軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

へいわなオークのくに⑥

春は日毎に勢力を増し、冬を追いやり、樹々は芽吹いた。

やがて陽光は煌めくばかりとなり、雲白く、葉は青々とし、星暦八七六年は七月を迎えている。

仮称ダークエルフ旅団改めアンファウグリア旅団は、編成を終えた。

当初は、あの不屈の精神を持つディネルース・アンダリエルを以てしても途方にくれるばかりだった作業は、人員の割り振りが完了した五月ごろになって急速に進むようになり、各地から必要な兵器、需品、装備の類が次々と到着した。

ディネルース以下旅団幹部たちはその対応にまた忙殺されつつも、それは明らかにいままでの労苦より手ごたえのあるものばかりだった。

混乱のなかから光明がさし、努力は徒労と化すこともなくなり、くっきりとした筋道が見えるようになってきたのだ。

まず、被服類が整った。

もっとも困難が予想されていたのは、軍装のなかではいちばん高価な、それでいて一兵士に至るまで支給されることになっていた軍用長靴の大量調達だったが、これはオルクセン陸軍省が外国からの革生地輸入をも行い、ダークエルフ族とオーク族とは体格の異なる点を考慮して市井の革職工にも発注されて、むしろそのため国内の被服廠革工部製よりも質のよい長靴が製造され、届けられた。

ヴァルダーベルクへと、次に届けられたのは小銃だ。

あの高性能を誇るエアハルトGew七四系統の銃が、一〇丁一組で木箱に納められ、一度にではなかったものの、陸続として軍用馬車に載せられて到着した。

どれもこれも造兵廠で製造され、検品を終えたばかりの、銃床にとりつけられた真鍮製板に打刻の製造番号も真新しいものばかり。

これはたいへんな厚遇だった。

Gew七四は、まだ二年前に採用されたばかりである。

国内に二つある、小銃製造能力を有する造兵廠は、年間これを計一二万丁生産できる能力があるとはいえ、未だオルクセン軍全部隊の前世代小銃を更新するには至っていない。そのうちの八〇〇〇余丁を割かれたというのは、軍上層部で何か思い切った処置が成されたに違いなかったのだ。

騎兵用の騎銃、猟兵や工兵、砲兵用の短小銃、あるいは、射撃技量優良者に与えられることになっている小銃・・・

銃が届くと、生兵訓練―――いわゆる新兵教育が、実感を以て一挙に進むようになった。

それまでも、基礎体力作りや、整列、行進や行軍といった兵士としての基本的動作の訓練は行われていたものの、小銃を模したかたちで木材を加工しただけの木銃や、あるいはそれさえ不足して棒くれを用いていて、ごく僅かに前世代銃のGew六一があっただけだから、真新しい小銃が届きその木箱が開封されるたびに、営庭のあちこちで歓声があがったものだ。

次に、オルクセン国内最大の鉄鋼及び鉄鋼製品製造会社であるヴィッセル社から、山砲や山野砲が届いた。ヴィッセル五七ミリ山砲M/七二、同七五ミリ山野兼用砲C/七二・・・

もちろん、砲のみならず、砲兵観測機器、弾薬を搭載する前車や弾薬車、予備品車、馬匹にこれらを牽引させるためのオルクセン式頸圏式輓馬具といったものも、定数一杯。

輓馬具は、オルクセン軍の輓馬用のものは非常に大きいので、サイズを若干改定して新規に製造された、アンファウグリア旅団専用のものだ。

これら砲兵器材の到着には、本当に助かった。

砲兵は、砲がなければ訓練をやれない。

もちろん観測術や操砲法そのほかの座学はやっていたが、それまでは同じ首都に衛戍する第一擲弾兵師団から予備砲を一門ずつ借り入れさせてもらって、砲兵配置になる者たちが順繰りに操作し、習熟に励んでいた。

砲兵の任務は、砲を撃つだけではない。

その牽引。展開。陣地転換。そして日常的な整備。

そういったものへの実感を持てる訓練は、やはり数が揃ってこそ一挙に進むようになった。

輜重馬車や野戦炊事馬車も届いた。

メラアス種での輓引には、オルクセン軍の重輜重馬車や大型野戦炊事馬車は重すぎ、全て軽量型を以て編成を行うことになっており、旅団への配備がここに終わった。幌の側面に、レマン国際医療条約に基づく赤星十字を描いた医療馬車も同様。予備車両、予備品類もまた。

最後に数が揃ったのは、そのメラアス種の乗馬や軍馬だ。

これには、オルクセン国内最大の総合商社であり軍御用達の物品調達業社でもあるファーレンス商会が大いに働き、東にある人間族の隣国ロヴァルナから、大量のメラアス種輸入に成功した。

ロヴァルナは星欧諸国のなかでも指折りの馬産国であったし、そのオルクセンとの国境地帯には低地オルク語を話す地域があり、同地で育てられた馬が最適だと判断された結果である。

馬は賢い生き物だ。

言葉を聞き分ける。

その馬たちが、今後も使用することになる言語環境で育てられたものだというのは、たいへん重要なことだ。

流石にロヴァルナ産だけでは全てを賄えず、西隣のグロワールや、海を越えて隣り合わせるキャメロット産の馬も幾らかあったが、それらも聡明な選りすぐりの馬ばかりで、早晩、隊になじんでくれるに違いない。

騎兵連隊に配される将兵たちは、早速に乗馬での教練に励んだ。

将兵たち本人の習熟のためでもあったが、それは同時に乗馬や軍馬たちの教練でもある。馬は本来、群れをつくる生き物だ。だが中には、同輩といえども見ず知らずのものと集団で行動することを好まない、プライドの高いやつもいて、これらを徐々に慣らしていかねばならなかった。

始めは小隊。

次いで、騎兵にとっての基礎戦闘単位となる、中隊。

そして中隊がまともに動くようになって初めて、大隊、連隊での教練―――

ダークエルフ族の者たちは馬を扱うことに長けていたが、個人での騎乗技巧が優れていることと、集団としての技量が優れていることは、必ずしも同義ではない。

彼女たちは懸命に、そして愛情を以て、それぞれの新たな相棒となった愛馬たちと相互に信頼感と技巧を深めていった。

まさしく、騎兵とは乗り手と馬とが一体となって初めて実現するものである。

―――ともかくも。

ここにアンファウグリア旅団の、部隊としての態がようやく整った。

騎兵連隊三個、山岳猟兵連隊一個、山砲大隊一個、工兵中隊一個、架橋小隊一個、弾薬中隊一個、輜重大隊一個、野戦衛生隊一個、野戦病院部一個。総兵員数八三一〇名、馬匹四九〇二頭、五七ミリ山砲一二門、七五ミリ野山砲一八門、各種軍用馬車約三〇〇両―――

それは旅団と呼ぶにはあまりにも大規模な部隊で、一個の独立した作戦遂行能力を持ち、小さな師団のようなものだった。内容と規模からいって他国なら騎兵師団と呼んでいてもおかしくなく、諸兵科連合編成を採り、完全に充足されてもいて、つまり、即応力、機動力、戦闘力の全ての点において極めて高い。

ディネルースは編成の完結報告書に署名し、陸軍省、国軍参謀本部、そして国王グスタフ・ファルケンハインに送った。

もっとも彼女に言わせるなら、錬成はまだまだだ。

―――編制、編成、錬成。

軍隊の用語は、やはり面倒くさい。

編制とは、予算措置上の用語。例えば、これこれこういう組織を作りますよという、官庁でいえば陸軍省が財務省に提出する書類に使うためのものだ。

アンファウグリアが旅団を名乗ったのは、実はこのためである。オルクセンの場合、国防法と呼ばれる法律で師団の全体数が決まっていて、法改正もなく師団を名乗らせるわけにはいかなかったのだ。

一方編成とは、その編制上の予算及び法的措置を終えた部隊が実際に人員装備その他を満たし、ひとつの組織として姿かたちが成ったことを指す。今回が、その状態。

では錬成とは、これが果たせた場合、対象部隊がいつでも戦場に投入できますよと太鼓判を押せる、種々様々な訓練を深め、兵たちが士気の面においても技量の面においても円熟したものに到達できた状態を指す。

つまり、現状のアンファウグリア旅団は、見た目こそ出来上がったが、まだまだ練度不足という段階だ。

ともかくも、内外へのお披露目にあたる編成完結式をやろうということになった。

グスタフ王臨御のもと、軍の高官、官僚、有力者、更には諸外国の公使及び駐在武官、内外の報道機関なども招き、閲兵式を行う―――

隊の工兵隊の手を使い、第一擲弾兵師団から応援も来て、旅団衛戍地の営庭に巨大な雛壇状の閲兵台が作られた。白地に黒の横帯、つまりオルクセンの国旗の色合いで装飾の幕もふんだんに掛けられる。

軍楽隊もやってきた。アンファウグリア旅団には流石に軍楽隊は属しておらず、こちらもやはり第一擲弾兵師団のものだ。

初夏を迎えても、首都ヴィルトシュヴァインの気温はそう上がらない。

摂氏二四度。

湿気もなく、風は清涼なばかりで、過ごしやすい。

気持ちのよい陽光が降り注ぎ、樹々の青々とした葉を煌めかせる。

この日が素晴らしい気候になることを、ディネルースは既に知っていた。

前日に二度、そしてこの日の早朝に一度と、あの大鷲族のヴェルナー・ラインダースが自ら首都上空を三度も飛んで、きっといい天気になると、魔術通信を寄越してくれたのだ。

「旅団の編成完結を祝す」

と、通信の末尾にはあり、ディネルースは、

「貴殿の友誼に感謝す」

と返した。

式典開始二時間前には、続々と参列者が来賓した。

軍や政府の高官。

各国の公使。駐在武官。

国内の有力者。どういう立場にある者なのか、やたら派手に着飾ったコボルト族の貴婦人までいた。

グスタフはかなり早く、ゼーベック上級大将と、陸軍大臣のボーニン大将、騎兵監のツィーテン上級大将を伴い到着し、式典開始までの控室となった旅団長室でディネルースの労苦を労った。

「よくやった、少将」

しごくあっさりとした言葉だったが、その力のこもり具合、握手の篤さ、瞳の色などから、彼の配慮が深く感じられた。

ディネルースの、年齢に練られ熟した観察眼によれば、どうもこのときの彼はあれこれ面倒くさくなってこのような挨拶をしたらしかった。

この王にとって生来の照れ屋の地が出てしまい、余計な装飾を労いに施して、いえいえ王のおかげですなどと返されるのは面倒だったし、このあと式典で鹿爪らしい挨拶をしなければならないのが、やはり面倒だったのだ。

ボーニン大将とツィーテン上級大将には、既に面識があった。

とくに後者の印象は深い。

陸軍における騎兵科の統括者で、この国に三名しかいない上級大将のひとり。

気難しそうな顔つきをした老将であり、リューマチの持病があるためあまり表には出てこないが、この国の軍隊における騎兵科の親玉だというので、ディネルースのほうからこの年の春のうちに挨拶に出向いたことがある。

彼は、オルクセン陸軍では継子扱いされがちな騎兵を辛苦の挙句、まがりなりにも形あるものに育て上げた根っからの軍人で、ロザリンドの会戦にも、デュートネ戦争にも従軍したという古強者である。

ゼーベック上級大将やシュヴェーリン上級大将とともに、草創期の新生オルクセンを支えた牡―――つまりグスタフの最側近のひとりでもあった。

言葉少なく寡黙な性格だったが、どういうわけかディネルースのことを気に入ってくれたようで、教えを乞うという態で挨拶に訪れた彼女に、

「なんの、なんの」

儂なんぞからは教えることは何もないと謙遜しつつ、ロザリンド会戦やデュートネ戦争の昔話を幾つか聞かせてくれた記憶も新しい。

―――この式典より、少しばかり後日のことだが。

ツィーテン上級大将が、かつてこの国の騎兵にもっと機動性を与えようと何度も試み挫折していたこと、それゆえにアンファウグリア旅団に理想を託そうとしていたこと、あの演習終了後にシュヴェーリン上級大将がこの朋友を訪れディネルースのことをおおいに褒めて北部に還っていたこと、そしてそれらの結果、旅団の軍馬調達のために関係各所への発破をかけてくれていたことを彼女は知る。

それらの事実は第三者より知らされて、さてそこまで気に入ってくれていたのかと驚きもしたし、またそのような密かな配慮を成し、これを黙してもいたツィーテン上級大将への好感を深くしたものだった。

「少将、準備のほうもたいへんだろうから、私たちのことは気にしなくていい。私たちは式典までのんびりしておくから」

グスタフの言葉は、王としてはどうなのかというものだったが、有難かったのも事実だ。

軍の式典というものは、厄介なものだ。

ましてや、主催者役ともなると。

開始されるその瞬間まで準備に忙殺されつつ、周囲からはさも余裕があるような、見栄えの良さを演出しなければならない。

「では」

ディネルースは敬礼し、ありがたく退出した。

ただし、いくら彼女でも、王と将軍たちに熱いコーヒーと、菓子を出させるくらいの配慮はやっている。

式典は、午前一〇時に始まった。

まずは、軍楽隊の演奏。

オルクセン国歌「 オルクセンの栄光(オルクセン・グロリア) 」が吹奏され、来賓者も全員が起立、国旗と国歌に対して敬意を表する。公式な式典ゆえに、珍しく軍用兜を被り、雛壇中央の閲兵台についたグスタフもまた、同様にしている。

オルクセン・グロリアは、管楽器を多用し、軽快さと重厚さを兼ね備えた曲だ。デュートネ戦争の、国土防衛戦の最中に作られた曲で、行進曲としての側面もある。

母なる大地 母なる国よ

母なる大地は 我らのもの

母なる豊穣は 我らのもの

黄金色の麦

白銀色の山河

黒き森の樹々

護るにあたりて

家族の如き団結あらば

誓ってそれを成し遂げん

曲の成り立ちが成り立ちゆえに、軍の行進による軍靴の響きもまた曲の一部だという捉え方をされている。

ゆえに、閲兵式の場合は国旗の掲揚はなく、演奏の開始とともに受閲部隊の営庭進入は始まり、その最先頭に国旗を掲げた兵がいる。来賓者たちは、この国旗が通過するまで、立ち続けるのが公での習いということになる。

白地の上下に太い黒の横帯、中央やや左寄りに跳ねる猪。

オルクセン国旗だ。

見栄えのため、旅団のなかでもとくに体格のよい旗手が選ばれ、これを高く掲げて入場した。

旅団旗と、騎乗したディネルース以下旅団幹部は、その後ろへと続き。

その背後に、受閲全部隊が後続する。

アンファウグリア旅団の旗は、オルクセン国軍の多くの部隊の軍旗と同じく、黒地だ。

ただし、そこには殆どの場合国旗と同じ跳ねる猪か、交差した牙が白く描かれているのだが、アンファウグリアは違っていた。旅団名称の由来に合わせ、高く吠えあがる巨狼の姿があった。

続いて、旅団の主力たる、騎兵連隊三個。

三二騎の小隊ごとに二列横隊となり、これを四つ縦列に重ねて、騎兵部隊の基本的な戦闘単位による密集行軍隊形、一五九騎の騎兵中隊縦列を成す。

アンファウグリア旅団にはこの騎兵中隊六個で編制された騎兵連隊が三つあったから、総じて一八個中隊。各連隊本部も加えると、二九五二名、二八七七騎。

全員があの黒の熊毛帽に、白銀絨の縁取りや飾線、飾帯入りの肋骨服、乗馬仕立ての軍跨という姿だったから―――

まるで黒色の奔流、波濤、津波のようだ。

「おお・・・」

参列者たちの口々から、歓声と感嘆感符が漏れる。

流石に馬の毛色までは揃ってはいない。

だが集団の先頭にあって、グスタフへとサーベルを捧げるディネルース・アンダリエルの乗馬は、見事なものだった。

艶やかな青毛に、額から鼻筋にかけてダイヤ型をした白毛がある。

これは旅団に到着したメラアス種のなかで最も美しく、それでいて逞しい、持久力や肝力にも申し分のない素晴らしい牝馬で、旅団の者たちの総意によりディネルースが乗ることになった。

本人としては若干の面映ゆさもあったが、配下の者たちにしてみれば、あの苦難に満ちた脱出行からこれまでの彼女の労苦に対する正当な供物といったところだ。

ディネルースはこの見事な馬を、シーリと名付けていた。

彼女の軍帽には、あのラインダースから贈られた大鷲の羽根も飾られていたから―――

どこか神話伝承の登場人物めいてさえ思えるほどの、他者の目を引き付けてやまない何かがあった。

ディネルースは、元より美しい。

それは線の細さや可憐さのような深窓のものではなく、眉根と目元に不屈や不譲があり、長身の四肢には逞しさとしなやかさがあったから、野趣美の極致といえた。

そんな彼女に続く約三〇〇〇騎が連綿としてサーベルを捧げ、グスタフ王の前を通過したときには、はやくも式典は最高潮に達した感があった。

陽光に煌めくサーベルの林が、一斉に捧げられる様は、華麗であり、壮麗でありながら、この集団が合わせ持つ禍々しさも想起させずにはいられない。

デュートネ戦争から五〇年。

火器の発達著しいなかにあって、騎兵はいまだ一種の戦略兵科だと捉えられている。

その奔流こそが戦場の勝敗を決すると信じている者も多く、そのような者たちにとって三〇〇〇という数はこの上ない勇壮にして武威、明白な脅威でもある。とくに人間族の国々の駐在武官たちから注がれる視線は真剣だった。

軍歌の調べが変わった。

鼓笛や軍鼓をふんだんに取り入れた軽快な前奏に、管楽器の響きが重なる。

陸軍公式行進曲「 嗚呼、(デア・) 我らが王(マイン・ケーニヒ) 」。

やはりデュートネ戦争の最中に作られた、グスタフを称える目的で楽譜が書き上げられたという、勇壮な曲だった。

グスタフ本人は曲そのものはともかく、題については「もうちょっと何とかならんかったのか」と感想を漏らしたことがあるらしい。勘弁してくれ、そう言いたげだったといい、彼の性格をわかりかけてきたディネルースには、そりゃそうだろうなとも思える。

ただし、確かに曲そのものは素晴らしい。

その調べに合わせ、営庭を反時計周りに巡っていく騎兵連隊に続いて現れたのは、山岳猟兵連隊。

総勢、二〇九六名。

小隊二列横隊を重ねた中隊縦隊をさらにまとめ、三つある大隊ごとの密集行軍隊形。

こちらもまた、黒を基調に白銀絨の軍装である。ただし肋骨服ではなく、将校たちはダブルブレスト、兵たちはシングルブレストの、比較的装飾美のないもの。

ただ、オルクセン陸軍の同兵種とは明確に異なる点があって、彼女たちはその全員が 庇つき筒型軍帽(ケピ) を被っていた。

グロワール式のものに近かったが、フェルト製で、帽芯はない。帽の天の部分より胴のほうが長く、天の前緑にはかたちを保つための山形の縫いがあり、一種独特である。

これは、彼女たちの突耳を邪魔せぬよう、なおかつ山岳地での行動を考慮し、あれこれ試した上で採用された意匠だった。もちろん、左側面にはダークエルフ族部隊を示す、白銀樹の葉を模した金属飾りが全員にある。

羅紗製の、フード付きの腰丈までのケープ型外套は民族衣装の特徴を取り込んだもの。

そして腰の右には、銃剣とは別に、革鞘に収まった大振りの山刀があった。鉈に近く、柄が湾曲した独特のもので、彼女たち民族独特のものだ。

艱難辛苦を極めたシルヴァン川脱出行を乗り越えてなお皆が皆故郷から携えてきたもので、枝を掃うにも、物を割くにも、何でも使えて、山に入るなら欠かせないものと彼女たちは見なしており、正規の部隊装備品になった。

彼女たちの主武装は、短小銃だ。

長さは騎兵銃と代わりない。ただ、サーベルを帯びる騎兵のそれには銃剣の着剣機能がないが、こちらにはある。

小隊に一名の割で、短小銃より長い、通常のGew七四小銃を持つものもいた。

射撃技量が格別に優れていると選抜された者たちで、彼女たちはダークエルフ族の特性を活かし、長射程射撃や狙撃をやる。

「かしらぁ、右!」

猟兵に限ったことではないが、軍隊において銃を携える兵は、一種独特の敬礼をする。

敬礼を受ける者―――この場合はグスタフに対し、号令一下、一斉に頭を右に向ける動作で礼を示すのだ。

さきほどの騎兵連隊がサーベルを捧げた動作もこの一種で、同様の所作は猟兵の指揮官も行う。

また軍旗を掲げる者は、この際にこれを前方に寝かせる動きをする。アンファウグリア猟兵連隊の場合、連隊旗と各大隊旗の四本だ。

猟兵連隊の行進もまた、招待者たちに感銘を与えた。

彼らが日頃見慣れているオークの軍隊は、どうしても足が太く短く見える。

巨躯を揺らせて行進する様には特有の重厚感と武威があり、おまけに地響きまで実際に伴っていたが、華麗さや壮麗さには程遠い。アンファウグリアにはそれがあった。

その総員が女だということもあるが、これはもうシルエットの問題だった。ダークエルフは、種族の特徴として、みな足が長い。それが一斉に揃っている様は、この国の軍隊としてはやはり彼女たち特有のものといえるだろう。

行進曲は、次なる調べへ。

面倒な前奏などなく軽快な管弦とともに一気に始まったのは、行進曲「 進め、(フォアウェルツ・) 兵隊(ソルダテン) 」。

この曲の歌詞は、ちょっと面白い。

兵士たちが進むとき

彼らは戸惑い 怒鳴りあう

進め!

なんだって?

進め!

なんだって?

何言ってるのかわからねぇよ

もう一度言ってくれ

いいから進め! そら進め!

トテチトテチタ トテチトチトタ

わからなくてもいいや もういいや

トテチトテチタ トテチトチトタ

可愛いあの娘のため 進むとしよう

この曲、デュートネ戦争のころはまだ低地オルク語が浸透しきっていない環境下で出征したオーク、ドワーフ、コボルトたちが互いの言葉を聞き返し、尋ね合い、戸惑いながら戦場を駆けたため、彼らのなかから自然発生的に生まれたものだという。

だから、比較的意味が通じやすかった、擬音まで入っている。曲自体は、オルクセンの一〇月に全国的に開かれる、つまり誰しもが聞きなれていた豊穣祭における定番民謡が元になっていた。

当時、最大の流行歌だったと回顧する者もいる。つまり、「オルクセンの栄光」や「嗚呼、我らが王」よりも。

軍歌というものは面白い。

上が作ったものほど荘厳で、鹿爪らしく、真面目にできていて、このように兵士たちのなかから自然発生的に生まれたものほど、無垢で、ぼやきに満ち、感情が溢れ、それゆえに耳にした者の心を掴むところがある。

「可愛いあの娘のために」の部分など、いまでこそちょっと微笑ましいが、デュートネ戦争当時としては若干の艶っぽささえあったかもしれない。

流石にこの閲兵式では歌唱までは行われなかったが、オルクセン各地各部隊なりの替え歌も数え切れぬほどあり、この曲を好む者はいまでも多かった。

この軽快な調べに乗って閲兵場に現れたのは、砲兵たち。

猟兵連隊の五七ミリ山砲中隊二個一二門と、旅団山砲大隊の七五ミリ野山砲一八門だ。

四頭、あるいは六頭で馬匹牽引された砲そのものと、その弾薬を納めた前車や弾薬車。

兵たちは砲車や前車に乗るか、馬匹に騎乗している。

火砲は、魁偉だ。

見る者を圧しながらも魅入らせてやまない、そんな禍々しさがある。

その様子と、軽快な曲は一種の対比になって相乗し、よく合った。

猟兵連隊山砲隊の一二門という編制は、やや奇異に思える者もいたが、これは軽歩兵科独特のものだ。

大きなくくりでは同じ歩兵である擲弾兵は、オルクセンの軍制ではその大隊に自前の五七ミリ砲を二門持っている。連隊には六門の七五ミリ野山砲が連隊砲としてもあった。

だが山岳地にまで展開することの多い山岳猟兵は、大隊は純粋に猟兵だけで編制されており、必要に応じて連隊から砲を配することになっている。

まず、このための山砲が六門。

猟兵連隊には三つの猟兵大隊があったから、運用的には二門ずつ配る。そして猟兵連隊本部が直接手元に管轄する、連隊砲としての山砲が六門。全て山砲なのは、やはり兵種の目的ゆえ。

なんのことはない、最初から配ってあるか必要に応じて配するという建前の違いだけで、合計の門数だけは同じことだった。ごちそうの卵を個別に持っているか、まとめて籠に盛ってあるかの違いといえば分かりやすいかもしれない。

彼女たちに続く、旅団直轄の七五ミリ野山砲一八門から成る山砲大隊が、アンファウグリア旅団最大の火力ということになる。

オルクセンの軍制にはもっと火力の大きな編制の野砲大隊や連隊、旅団、あるいは攻城戦にも使える重砲旅団もあったが、それらは編成として大きく、また運動性の点において重すぎ、快速な機動集団を目指すアンファウグリアの編制には取り入れられなかった。

オルクセンの優れた七五ミリ野山砲が、その名の通り、山砲を兼用できる程度には重量を抑え込みつつ、他国の野砲と何ら遜色ない性能を有していた影響もあった。

どちらの砲兵たちも、基本的には山岳猟兵連隊と同じ軍装をしていた。

砲兵が自衛用に使う銃もまた、短小銃型で変わりはない。

続けて、工兵中隊と架橋小隊。

どちらも同じ工兵科だが、前者は前線近く、あるいはときには前線そのものにまで直接追従して、陣地の構築、障害物の作成、爆薬や爆発物の使用及び処理に当たる。後者は、浮橋をかけて渡河作戦を支援する。軍学上の分類では、戦闘工兵と建設工兵という分け方をすることもあった。

彼女たちは、徒歩と、機材を収めた軍用馬車の隊列で閲兵を受けた。

輜重馬車隊や衛生隊は、その全力は閲兵式には参加しなかった。

彼女たちの数が多すぎたということもあったが、何もオルクセンの軍制全てまで諸外国に披露することはあるまい、という判断のもとだ。

営庭の中央部に、閲兵参加の諸部隊が集結を終えたところで、演奏曲はまた違ったものへと変わった。

第一擲弾兵師団の軍楽隊は、儀仗役を務めることが多いだけに手練れていて、鼓笛と軍鼓による間奏を挟ませて、たいへん上手く間合いをとった。

演奏されたのは、お披露目としてはこちらも今日が初めてになる。

騎兵の蹄音に負けぬよう故意にゆったりとした曲調で作られ、またダークエルフ族の民族音楽の調べを取り入れてある。

新たに作詞作曲された、旅団歌だ。題はそのまま「アンファウグリア」。

アンファウグリア

アンファウグリア

我らにもはや白銀樹はなし

許容も慈悲も 既になし

憎しみは無尽 渇望の如し

乾いた顎で 食らいつけ

血濡れた顎で 噛み殺せ

この場では歌唱こそされず、調べはたゆとう大河の流れにさえ聞こえたが、その歌詞は凄絶極まりない。

旅団のなかで、詩作の得意な者が綴った。

「白銀樹はなし」とは、彼女たちの護符の習慣に因んでいて、生まれた故郷はもはや無い、という意味である。

既に旅団内には、流布している。

ダークエルフ族は、元々楽曲や舞踊を好む。

各小隊に一名くらいは、リュートや横笛、コンサーティーナあたりの得意な者が必ずいて、なかにはそういった楽器を後生大事に抱えシルヴァン川を渡ってきた者もいる。

このヴァルダーベルクで、夜になり、酒肴が入ると、彼女たちも最初は故郷の歌謡などを歌っていた。

だがやがて、旅団の名が決まったころから自然発生的にこの曲と歌詞が生まれ―――

編成が進めば進むほど、浸透した。

彼女たちにしてみれば、この曲が、この曲こそが、故郷を思い出させた。そこであったあの凄惨な虐殺をありありと思い浮かべることが出来た。

脱出直後こそ、触れたくもない過去だった者も当然いた。

だがいまでは、誰もが歌う。

まるで昏い情熱であり、古傷を自ら開いて塩を塗り込むような、他者からすれば目を背けたくなるような自虐があった。

だが彼女たちは口を揃えるだろう。

―――同情も憐憫も無用。

だから。

―――とっとと喰い殺させろ。白エルフどもを。

ダークエルフ族は、決して可憐な妖精などではない。むしろその決意と選択は凄絶であり、迷いなどなく、きっぱりとしていた。

オルクセン軍の上層部としては、配慮のひとつとして彼女たちの部隊歌を作ろうとした。そしてこの式典に合わせて楽譜を書きあげようとディネルースたちに相談したのだが、実にあっさりと、間もおかずにこの曲と歌詞が戻ってきて、若干戸惑いもしたのだ。

演奏が終わると―――

営庭中央部に、アンファウグリア旅団のほぼ全貌が揃っていた。

ある者は見惚れ。

ある者は同情の念を抱き。

またある者は、彼女たちの瞳に宿る昏い感情に気づき、慄きもした。

王グスタフ・ファルケンファインがどのような感想を抱いたのかは、公式には詳らかになっていない。

だが少なくとも、ディネルース・アンダリエルにはわかったような気がした。

訓示を述べる前、王はそっと彼女と視線を合わせ、小さく頷いてみせたからである。

「兵士諸君。

アンファウグリア旅団の兵士諸君。

ゆえなくして故郷を追われた君たちを、我がオルクセンは心より受け入れる。

この新たな地を以て、平穏安寧に暮らしていく選択肢も君たちにはあった。

我が国はそれでも君たちを受け入れただろう。

だが自ら銃をとり、轡をとり、砲を備え、我が国に仕えてくれる選択を君たちは成した。

私はその選択を決して忘れない。

決して!

だからもう、ここは君たちにとっても祖国だ。

新たな祖国だ!

大地の豊穣、山の緑、たゆとう河川、黒き樹々。

ここは君たちの母なる国だ!

君たちはそれを忘れないでほしい。

決して忘れないでほしい。

胸を張って誇ってほしい。

我らと糧をともにしていこう。

この言葉を以て、旅団編成の完結を祝す。

星暦八七六年七月四日

オルクセン国王グスタフ・ファルケンハイン」

―――さてさて。エルフィンドはどう出るかな。

表情や姿勢を緩めず、グスタフの祝辞に込められたものに心を揺さぶられ感謝もしながら、ディネルース・アンダリエルは昏い炎で自らの感情を弄んでいた。

彼女は、アンファウグリア旅団の編成が、政治的目的を含有することも理解している。

これで、ダークエルフ族がこれほどの集団を以てオルクセンに亡命し、武装し、牙を研いだ事実が内外に知れ渡ることになったのだ。招いた公使や新聞記者たちが、その事実を彼ら人間族の国々にまで広めるだろう。

王は、しっかりとその理由にも触れている。

「ゆえなくして故郷を追われ」

さてさて。

さて、さてさて。

エルフィンドはどうするか。

きっとグスタフ王の周辺や、オルクセン外務省が、より詳しくいったい何があったのか、周辺国からの問い合わせに応じるかたちで「漏らし」もする。

これでエルフィンドという国の持つ、楚々として、平穏で、神話上の妖精じみた可憐で清廉な国の心象は吹き飛んでしまう。

演説はオルクセンがどう対応するつもりなのかも、きっぱりと示していた。

そのダークエルフたちを「本人たちの選択のもとで」武装させたのだ。

―――機会を得ればエルフィンドをぶっ潰す。

そう宣言したに等しい。

楽しくて仕方がない。

楽しみで仕方がない。

もっと牙は研ぐ。研ぎ続ける。

我が祖国だったもの、エルフィンド。

せいぜい、もがき、苦しみ、嘆き、じたばたと踊ってほしい。

我が旅団が。

あの誇らしき旅団歌で伴奏して差し上げる。

アンファウグリア旅団は編成を終えると、錬成を深めつつ、徐々に実働任務を負いはじめた。

かつてのグスタフの構想通り、ヴァルダーベルクから騎兵一個中隊ずつを国王官邸に派遣して、官邸及び国王警護の任を担当したのだ。

毎朝一一時ちょうどに首都近郊北西にあたるヴァルダーベルクを出発し、衛戍地前のシュッチェ通りを西へ。

そこからグランツ大通りを南に折れ、市内を東西に流れるミルヒシュトラーセ川を、アルデバラーン大橋を使い、渡る。

するとデュートネ戦争戦勝凱旋門のあるフュクシュテルン大通りとの交差点に入るから、東に折れ、すぐ南に曲がると、まず国軍参謀本部の巨大極まる大理石作りの建物が見え、あの毎週土曜に朝市が開かれるヴァルトガーデン前。左を、西のほうを見上げれば国王官邸の裏門に到着する。

行程約八キロ。

メラアス種による騎兵の 常歩(なみあし) で一〇分とかからない計算になるが、途上の交通状況等を含め余裕を見込んで、一五分弱といったところ。

国王官邸は、上空から見ると凹型をしていて、窪んだほうが裏側だ。くぼみは中庭兼馬車口で、中隊はここに馬を繋ぐ。

午前一一時半より、官邸前にてそれまでの当直たちと、交代式。

国王官邸衛兵となった彼女たちは、ここから二四時間、翌日の交代まで正門や裏門、あるいは国王外出時の警護につく―――

たいへん信じられないことだが、それまでオルクセン陸軍には近衛師団や親衛隊の類というものが存在しなかった。強いていえば、儀仗部隊の役割も担ってきたあの第一擲弾兵師団がこれに近いが、彼らの任務は国王の警護ではなく首都防衛とされていた。

国王はどこに赴こうとその地の部隊をいつでも指揮下にいれられるのだから、それで良しとされてきたらしい。

ではいままで国王官邸の警護は、どうしていたのかというと―――

ヴィルトシュヴァイン警察から警察官が派遣されてきており、ただそれだけだった。

過度な装飾を嫌う上に、何処へでも微行で赴きたいグスタフの性格が理由だったのだが、いまや星欧屈指の列商国の一つともなっているオルクセンの最高権力者の警護としては、なんとも不用心なのも事実ではあった。

元々、どうにかしてはどうかという意見はあったらしい。

であるから、アンファウグリアが国王官邸及び国王周辺警護を担うことには、さほど反対はでなかった。長きにわたるオルクセンの歴史で、初めて近衛らしい役割を担ったのが彼女たち、というわけである。

配置は正門に一個分隊、裏門に二名。

熊毛帽に肋骨服というあの常装に、騎兵銃とサーベル、それに拳銃を装備する。

拳銃は本来なら将校の自弁品になるが、任務の性質上、二個中隊分の部隊装備品が用意されて、配置につく中隊はこれをヴァルダーベルクで帯びてくるわけだ。

アンファウグリア旅団による国王官邸警護は、すぐに市民たちの話題になった。

その往復の騎行も、官邸での配置も。

背丈があり、美形揃いで、突耳をしていて、どこかしなやかな猛獣を思わせる彼女たちの姿は華麗、美麗、勇猛に見え、その様子を一目見ようと最初のうちは野次馬が並び、とくに 小銃操演(ライフルドリル) を含む交代式が注目を浴び、落ち着いてからも一種の観光名物のようになった。

―――ようはこれも政治だな。

ディネルース・アンダリエルはそのように理解している。

もちろん、実務上の役割を負っているのも事実だ。

だがオルクセンの国王官邸に彼女たちが警護につけば、当然ながら耳目を集め、話題となる。

市民はおろか、外交筋を含む人間族の口にも上ったし、外電で新聞記事にもなった。

つまりエルフィンド側からすれば、強烈な嫌味でしかない。

爽快ではあったが、であるからこそ、手は抜けなかった。

なにか粗相をしでかせば滑稽な話題となってしまい、むしろ逆効果となる恐れまである。

制度が始まって最初のうちは、警護に就く各騎兵中隊にディネルース自身が付き添い、丁寧に指導もし、また自身もこれを第一の任務とした。

何しろ、彼女の目から見れば旅団はまだまだ練度不足だ。この任務自体が練度の向上にも役立ったが、心配でいけなかった。

旅団における書類決裁のあれこれは、急を要するものがあれば騎兵なら誰でも伝令のために腰に備えている革製図嚢におさめて運んできてもらい、衛兵たちの詰所となった部屋の一隅を借りて、そこで処理をした。

ただ、これはこれで問題がある。

あまりしかつめらしく何にでもついて回り、細かく口をはさみ過ぎれば、兵たちの過度の緊張を招くし、正式な衛兵司令役を務める各中隊長の顔を潰しかねなかった。だから衛兵詰所に居続けるわけにもいかない。

だがせめて、一八個の中隊がその役割を一巡するまでは見ていてやりたかった。

最初のうちは、警護のためもあって官邸各所を見せてもらったり、ついで国王副官部の連中と親交を持ったりで時間を潰したが、やがてやることもなくなって、どうしようかと思っていると、

「いい加減にしておけ。そんなに閑なら昼飯の相手でもしろ」

グスタフに呼び出されるようになった。

この王は、臣下たちの姿の見るべきところは見ている。

「少しは部下を信用せんか。上に立つものの普段は、下からは閑そうにしているように見えるくらいで丁度いいのだ。立ち上がるのは何かあったときにだけで十分だ」

「・・・そんなものか」

「ああ。そんなものだ」

自然、王からの相伴の誘いが増え、親交の機会が深まった。

共通の話題となったのは、書籍についてだ。

意外なことのようだが、個人としてのディネルースは本をよく読む。

とくに神話伝承、奇談奇譚や怪談の類が好きで、本人自身が妙な趣味だと思っているが、思い切り強い火酒を飲みながら、夜それを読むのは夢中になれた。

グスタフは、かつて許した通り双方日常通りの口調で、彼女の故郷の神話伝承などを聞きたがった。

国交を断っているオルクセンにしてみれば、世で最も手に入りにくいのがエルフィンドの書物で、そこに書かれていることは彼の知的好奇心の対象になったのだ。

昼食の席と、それに続く午睡の時間に、よくそんな他愛もないがそれゆえに楽しさばかりの歓談をした。

そのような機会が増えると、これは以前から認識をしてはいたが、グスタフの知識量はたいへんに豊富だった。

南の、ずっと南の大陸には、大陸が二つに分かれていく大断崖と大瀑布があるだとか、遠くマウリアの地には何と三〇〇以上の藩王がいるであるとか。

海のむこうの国キャメロットの、そのまた海の向こうの国センチュリースターから西に広がる大瞑海にはずっと嵐が荒れ狂って、何度も挑戦はされているが未だその大海を渡った者はいないのだとか。

東の果て、道洋の、大瞑海との境にある絶道の島国には、うんと勇敢でいながら精緻な美術品を作る民族がいる等々。

年齢を重ねてはいるがエルフィンドしか知らないディネルースには、ちょっと俄には信じられないような、世界の興味深く不思議な話の数々を、巧妙かつ軽妙洒脱な口調で聞かせてくれた。

「ともかく、様々な世界の伝承や現状を調べれば調べるほど、世の成り立ちでこの星に大きな星が落ちたのは間違いないようだね」

「本当に? エルフィンドのあの伝承にある、私たちの種族の成り立ちに関わっていたという、あの、か?」

「ああ。そんな伝承はエルフィンドだけではない。世界中にある。この星には一二個の大小様々な月があり、ひとつきごとに順に入れ替わってどれかがいちばん近くに来るわけだが、どうもかつてはもう一つあった。そのうち一つが、あの巨大極まる大瞑海に落ちた。私はそう思っている」

「そんな馬鹿な・・・」

「信じられないのも無理はないが。そのとき、剥がれ落ちたという欠片の落下した場所は、この星欧大陸でも実際に見つかっているからね。間違いないと思うな。我らオークの祖は、その一つの黒き塊に触れて、言葉を解するようになったとも伝わっている。磁針も証拠の一つだ。大瞑海に向かって、西のほうを指す。ちょっとあり得ないことなんだがね、これは。何か磁力のあるうんと大きな、星の固まりが落ちて。その中心が未だにあの海では渦を巻くように嵐を起こしているのだと、人間族の学者たちは言っている」

「ふむ・・・」

やがて彼は、彼の持つ膨大な蔵書量誇る図書室に出入りを許してくれるようになり、好きなものをどれでも読んでもいい、何ならヴァルダーベルクに持ち帰っても構わない、ただし読んだあとはあった場所に返しておくこと、そのように許可を与えてくれた。

これには、国王官邸副官部部長のダンビッツ少佐などはたいそう驚いたものだった。

掃除清掃の者はともかく、王の図書室を自由にしていいと言われた者が出たのは、グスタフ王の治世始まって以来のことだったらしい。

図書室は、圧倒されるほどの場所だった。

国王官邸の階層はどの階もうんと天井が高いが、その構造を利用して中二階式に内部を区切り、分厚く立派な書架がずらりと並んでいる。

真鍮製の手摺をもつ青銅製の螺旋階段が何か所かあって、それを登ればまた書架が。蔵書数は、万を超えているのではないかと思われた。

また一隅には、グスタフの趣味を伺わせるものがあった。

丁寧にファイリングされた各国の切手、硬貨、紙幣。

壁や陳列棚に収められた、古今東西の銃器、蝶や鉱物の標本。

グスタフが彼自身のために書籍を取りにきたときなど、解説をしてくれることもあった。

「綺麗だろう? それは アカボシウスバシロ(モルフォ) チョウ。ロヴァルナから、ベルリアンド半島まで渡ることもある。珍しいものだよ、それは」

そこには学究的というよりも、もっと稚気めいた、蒐集家の雰囲気があった。

所々に、革張りの詰め物のよい椅子があり、品のよいサイドテーブルとランプとがあり、そのテーブルの棚にはカットグラスと彼お気に入りの林檎の蒸留酒があって、どこでも気の向いた場所で読書を楽しめるようになっている。

―――なるほど、確かに。ここは王の隠れ家というわけか。

ディネルースは、衛兵交代を見守って、配置具合を眺め、図書室で本を読み、昼食を相伴に授かり、彼との会話を楽しんで、本を借りてからヴァルダーベルクへ帰り、午後はそちらであれこれ書類の決裁や旅団の指揮と指導をするという毎日を過ごすようになった。

そのような日々を送っていると。

―――おやおや。

おやおやおや。

こいつは驚いた。

グスタフの様子に気づくものがあり、初めは己の勘違いかとも思ったが、どうにもそれは誤解ではないようだと確信が持てるようになってきた。

彼の瞳の具合や、言葉の端々や。

八月を迎える前に、まだ珍しく、高価なものだという、いままでの物と大きさはさほど変わらないのに信じられないほど遠くのものが見える野戦双眼鏡を贈られたとき、彼の様子から、女ならではの勘の鋭さと、重ねた年齢ゆえの他者を見る目で、間違いはないようだと思えた。

ただその問題についてはそれ以上彼のほうから進展させるつもりはないらしく、むしろ彼自身が戸惑っている様子も感じられた。何か、他者が踏み込んではならない、壁のようなものがグスタフには確かにあった。

また彼とのそれまでの時間から、以前抱いた疑念を深めるようにもなってきた。

この二つは、彼女自身がこれからの選択をするためにじっくり考えてみたところ、根を同じくする部分が潜んでいる。

どうしたものか、と思う。

心を持つ者同士の、距離間隔というものは難しい。

何かをきっかけにそれまでよりずっと深まることもあれば、下手に弄ると時間をかけて築きあげたものを一瞬で壊してしまうことがある。

改めて振り返ってみると―――

ディネルースは、この奇妙なほど平穏な日常に安息を覚えてもいた。

考えてみれば、あの虐殺とシルヴァン川からの脱出行以来慌ただしいばかりで、ようやくに一息ついたような、そんな心身の緩慢と弛緩、静穏があったのだ。

寧日が訪れた頃合いも良かった。あの脱出行の直後ならそのようなものを楽しめもしなかっただろうし、多忙は自らの傷を癒してもくれたのだろう。その果ての平安だった。

何もそれを自ら壊すこともあるまい、とも思える。

だがそれではグスタフの瞳に潜んだものを放置することともなり、おそらくはそれを救えるのは己だけなのではないかという心境にもあった。

それに―――

こんな日々は、そう長くも続くまいとも思えた。

彼女には大願があり、それはあまりも苛烈で、不穏で、剣呑な内容のものだ。エルフィンドと実際に戦争になる日はそう遠くなく、大乱となれば血と硝煙と弾雨にまみれた果てに、生を失う可能性も高い。

―――やるには今しかあるまい。

一度決断を下すと、彼女は慎重に思慮を組み立てた。

抱いた疑問の根底部分は、あまりにも大胆なものであり、己自身でもまさかと信じかねる部分が未だにあった。

触れたものの数々を想起し、分析し、吟味して、そうとしか思えないとまた確信が持てたが、積木細工の一部が欠落したように、どれほど考えても思考の穴が埋まらないものもある。

どうにか他の部分で補完できると踏み、ようやく具体的な手段について考えることが出来た。

計画と言葉とを選んで、相手の反応を想像し、一つ一つ検証する―――

機会を待ち、実行に移す日取りを選んだときには、狩りに出る日を思い出すようでもあり面白みまで覚えてしまった。

下準備も入念に施した。その日までに幾らかきっかけとなりうる話題を仕込んでおいたし、当日はいつもの相伴に呼ばれた際、グスタフの側に常に控えている巨狼、あのアドヴィンに少し頼み事もした。

「・・・今日は、今日だけは、王と二人で話がしたいのだ」

彼女がそっと願い出ると、アドヴィンはあの灰色の瞳でじっと彼女を見上げ、しばし沈思し、

「・・・よかろう、貴殿にしか成せぬこともある」

了解してくれた。

「ありがとう、アドヴィン」

この平穏の日々で、ディネルースが母なる白銀樹に感謝したことの一つが、彼ともずいぶんと親交が持て、すっかり馴染めたことだ。

理由も告げていない願いに同意してくれたことは、アドヴィンのほうでもそのように捉えてくれている証と思えた。

どうやらこの巨狼は、さほど年齢を重ねておらず、おそらくグスタフと同じくらいではないかと、ちかごろのディネルースはみている。

幸い、グスタフはいつも近くで寝そべっているアドヴィンがいないことに不信を持たなかった。彼の執務室の、まるで重厚で軍艦の装甲のような扉には、アドヴィンだけで出入りできる潜り戸があり、そこからどこかに行ってしまうことも、ままあったからだろう。

この日の昼食は、北海の海産物が出た。

ニシンの酢漬けにオリーブ油をまわしかけ、夏のトマトとマスタードをソースに。

旬のホタテの貝柱をからりとフライにして、ワインヴィネガーとレモン、岩塩を添えたもの。

「これはこれは」

ディネルースは大いに喜んだ。

ニシンの酢漬けは、故郷でもよく夕餉に上った。

山岳民族であるダークエルフにとって、日常的に食べることが出来た、数少ない燻製や干物ではない海産物だ。魚料理といえば、湖沼の鱒やパイクのほうが印象にある。

一方のホタテは、オルクセンに来て初めて舌にのせた。

産地である北海沿岸はともかく、鉄道と、食糧の冷蔵保存技術が進んでからこんな内陸部でも生で流通するようになったのだといい、それまでは海水とともに水運で運ぶしかなく、極稀に食べられる貴重なものだった。

いまでは街の食堂などでも供され、さほど高価でもないが、皮膚感覚としては未だ「御馳走」。

首都ヴィルトシュヴァインでは、バターソテーやフライにして、食通たちの前菜に好まれる。

初めて食べてみたときはおっかなびっくりだったが、たちまちその味にディネルースは魅了されたものだ。

滋味。旨味。清廉。肉厚。

精緻があって、緻密があった。

彼女からみれば、火酒にも合う。

「ふふふ、ディネルースはホタテが気にいったね」

グスタフにとっても好物の一つだという。

どうにかもっと食べられるようにと、北海でまだ歴史が浅い養殖を増やすよう奨励してもいる、と。

食後の濃く熱いコーヒーが出て、互いにパイプと葉巻の火を点けたところで、彼が興味を抱いていた、エルフィンド歴代女王のひとりの話をした。

神話伝承の時代の、初代から数えて三番目の女王。現代のエルフィンドの国制の、ほぼ大筋を作り上げたと伝わっている。数々の改革を成し、しかもそれらをほぼひとりで思いついた、いってみれば中興の祖ということになる。

「これはまた信じられないことだが、神代のエルフ族には、元々は雌雄の別があったという。他の生物と同じく、男女の交わりによって子をなしていた。だがこの女王が、エルフはより完全な存在でなければならぬと、女だけにしてしまったのだともいう」

「・・・ほう」

グスタフは聞き入り、感嘆したものだ。

「話には聞いたことがあったが。いやはや、興味深い・・・」

「この女王がちょっと面白いのは、ここから先だ」

さて。あ、さて。

どう出るかな。

「ふむ?」

「女王は、元は人間だったと。彼女自身が、流行り病にかかっての死の間際、そのように告げたらしい」

「・・・・・・・人間族がエルフに? どういうことだ。そんなことが・・・」

「人間族が、というのは正確ではないな。これまた俄には信じられないかもしれないが、この世とはどこか別の世界があって、そこから魂だけが女王に生まれ宿った、元人間だったというのだ」

「・・・・・・」

「エルフィンドの伝承には、しばしばそんな者がいたと残っている。エルフとして生まれかわった者、あるいはある日とつぜん、その別の世界の、人間の姿のままエルフィンドに降ってきたものもいた、と」

「・・・・・・降ってきた」

「そう。自他ともに、そうとしか説明がつかなかったそうだ。ある日忽然と、森や、平野や、丘や、湖のほとりで見つかった。何度かそんなことがあったうちに、エルフ族のほうでも半ば慣れっこになってしまったのだそうだ」

「・・・・・・」

「彼らは何故か、最初からエルフ族に好意を持っている者が多かった。そうして、まだ降星の混沌に満ちた、エルフィンドに色々な知恵を授けてくれた。農業や、科学や、鉱業の」

「・・・・・・」

「彼ら自身の言葉によれば、 転生者(ヴィラール) という。本来は、諸々の力、とでもいう意味だ。ヴィラールは複数形で、単数形はヴィラ。女性形だとヴィリエラ。古語でそんな言葉があるほどには、ありふれた存在だったのだろうな」

「・・・・・・」

「流石に我が目にしたことはなかった私は、まるで信じてはいなかった。お伽話の一種として楽しんでいたくらいだ。だが、この国に来てから・・・いや―――」

「・・・・・・」

「貴方と接するようになって少し考えが変わった。あり得るのではないか、と」

「・・・・・・」

「王。我が王。グスタフ。貴方もそうなのではないか? 貴方は、どこか別の世界の、元人間なのではないかな?」

沈黙が満ちた。

グスタフは否定も肯定もしなかった。

目を伏せ、感情の読めないまま、静かに紫煙を吐き出しながら、

「・・・どうしてそう思ったんだ?」

それだけを尋ねてきた。

「ひとつには、貴方の才能」

―――農業、科学、工業、軍事。

比類なき才。

この国での殆どは、彼が思いついたのだとゼーベックたちも言っていた。

彼だけで!

どれほど才能があったのだとしても、そんなことはあり得ない。

技術の発展や熟成というものは、相互に影響しあって初めて成せるものだ。

何かもっと異質な、初めからそのようなものがあると知っていたのだとすれば、納得がいく。

「貴方がときおり語る、貴方が記憶や書籍のなかから探ったという専門用語の多くもそうだ」

国家総力戦。

諸兵科連合戦術。

旅団戦闘団。

空中偵察。

紙の上の戦争。

―――そんな言葉のうち幾つかは、まだこの オ(・) ル(・) ク(・) セ(・) ン(・) に(・) も(・) 存(・) 在(・) し(・) て(・) い(・) な(・) か(・) っ(・) た(・) 。

「おそらく、まるで別の世界にあった用語だろう」

必要にかられ、耳慣れぬ言葉や言い回しを書きとめ、オルクセンの辞書をひき、アールブ語と突き合わせていた私にはそれがわかった。

「貴方はおそらく、最初からそんな才能を持ち合わせていたのではない。ロザリンドの会戦までは一介の兵士だったと、これは貴方自身も言っていた。きっかけになったのはあの魔術の使用だろう。そこで貴方の中の何かが目覚めた。これはシュヴェーリン上級大将たちの証言とも一致する」

「・・・・・・」

「また一つには、貴方のオークとしての特異性」

―――睡眠欲や性欲の欠落。

とくに性欲。

オークとは、そんな生き物ではない。

「貴方の中身が、人間であるなら、むしろ当然だ。貴方はおそらく、種族としての出自本来は夜行性であるオーク族のなかにあって、昼間眠くなったりしない。その証拠に、平気で読書や歓談をしていられる」

この国にとって、午後一時から二時ごろに習慣づけられている午睡の時間は大事なものだ。

行軍中の軍隊においてさえ、可能であるならば昼食の大休止とともにその時間にとらせることが望ましいとされているほど。

「そして、オーク族の異性に興味がないのだ。文字通り」

「・・・・・・」

「初めは単に、異性に興味がないのかと思っていた。だが貴方・・・これは私の勘違い、傲慢かもしれないが・・・ グスタフ、貴方、この私には興味があるのだろう?」

「・・・・・・」

「貴方のまなざし、言葉。心遣い。ここしばらく接してみて、確信が持てるようになった。そして私の種族は、容姿としては極めて人間族に近い」

「・・・・・・うん。君に惹かれているのは、否定はしないな」

グスタフは初めて口を開いた。

「・・・そうか。安心した。断っておくが、光栄に思っている。最初は我が種族から何も差し出すものが無いゆえ、我が命も体も捧げると言ったが。いまでは本心からそうなってもいいと思っている」

「・・・そうか」

彼は目頭を揉んでいた。

―――ここまで言ってやっても、踏み込んで来れない何かがあるな、やはりこの王には。

最後までやるしかあるまい。

「そして、あの魔術そのもの」

―――天候を操れる。

あんな魔術は、あり得ない。

世の魔術とは、まるで異質だ。

そしてあれほど絶大な魔術力を持ちながら、通信や探知は出来ないという。

「あのとき貴方が使った詠唱。まるで言葉の響きがこの星欧のものとは思えない。どこかもっと別の、まるで言語体系の異なる国のものだろう?」

「・・・・・・聞いていたのか」

「ああ。我らは“耳”がいい」

「・・・そうか。あれの、あの詠唱の言語体系が異なるだろうというのは、正解だ―――」

「・・・・・・」

「あれは、この世界でいえば、ずっと東の、道洋の、その果ての国が使っているものに近い」

「・・・・・・・この世界でいえば、か」

「・・・ああ、この世界でいえば、だ」

彼はもう、半ば認めてしまっていた。

「あれは言っておくが、魔術の詠唱なぞではないのだぞ? ちょっと願を掛けるくらい。私の―――私の中の記憶にある故郷だった地域で、そんなときに唱える言葉だった。そもそも私がいたその世界には魔術なぞはなかった―――」

グスタフは、ぽつり、ぽつり、と語った。

彼のいた世界は。

魔種族や魔術などまるで存在しなかったのだそうだ。

大鷲族よりもっと巨大な、人間がうんとたくさん乗れる金属の空飛ぶ乗り物や、このオルクセンの都市が一日は食べていけるほどの量を運べる船や、数時間で星欧を横断できてしまうような速度の鉄道が走っていて。

そのように進んだ科学技術による産物を使って、この世界で言う魔術通信のようなもので、やろうと思えば世界中の誰とでも会話できるような、そんな世界だったらしい。

「オークとしての子供のころから、あの言葉だけは記憶にあった。ロザリンドの会戦のあと、あれを唱えると雨を降らすことができ、それからその世界のことを思い出すようになった。その点、君の考察はあっているよ」

「・・・・・・」

「最初は、何か夢を見ているのだと思ったな。だんだんあちらの世界の記憶が鮮明になっていって。挙句には、どちらが夢なのかわからなくなったこともある。今でも時折、ふとそう感じることがあるな。この世界は、微妙にあちらと似ているんだ。地理も、歴史も」

「・・・大変だっただろう?」

「ああ。大変だった。我ながら、必死にやってきたな。私のいた世界の側にも、異世界に転生する物語はあったんだ。神話や伝承などではなく、作家たちが作り出す完全な夢物語だったから、まさか我が身にそんなことが起きたとは、信じられなかった」

「・・・そうか」

「どうやって、あちらの世界で生を終えたのか。どうやってこちらに来たのか。何故魔術が使えるのか。それらは未だに私にもわからない」

「・・・・・・」

「ともかくも、必死にやってきた。夢物語では、さも簡単に出来るように書かれていた改革や革新は、これは私の才の無さもあったのだろうが、そんな一朝一夕にやれることではなかった」

「・・・・・・」

「一〇〇年。そう、一〇〇年かかった。何もかも上手くいくようになってきたのは、私の感覚でいえばごく最近のことだな。私にとって幸いだったのは、私を盛り立ててくれた者たちが、そんな私の特異性まで理解した上で側近になってくれた事だ」

「・・・ゼーベック上級大将、シュヴェーリン上級大将、ツィーテン上級大将か?」

「ああ。うん、鋭いな、君は。ただ、それに、アドヴィンもだぞ」

やはりか。

彼がどれほど改革や革新を思いつこうと、周囲の者が従わなければ実現は不可能だ。

このオルクセンという国でそれを成してきたのは彼らだろうと、だいたい察しはついていた。

彼らの結束は、あの魔術を核に集まったというだけにしては、異常といっていいほど固かったからだ。

―――アドヴィンもというのは、意外だったが。

「アドヴィンには驚いたよ。ロザリンド会戦のあと、私は自ら降らせた雨のために崖下に転げおちてね。そのとき出会って、助けてくれたのが彼だ」

そんなことが。

「気が付くと目の前に巨狼がいて。怖かったな。食われると思った。だが彼は私を一目見て言った。貴様、オークではないな、と」

そうして彼を助け、崖上まで持ち上げてくれ。

ゼーベックやシュヴェーリンの前に、彼を連れていった。

「つまりアドヴィンは、オーク族と他種族を結んだ、最初の一頭だったんだ。シュヴェーリンは、私が落っこちたあとずいぶん探してくれたらしい。でも泣く泣く諦めていた。もちろん、今じゃ恨んでなんかいない。彼はたくさんの同族を本国まで連れ帰ろうと、必死だったからね。お互いに、いまでは当時のことを冗談にもする」

―――この悪党!

―――誰が悪党です! また転びますぞ!

そうか。冗談めかしたあのやりとりには、そんな意味が。

「しかし、なんだ。君でも読み切れないことはあるんだな?」

グスタフはくすくすと笑った。

「残念だが、それはたくさんある。とてもたくさん、な。一つ、どうしても最後までわからなかったこともあるくらいだ」

「ほう? なんだい?」

わかっているくせに。

「グスタフ。貴方。どうして私に手を出そうとしないのだ。なぜ踏み込んでこないのか。これだ。どうとでもなっただろう? 貴方の立場なら。その気なら、最初からどうすることも出来たはずだ」

「あー・・・うん―――」

彼は少しばかり悩んだあとで、告げた。

「それ。その立場というやつだ。まず、君はあのとき、大変な苦境にあった。ようやくそれから脱したあとだった。そんな君の、こう言っては何だが半ば自暴自棄めいた忠誠を利用して手を出そうなど、人のやることではない。私はそう信じている。あー・・・いまの私は人ではないけどね」

なるほど、な。

―――やはり、この方は優しい。

根の彼は、彼の中身である本来の彼は、ただただ優しい人物なのだろう。

おそらく、それを信念にもしている。

損な性分でもあるかも。本来なら、王など引き受けるべきではなかったほどの。

―――ディネルース、良く戻ってきた。よくやったぞ。

―――降りるなら今のうちだぞ。

―――演習中止! 中止だ!

―――オテントサン オテントサン

思えば、ずっとそうだった。

やはり、いい牡。

―――いや、いい男だ。

「そして今は・・・ その。私はオークだよ。中身はどうあれ。オークだ」

なんだ、それは。

そんなことで悩んでいたのか。

それはよくわからん。

「私は、気にしないが。もう、そんなことは気にならなくなっている。貴方が相手なら」

「・・・ありがとう。いや、本当にありがとう・・・ とても嬉しい」

あ、照れた。

意外というか、案の定というか。可愛い眼をするな、この御方は。

「でもな、そういうことじゃないだ。そうではなく。あー、どういえばいいんだ。君は妙なところで鈍くなるな―――」

「・・・?」

「私は、オークのなかでも体格はいいほうだ。つまり、その、目方も重ければ、その・・・」

―――あ。

「そういうことか・・・」

「・・・ああ、うん。わかってくれたか」

な、る、ほ、ど。

なるほど。なるほど。

つまり、私を 壊(・) し(・) て(・) し(・) ま(・) う(・) かもしれない、と。

確かにそれは、私のほうが鈍かった。

なにしろ私は、そういった方面の経験はないからな。我が一族には女しかおらん。いやまあ、女同士でそうなる趣味のやつもいるが。

ずいぶんと長い間生きてきたが、女の悦びを知るのは初めてのことになる―――

「・・・ダークエルフは、人間ほど軟ではない。たぶん・・・そう、たぶん大丈夫だろう。試してみなければ、わからないが」

「・・・・・」

なんだ、そのあんぐりした顔は。

今度は大胆過ぎたか。

まぁ、止むを得まい。

私はもう、とっくの昔に娘と呼ばれるような年齢ではなくなっている。

かれこれそう、何年になるか―――

三〇〇歳を過ぎたあたりで、数えるのはやめてしまった。

そういえば、この男、気になっているであろう素振りはあるが、私の歳は聞かないな。

どうせ、女に歳を聞くのは失礼だとでも思っているのだろう。そう信じているのだ。だから絶対に聞きはしない。

まったく、この 男(ひと) は。

「・・・それほど心配なら。エリクシエル剤でも用意しておいてから事に臨もう」

「・・・軍医も待機させておくか?」

「いいな。なんならエアハルト銃と野砲も」

「・・・ふふふふ。ははははは! 君は本当に面白いな」

「ふふ。まあ、戦争みたいなものではあるらしいからな」

「ふふ、ふふふふふ。たしかに」

ようやく、区切がついたか。

まあいい。

これで。

何かがまた始まった。

私としては。

今夜はどう振る舞うか、その戦術方針を考えるとしよう―――

(続 第二部「戦争のはじめかた」に続く)