軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六十九話 静かな不一致

桑名へ赴任してから、

二ヶ月ほどが経とうとしていた。

伊勢惣奉行としての大仕事は、

すでに家臣たちが動き始めている。

南條は湊の改修に夢中になり、

松親は治水の指揮に奔走し、

神崎は文書の検討に余念がなく、

荒木は治安隊の編成に忙殺されていた。

秀政だけが、

ぽつりと屋敷の縁側で於菟が差し出した茶を啜っていた。

「……なんか、意外と俺だけ暇だなぁ」

そんな独り言をこぼした。

「良いではありませんか。

芋粥家が上手く回っている証拠にございます」

於菟が冷静にそのぼやきに返事をした。

「それはそうだが、これでは窓際族ではないか。

なんかこう……暇すぎて憂鬱だ」

「窓際族とは?」

「いや、何でもない。」

その時だった。

「ひ、秀政様ぁぁぁぁ!!」

門前で、馬の嘶きと共に、

砂煙を上げて早馬が飛び込んできた。

那古野からの使者である。

屋敷の中にいても聞こえる声。

慌てて走り込んできて、

部屋の前で傅いた。

「も、もう、申し……」

「落ち着け、息を吸え。

一大事か!?」

使者はゆっくりと深呼吸してから

顔を上げた。

「若子様、御生誕!!」

秀政は茶碗を落としそうになった。

「なにっ!? おお!!

で、お悠も無事か!?」

「はっ!

奥方様もご健康であそばされます!

そして……奥方様は男子をお生みになったことを、

殊の外お喜びに!」

秀政の胸に、安堵と喜びが一気に押し寄せた。

だが、同時にふと胸の奥に、

嫌な予感がよぎる。

(お悠、まだ気にしていたんだな。

だが、この芋粥に男子、女子は関係ない。

……万丸は明の婿だ。

兄弟で協力できるように、

仲良く育てないとな!)

自分でそう言い聞かせるように、

頭を振った。

「よし、今すぐ那古野へ向かう!

伊勢は――松親に任せた!

供は村瀬だけでよい!

急げ!」

「ははっ!」

秀政は馬に飛び乗り、

伊勢の春風を切り裂くように、

那古野へと駆け出した。

その頃、同じ早馬の報せを受けた松親は、

汗を拭きながら、誰にも見せぬように、

静かに拳を握りしめていた。

(でかした、姉上……。

ここからが千種の正念場よ。

何がなんでも万丸ではなく、

若子様を世継ぎに――)

その胸の内に、

義兄弟の間で初めて生まれた“意思の不一致”が、

ひっそりと芽を出していた。

那古野の千種政成の屋敷に到着した秀政は、

馬を降りるや否や、

息を切らせたまま奥へと駆け込んだ。

案内も待たず、

産室の襖を勢いよく開ける。

そこには――

生まれたばかりの若子と、

その隣で疲れた顔ながらも、

満ち足りた笑みを浮かべるお悠が、

並んで横になっていた。

秀政の姿を見るや、

お悠は慌てて身を起こそうとする。

「弥八様……!」

「良い良い、そのままで」

秀政はすぐに手を伸ばし、

お悠を制して、若子のそばに静かに座り込んだ。

小さな産着に包まれた赤子は、

まだ世界の光を知らぬように、

かすかに指を握りしめて眠っている。

秀政は、胸の奥から込み上げるものを抑えきれず、

そっとその頬に触れた。

「……お悠、よくやってくれた。

可愛い若子だ」

お悠は誇らしげに、しかしどこか照れたように微笑む。

「はい……!」

秀政はしばし赤子を見つめ、

やがて静かに口を開いた。

「この子は――

“松丸”と名付ける」

お悠の目がぱっと輝く。

「良き名を……ありがとうございます」

秀政は頷き、

松丸の小さな手を包み込むように握った。

お悠は遠慮がちに問いかけた。

「芋粥の世継ぎは……?」

「いや、万丸だ。

万丸は信長様の偏諱もいただいている。

そう易々と扱えば信長様の名の価値が落ちる。

それに、丹羽殿を使って、

我らを縛ろうとする意図が垣間見える。

それに逆らうのは芋粥として、

得策ではない」

お悠の顔に影が落ちる。

「そう気を落とすな。

明も蘭も松丸も、俺にとっては等しく可愛い。

松丸を寺に出したりもしない。

松丸は万丸と明を支えて、芋粥の柱となるのだ」

「は……はい」

「万丸と明に若子が産まれたら、

俺とお前の血は確かに次代に繋がれるのだ」

「そうですね……」

「しかしめでたい。本当によくやってくれた。

募る話もある。

少し長居するぞ」

「はい!」

秀政は現代人だ。

だからこそ、血の意味を軽視し過ぎている。

ここで初めて秀政は、

お悠、政成、松親との意見の相違を生んだ。

だがこの三人はそれを表には出さない。

松丸――

後に芋粥秀文と名乗ることになる。

松丸の名付けを終え、

秀政はしばらく赤子の寝顔を眺めていた。

そこへ、廊下から控えめな足音が近づく。

襖が静かに開き、

千種政成が深々と頭を下げた。

「秀政様。お帰りなさいませ」

「義父殿、久しぶりだな。

那古野は変わりないか?」

「はい。おかげさまで。

伊勢の方も、順調と聞き及んでおります」

二人はしばし、

伊勢と那古野の情勢について簡単に言葉を交わした。

だが、政成の視線は時折、

松丸へと向けられている。

やがて、政成は意を決したように口を開いた。

「秀政様……ひとつ、お願いがございます」

「なんだ?」

政成は膝を進め、深く頭を垂れた。

「松丸様の守役を――

この政成にお任せいただけませんか」

秀政は少し驚いたように眉を上げたが、

すぐに柔らかく微笑んだ。

「ん? それは良い。

義父殿ほど適した者は他にいない」

政成の顔に、抑えきれぬ喜びが浮かぶ。

「ありがたき幸せ……!

この芋粥を支える若武者に、必ず育て上げてみせます」

「頼んだぞ」

秀政がそう言って政成の肩に手を置くと、

政成は深く頭を下げたまま、

胸の奥で静かに呟いた。

(松丸様こそ、芋粥の世継ぎに……

千種家、そして千種屋の全てを注ぎ、

立派な嫡男に育て上げる。

その後で――

大殿にも、殿にも、

松丸様こそ芋粥の正統世継ぎと

認めていただく……)

その決意は、誰にも聞こえない。

だが確かに、

芋粥家の未来に初めて“静かな波紋”が広がり始めていた。