作品タイトル不明
38.なんでもする
俺は奏の部屋の前まで行き、扉の前で数秒立ち尽くした。
俺と奏の母から、奏を呼んでこい、とは言われたものの……俺と会いたくない、とまで言っている彼女を、どうすれば部屋から出させることが出来るのだろうか。
とりあえず、俺は扉の前で必死に思考を巡らせた。
あの手この手で、奏を部屋から出す方法を考えたが……妙案は中々浮かんでこない。
くそっ。
こんなことなら、テストで負けておけば良かった。
そうすれば奏が怒ることもなく、今日の一ノ瀬家の訪問も円満の形で終わったはずだから。
……いや、負けていいはずがあるか。
今回のテスト勝負、俺は奏とフランス留学の目標を諦めるか否かの賭けをしていた。もし俺が奏に負けていたら、フランス留学は諦めなければならなくなっていたのではないか。
だから本気で勝負したんじゃないか。
……それだけじゃない。
大切な人の機嫌を損ねる可能性があることは、勝負前からわかっていたこと。
それでもなお、奏の機嫌を損ねるリスクを承知で、俺がテストで手を抜かなかった意味。
……目標を諦めるか否かだけの話ではない。
俺はこれまで、ずっと勉強を頑張ってきたのだ。
暑い日も、寒い日も、熱を出そうが……何があっても、勉強に関してだけは努力を惜しんでこなかったのだ。
つまり、だ。
大切な人の機嫌を損ねるリスクは……これまでの俺の努力を否定してまで優先すべき事項ではなかった。
だから、俺はテストで手を抜かなかった。
……だから今後、奏に今回と同じようにテスト勝負を挑まれたって、俺は絶対に手を抜かない。
「奏。奏」
テストで負けるという選択肢がないことはわかった。
であれば、後はもう……なんとかして機嫌を取り戻してもらうしかない。
俺は……奏の機嫌を取り戻してもらう作戦は特に浮かばぬまま、とりあえず成り行きに身を任せてみることにした。
扉をノックし、彼女に呼びかけるが……。
「……」
返事はない。
……テストで負けたことで、奏がここまで機嫌を損ねるとは。
それだけ本気で勝負をしていてくれていた、ということか。
それとも……。
「奏。……聞こえてる?」
俺は扉に話しかけた。
「……この前は」
ごめん、と言いかけて、俺は止めた。
何故なら……さっき考えた通り、俺はテストで全力を出して、奏を倒すことが間違いだったとは思っていないからだ。
間違っていないことで謝罪をするだなんて、おかしなことだ。
「……この前は、お互いにベストを尽くせたね」
だから、謝罪はしない。
「アクシデントもあったけど……結果的に、二人ともテストを無事に終えることが出来て本当に良かった」
……互いの健闘を称えようと思った。
「また次のテストも、勝負しようね」
それが、俺なりの誠意だと思ったのだ。
「……今度も君に全力で立ち向かうからさ。君も……もし、まだ俺にフランス留学を諦めさせたいと思っているなら、また立ち向かってきてくれよ」
扉の向こうから、返事はない。
「そうやって、これからも二人で高め合っていこうよ」
……どれだけ奮起を促しても、奏には届かないのだろうか?
「……奏」
……少しだけ不安を覚え始めていた。
奏と別れたあの日と、似たような気分を抱き始めていた。
……このまま俺は、奏と喧嘩別れをしてしまうのだろうか?
「……奏、出てきてくれよ」
それだけは嫌だった。
「……君が出てきてくれるなら、俺、なんでもするからさ」
扉の向こうに聞こえたか否か、微妙なくらい……さっきまでと違って、俺の声は威勢がなくなり、弱くなっていた。
……しかし。
パタパタパタ……。
「あっくん」
奏は扉を開けてくれた。
「あっくん。今、なんて言った?」
奏は……喧嘩のことなんてなかったのではないかと思うくらい、満面の笑みだった。
「あっくん。あっくん。……今、なんて言った?」
……そんなに嬉しいことがあったのだろうか?
「……えぇと」
「あっくん。あっくん。今、言ったよね。なんでもするって言ったよね」
「……うん」
「あっくん。あっくん。今、なんでもするって言ったよね。今、なんでもするって言ったよね」
……なんでそんなに繰り返すのさ。
壊れたレコードか?
「……言ったね」
「そうだよね。言ったよね。今、なんでもするって言ったよね」
「……うん」
「何してもらおっかな。あっくんに何してもらおっかな」
奏はウキウキだった。
本当、さっきまで怒って、自室に閉じこもっていた人の姿とはとても思えない。
……まさか、図られたか?
……いやいや。
いやいやいや。
奏に限って、そんなこと……。
「うふふ。うふふふふ。あっくんに何してもらおうかなー。うふふふふふふ」
……。
「あっくん。とりあえずルールを確認させてくれない?」
「ルール?」
「うん。なんでもするって、あっくんはさっき言ったけど、それって本当になんでもしてくれるの?」
「……物には限度がある」
「えー。じゃあ、なんでもするって言ったのに、なんでもしてくれないの? 嘘ついたの? あっくん、あたしに嘘をついたの?」
「うん。嘘をついた」
そうやって理詰めされれば、嘘だと言わざるを得ない。
だから、俺は即断言した。
「……そっか」
奏の瞳から光が消えた。
「うふふ。うふふふふ。それじゃあ、どこまでならあっくんはなんでもしてくれるの?」
「……どこまでだろう?」
「例えば……」
奏は可愛らしく小首を傾げた。
「フランス留学を諦めて、は適用ですか?」
「適用外です」
それはさすがに駄目だろう。
それがまかり通ったら、テスト勝負とは一体なんだったんだとなってしまう。
「適用外ですか。……うーん。それじゃあね。それじゃあね?」
奏は可愛らしく微笑んでいた。
「なんでもするの権利を使って、なんでもするの権利を増やすことは可能ですか?」
「不可です」
「うふふ。不可ですか。そうですか。それじゃあね。それじゃあね?」
奏は一歩俺に歩み寄ってきた。
「あっくん。あっくん。これからは毎日、あたしに勉強を教えて、は大丈夫ですか?」
……へ?
そ、そんなことでいいの?
さっきまでの迫力から、もっとすごいことを要求されると思ったんだけども。
「大丈夫です」
……はは。
喧嘩して、仲直りした後の最初の会話が俺への要望だったから、さすがに身構えすぎてたか。
「本当? やった!」
奏は喜んだ。
「それじゃあ、これからは毎日、あっくんの家でお勉強しようね!」
「うん」
「一日最低一時間!」
「うん」
「あっくんの部屋で!」
「うん」
「座席配置もこちらで指定させて頂きます!」
「うんっ! ……うん?」
「勿論、土日もどっちもだよ?」
「……うん」
ふむ。
色々と気になる要求はあったが……まあ、許容範囲内、だろうか?
最初のフランス留学を諦めろ、という要求と比べたら、少なくとも全然マシか。
……ただこれ、最初に無理筋の要求を提示して、その後の要求ハードルを下げる、交渉術の常套手段のような気がしないでもないような。
「決まりだよ。絶対に決まりだよ」
「わかった」
「男に二言はない?」
「うん」
「偉い。さすがあっくん! かっこいい!」
「えへへ。そんなに褒めないでよ」
「じゃあ、リビングに行こうか」
「うん」
……ま。奏が元気になったのなら、それでいっか。
「るんるんるんっ」
奏が嬉しそうにスキップしている姿を見たら、こっちまで少し嬉しくなってきて、俺は微笑んだ。