軽量なろうリーダー

悪役令嬢になる予定でしたが、先に「聖女」の職に就いて定時で帰ることにしました。 〜ホワイト神殿への改革が進みすぎて、元婚約者の出番がありません〜【連載版始めました】

作者: 星渡リン

本文

リディア・エルネストが前世の記憶を取り戻したのは、王城の夜会で、婚約者である王太子アルベルトが一人の少女に手を差し伸べた瞬間だった。

磨き上げられた床。

天井から降るような光。

楽師の音色。

そして、絵に描いたような王子様であるアルベルトが、床に落ちた扇を拾い、素朴な少女へ微笑みかけている。

「大丈夫かい?」

「は、はい。ありがとうございます、殿下」

その声を聞いた瞬間、リディアの頭の奥で何かが爆ぜた。

前世。

乙女ゲーム。

悪役令嬢。

断罪。

修道院送り。

限界まで詰め込まれた記憶の箱に、外から全力で鍵を投げつけられたようだった。開いた、ではない。破裂した。

情報量が多すぎる。

脳内の処理が追いつかない。

前世で、締切前に資料フォルダを開いたら、同名ファイルが二百個並んでいた時の絶望が、一瞬でよみがえった。

無理。

これは無理。

でも、止まらない。

この世界は、前世で遊んだ乙女ゲームに似ている。

目の前の王太子アルベルトは攻略対象。

彼に扇を拾われた少女は、ミリア。平民出身でありながら強い聖属性の魔力を持ち、やがて神殿に見出されるヒロイン。

そして、リディア・エルネスト。

公爵令嬢。

王太子の婚約者。

ミリアをいじめ、王太子に断罪され、最後は修道院へ送られる悪役令嬢。

よりによって、そこ。

リディアは銀の扇を握りしめた。

普通なら、ここで震える。

王子から距離を取ろうと考える。

ミリアに優しくしようと考える。

国外逃亡の経路を探す令嬢もいるだろう。

けれどリディアの目は、広間の柱の陰に貼られていた一枚の求人票を捉えていた。

『神殿職員急募。聖女候補、浄化補佐、結界管理補助。経験不問。魔力測定あり。給与応相談』

聖女候補。

リディアは、その文字を凝視した。

悪役令嬢になる原因は何か。

王太子の婚約者であること。

ヒロインである聖女候補と、王子を巡る恋愛劇に巻き込まれること。

ならば。

聖女候補が物語に入る前に、自分が先にその職に就けばいいのでは?

悪役令嬢が聖女をいじめる。

それは、聖女が別に存在するから成立する。

では、悪役令嬢本人が聖女になった場合はどうなるのか。

悪役令嬢兼聖女。

肩書きが渋滞している。

王子の恋愛劇に参加する余裕など、たぶんない。

「お嬢様?」

隣に控えていた侍女が小声で呼ぶ。

リディアは扇を閉じた。

「明日の予定を変えます」

「王妃様とのお茶会でございますか?」

「いいえ。神殿に行きます」

「神殿、でございますか?」

「就職します」

「就職」

侍女の顔が、貴族社会では見てはいけない角度に固まった。

公爵令嬢が、就職。

冗談なら笑えた。

けれど、リディアの目は本気だった。

その夜、王太子アルベルトはミリアに優しく微笑みかけていた。

未来の断罪劇が、きらびやかな大広間の中でゆっくり幕を上げようとしている。

ただし、悪役として舞台に立つ予定だった令嬢は、すでに頭の中で履歴書の志望動機を書き始めていた。

翌朝。

神殿の採用窓口は、朝から妙な静けさに包まれていた。

白いドレスを着た公爵令嬢が、侍女を一人連れ、履歴書を持って現れたからである。

受付係の若い神官は、リディアの顔と履歴書を何度も見比べた。

「ええと……リディア・エルネスト様」

「はい」

「エルネスト公爵家のリディア様で、間違いございませんか」

「間違いありません」

「本日は、寄付のご相談でしょうか」

「採用面接です」

「さいよう」

神官の声が、そこで一度止まった。

「面接です」

「少々お待ちください」

神官は、笑顔のまま奥へ消えた。

逃げた、と言ってもいい速さだった。

しばらくして、人事を担当している壮年の神官が現れた。顔には、貴族対応用の笑みが貼りついている。

ただし、目がまったく笑っていない。

「リディア様。まず確認させていただきたいのですが、これは何かのご冗談ではございませんね?」

「冗談で履歴書は持参しません」

「それは、そうでございますが……。なぜ聖女職を志望なさるのですか?」

リディアは姿勢を正した。

前世の就職面接より、ずっと落ち着いている。

あの時は自己分析に失敗したが、今回は違う。

「安定した職と、断罪されにくい身分が欲しいからです」

面接室の空気が死んだ。

人事神官の羽ペンが、紙の上でぴたりと止まる。

「だ、断罪?」

「こちらの事情です」

「聖女とは、女神への深い信仰と、民への慈悲を持つ者が務める尊き役目でして」

「はい」

リディアは頷いた。

「だからこそ、倒れるまで働かせてはいけません」

「は?」

「無理をして聖女が倒れたら、明日の民は誰が救うのですか?」

短い沈黙。

面接室の隅にいた若い書記官が、かすかに顔を上げた。

灰色の髪。

青い瞳。

目の下には、睡眠不足が作った薄い隈。

名札には、セオ・グラントとある。

彼はリディアを見た。

ぱちり。

まばたき。

そして、手元の記録板を握りしめる。

その顔には、はっきり書いてあった。

今、この令嬢、何を言った。

いや、待て。

でも。

救われた。

人事神官は咳払いをした。

「お、お考えは分かりました。ですが、聖女職には強い聖属性の魔力が必要です。まずは測定を」

「お願いします」

測定室に案内され、水晶に手を置く。

次の瞬間、水晶は白く光った。

眩しい。

では済まない。

測定室の壁が白く染まり、天井に刻まれた女神の紋章までくっきり浮かび上がる。隣室から神官が二人飛び込んできた。

「火事ですか!」

「違います、魔力です!」

誰かが叫んだ。

セオの記録板が、かたんと鳴る。

「歴代最高値です」

声がかすれていた。

人事神官は、笑うしかない顔になった。

「本日付で仮採用です」

「ありがとうございます」

「ただし、聖女見習いとして」

「構いません」

リディアは穏やかに微笑んだ。

「勤務条件を確認させてください」

セオが、びくっとした。

人事神官が、さらにびくっとした。

「勤務、条件」

「はい。始業時刻、終業時刻、休憩時間、休日、緊急時の呼び出し条件、給与、職務範囲、記録方法です」

人事神官は固まった。

セオは、なぜか小さく震え出した。

泣いているのかと思った。

違った。

笑いをこらえていた。

「……すごい」

セオが小さく呟いた。

「この人、神殿に労働条件を聞いている」

それは感動なのか、恐怖なのか。

リディアには、まだ判別できなかった。

聖女職の現場は、想像以上に荒れていた。

神殿。

清らかな祈りの場所。

白い石壁。

女神像。

光差す回廊。

そんな外側だけを見れば、たしかに神聖だった。

だが、執務室の扉を開けた瞬間、リディアは理解する。

ここは聖域ではない。

ブラック企業の書類置き場である。

机の上。

床の上。

窓際。

棚の前。

依頼書、報告書、祈祷願、浄化記録、結界点検表、貴族からの招待状。

紙、紙、紙。

女神像より書類の方が多い。

「こちらが本日分です」

セオが言った。

「本日分?」

「はい。本日、処理予定だったものです」

「昨日以前からの繰り越しは」

セオは黙って別の扉を開けた。

そこにも紙の山。

リディアは静かに扉を閉めた。

「見なかったことにしたい量ですね」

「見なかったことにした結果が、今です」

セオの声に、薄い毒が混じっていた。

なるほど。

この書記官、ただの苦労人ではない。

たぶん、だいぶ煮詰まっている。

そこへ大神官が現れた。

白い法衣、長い髭、重々しい杖。

歩くだけで「伝統」と「権威」が床を鳴らす老人だった。

「リディア様。聖女とは、民のためにすべてを捧げる存在です」

初手が重い。

リディアは積み上がった書類を見た。

少し傾いている。

危ない。

「すべて捧げた結果が、この山ですか」

大神官の眉がぴくりと動く。

「尊い犠牲です」

「犠牲が尊くても、未処理は減りません」

セオが下を向いた。

肩が震えている。

今度は泣いていない。

絶対に笑っている。

「現在、未処理の浄化依頼は何件ですか」

リディアが尋ねると、大神官はセオを見た。

セオは即答した。

「三百二十件です」

「職員の離脱は?」

「今月だけで十一名。倒れた者、休職した者、祈祷室で寝落ちして朝になった者を含めると十九名です」

「最後の方は職場事故では?」

「記録上は熱心な祈り扱いです」

「それを事故に戻しましょう」

セオの目が、きらりと光った。

いや、今、確実に光った。

死んだ魚の目に、初めて獲物を見つけた鷹の光が入った。

リディアは大神官へ向き直る。

「まず、声の大きい依頼から処理するのをやめます」

「声の大きい、とは」

「貴族からの私的な祈祷です」

「神殿運営には寄付が必要です」

「寄付はありがたいです。ただし、順番を買うものではありません」

大神官は不満そうだった。

その横で、セオが記録板に何かを書き込む。

あとで見たら、こう書かれていた。

『新聖女、初日から爆弾投下。要観察。期待値高。』

リディアの改革は、会議室ではなく受付で始まった。

説明会を開いても、たぶん眠くなる。

ならば現場で見せた方が早い。

神殿の入口に、番号を書いた順番札を置く。

緊急浄化には赤い優先札。

生活に関わる結界保守には青い優先札。

私的祈祷には白い優先札。

この三つだけ。

それ以上は増やさない。

最初の実戦相手は、伯爵夫人だった。

神殿の入口に入ってくるなり、彼女は扇を広げた。

「聖女様をお呼びなさい。うちの温室の薔薇が弱っておりますの。今すぐ病除けの祈祷をしていただくわ」

受付係が怯える。

周囲の民が縮こまる。

以前なら、ここで貴族対応が最優先になったのだろう。

けれど、リディアは受付台の横に立っていた。

「伯爵夫人。ご来訪ありがとうございます」

「まあ、あなたが新しい聖女様? 話が早いわ。馬車を待たせていますの」

「では、こちらをどうぞ」

リディアは、白い優先札を差し出した。

伯爵夫人は眉を上げる。

「これは?」

「私的祈祷の受付札です」

「受付札」

「はい。現在、最短で来週火曜日の午後が空いております。通常予約なら十八日後、有料指定枠なら来週です」

「十八日後ですって? 薔薇が枯れますわ!」

「人命に関わる緊急案件でしたら、赤い優先札に変更できます」

「薔薇よ!」

「植物ですね」

「わたくしの大切な薔薇です!」

「大切であることは理解しました。ですが、今朝は下町で瘴気を浴びた子どもが三人運ばれています」

リディアは、赤い優先札を持った母親を示した。

母親は青ざめた顔で子どもを抱いている。

伯爵夫人の扇が止まった。

周囲の視線が集まる。

リディアは微笑んだ。

「伯爵夫人。薔薇と子ども、どちらを先にいたしましょう」

沈黙。

伯爵夫人の頬が赤くなる。

「……来週火曜日で」

「ありがとうございます。受付係、白い優先札三番。来週火曜午後、温室祈祷。移動費と記録費を含めて見積もりを」

「はい!」

受付係の声が、少しだけ強くなった。

セオは後ろで記録を取っていた。

その顔がひどい。

感動している。

いや、崇拝しかけている。

「……これが、優先順位」

小さな声が漏れる。

「なんて美しい暴力」

「セオ」

「失礼しました。記録します」

その日から、受付の空気は変わった。

怒鳴れば先に通れる。

泣けば聖女が無理をしてくれる。

貴族名を出せば順番がひっくり返る。

そういう古いルールが、白い優先札一枚で止まり始めた。

待ち時間は、最初の日こそ三時間。

三日後には一時間。

十日目には、軽い祈祷相談なら十分で受付が終わるようになった。

民は驚いた。

職員はもっと驚いた。

セオは壊れた。

「聖女様」

「何でしょう」

「受付札を追加で百枚作りました」

「そんなに必要ですか」

「必要になります。人は秩序を知ると、もう混沌には戻れません」

「少し言い方が過激ですね」

「定時で帰れた人間は、過激になります」

リディアは彼を見た。

「昨日、帰れたのですか」

「はい」

セオは真顔で言った。

「夕食が温かかったです」

それは、彼にとって革命だったらしい。

翌日から、セオは誰よりも熱心に手順札を作り始めた。

『現地確認』

『瘴気濃度測定』

『避難確認』

『聖女への報告』

『浄化後の再測定』

今までは「先輩の背中を見て覚えろ」で済まされていた作業である。

セオはそれをすべて札にした。

しかも字が大きい。

見やすい。

やや圧が強い。

『報告漏れは、未来の残業です』

そんな一文まで入っていた。

「セオ。この手順札、少し怖くありませんか」

「怖いくらいが効きます」

「神殿の書記官ですよね」

「昨日までは。ただの書記官でした」

「今日は?」

「定時退勤を守る者です」

彼は本気だった。

リディアが神殿で働き始めて二週間。

王太子アルベルトは、かなり困っていた。

リディアが夜会に来ない。

茶会にも来ない。

庭園散策にも来ない。

婚約者として隣に立つべき場面に、ことごとく不在。

招待状への返事は、毎回丁寧だった。

『その時間は北門結界の保守点検にあたっております』

『下町三区画の浄化業務がございます』

『勤務時間外のため、出席を見送らせていただきます』

勤務時間外。

アルベルトは、その言葉を見るたびに眉をひそめた。

王太子の婚約者であることより優先される勤務とは、いったい何なのか。

しかも、ミリアの姿まで見かけない。

あの夜会で出会った、素朴で守ってあげたくなる少女。

彼女は本来、神殿に見出され、聖女候補として王宮へ招かれるはずだった。

少なくとも、アルベルトはそういう流れを期待していた。

だが、調べさせると、ミリアは神殿で働いていた。

役職は、浄化技師補佐見習い。

聖女候補ではない。

浄化技師補佐見習い。

恋物語の響きではない。

あまりにも現場。

アルベルトは神殿へ向かった。

神殿の受付には人々が並んでいた。

ただし、騒ぎはない。

順番札を持った人々が椅子に座り、赤い優先札を持った親子が先に案内されている。

受付係は落ち着いていた。

「次の方、十二番の順番札をお持ちの方」

「はい」

「病除け祈祷ですね。白い優先札になりますので、予約表をご確認ください」

アルベルトは奥へ進もうとした。

受付係が立ち上がる。

「恐れ入ります、殿下。面会でしたら、来訪者記録にご記入ください」

「私を誰だと思っている」

「王太子殿下でいらっしゃいます」

「ならば」

「ですので、王太子殿下として正式に記録いたします」

受付係は震えていた。

だが、引かなかった。

その背後でセオが無言で親指を立てている。

アルベルトには見えていない。

リディアには見えていた。

面会室に通されたアルベルトは、白い聖女服を着たリディアを見て、わずかに息を呑んだ。

ただし、それは彼が想像していた聖女とは違う。

儚くない。

薄幸でもない。

腰には筆記具。

手には記録板。

袖は邪魔にならないよう留められている。

神々しいというより、強い現場責任者。

「殿下。ご用件を伺います」

「リディア。君は私の婚約者だ。聖女の真似事などやめて、王宮に戻るべきだ」

「真似事ではありません。雇用契約があります」

「雇用契約?」

「はい」

「君は公爵令嬢だぞ。なぜ働く必要がある」

「王国の浄化案件が滞っているからです」

「それは神殿の仕事だ」

「はい。ですから神殿で働いております」

アルベルトは黙った。

会話の扉を開けたら、壁だった。

そんな顔をしている。

「それに、君がミリアをいじめたという噂もある」

リディアは記録板から顔を上げた。

「誰からですか」

「噂だ」

「噂は担当者名がないので処理しづらいですね」

セオが面会室の隅で小さく頷いた。

「ミリアさん」

リディアが呼ぶと、奥の部屋からミリアが出てきた。

作業服に、補佐職員用の腕章。

手には手順札。

頬には、以前より健康的な色がある。

「殿下、お久しぶりです」

「ミリア。君は何を」

「浄化技師補佐見習いをしています」

「聖女候補ではなく?」

「はい。今は現地確認と瘴気濃度測定を覚えています。お給金も出ます」

「給金」

アルベルトが、また遠い言葉を聞いた顔になる。

ミリアは胸を張った。

「実家に仕送りもできました。リディア様のおかげです」

「リディアに何かされていないか」

「業務指導を受けています」

「業務」

「はい。厳しいですけど、分かりやすいです。あと、休憩時間にちゃんと休まないと怒られます」

アルベルトは何も言えなくなった。

彼の中の物語では、ミリアは守るべき少女だった。

リディアは彼女を傷つける悪役で、自分はその悪役からミリアを救う王子。

それなのに目の前のミリアは、手順札を抱え、自分の足で立っている。

守られる役ではない。

働く人の顔だった。

「本日の面会時間は残り二分です」

リディアが言った。

「二分?」

「次の予定があります。東外壁の結界点検です」

「リディア、私はまだ話を」

「殿下」

リディアは、まっすぐ彼を見る。

「王国防衛より緊急のお話でしょうか」

アルベルトは、答えられなかった。

リディアのやり方を快く思わない者もいた。

大神官である。

彼は長年、神殿をまとめてきた。

貴族から寄付を集め、祭事を整え、神殿の権威を守ってきた。

その一方で、現場の神官や聖女候補がどれほど疲弊していたかについては、見ないことにしていた。

尊い犠牲。

献身。

女神への奉仕。

便利な言葉は、汚れた床に敷く絨毯に似ている。

上から見れば綺麗。

めくれば、ひどい。

リディアはその絨毯を、淡々とめくった。

誰が、いつ、どの依頼を受けたのか。

どの貴族の私的祈祷が、どの村の緊急浄化より先に処理されたのか。

職員が何時間働いたのか。

何人倒れたのか。

記録が整えば、言い逃れの場所は減る。

大神官の機嫌は日ごとに悪くなった。

ある夕方、彼は執務室へ来た。

「リディア様。今夜、東の侯爵家で病除けの祈祷を行いなさい」

リディアは帰り支度をしていた。

「正式依頼書はありますか」

「口頭で十分です」

「緊急認定の印は」

「侯爵家からの依頼ですぞ」

「病人が出ていますか」

「温室の薔薇が弱っているとのことです」

「では、白い優先札です。予約窓口へお願いします」

大神官の顔が赤くなる。

「聖女ならば断れぬはずです」

「勤務時間外です」

「民のために身を捧げるのが聖女でしょう」

「侯爵家の薔薇は、民ではありません」

部屋の端で若い神官が息を呑んだ。

セオは無言で記録を取っている。

ただし、羽ペンの動きが速い。

楽しんでいる。

「あなたは聖女にふさわしくない」

大神官が杖を鳴らした。

「冷たい。あまりにも事務的だ。祈りに時間外などありません」

「あります」

リディアは外套を手に取った。

「祈る者には体があります。体には限界があります。限界を無視した祈りは、明日の誰かを見捨てます」

「詭弁です!」

「では、査問にかけてください。記録は揃っています」

セオが顔を上げた。

死んだ魚のようだった目は、もうない。

獲物を狙う鷹の目。

しかも獲物は、無駄な残業と不正記録である。

「揃っています」

言い方が、やけに嬉しそうだった。

王城で査問会が開かれることになった。

大広間には王太子アルベルト、大神官、重臣、貴族たちが並ぶ。

リディアは白い聖女服のまま中央に立っていた。

手には記録簿。

重い。

だが、心強い。

悪役令嬢が持つには可愛げがない。

しかし、断罪対策としては扇よりずっと強い。

アルベルトが口を開いた。

「リディア・エルネスト。君には、聖女としてふさわしくない行いがあると報告を受けている」

広間がざわめく。

「民への祈りを拒み、貴族からの依頼に金額をつけ、神殿の伝統を乱した。さらに、ミリアの聖女としての道を奪ったとも聞く」

大神官が重々しく頷く。

「聖女が定時で帰るなど、聞いたことがありません」

「なんと冷たい」

「やはり公爵令嬢の気まぐれか」

「聖女というより、悪役令嬢ではないか」

その言葉が出た瞬間、リディアは静かに息を吸った。

来た。

この世界は、それでも彼女をそこへ置きたいらしい。

悪役令嬢。

便利な言葉だ。

誰かが思い通りに動かない時。

都合のよい犠牲を拒んだ時。

その札を貼れば、周囲は安心して責められる。

だが、残念。

今日のリディアには、記録がある。

それに、査問は長引かせたくない。

帰りに西通りの氷菓子を買う予定がある。

セオが「勤務外の楽しみを予定表に入れると、退勤成功率が上がります」と真顔で勧めてきたのだ。

変な書記官である。

だが、氷菓子は食べたい。

リディアは記録簿を開いた。

「事実確認をお願いいたします」

セオが補助資料を配り始める。

動きが速い。

査問会というより、完全に会議の資料配布だった。

「私の就任前、未処理の浄化依頼は三百二十件でした。現在は二十三件です」

広間のざわめきが変わる。

大神官の顔は赤い。

「結界事故は七割減少。緊急浄化の平均対応時間は、三時間から四十分まで短縮。受付の待ち時間は、最大三時間から平均十分になりました」

貴族の一人が資料を見て、目を丸くした。

「十分?」

「うちの領地の浄化依頼、二か月放置されていたのではなかったか」

「待て。ここにある侯爵家の温室祈祷とは、どこの家だ」

「薔薇の祈祷で村の瘴気が後回し? そんな馬鹿な」

ガヤが増える。

大神官の顔色が赤から青へ変わった。

分かりやすい。

リディアは心の中で頷く。

よし。

数字が効いている。

氷菓子に近づいた。

「下位神官の過労による離脱者は、今月ゼロです」

セオが一歩前に出た。

「補足します。以前は月平均で七名が倒れておりました」

「七名?」

「神殿はそれを熱心な祈りと記録していました」

セオの声は冷静だった。

冷静なのに、毒がある。

「現在は事故として扱っています。事故は減らすものですから」

重臣たちが資料をめくる音が広間に広がる。

大神官の顔が、青を通り越して土気色に近づいていた。

「貴族の私的祈祷を有料予約制に変更した理由を説明します」

リディアは次の紙を掲げた。

「無償対応が緊急案件を圧迫していたためです。祈りを売ったのではありません。働く者の時間を、無料で奪われないようにしただけです」

伯爵らしき男が口を挟んだ。

「だが、寄付をしている家が優先されるのは当然では」

「では、お尋ねします」

リディアは彼を見た。

「あなたの領地で瘴気が発生した時、他家の薔薇の病除けを優先されても、同じことをおっしゃいますか」

伯爵は口を閉じた。

周囲の貴族が、気まずそうに視線を逸らす。

掌が返る音は聞こえない。

けれど空気は、確実に裏返っていた。

ミリアが前へ出た。

神殿職員としての正装を着ている。

緊張しているが、目は逃げていない。

「発言をお許しください」

アルベルトが彼女を見た。

「ミリア」

「リディア様は、私から聖女の道を奪っていません」

ミリアは、胸の前で手を握った。

「私は、聖女になれば誰かに守ってもらえるのだと思っていました。でも、働いて分かりました。祈りは、一人では届きません。測る人、運ぶ人、記録する人、順番を整える人がいて、初めて届きます」

彼女はリディアを見た。

「リディア様は、私に自分で立つ道をくださいました」

その声は、広間に静かに落ちた。

アルベルトは何も言えなかった。

リディアは、最後の資料を開く。

「さらに、神殿上層部による緊急認定の不正について報告いたします」

大神官が杖を鳴らした。

「それは内部資料ですぞ!」

「王国の浄化体制に関わる資料です」

リディアは淡々と続ける。

「貴族から寄付を受けた直後、その家の私的祈祷が緊急案件扱いに変更された記録が複数あります。緊急認定の印は大神官室から出ています」

広間が大きく揺れた。

「大神官、これは事実か」

重臣の一人が低く問う。

「そ、それは、神殿運営のために必要な調整で」

「地方の瘴気浄化を後回しにしてまでか」

大神官は口を開いた。

閉じた。

また開いた。

何も出てこなかった。

リディアは記録簿を閉じた。

「聖女に無限の慈悲を求める制度こそが、誰かを悪役にします」

静かな声だった。

けれど、大広間の奥まで届いた。

「聖女が断れば冷たいと言われる。働く者が倒れれば尊い犠牲と言われる。声の小さな民が後回しにされれば、仕方ないと言われる。そのたびに、誰か一人を悪役にして終わらせる。そんな仕組みは、もう続けられません」

リディアは、アルベルトを見た。

「殿下は、誰かを守る物語が欲しかったのでしょう。ですが、守られる役を作るために、誰かを悪役に置く必要はありません」

アルベルトの顔が歪んだ。

ようやく気づいたのかもしれない。

自分が見ていたのは、民でも、ミリアでも、リディアでもなかった。

王子として美しく立てる物語。

ただ、それだけだったのだと。

「聖女とは、倒れるまで祈る者ではありません」

リディアは言った。

「明日も祈れるように、今日帰る者です」

その瞬間、セオが小さく呟いた。

「名言です。受付に掲示します」

「やめなさい」

「手順札にも入れます」

「やめなさい」

査問会の空気が、少しだけ緩んだ。

だが、それでよかった。

断罪の場ではなくなった証拠だった。

大神官は職務を解かれた。

神殿の依頼制度は王国管理のもとで見直され、緊急浄化と私的祈祷の区分が正式に定められた。

貴族の一部は不満を漏らした。

だが、数字は強い。

結界事故は減った。

地方の瘴気被害も減った。

神殿職員が倒れなくなった。

受付の待ち時間も短くなった。

文句を言う貴族には、神殿から新しい案内が送られた。

『祈りを必要な場所へ届けるため、ご理解とご協力をお願いいたします』

文面は丁寧。

その下には、料金表と予約方法。

作成者はリディア。

監修はセオ。

末尾に小さく、彼の手書きでこう添えられていた。

『緊急ではないものを緊急と偽ると、本当に緊急の誰かが困ります』

やや説教くさい。

けれど効いた。

数日後、アルベルトが神殿を訪れた。

今度は受付で来訪者記録に記入し、順番を待った。

面会室に現れたリディアは、いつも通り記録板を持っていた。

「本日はどのようなご用件でしょうか」

「謝罪に来た」

アルベルトは深く頭を下げた。

「君を疑った。君を、自分の物語の中でしか見ていなかった。すまなかった」

リディアは、しばらく彼を見ていた。

かつての彼女なら、その謝罪を待ち望んだかもしれない。

婚約者として大切にされたい。

選ばれたい。

信じてほしい。

そんな思いがなかったわけではない。

けれど、今のリディアの机には明日の予定表がある。

赤い優先札が三件。

青い優先札が八件。

白い優先札の予約調整が五件。

ミリアの正式採用手続きも進めなければならない。

彼女の人生は、もう王太子の視線を待つだけの場所にはなかった。

「謝罪は受け取ります」

リディアは言った。

アルベルトが顔を上げる。

「では、婚約は」

「解消を希望いたします」

彼の表情が揺れた。

「リディア」

「王太子妃業務は、現在の職務と兼業できません」

「職務の問題なのか」

「はい」

リディアは真面目に頷いた。

「王太子妃は、祭事、外交、社交、慈善活動、王家行事への出席など、多岐にわたる職務を担います。現在の聖女職と両立するには、稼働時間が足りません」

アルベルトは、苦しげに笑った。

「君は、私を嫌っているのではないのか」

リディアは少し考えた。

窓の外では、神殿の鐘が午後の時刻を告げている。

「嫌ってはいません」

彼の目に、わずかな希望が灯る。

リディアは穏やかに続けた。

「ただ、私の人生の勤務表に、殿下の恋愛劇を入れる余白がないだけです」

アルベルトが息を呑む。

その時、面会室の扉が軽く叩かれた。

「リディア様、失礼します」

ミリアだった。

手には新しい予定表を持っている。

「明日の浄化技師補佐の配置ですが、現地確認を私が一件多く受け持てそうです。その分、リディア様の午後の調整枠を一つ削れます」

「ありがとう、ミリアさん。助かります」

リディアは予定表を確認し、ふとアルベルトへ視線を戻した。

「あ。……今、その余白も、ミリアさんが業務効率化で削ってしまいました」

面会室が静まり返った。

ミリアは状況を理解していない顔で首を傾げる。

セオは入口の横で、明らかに笑いをこらえていた。

アルベルトは、何か言おうとして、やめた。

たぶん、完全に負けたと分かったのだろう。

恋愛劇は、現実の予定表に勝てない。

少なくとも、リディアの人生では。

長い沈黙の後、アルベルトは小さく頷いた。

「分かった」

婚約は正式に解消された。

理由は、双方の職務上の都合。

王国の記録には、そう残った。

セオはその記録を見て、非常に満足そうに頷いた。

「簡潔でいいですね」

「そこを評価しますか」

「余計な感情が少ない記録は、後世の残業を減らします」

「あなた、本当に変わりましたね」

「定時退勤が人を変えます」

ミリアの正式採用が決まった日、神殿では小さな祝いの会が開かれた。

勤務時間内ではない。

参加は自由。

場所は神殿裏の小さな庭。

机の上には、焼き菓子と果実水が並んでいる。

ミリアは採用通知を両手で持ち、何度も眺めていた。

「本当に、私、正式採用なんですね」

「はい。試用期間中の評価は良好です」

リディアが言うと、ミリアの目に涙が浮かんだ。

「ありがとうございます。私、聖女になれなかったら、何もないと思っていました」

「何もない人に、浄化技師補佐は務まりません」

「でも、私、まだ失敗も多くて」

「失敗を記録できる人は伸びます」

ミリアは採用通知を胸に抱いた。

「リディア様みたいになれるでしょうか」

「私のようになる必要はありません」

リディアは庭に並ぶ神殿職員たちを見た。

笑っている者。

菓子を分けている者。

早く帰れると喜ぶ者。

神官の一人は、今日は子どもの誕生日に間に合うと泣いていた。

「あなたは、あなたの持ち場で役に立てばいいのです」

ミリアは、少し泣きながら笑った。

「はい」

夕方。

神殿の鐘が定時を告げた。

その瞬間、職員たちが自然に片づけを始める。

以前なら、誰も帰ろうとしなかった時間。

帰ったら罪悪感を覚えた時間。

だが今は違う。

明日も働くために、今日帰る。

それが、この神殿の新しい当たり前になりつつあった。

リディアは執務室で最後の確認を終える。

赤い優先札は専用箱へ。

青い優先札は明日の担当表へ。

白い優先札は予約簿へ。

順番札の箱も整っている。

手順札は新人用の棚に並べ直された。

そのうち一枚に、見覚えのない文言が増えていた。

『退勤までが業務です。帰る勇気を持ちましょう』

「セオ」

「はい」

「この手順札、あなたですね」

「必要な啓発です」

「やや思想が強いです」

「思想ではありません。生活です」

セオは真顔だった。

リディアは、少し笑った。

笑った自分に、自分で少し驚く。

最近、こういうことが増えた。

王宮にいた頃は、笑い方にも意味が必要だった。

婚約者として。

公爵令嬢として。

王太子の隣に立つ者として。

誰に見られても失点しない笑顔。

角度まで決まった笑顔。

でも今は違う。

呆れて笑う。

おかしくて笑う。

帰れると思って、少しだけ頬が緩む。

それだけでよかった。

神殿の門を出ると、王都は夕暮れの色に沈んでいた。

空は淡い蜂蜜色。

石畳には長い影。

屋台からは焼き菓子の匂いが漂い、通りの向こうでは子どもたちが木の実を転がして遊んでいる。

セオが隣に並んだ。

「リディア様」

「勤務時間外ですので、リディアで結構です」

「では、リディア様」

「様は残るのですね」

「急には難しいです」

セオは真面目な顔で言った。

真面目すぎて、逆に不真面目に見える。

「今日は、少しだけ寄り道されますか」

「寄り道」

「西通りの氷菓子屋です。査問会前にお話しした店です」

「覚えていたのですか」

「もちろんです。退勤後の楽しみは、業務改善の重要項目です」

「また仕事の話に戻っています」

「違います。人生の話です」

リディアは足を止めた。

人生。

大げさな言葉のはずなのに、夕暮れの道では、不思議と大げさに聞こえなかった。

悪役令嬢になる予定だった。

聖女として使い潰される予定も、どこかにあったのだろう。

王子の隣で笑う役。

ヒロインを傷つける役。

民のために倒れるまで祈る役。

この世界には、リディアを置くための席がいくつも用意されていた。

けれど、そのどれにも座らなかった。

自分で仕事を選んだ。

自分で帰る時間を決めた。

自分で明日の予定を組んだ。

そして今、自分で寄り道を選ぼうとしている。

たったそれだけのことが、こんなにも自由だとは知らなかった。

「残業ではありませんね?」

リディアが尋ねる。

セオは、ほんの少しだけ笑った。

「もちろんです」

「では、検討します」

「検討結果は?」

「本日中に出します」

「できれば、店が閉まる前にお願いします」

リディアは歩き出した。

セオが隣に並ぶ。

西通りの氷菓子屋は、小さな店だった。

果実を凍らせ、薄く削り、蜜をかける。

王宮の菓子ほど豪華ではない。

けれど、紙皿に盛られた氷菓子は、夕暮れの光を受けて小さな宝石みたいにきらめいていた。

リディアは一口食べた。

シャリ、と涼しい音がした。

冷たい。

甘い。

舌の上で、すぐに消える。

そのあっけなさが、妙に嬉しかった。

神殿の重苦しい鐘の音が、まだ耳の奥に残っていたはずなのに、氷菓子のシャリシャリという音が、少しずつそれを上書きしていく。

仕事の終わりに、甘いものを食べる。

誰かに許可を取らずに。

誰かの視線を気にせずに。

ただ、自分で決めて。

「おいしいですか」

セオが尋ねる。

「はい」

「では、来週も退勤後に来ましょう」

「もう予定に入れるのですか」

「継続が大切です」

「あなたは本当に、何でも仕組みにしますね」

「リディア様ほどではありません」

リディアは笑った。

今度は、はっきりと。

王太子の婚約者としてではなく。

悪役令嬢としてでもなく。

聖女として民に見せる顔でもなく。

ただ、仕事帰りに氷菓子を食べる一人の少女として。

今日の仕事は終わった。

明日の仕事も、きっと定時で終わらせる。

悪役令嬢になる予定だったリディア・エルネストは、聖女として王国を救いながら、今日もきちんと帰ることにした。