をしろ! アンガレス! お前はただの人間ではないだろ! こんな程度で負ける存在ではないはずだ! アンガレス!!!!!!!」

必死に呼びかけるアシモフ公爵。

するとその時、奇跡が起きた。クレーターに満たされた海水に浮かぶアンガレスから、確かに物音が聞こえてきたのだ。

だが、それは声ではなく……例えるならそう『悪くなった生卵と牛乳を大量に食べた後にトイレに駆け込んだ人間から聞こえてくるような嫌な予感をさせる苦しそうな音』。

そして次の瞬間――異臭と共に海水が『汚らわしい色』に染まっていくのだった。

つまり、大量の脱糞。あまりにも情けなく、人の尊厳を失う痴態。

両国の貴族や関係者が見守る中、死よりも恐ろしい、社会的な死がアンガレスを待ち受けていたのであった――

「帝国の最高戦力はこんな技も使えるんですね? 負けてなお戦う意思が残っていると見える」

そのセイムの皮肉に、アシモフ公爵は膝から崩れ落ちるのであった――

浜辺での決着がついたその頃、少し離れた場所でその様子を観察していた謎の黒髪のメイドが、人知れず迎賓館を後にしていた。

「ふぅ……腰あっつーい! 頭苦しー!!」

突然、メイドの腰が膨らみ、メイド服の隙間から、腰に巻きつけていた尻尾が現れる。

外したメイドキャップからは折りたたまれた黒く染まった狐耳が現れ、ピョコンピョコンと耳が立ち上がる。

「ふー……私ももっと強くなれば、薬なんてなくても毛の色だけなら変えられるようになるのかしらねー?」

そう、謎の黒髪メイドの正体は……迎賓館に潜入していたメルトだったのだ。

耳と尻尾を隠し、薬で毛の色を染め、そして髪型を変えて顔を隠していたのだ。

持ち前の学習能力の高さで、働いていたメイドの所作や口上を真似て、完全に擬態していたのだ。

シュリスとセイムが気にしていた理由、それは唯一変えられなかった彼女の声のせいだ。

「ふぅ……あーすっきりした! 凄いなぁセイムの攻撃……あれで死なないってことは、きっと人間じゃないのね、アイツ。でもよかった、薬が効いて」

そして、最後の『悲劇』の理由。

それは……メルトが知る中で最も強力な下剤を、試合直前のアンガレスに飲ませたからである。

決して許さないと。毒殺ではなく、死ぬよりも恥ずかしい目に遭わせ、社会的に殺そうとしたメルトの策略だったのだ。

こうしてメルトは宣言通り、自分の手で復讐を果たしたのであった――

「……あ! メイド服貰ってきちゃった……!」