チート勇者に土地を奪われた村を、前世司法書士の私は王国登記簿で取り返すことにした
作者: える・あーる
本文
勇者の杭が、ハンナ婆さんの畑の真ん中に打ち込まれた。
赤く塗られた、王国の杭だった。
八十年生きた老婆の畑が、木槌の一打で「勇者の土地」に変えられた。
麦の穂が、倒れた。
収穫まであと十日ほどだった。黄金色になりきる少し前の、まだ青みを残した穂だ。朝露が消えたばかりの畑に、王国兵の革靴が入っていく。
村人たちは、畦道の端に固まっていた。
誰も、杭を抜けなかった。
杭の横に立っていた男が、勇者ガレスだったからだ。
銀の鎧は傷一つなく、腰の剣には赤い宝玉が埋め込まれている。魔王を討った勇者だと、王都から来た兵が何度も言った。本人はそれを否定しなかった。
兵士たちは、ガレスの横顔を見るだけで背筋を伸ばしていた。
王都では、酒場の歌にまでなった英雄だ。村人から見れば、ただの乱暴者ではない。国を救った男であり、逆らえばこちらが恩知らずになる相手だった。
「魔王討伐の功により、この村一帯は勇者ガレス殿に下賜された。三日以内に家財をまとめ、指定の場所へ移るように」
褒賞担当官ボルクが、巻物を広げて読み上げた。
声だけは立派だった。
ただ、広げた地図はひどかった。村の井戸が一つ抜けている。西の共有林も、神殿裏の墓地もない。ハンナ婆さんの畑は、ただ薄い茶色で塗られているだけだった。
(勇者の剣より、雑な地図のほうが怖いことがある)
私は村の代書小屋の前で、そう思った。
前世の癖である。筋の悪い書類を見ると、肩の奥が固くなる。
「そこは、うちの畑です」
ハンナ婆さんが一歩出た。
八十を越えた背中は、小さく折れていた。それでも、土のついた両手は前掛けを握ったまま離れなかった。
「亡くなった夫と耕しました。あの境界石も、夫が刻んだものです」
畑の隅には、小さな境界石がある。
丸く欠けた石の側面に、古い印が彫られていた。ハンナ婆さんの夫、ヨナス爺さんの家印だ。私も何度か見たことがある。
ガレスは境界石を見た。
そして、笑った。
「王が俺にくれた土地だ。畑だろうが家だろうが、俺のものだろ」
「制度も地図も、最後は剣で守れるやつの味方だ」
剣が抜かれた。
銀色の線が走ったと思った次の瞬間、畑の外れに積まれていた石垣が二つに割れていた。切り口は、刃物で豆腐を切ったように滑らかだった。
村人の息が止まる。
ハンナ婆さんの手が、前掛けから木箱へ移った。古い木箱だ。腰の高さほどもない。角が擦り切れ、蓋には何度も開け閉めされた跡がある。
「ミナさん」
ハンナ婆さんが私を見た。
「あの箱の中に、昔の紙があります。ヨナスが、家のことは全部この箱に入れてあると言っていました」
私は頷いた。
私は村の代書小屋で、手紙や届出を書いて暮らしている。村人が持ってくるのは、たいてい古い紙だ。結婚した記録。亡くなった記録。税を払った札。借金を返した覚書。
どれも、ふだんは納屋の奥で眠っている。
けれど揉め事が起きたとき、その紙だけが「その人が、そこで生きていた」と説明してくれることがある。
ハンナ婆さんの家の納屋に入り、木箱を開けた。
乾いた藁の匂いがした。
中には、布に包まれた羊皮紙と、何枚もの納税札があった。夫の死亡届。神殿の婚姻記録の写し。息子へ残すつもりだったらしい相続の覚書。
私は羊皮紙を広げた。
文字は古い。端は少し欠けている。それでも読める。
王暦二百十二年。南部開墾地。第三水路東側。境界石四基。耕作者レイム家に所有を認め、毎年麦税を納めること。
末尾に、かすれた丸い印があった。
王印だった。
私は指先を止めた。
赤い封蝋の欠け方。印章の縁にある三本の麦穂。中央の獅子。
王都で見た布告と同じ意匠だ。
紙切れではない。
これは、土地の声だ。
前世なら、ここで登記簿を確認する。
けれどこの王国には、村人が自分で確かめられる登記簿がない。王宮の奥に大台帳が眠り、家々の納屋に古い紙が散らばっているだけだ。
(王国登記簿)
まだ誰もそう呼んでいない帳簿の形が、頭の奥に浮かんだ。
*
私の前世の名前は、朝倉美波だった。
三十八歳で死んだ。
夜間の登記相談会の帰り道、駅の階段を踏み外した。過労のせいか、雨で滑ったせいか、最後の記憶は改札の蛍光灯がにじんでいたことくらいだ。
そのころ、相続登記の相談は急に増えていた。義務化で、今まで放置されていた土地の話が、一気に窓口へ流れ込んできたのだ。
明治時代の地券をもとにした登記。何代も前の名義のまま残った畑。相続人が十人、二十人と増えた家。紙の上では一筆の土地でも、現場ではもう誰も境界を知らない。そんな案件を、毎日のように見ていた。
次に目を開けたとき、私は白い部屋にいた。
机の向こうに、中性的な顔立ちの青年が座っていた。サイズの合っていないとんがり帽子に、星柄のマント。名札には、ツクヨと書かれていた。
(ああ、これは知っている)
死んだら白い部屋。目の前に神様っぽい人。次に来るのは、異世界転生とチートスキルの説明だ。
前世で読んだ小説なら、ここで鑑定とか収納とか、全属性魔法とかが出てくる。
「チートはありません。前世の記憶と実務経験だけです」
「司法書士の実務経験だけ持って異世界に行けと?」
「だけ、というには、たぶん重い経験ですよ」
ツクヨはそう言って、ぬるい茶を出した。
その言葉は、わりと当たっていた。
この世界で私はミナとして生まれ直した。剣はからきしだ。魔法も、火種を少し起こせる程度である。空を飛べない。竜も倒せない。王族に一目惚れされる予定も、今のところない。
持っていたのは、古い権利証を読む目と、相続関係をつなぐ根気と、本人確認を疑う癖だけだった。
前世で、忘れられない相談が一つある。
祖父の名義のまま、何十年も放置された畑だった。
相続人は遠方に散り、境界はあいまいになり、古い納税通知だけが箱に残っていた。相談に来た老婦人は、紙袋を抱えたまま言った。
「母がずっと耕していたのに、紙が足りないと、なかったことになるんですか」
私は間に合わなかった。
戸籍と証明書を集めている間に、相続人の一人が亡くなった。その人の権利は、さらに疎遠な親族へ移った。会ったこともない相続人が増え、連絡先も分からず、話は急に遠くなった。
誰かが土地を奪ったわけではない。
ただ、登記が間に合わなかった。紙の上で人が増え、手続が遠のき、母親が耕していた畑は、相談者の手の届かない場所へ少しずつ離れていった。
紙は人を守る。けれど、間に合わない紙は、人の声を置き去りにすることがある。
(異世界に来てまで、本人確認と相続関係説明図を作ることになるとは思わなかった)
だから今、ハンナ婆さんの木箱を前にして、その経験が重く手の中に戻ってきた。
土地は、ただの土ではない。
誰が耕したか。誰から誰へ移ったか。どこからどこまでなのか。どの水路を使うのか。税を誰が払ってきたのか。
それらがつながって、初めて他人に説明できる。
私は羊皮紙の末尾をもう一度見た。
王印はかすれていたが、消えていない。
ボルクが読み上げた下賜状には、こうあった。
魔王討伐の功により、王国が正当に処分権を有する未利用地一村分を下賜する。
大事なのは、そこだ。
勇者への褒賞そのものを否定する必要はない。魔王を討った功績は、本物なのだろう。だが、王国が持っていない土地まで、当然に渡せるわけではない。
持っていないものは、あげられない。
子どもにでも分かる話だ。
だが、土地と王印と勇者の褒賞が絡むと、大人ほどそれを忘れる。
私は証文を畳み、ハンナ婆さんに返した。
「この土地、本当に空白地だったのか調べます」
ハンナ婆さんは木箱を抱えた。
その指先には、まだ畑の土がついていた。
「ミナを、村の記録係として使ってください」
村長が、ボルクに向かって頭を下げた。
「この村の婚姻届も死亡届も、ここ数年はほとんどミナが代書しています。神殿への照会状も、村長印を押して出します。王宮へ出す書面なら、わしらよりこの子のほうが読める」
ボルクは嫌そうに眉を寄せたが、勇者の前で余計な揉め事を増やしたくなかったのだろう。
「三日以内だ。勝手に王宮文書を持ち出すな」
「分かっています」
私は短く答えた。
*
証拠集めは、剣を抜くより地味で、たぶんずっと面倒だ。
私はまず、証文の名義を読んだ。
最初の所有者は、ハンナ婆さんの曽祖父にあたるレイム家の初代当主だった。次に息子のカイルへ相続。さらに孫のダンへ相続。ダンの娘ハンナがヨナスと婚姻し、ヨナスが婿として家に入っている。
神殿の婚姻記録と、ヨナスの死亡届がそれを裏づけていた。
この世界の南部では、家を継いだ者が性別にかかわらず土地を受け継ぐ。ハンナ婆さんは、ただ住んでいる老婆ではない。記録上も、この土地を継いだ者だった。
「古い紙が、そんなに大事なんですか」
村の若者ルドが、納屋の入口で言った。
彼は昼間、勇者の剣で割れた石垣を見てから、ずっと唇を噛んでいる。拳を握っても何もできないことを、体の全部で知ってしまった顔だった。
「古いから大事なんです」
私は納税札を並べながら答えた。
「昨日作った紙より、百年前から税を払ってきた記録のほうが強いことがあります」
「でも、王様が勇者様にあげたんでしょう?」
「王様が持っている土地なら、そうです」
私は証文の王印を指で示した。
「でも、王様が持っていない土地なら、話は別です」
ルドは首をひねった。
「王様なのに?」
「王様でも、です」
私は木箱の中身を、三つに分けて考えることにした。
昔、王国がこの土地を認めたこと。
ハンナ婆さんの家が、税と相続でつないできたこと。
そして、この土地が今も、ここにあること。
私は納税札を年代順に並べた。
木札は三十七枚あった。すべてではない。火事で失われた年もあるだろうし、虫に食われた札もあるだろう。それでも、残っている札には同じ家印が焼きつけられている。
ハンナ婆さんは、折り目だらけの布から小さな帳面を出した。
「用水の順番帳です。昔は、これでよく揉めました」
帳面には、第三水路から水を引く順番が書いてあった。
上流の畑から順に、夜明け、午前、昼過ぎ、夕刻。ハンナ婆さんの畑は、麦の季節には二日に一度、夕刻の水を使うことになっている。
土地は土ではない。
水の順番まで含めて土地なのだ。
次に、境界石を見に行った。
ガレスの剣で石垣は割れていたが、境界石は残っていた。ハンナ婆さんは、しゃがんで石の側面を撫でた。
「ヨナスが刻み直したんです。昔の印が薄くなったからって。孫の背丈を納屋の柱に刻むのと、同じ日に」
納屋の柱には、確かに小さな線がいくつもあった。
ルカ五歳。ルカ七歳。レナ三歳。
記録には、紙に残るものと、木に残るものがある。どちらも人の手で刻まれる。
神殿にも行った。
白髪の書記は、古い婚姻台帳と墓地台帳を出してくれた。ヨナスの埋葬地は、村の共同墓地の東端。共同墓地そのものも、古い王印つきの村境確認書に載っていた。
「王国兵の地図では、この墓地も空白でした」
私が言うと、神殿書記は眉間を押さえた。
「死人まで未利用地にされては、神殿としても黙れませんな」
最後に村長の家で、村境確認書を見た。
羊皮紙の裏に、小さな番号が刻まれていた。
王国土地大台帳、南部第七巻、三十二葉。
私はその番号を、手帳に写した。
胸の奥で、かちりと音がした気がした。
村は、空白ではなかった。
勝つ道筋は、ようやく見えた。
勇者を殴って倒すことではない。ガレスを善人に変えることでもない。
王国に、自分で押した王印と、王宮に眠らせた台帳を守らせることだ。
*
翌朝、私は代書小屋の机を外に出した。
証拠は三つに分けて並べた。
まず、王印つき土地証文。次に、納税札、婚姻記録、死亡届、相続覚書。最後に、用水順番帳、村境確認書、墓地台帳の写し。
風で飛ばないよう、端に石を置いた。
勇者ガレスは、退屈そうに欠伸をした。
隣でボルクが汗をかいている。彼は昨日より顔色が悪かった。王都から来た役人は、村の土に靴を汚されることより、自分の書類が汚れていることを嫌うものだ。
「何だ、この紙の山は」
ガレスが言った。
「この村が空白地ではないことを示す記録です」
私は一枚目の証文を示した。
「こちらは王暦二百十二年の土地証文。末尾に王印があります。こちらは以後の納税札。こちらは相続につながる婚姻記録と死亡届です」
「古い紙切れで、魔王を倒した俺を止めるつもりか」
「止めるのは私ではありません。その紙に押された王印です」
ガレスの口元が曲がった。
「王印があろうが、百年前の紙だろう。俺は王から約束された褒賞を取りに来ただけだ。村人が何年住んでいようが、関係ないだろ」
ボルクの喉が鳴った。
私はその音を聞き逃さなかった。
「では、勇者様は、古い王印つき証文は無効だとお考えですか」
「そう言っている」
「よろしいのですか、ボルク様」
私が目を向けると、ボルクは袖で額を拭いた。
「い、いや、その、勇者殿。王印の有効無効については、王宮での裁定を仰ぐべきかと」
「面倒な」
ガレスは剣の柄に指をかけた。
村人たちが一斉に後ろへ下がる。
私は、机の上の証文だけを見た。王印の欠けた縁。昨日から何度も確認した丸い跡。これが折れれば、次に折れるのは畑では済まない。
「勇者様の功績は本物です」
私は言った。
「だからこそ、存在しない土地を褒賞として渡した王宮事務のミスを正す必要があります」
ガレスの視線が鋭くなった。
「俺の褒賞がミスだと?」
「褒賞ではなく、対象地の選定がです」
私は下賜状の写しを広げた。
「ここには、『王国が正当に処分権を有する未利用地一村分』とあります。この村が未利用地でなければ、別の土地で満たすべき約束です」
ガレスは鼻で笑った。
「いいだろう。王宮で決めてもらう」
その声に、村人たちの肩が少し下がった。
だが、ガレスは笑ったままだった。
「王が俺にくれた土地だ。王宮で負けるはずがない」
*
王宮の小法廷は、白い石でできていた。
壁には歴代王の紋章が彫られ、中央の長机には青い布がかけられている。机の向こうには、宰相エルネストが座っていた。左に神殿書記、右に貴族代表。少し離れて、褒賞担当官ボルクが縮こまっている。
勇者ガレスは、腕を組んで立っていた。
ハンナ婆さんは、木箱を膝に置いて椅子に座っている。王宮の床に落ちた土を気にして、何度も靴の裏をこすっていた。
「辺境の空白地だと聞いていた。台帳にも、近年の更新はなかった」
ボルクが言った。
悪意のある声ではなかった。
だからこそ、始末が悪い。
悪意なら止められることがある。だが、雑な制度は、誰かの暮らしを当然のように踏む。
「近年の更新は、確かにありません」
私は答えた。
「ですが、古い記録はあります」
机の上に、証文を置いた。
「証拠は三つです」
私は一枚ずつ、青い布の上に並べた。
「昔、王国がこの土地を認めたこと。ハンナ婆さんの家が税と相続でつないできたこと。そして、この土地が今も、ここにあることです」
王印つき証文。納税札、婚姻記録、死亡届、相続覚書。用水順番帳、村境確認書、墓地台帳。
その横に、村境確認書の裏にあった番号を書き写した紙を置いた。
「王国土地大台帳、南部第七巻、三十二葉。この番号と同じ形式の記録が、村に残っていました」
エルネストは、壁際の書記官に目を向けた。
「南部第七巻を」
書記官が小法廷を出ていった。
待つ時間は短かったはずだ。けれど、ハンナ婆さんの膝の上で、木箱の蓋が何度も小さく鳴った。
やがて、革表紙の分厚い帳面が運び込まれた。二人がかりで長机に置くと、古い埃が青い布の上に散った。
エルネストが三十二葉を開いた。
南部開墾地。第三水路東側。境界石四基。レイム家耕作地。
そこには、ハンナ婆さんの証文と同じ土地が記されていた。
宰相エルネストが証文を手に取った。
蝋の欠けた王印を見る。
神殿書記が身を乗り出した。
「その証文の形式は、王家直轄領の古証文と同じだ」
貴族代表の顔色が変わった。
「わが家の北領も、古証文の形式は同じだぞ」
ガレスが舌打ちした。
「だから何だ。古すぎる。今の王の下賜状のほうが新しい」
「新しいことと、正しいことは別です」
私は言った。
「王国が自分の土地を勇者様に与えることはできます。ですが、村人の土地を空白地と勘違いしていたなら、王国は持っていないものを渡そうとしただけです」
所有権は、目に見えない。
麦畑は見える。境界石も見える。勇者の杭も、剣も見える。けれど、「誰のものか」は目に見えない。だから人は、紙に書き、印を押し、番号をつける。
見えない権利を、見える形にする。
前世の司法書士の仕事は、たぶんそのためにあった。
ガレスの眉が動いた。
「王の命令だぞ」
「持っていないものは、あげられません。王様でも同じです」
小法廷の空気が、少し固くなった。
私は続けた。
「王国と勇者様の間に、褒賞の約束はあります。それは否定しません。けれど、その約束だけで、真の所有者から土地を当然に奪えるわけではありません。必要なら、代替地、年金、鉱山権などで補償すべきです」
「俺に我慢しろと?」
「いいえ。王国に、約束の満たし方を間違えるなと言っています」
ガレスが怒る理由は分かる。
彼は命を賭けて魔王を討った。褒賞を受け取るために来た。約束を反故にされるのは、彼にとっても理不尽なのだろう。
だからこそ、間違えた相手を間違えてはいけない。
エルネストが証文を机に戻した。
指先が、王印の縁をなぞる。
「ミナ殿。この王印を本物と見る根拠は」
「印章の意匠、封蝋の材、書式、王国土地大台帳の番号です。神殿の婚姻記録と墓地台帳、納税札が継続した占有と公的承認を示します。さらに、村境確認書の境界と、現地の境界石が一致しています」
「境界石?」
「ハンナ婆さんの畑の四隅です。夫の家印が刻まれています。第三水路の用水順番帳にも同じ土地が記載されています」
私は一度、息を整えた。
「土地は土ではありません。境界と水と税と隣地との約束まで含めて、土地です」
ガレスが笑った。
「剣で取れば済む話だ」
「剣で奪えば、土地は手に入るかもしれません。ですが、それは褒賞ではなく略奪です」
小法廷の奥で、兵の鎧が小さく鳴った。
ガレスの手が、剣の柄に触れたのだ。
指先が冷えた。
前世の相談室で聞いた声が、耳の奥に戻ってくる。
紙が足りないと、なかったことになるんですか。
今度は、間に合わせる。
エルネストの顔が青ざめた。
ただし、それは村人を案じる顔ではなかった。王国の仕組みが足元から抜けることに気づいた顔だった。
「この証文を古いという理由で否定するなら、王家の直轄領も同じ理由で否定されます」
私は机の上の紙を一枚ずつ見た。
「村人の王印だけを無効にして、勇者様への下賜状の王印だけを有効にすることはできません」
神殿書記が低く言った。
「神殿領も同じ形式の王印に基づいております」
貴族代表が続けた。
「貴族領もだ。古いから無効などと言われたら、我々の土地も揺らぐ」
ガレスの指が、剣の柄を強く握った。
赤い宝玉が光る。
ハンナ婆さんは、木箱の蓋を両手で押さえた。膝の上の箱が、小さく震えている。
私はガレスを見た。
「この村の権利を守っているのは、私ではありません。王国が昔、自分で押した印です」
エルネストが立ち上がった。
「勇者殿。これは村一つの話ではなくなった」
「俺を脅すのか」
「違う。あなたの功績を疑う話でもない。王国が、王国自身の印を信じるかどうかの話だ」
エルネストは、長机の上に置かれた下賜状を見た。
「王国は、自分の印を信じなければならない」
ガレスの目が細くなる。
「俺が今、ここで村を取ると言ったら?」
「ここで剣を抜けば、あなたが得るのは褒賞地ではありません」
私は言った。
「王印つき証文を破って他人の土地を奪った、という記録です」
エルネストが続けた。
「その場合、勇者称号の維持審査、年金の支給留保、王都屋敷の貸与停止、武器整備と軍補給の停止対象となる」
小法廷が静まり返った。
「王国の褒賞制度を根拠に土地を求めながら、王国の土地証文を剣で破ることは許されない。勇者殿、その線は越えないでいただきたい」
ガレスの指が、剣の柄の上で止まった。
彼は善人ではない。だが、損得を間違えるほど愚かでもなかった。
長い沈黙の後、ガレスは剣から手を離した。
「……代替地は、王都に近いんだろうな」
エルネストが深く息を吐いた。
「王都北西の直轄未利用地を候補とする。年金の上乗せと、王都屋敷の修繕費も検討しよう」
「最初からそうしろ」
ガレスは吐き捨てた。
納得した顔ではなかった。
それでいい。
この場で必要なのは、勇者の改心ではない。
村人の土地が、制度上消されないことだ。
裁定は下った。
ハンナ婆さんの畑を含む村の土地は、既存の所有権と用水権を尊重する。勇者ガレスへの褒賞は、別の王国直轄地をもって充てる。褒賞担当官ボルクの地図確認は不十分であり、土地大台帳の更新を命じる。
ハンナ婆さんは、木箱の蓋を撫でた。
そこにあるのは古い紙だけではない。
畑の畦、納屋の柱、墓地の石、夕刻の水音。
それらが、王宮の机の上にようやく届いたのだ。
*
事件は終わった。
少なくとも、ハンナ婆さんの畑に刺さった杭は抜かれた。
だが、私の机の上には、終わりそうにない紙の山が積まれた。
「ミナ殿。土地大台帳の整備を頼みたい」
宰相エルネストは、当然のように言った。
王宮の書庫には、古い大台帳があった。
革表紙の巨大な帳面だ。王家直轄領、貴族領、神殿領、村の共同地、農民の耕作地、用水権、墓地、共有林、放牧地。記録されているものは多い。
問題は、更新されていないことだった。
村で子が生まれ、親が死に、嫁ぎ、婿を迎え、畑を分け、境界石を直し、水路を引き直しても、王宮の大台帳は何十年も眠っている。
眠っている帳簿は、時々、人を踏む。
「私一人では無理です」
私は言った。
「分かっている。助手をつける」
「助手だけでも足りません」
エルネストが眉を上げた。
私は紙を一枚出した。
「必要なのは、仕組みです。申請書式。地番。受付簿。所有者、取得原因、相続の履歴、境界確認、用水権。閲覧の手順。写しの交付。異議を出す期間。現地確認の方法。保管する帳簿と、村に戻す写し」
前世で覚えた登記の知識を、頭の中で一つずつ異世界の言葉へ置き換えていく。
登記原因は取得原因。登記事項証明書は写し。登記識別情報は、この世界ではまだ使えない。本人確認は、神殿記録と村長の証明で代用するしかない。
同じものは作れない。
だが、同じ目的のものは作れる。
「ずいぶん多いな」
「土地は多いので」
エルネストは小さく笑った。
私は笑わなかった。
「登記簿は、私が覚えているための帳簿ではありません。私がいなくなった後でも、誰かが確認できるようにする帳簿です」
エルネストは、しばらく黙った。
それから、真新しい帳面を一冊、机の上に置いた。
青い革表紙。まだ何も書かれていない。
「では、始めよう。名は何とする」
私は表紙に触れた。
前世の登記簿とは違う。オンラインでもないし、法務局もない。登記識別情報の通知もない。だが、目的は同じだ。
誰かの権利を、誰かの記憶だけに預けない。
「王国登記簿」
私は言った。
「まずは、第一冊からです」
ハンナ婆さんの村が、第一号になった。
地番は、南部第七巻三十二葉を引き継いで、南七三二の一。所有者はハンナ・レイム。取得原因は相続。前所有者はダン・レイム。婚姻によりヨナスを家に迎え、ヨナス死亡後もハンナが所有者として納税を継続。
境界は、北は第三水路、南は共有畦道、東は神殿麦畑、西はレイム家墓地へ続く小道。
用水権は、第三水路夕刻使用、二日に一度。
添付書類。王印つき土地証文。納税札写し。婚姻記録写し。死亡届写し。村境確認書写し。用水順番帳写し。境界石確認書。
受付簿にも同じ番号を書いた。
申請人の欄に、ハンナ婆さんの震える署名が入った。字は少し曲がっていたが、私は訂正を求めなかった。横に、代書人として私の名を添えた。
王国登記簿、第一冊。
第一葉。
そこに、ハンナ婆さんの畑の名が書かれた。
*
村に戻った日、麦はまだ畑にあった。
勇者の杭は抜かれ、穴には新しい土が入れられていた。石垣はルドたちが積み直している。切られた面はあまりにも滑らかで、かえって積みにくそうだった。
ハンナ婆さんは、納屋の前で登記簿の写しを受け取った。
羊皮紙ではなく、王宮の新しい紙だ。末尾には小さな王印が押されている。古い印より鮮やかだが、意味は同じでなければならない。
「ミナさん、読んでくれますか」
「はい」
私は写しを広げた。
「南七三二の一。畑。所有者、ハンナ・レイム。取得原因、相続。前所有者、ダン・レイム。境界、北は第三水路、南は共有畦道……」
ハンナ婆さんは黙って聞いていた。
私がヨナスの名を読んだところで、彼女の指が紙の端に触れた。
「ヨナスの名前も、あるんですね」
「あります。婚姻記録と死亡届のところに」
「そうですか」
ハンナ婆さんはそれだけ言った。
畑の向こうで、風が麦を揺らした。
土地が戻ったわけではない。
もともとあった権利が、見えるようになっただけだ。
取り返した、というより、奪われかけていたものを見える場所へ戻したのだ。
けれど、見えないものは、時々ないものにされる。だから人は、紙に書く。印を押す。番号を振る。写しを渡す。
剣で守れる土地もある。
壁で守れる家もある。
けれど、紙でしか守れない暮らしもある。
その日の夕方、代書小屋の戸を叩く音がした。
隣村の若い夫婦だった。腕には、紐で縛った古い帳面を抱えている。
「ミナさん。うちの共有林のことで、相談が」
私は椅子を引いた。
机の上には、王宮から支給された新しい受付簿がある。まだ半分以上が白紙だ。
白紙は怖い。
けれど、書ける余白でもある。
「では、まずお名前から確認します」
私は羽根ペンを取った。
持っていないものは、あげられない。
その当たり前を忘れないために、王国登記簿は今日も一行ずつ増えていく。