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作品タイトル不明

随想録09 暗殺者

なにか重大な凶事が起こったあと、ひとびとの一部はそれを振り返るとき「前触れ」や「予感」のようなものがあったと宣うことがある。

だが本当にそうなのかは、良くわからない。

天気が悪かっただとか、季節外れの風が吹いたとか。

本来なら、取るに足らないことを指している場合が多い。

だが星暦八七八年にオルクセンで起きた 二(・) つ(・) の(・) 事(・) 件(・) は、一見するところ非常に良く似ており、ともに衝撃的で、関連したものだったとずっと後の世になっても誤解されたままになっている。

―――その一件目、国王グスタフ暗殺未遂事件とも呼ばれる騒動は、五月一一日に起きた。

逮捕されたのは、オルクセン国籍オーク族のブリキ配管工で、マックス・ヘンデルという。まだ青年といってよい、若い牡である。

事件は、お粗末なものだった。

この日は土曜で、グスタフはいつものようにディネルースを連れ、恒例のヴァルトガーデンの「朝市通い」に向かった。

午前七時半に着替えをし、あの陸軍の常装姿になって国王官邸の裏庭を抜け、マン通りを渡り、リンデン、ブナ、オオマテバシイなどの生い茂るヴァルトガーデンへ。

矯めつ眇めつ、あちらのアスパラガス売りを覗き、こちらの花売りでサンビダリアの匂いに魅了され、三軒目の果物商では旬の桃に顔をほころばせた。

樹々と芝生のなかに、石畳の舗道、噴水、アーク式電燈がある。新市街では電線は上下水道とともに地下に潜っているので、春空を邪魔するものもない。

土日になると、このように美しい公園に様々な露店が一〇〇店舗近く、帆布の屋根を広げる。

「我が王、おはようございます!」

「うん、おはよう」

オーク族、コボルト族、ドワーフ族、ほんの僅かだが人間族の姿も見える。

市民たちと挨拶をし、握手を望まれれば応じる―――

グスタフにとって何よりの時間だった。

このとき、既にマックス・ヘンデルはグスタフ王から約八メートルの位置にいたらしい。

オーク族としては、それほど背の高くない牡だった。

ツイードの上下に、山高帽。

この牡は、おもむろに上衣のポケットからキャメロット製イリー・ブルドッグ型回転拳銃を取り出し、グスタフに向かって発砲した。

この最初の銃弾は大きく左上方に逸れ、明後日の方角へと飛翔し、露天の牛乳商であるオーク族某女史の額を霞め、命中しなかった。

その発射音は、高く鳴り響いた。

殆どの者はいったい何が起こったか瞬時には理解できず、腕を伸ばして拳銃を握りしめたままのヘンデルの姿と盛大な黒色火薬の白煙を認め、ようやく事態の異常性に気づいた、という。

周囲は、騒然とした。

「陛下!」

叫び、グスタフの袖を強く掴んで渾身の力で引き、彼の姿勢を強制的に低くさせたのは、国王警護隊のダークエルフ族兵だった。

このとき彼女たちは三名が警護役として随伴していて、二名がグスタフの側に、一名はディネルースに従っていた。ディネルースには侍女がひとり斜め後ろに控えてもいて、果敢にも護衛とともに王妃に覆いかぶさっている。

後世、このときディネルースが発した言葉が有名になった。

「邪魔だ、貴様ら!」

私などよりも王を護れ、の意である。

ディネルースは騎兵科将官の常装姿で、腰には革製のホルスターに納めた拳銃まで帯びていた。これを引き抜こうと試み、自らもグスタフを護ろうとした。

しかしながらホルスターの蓋がしっかりと閉じられていて、また必死になった侍女が強く彼女に抱き着いていたため、抜銃を果たせていない。

のち、真っ先に犯人に銃を向けたのは王妃だったという“伝説”が生まれたが、これはあくまで巷間に流布した俗説に過ぎない。

グスタフはといえば、茫然とし、まるで事態を飲み込めていなかった。

国王警護役ダークエルフ族兵のもう一名もまた拳銃を引き抜き、こちらはグスタフとヘンデルを結ぶ直線上に立って王の盾となりつつ、構えることまでは成功している。

しかし、発砲するまでには至っていない。

まず、マックス・ヘンデルの背後にいた露天商が、敬愛する王の危急とみて、咄嗟に商品の 食用大黄(リュバーブ) の束をヘンデルに投げつけた。

そうして怯んだヘンデルに、これは直接警備とは関係なく偶然近くにいたヴィルトシュヴァイン警察のオーク族警官がサーベルを抜刀し、

「貴様ぁぁぁぁぁぁ!」

大喝一声し、この牡の左肩に斬りつけたのである。

ヘンデルの掌の中で拳銃が踊り、殆ど暴発の態で二発目の銃弾が発射された。これは最早完全に狙いなどつけられておらず、空中に向かって飛び出し、約二三メートル離れた位置にあったオオマテバシイの幹に弾痕を残した。

結局のところ、ヘンデルを拘束したのはこの警察官であり、彼に協力した周囲の市民であった。

―――マックス・ヘンデル事件という。

この事件、当然ながらヴィルトシュヴァイン刑事警察の捜査するところとなった。

罪状は、不敬罪である。

総監ウェーバーが檄を飛ばして、ヘンデルの仮治療と尋問を始めるとともに、多数の制服警官及び刑事捜査官を投入してこの牡の周囲を「洗った」。

ウェーバーのもと、実質的に捜査の現場を取り仕切ったのは、ヴィルトシュヴァイン刑事警察刑事部部長のカール・ローマン警視であった。

オーク族。

通称、コーヒーポット。

この種の綽名がしばしばそうであるように、これは見た目を比喩したものだと周囲からは思われていて、実際にそのような体形をした牡だった。

しかしながらローマンは優秀な警察官であり、長い間、重大犯罪畑の刑事を務めた叩き上げである。もう三〇年も警官をやっていて、うち二六年は諸事全てが難しい刑事としての経歴だ。

派手なところこそないが地道な捜査をやり、多くの事件を解決して犯罪者を摘発してきたし、そのほぼ全ては証拠固めも堅実であってきた。その内容は判事や陪審員たちの賛同するところ大であり、弁護士らですら渋々と認めざるを得ないもので、検事連は彼が担当だと知っただけで公判の前途を明るく思ったものだった。

彼を良く知る、とあるヴェテラン刑事などは、

「ちかごろの若いやつは、誰も彼もローマン親父の綽名は体形からだと思っているがな。ありゃあ、“焚火にくべてもびくともしない”からだぞ。どれほど困難な捜査でも音を上げないってことさ」

ローマンの綽名の由来を、我が事のように誇らし気に語ったことがある―――

そのローマンが、自身がこれと見込んで手元に置いている若い警部マルヒをこの事件でも専属の助手にして、刑事部の刑事たちの尻を叩き、多くの制服警官たちをも動員しながら、捜査を始めた。

「マルヒ。私の部屋が“司令部”だ。しばらくは忙しいことになるよ。総務の連中に言いつけて、簡易ベッド、寝具、洗顔石鹸を用意させてくれ。それと食堂からサンドウィッチとコーヒーを。バターとハムとピクルスをたっぷり。お前の分もだ。食えるうちに食っておくんだ」

若いマルヒが感心したのは、とくに使いを出した様子はないにも関わらず、この日の夕刻にはローマンの細君が夫の着替えなどを届けに来たことである。

事件を耳にし、あのひとは忙しくなるでしょうから、と受付に述べたという。ローマン夫人にとっても夫の仕事ぶりは「慣れっこ」のことであり、しかもそのような仲は熟練の域にまで達していた。

ローマンの指揮のもと、マックス・ヘンデル事件が内包していた奇妙な点は、すぐに浮き彫りになった。

まず、事態が事態ゆえにエリクシエル剤の投与まで行われて治療を済ませ、尋問がはじめられたヘンデルの供述内容が、のっけから不審だった。

ヘンデルは、黙秘も否認もしなかった。

むしろ実によく事件のことを喋った。

しかしながらその様子は尋常ではなく、供述内容はしばしば時系列も事実関係もどうやら思いつくままであり、あちらへ遡り、こちらへ下り、またあらぬ方向に飛躍するという具合で、尋問した係官の言葉など耳に入っていない様子のときもあった。

「あの 牝(あま) が―――」

「俺の未来を滅茶苦茶に」

「必ず仕留めるつもりだった」

何よりも尋問の刑事を驚かせたのは、

「陛下? 陛下のことは敬愛している。偉大な王だ。我らが王だ。王妃様も素晴らしい」

「王が? ばかな。嘘を言わないでくれ。王など居なかった」

などと述べたことである。

これは、一体―――?

旧市街リーツェンブルク区の「兵営住宅」にあったヘンデルの部屋を捜索した連中も、首を傾げていた。

捜査陣が真っ先に疑ったのは、ヘンデルが過激な政治思想の虜になっている可能性であったが、そのような気配もない。無政府主義者の印刷物であるとか、社会主義者の著作、労働組織の勧誘物といった代物は欠片も発見されなかったのである。

そもそも、オルクセンでは―――

昨今、星欧で流行りとなっている過激な政治思想は低調だ。

約三〇年前この萌芽が大陸一体に広まりはじめたころ、オルクセンへの伝播もあったが、グスタフ王が手早く採った政策により過激化しなかった。

グスタフは、例えば炭鉱労働者たちが集団になって待遇改善を要求するというような事例が発生すると、自らその現場に赴き、丁寧に彼らの代表と話をし、耳を傾け、ときには四の五の困難を述べる使役側を無視して、ただちに彼らの要求の実行を約するというような選択をした。

そうして国や地方の予算で「兵営住宅」や「親方住宅」を建て、ヴィッセルやファーレンスのような大企業にもこれに参加をさせ、労働者たちには団体交渉権を公式に認め、また工場法や炭鉱法、救貧法、公衆衛生法といった労働及び公衆衛生諸法を矢継ぎ早に制定してきた。

まだ、隣国グロワールなどでは「一〇人に一人が貧困で死んでいた」時代である。

彼の政策は、先駆的だった。

労働者たちの思想が先鋭化する前に手を尽くしたので、オルクセンにさえ誕生していた労働主義者、社会主義者といった者たちですら彼のことを、

「国民の王」

と、呼んだほどだ。

熟練配管工だったヘンデルもまた、国王尊崇の念の深いオルクセン国民の類型から外れていない―――

事件が意外な展開を見せるなか、解決の糸口になったのは彼の部屋にあった写真立てと、周辺住民への聞き込みであった。

ヘンデルには、一年ほど前まで同居していた妻がいたという。だが、どうやら近隣住民の証言によればヘンデルには家庭内暴力癖があり、その牝は出て行ってしまった。

安い名刺版であり不鮮明でこそあったが、部屋にあった写真立てにはその妻の写真があり、そしてその写真立てのガラスは 叩(・) き(・) 割(・) ら(・) れ(・) て(・) いた。

この写真立ての牝こそが、グスタフを狙い逸れたものと思われていた最初の銃弾が頭をかすめた、牛乳売り商某であったのだ。

これは参考人として招致された彼女自身が、涙に頬を濡らしながら認めるところともなった。

どうやら心理状態が正常とは思えないヘンデルの、まともな供述ともいえない供述内容の端々とも、一致する。

こんなとき、ローマンは実に尋問が上手かった。

生来、オーク族としては目尻が垂れており、人懐っこい容貌をしている。

実際の態度も、他の刑事が好むような荒々しいところは微塵もなく、誰に対しても丁寧に話を聞いてやる。

ハンカチを無言でさしだしてやりなどしつつ、ヘンデルの元妻の聴取を終えたあと、

「おいおい、こいつは・・・」

ローマンは茫然としていた。

だが、例えどれほど意外であっても捜査に捜査を尽くし、他の可能性を取り除き、残ったものが「真実」である。

この優秀な刑事は、それを心得ていた。

事件発生から、一週間後。

念には念を入れて、ヘンデルの背後に他の動機となり得るような、組織的及び思想的要因などが全く存在しなかったことも調べあげてから、ローマン警視はマルヒを相手に、報告書の口述筆記を始めた。

「―――以上の通り、本件は国王陛下を標的とした暗殺未遂事件などではないと断言するものであります。ヘンデルはその精神状態から、そもそも国王陛下及び王妃陛下の存在そのものを認識していなかった可能性すらあり、その標的は自らのもとから逃亡した元夫人であったものです―――」

ローマン警視の報告書が上層部に提出されると、これは最終的には内務大臣ボーニン大将のもとに届いた。

「・・・こいつは、本当に間違いないのか?」

「ローマンは、私が最も信頼する部下です。紛れもなく、このオルクセン最高の刑事ですよ」

ウェーバー総監が保証すると、ボーニンは「指定関係者のみ閲覧」とスタンプの押された提出報告書を、丁寧にフォルダに納めた。

そして、治安維持関係者及び司法関係者、国王警護関係者をミルヒシュトラーセ通りにある内務省、その会議室に招致した。

司法大臣フリートベルク博士。

ヴィルトシュヴァイン刑事警察総監ウェーバー。

内務省国家憲兵隊長官ディートリヒ大将。

国家憲兵隊首都管区司令エミール・グラウ中佐。

アンファウグリア旅団長アルディス・ファロスリエン少将。

国王警護隊長リトヴァミア・フェアグリン大尉。

「―――とまあ、以上の通りだ」

ボーニンは報告書を一同に回覧させ、殆どの者が驚きや、困惑、当惑の念を浮かべるなか、告げた。

「こいつは、いささか弱ったことになります」

司法手続き上、前例のない事態になると指摘したのは司法大臣フリートベルクだった。

つまり、果たしてこれは「大逆犯」に相当するのかどうか、ということである。

ローマン警視の報告書を信じるなら、ヘンデルは王や王妃を狙おうとしたのではない。認識さえしていなかったというのであれば、所謂「未必の故意」ですらない。

重大犯罪であることは確かだが、市民間の殺害未遂事件ということになる。

王を撃ったのではなく、 王(・) が(・) 偶(・) 々(・) い(・) た(・) 方(・) 向(・) を撃った―――

しかも弱ったことに不敬罪は、神経衰弱に陥った者の犯罪を想定したものになっていなかった。これはオルクセンの法の不備というより、当時はこの点に関する概念がまだまだ未発達であったのだ。

一般犯罪でも、収監の代用的目的も含まれた刑事癲矯院送りといった処置が取られていたに過ぎない。

「・・・しかし、不敬罪であることは間違いないでしょう」

この見解を述べたのは、国家憲兵隊長官ディートリヒ大将だ。

「畏れ多くも陛下を狙撃対象に巻き込み、不敬にあたらないとは看過できない。また、未必の故意に該当しないわけでもありません。ヘンデルは朝市を犯行の場に選んだ。朝市には無関係の市民も大勢いる。他者を巻き込んでしまう可能性は、当然認識していたと解釈できます」

「・・・・・・」

司法大臣フリートベルクは沈黙した。同意こそしたが、面白くはないといった様子である。

コボルト族シュナイザー種で、オーク族向けの椅子に何枚もクッションを置いて席についている彼は、非常に良識的な法律学者である。

元々、魔種族特有の選王制度により三権分立の概念が他国より曖昧であるオルクセンの現状を苦々しく思っていた。

また、しばしば国内の治安維持活動において管轄範囲を広げようと運動する国家憲兵隊を快く思ってもいない。本来は内務省傘下のはずの彼らが、陸軍参謀本部などとも軍事諜報面で結びついている制度も困ったものだ、と。

この勢力争いについては、ウェーバー警視総監なども内心でフリートベルクに同意するところだった。

マックス・ヘンデル事件でも、これは政治事件だと、国家憲兵隊が捜査の中心になろうとした。彼はローマン警視に捜査の実際を任せることで、自らはそのような国家憲兵隊の動きに抵抗し、食い止める役割を引き受けたのである。

ともかくも。

事件の司法上の処理については、やむを得ないか、ということで全員一致し、マックス・ヘンデルは不敬罪で起訴されることに決まった。刑法によれは、非公開審理になる。

極刑を以て臨むことになるだろう―――

「次は、今後の対応だな。陛下には、事件の捜査が終わるまでという条件で朝市通いを控えて頂いているが―――」

ボーニンは腕を組んだ。

弱り切った顔をしている。

彼は数日前、グスタフの謁見を受けていた。

「オルクセンの栄光。我がオルクセンにおける市民社会の平等性。こういった我が国の根底を成す部分が、一犯罪者に揺るがされるわけにはいかない、出来得る限り早期に市民と触れ合う場は復活させたい、市民もこれを望んでいるはずだ、と仰せだ。警備も増やすなと」

室内に呻きが満ちた。

誰もが、同情的な視線をアンファウグリア旅団長ファロスリエン少将と国王警護隊長フェアグリン大尉に向けた。

国民との間に壁を作りたくないという、グスタフ王の意思も分かる。

だが、無理難題だ。

警護対象自身が警護を厳しくしてはならないというのであれば、これほどやりにくい仕事もない。

市民などからは華やかな存在だと思われている彼女たちを、褒めたたえる者ばかりではあったが、代りたいと思う者はこの場には皆無であった。

「・・・例え特殊な事情があったにせよ。一度このような事件が起こったのです。犯罪は犯罪を呼ぶとも俗に申します。警備は、増やさざるを得ないでしょう―――」

アルディスが、静かに述べた。

「例え一時の御不興を買うことになっても、陛下に直言し、御裁可を得ねば。それも、差し当たって三週間以内に」

何故だ、どうしてそれほど急ぐのだという顔を、彼女とリトヴァミア以外の者たちは浮かべた。

「・・・皆さん。来月一八日は、何があります?」

室内が騒めいた。

「―――デュートネ戦争戦勝記念日か!」

ボーニンは呻き、額を叩いた。

正式には、陸軍記念日。

六三年前、シャルルロワの大会戦で、キャメロットとオルクセンの連合軍がアルベール・デュートネを降した栄光の日。

この記念日には、一一月三日の諸種族平等宣言の日と同じく、首都ヴィルトシュヴァインでは大規模な閲兵式がある。

膨大な数の市民が詰めかけ、沿道からこれを観覧する点も同じだ。

そして、グスタフ王はこれをミルヒシュトラーセ広場で閲兵するのが慣例だった。

―――このとき。

“セバスチャン・モラン”を名乗るキャメロット人の男は、同じオルクセン首都ヴィルトシュヴァインの、シュパーゲル通り近くにあるホテルにいた。

最高級や一級とは言えず、まずは二流級といったところだが、そのため目立つことを避けられ、長期に及ぶであろう滞在費の節約を兼ねていた。

モランはこのホテルに投宿してからというもの、コボルト族シェパード種のホテル主人や女将さん、女中たちからたいへん良くしてもらっていた。

ロビーも部屋も、オルクセンらしく清潔だったし、一階の食堂で摂る食事は豪奢でこそないものの手の込んだ料理で、サーヴィスも行き届いたものである。

二週間弱前―――あのグスタフ王の暗殺未遂があったと首都が騒然とした日、外出から戻ったモランは顔面蒼白としており、どうやら体調が優れないのだと分かると、女将は部屋までミルク粥を差し入れてくれた。

「朝市を覗きにいかれたと伺っていましたので、心配していましたのよ・・・ 御無事でよかった・・・」

モランは頷きもぎこちなく、それから数日、部屋に閉じこもった。

きっと、こんな物騒なことが起こって衝撃を受けたに違いないと、女将は早合点してくれた。犯人がその場で捕まっていなければ疑われていたかもしれないというほど、モランは動揺していた。

彼の狼狽は、確かに朝市を覗いたことで起きた。

だがそれは、まるで女将の想像とは異なる理由に依る。

モランは、グスタフ王の姿とヴァルダーベルクの様子を確認するつもりだった。ログレスでの構想段階で知った、あの有名な「朝市通い」の様子を下見し、目的の果たすための一助と成そうとした。

王は、報道紙や市販のブロマイドの通り巨躯であった。

すぐにそれと分かった。

憎悪に、体中が燃やし尽くされそうであった。

―――必ず。必ずあの魔王を、亡きものにしなければならない。

苦しみと死を与えなければならない。

あいつは。あいつは俺の・・・

不意に、モランを憎悪ではなく衝撃が襲った。どうにもならぬほど、体中が震えた。

王に付き添うかたちで現れた、王妃。

警護役のダークエルフ族兵。

侍女。

その長駆。突耳。整った顔かたち。

瞳。眉。唇。何もかも。

体格の良さや、肌の色こそ違ったが、モランにとって何よりも大切だった存在をありありと思い出させた。

温かみや。まるで詩や歌のようだった愛の言葉や。己だけを一途に見つめてくれていた瞳。匂い。

何もかもが奔流のようになって、彼のなかを渦巻いた。

そして、茫然と立ちつくすモランの前で、あの事件が起きた。

―――何ということを!

まるで偶然の出来事だった。

まさか。まさか、こんなことが。

銃を携えてきていなかったことが悔やまれた。あの混乱のなかならやれた。きっとやれた。本懐を果たすことが出来たはずなのだ。

官憲の警戒と聞き込みを避けるため、逃げるしかなかった。

ホテルに戻ってからというもの、モランをもっとも無念がらせたのは、案の定というべきか、国王グスタフが、あの憎悪の対象が事後の外出を取りやめてしまったことだ。

―――まあ、いい。

あいつは、きっと出てくる。

戦勝記念日。

閲兵を欠かしてこなかったことは、確認してある。もうひとつのチャンスだ。

どの国の王族も、命を狙われた例は沢山ある。だが必ず国民の前へ戻ってきた。それが王族というものだ。

あの魔王の性格なら、きっと。必ず―――

セバスチャン・モランを名乗る男の内心に渦巻くものが、本当に先鋭化してしまったのはこの期間である。

彼は機会の到来を諦めなかった。

だがそれゆえに、元から限界に近い状態を迎えていたといっていい精神に、凄絶極まるものが加わった。

それは、なまじ下見のためにと朝市で目撃した光景に起因した。

朝食を摂っているとき。眠れず酒を煽ったとき。風呂に沈んだとき。

ダークエルフ族の特徴が―――正確にいえば、それを通して蘇る、かつて愛した白エルフ族の姿ばかりが彼の前に現れた。

何度かその存在に語りかけてもみれば、抱きしめようともしたが、その度にその姿は消えてしまう。

男は、夜半に飛び起きることもあった。

荒い息をつき、汗まみれになりながら、男はグスタフへの憎悪を強めた。

―――そうだ。

あの魔王をやるなど、生ぬるい。

死なせてしまうなど、勿体の無い話だ。

奴も苦しめねばならない。

この苦しみを、奴にも与えなければならない。

そう。そうしよう。

それがいい。

―――俺が狙うのは、あの王妃だ。

(続)