軽量なろうリーダー

こういう勝ち方は想像してなかった。

作者: 重田いの

本文

春の陽光がバラ窓から差し込み、白い大理石の床の上にまだら模様を描いた。

エルフィーナ・ヴァンダーホルト伯爵令嬢はその光の中呆然と立ち尽くす。二十歳の誕生日を三日後に控えた朝のことだった。

「だからね、僕らは婚約を解消すべきだと思う」

婚約者のクレイトン・モリス侯爵子息は、あっけらかんと笑った。視線は窓の外へ向けたままなのは、彼にもわずかな良心がある証拠だろうか。

その横顔に、かつてエルフィーナが好きだった人懐っこい笑みはなかった。代わりにあるのは、朗らかさを装う冷酷な線引きだった。

「……理由を、聞かせてください」

エルフィーナは自分でも驚くほど落ち着いた声でそう言った。ぎゅうっと両手を握りしめると、手の甲から血が出た。爪の根本がうずく。胸の中で軋む音がする。

「僕はレニアと結婚したい」

レニア。ああ。エルフィーナは目を閉じる。

レニア・ヴァンダーホルトはエルフィーナの異母妹である。父の後妻が三年前に連れてきた、十七歳の少女。蜂蜜色の髪と琥珀の瞳を持つ、柔らかな笑顔の娘。黒髪のエルフィーナとは正反対に、誰にでも懐き、誰にでも愛される子だった。

「そう、ですか」

涙は出なかった。なんとなく、そんな気はしていたのかもしれない。

婚約者の礼儀としてクレイトンがエルフィーナを訪ねてくると、いつの間にかレニアは同席していて、そして気づけばエルフィーナは、婚約者と異母妹が楽しく会話するのを傍らで聞く立場になっているのだった。そういう三人の関係だった。彼が異母妹を見るときの熱が、自分を見るときには失せていることなんて、とっくの昔に気づいていた。

「君には申し訳ないと思っている。でも、僕とレニアは本当に愛し合っているんだ。真実の愛なんだ。今日だって、レニアは君に謝るって言ってたんだよ? でも僕が来るっていうのを止めたんだ」

――エルフィーナが錯乱してレニアを傷つけるといけないから。

エルフィーナはふっと笑った。だってもう、どうにもならないのをわかってしまったから。

クレイトンは罪悪感よりも安堵の色が濃い笑みを浮かべる。

「よかった、わかってくれたんだね」

エルフィーナは何も言わなかった。何を言えばよかったのか、今でもわからない。

その日の夕方、父のミルドレッド・ヴァンダーホルト伯爵に呼ばれた。

広い執務室に、父と継母のリリーが並んで座っていた。まるで審判のように。

「クレイトン殿から話は聞いた」

と父は言った。かつて母が生きていた頃の、あの優しかった父の面影はもうどこにもない。今だってエルフィーナより隣のリリーのことを気にしている。

「残念だが、仕方あるまい」

「……仕方ない、ですか」

「レニアとクレイトン殿の仲は、我々も薄々気づいていた。二人は本当に好き合っているのだよ。それを引き裂くわけにもいくまい」

隣でリリーが小さく頷く。老いてなお美しいその顔には、隠しきれない満足の色があった。自分の娘が侯爵家に嫁ぐのだ、それも伯爵令嬢として。親として当たり前の感情だろう。

エルフィーナは努めてリリーを見ないようにしながら、父に言う。

「では、私は」

「それについてだが」

父はわずかに目を伏せた。

「話がある」

エルフィーナは背筋を伸ばす。心臓がどきんと波打った。悪い予感がした。胃がキリキリ痛んで、冷ややかなかたまりがこみ上げてくる。

「北方のフロスト辺境伯家から、縁談の申し入れがあった」

フロスト。

その名を聞いた瞬間、エルフィーナはくらりと眩暈を覚える。

フロスト辺境伯——ルーファス・フロスト。

帝国北部の広大な領地を治める、人狼族の貴族当主である。四代にわたる古い血を持つ、氷の辺境伯と呼ばれる男。笑わない、感情を見せない、近づく者を凍り付かせる眼をした銀の狼。国にわずかしか残っていない魔種族の末裔だ。

「わ、私に、フロスト様と結婚せよと」

「辺境伯家との縁組みは、我が家にとって大変名誉なことだ」

父は言った。目を合わせないままに。継母がくすっと笑った。あんたにはお似合いよ、とでも言うように。

「お前も二十歳になる。いつまでも独り身でいるわけにもいかない」

「この家は、ヴァンダーホルト伯爵家はどうするのですか。レニアがクレイトン様に嫁ぐのであれば、跡取りは?」

「なあに、親戚筋から養子でも取るさ」

父はははっと笑い、リリーを抱き寄せる。エルフィーナはその姿を声もなく見つめた。その人は確かに、かつて自分の父だった。母が生きていた頃、一緒に庭を駆け回って遊んでくれた、あの人。しかしもう、あの父はいないのだ。自分の前に座っているこの人は娘が婚約破棄されその後釜にもう一人の娘が座るだなんて出来事を――しょうがない、と思っている。

そしてあっという間に別の縁談を用意した。きっと元から話自体はあって、返答を保留していたのだろう。いい機会だから。エルフィーナを追い出すいい機会だから、それを受けたのだ。

「……承知いたしました」

エルフィーナはしとやかに頭を下げる。声は震えていなかった。リリーがキャハハハッと笑い声をあげたが、頭も身体も微動だにしない。――それはエルフィーナの誇りだった。

***

馬車は一週間をかけて、帝都から街道を北へ向かった。

道が進むにつれ、景色は変わった。緑の野原が灰色の荒野へ。荒野はやがて松の原生林に変わった。空気は甘く、冷たくなり肺を刺す。

空の色も変わった。南の柔らかな水色ではなく、鉄のような、重い灰色混じりの青が広がる。

エルフィーナは一人で馬車に揺られながら、膝の上の手を見つめていた。

泣かなかった。馬車に乗り込む前も、父と別れる時も。

リリーが笑いながら、体に気をつけてと言った言葉も、どこか遠いところから聞こえた気がした。レニアは見送りに来なかった。もちろんクレイトンも。

——泣かない。

それだけを自分に言い聞かせていた。誰かに哀れまれるために泣くのは嫌だった。エルフィーナは伯爵家の娘だ。ヴァンダーホルトの銀の血を継ぐのだから。

松林は延々と続き、道が途切れそうになるほどだった。それでもその土地をなんとか抜けると、石造りの城が見えた。

曇天に溶け込むような灰色の城だった。幼い頃に夢見た壮麗な城とは全く違い、砦のように頑丈そうで荘厳で、現実離れして見えた。四つの塔が空を突き、その頂には家紋の旗がひらめく。前庭には薔薇園どころか色彩さえさえなく、装飾らしい装飾もなかった。

城門の前で馬車が止まったとき、風にまぎれて雪がちらつきはじめる。外套の襟を搔き合わせながらエルフィーナはようやく揺れない大地を踏みしめる。

「ヴァンダーホルト伯爵令嬢がお見えて御座います」

実家からついてきてくれた御者がそう告げると、城門から人影が現れた。執事らしき初老の男と、護衛とおぼしき大柄な兵士が二人。

奥に、もう一人。

エルフィーナは息を呑んだ。

その男は、城門へとのしのし歩み出た。彼は非常に背が高かった——まっすぐ立ったら二メートルに届くだろう。黒に近い濃紺の上着に刺繍は何もない。貴族らしくなく刈り込んだ短い白金の髪が風になびく。人狼族の証である尖った耳。がっしりした顎。肌は人間よりわずかに白く、目の色は——

灰色だった。雪空の色。

「ルーファス・フロスト辺境伯を代弁し、ヴァンダーホルト伯爵令嬢を歓迎いたします。よくきてくださりました、奥様」

慣例に従い執事が告げた。

男は何も言わなかった。エルフィーナをじろりと見る。彼女は胃がひっくり返りそうになる。それでも、必死に二本足を踏ん張って彼を見つめ返す。

――泣かない。泣いてたまるか。

「エルフィーナ・ヴァンダーホルトと申します。此度は縁談をお受けいただき、光栄に存じます。……旦那様」

男はかすかに頷いた。そのとき天空はるかに突風が吹き、雲間が現れる。ルーファスの雪の色を映した目が、さああっと青く光った。エルフィーナはそれに見惚れた。

「……来い」

それだけ言って、彼は背を向けた。抑揚のない声に思われた。拒絶されているのかしらと危うく思うほど。でも、エルフィーナは一瞬だけ瞬きをして、それから静かに歩き出した。もはやここが彼女の家である。

振り返らなかった。

ヴァンダーホルトの御者が帰ると、エルフィーナと故郷を繋ぐものは何もなくなった。

***

案内された部屋は思ったより広く、暖かかった。暖炉には火が入っており、床には幾重にも毛皮が敷かれている。豪奢な天蓋つきの寝台があったが、壁にタペストリーはなかった。

ほどなくして夜がきた。食事もきちんと運ばれた。テオドールという名の執事の老人がわざわざ持ってきてくれたのだ。

「飾り気のない部屋で、奥様にはお気落ちかと思います」

「いいえ、いいえ。本当によいお部屋です。ありがとうございます」

本当に、ヴァンダーホルト家の自分の部屋より広くていい部屋だった。エルフィーナは必死に両手を振って抗弁する。タペストリーがないことなんて気にしない。だってここにあるものは――レニアにとられなくてすむんだもの。

「辺境伯様は口数の少ない方ですが」

とテオドールは部屋を辞する前に言った。

「悪い方ではございません」

「は、はい」

エルフィーナは頷く。そうだった――そういえば、彼の噂はあまりよいとはいえないものである。執事が心配するのももっともだ。やれ子供を攫って食うとか、満月の夜に変身するとか。

「少しずつ、旦那様のことを知っていけたらと思っております」

老執事は少し目を細めて孫娘を見るようにエルフィーナに微笑み、会釈をして去った。

その夜、エルフィーナはひとり暖炉の前に座り、炎を見つめた。

婚約破棄から、まだ十日も経っていない。なのにもうずっと昔のことのような気がした。クレイトンの顔も、父の執務室も、継母の満足げな笑みも——遠い靄の向こうにある。

「今なら泣けるかしら?」

そう自分に問うてみた。涙は来なかった。母が死んだときに枯れたのかもしれない。

「そっか。なら……頑張るしか、ないわね」

辺境伯領で生きていけるのか、そもそもルーファスが彼女を気に入ってくれるかわからない。下手すれば明日にでも不興を買って実家に戻されるか、あるいは彼が噂通りの人間なら、地下牢に監禁されるのかも。

「うふふ」

エルフィーナは一人笑い、炎を見つめ続けた。

翌朝。

湯気が白く立ち昇る朝食室は、思ったより明るかった。

東向きの窓から、北の朝の光が斜めに差し込んでいる。南の光とは質が違う——柔らかさがなく、真っすぐで、ガラスのように澄んでいる。その光の中で、ルーファス・フロスト辺境伯は大きな椅子に収まり、黒いカップを両手で包むようにして持っていた。

「おはようございます」

エルフィーナがおそるおそる扉から顔を出すと、彼は顔を上げた。それからわずかに唇の端を上げる。

(笑……ってる、のよね?)

昨日は見なかった表情だった。笑わない男と聞いていたから、少し驚いた。笑顔というのも大げさなくらい、微小なものだった。口の動きと、目の奥がほんの少し和らいだ、それだけだ。

しかしそれは確かに笑みだった。

エルフィーナは彼に微笑み返した。

「おはよう。よく眠れたか」

「は、はい。ありがとうございます」

とことこテーブルに近づいて、エルフィーナは椅子を引いた。どこに座ればよいか一瞬迷って、暖炉を背にした主人席のルーファスから斜め向かいになる位置に座る。

思ったより悪い人でも、怖い人でもないのかもしれない。

沈黙。見るなとは言われていないから、エルフィーナはそっと彼を観察した。白金の髪は朝の光を受けて銀に見えた。尖った耳の先がちょっぴり動いた気がする。

表情が少ない人だ、と思った。たぶん、感情がないわけではないのだ。それを表に出す習慣がないのだろう。それは北の習慣なのか、人狼の習性なのか、それとも辺境伯家のしきたりなのか……。人狼族の耳は感情によって動くと聞いたことがあったけれど、ルーファスの耳が動いたのはさっきの一回きり、それ以降微動だにしなかった。

メイドたちが朝食を運んできた。銀の盆とパン籠に、お茶のポット。自分が空腹だったことを思い出して、エルフィーナははしゃいだ。

「ありがとう」

と声をかけると、メイドたちはにっこりする。彼女らも一様に、耳の先が尖っていた。

オムレツ、新鮮なサラダ、ポタージュスープ、山ほどのパン。お茶と、それから温めたミルク。何種類かのジャム、バターが壺に入ってテーブルの中央に置かれる。

エルフィーナは短く食前の祈りを捧げた。文言を唱え終えたとき、ルーファスがふと言った。

「慣れない場所で、不便はないか」

「いいえ、テオドール様がよくしてくださって」

「そうか」

短い答えである。彼はエルフィーナよりさらに短く祈ると、パンを取り、齧りついた。しばらく無言で食事は続く。

エルフィーナはとろっとしたオムレツをパンに塗り、うっとりしながら食べる。スープはこっくりと甘く、サラダはシャキシャキして、どれもこれも長旅に疲れた身体に染みるほどおいしかった。ジャムがほしい。しかしテーブルは大きいので手が届きそうにない。悩んでいると、ルーファスの大きな手がぬうっと伸び、イチゴジャムの壺を取ってくれる。

「わ。ありがとうございます」

「ん」

またしてもとんでもない返答だ。しかし気遣ってもらえていることは伝わった。

だんだんお腹がいっぱいになると、余裕が生まれた。いつまでも無言の朝食というのも変なものだ。

エルフィーナは少し勇気を出すことにした。この人は見知らぬ人だが、夫である。何もかもが始まったばかりだ。縮こまっていても何も始まらない。

「あの」

「ん」

「少し、お話ししてもよろしいですか。お伝えしなければならないことがあるんです」

ルーファスはカップを置いた。

「聞こう」

促され、エルフィーナは息を整えた。伯爵家を出る前から、この話をいつすべきか考えていた。早い方がいい、とは思っていた。こういうことは、隠しておいて後から出るより、最初に言ってしまう方が互いのためになる。

「じつは、我がヴァンダーホルト伯爵家も——人狼の血族なのです」

朝食室に、しんとした沈黙が落ちた。

ルーファスの目が変わった。笑みが消えたのではない。むしろ、何かが鋭く焦点を結んだような目になった。人狼の銀灰色の瞳が、エルフィーナをじっと見る。

「……続けろ」

「三代前の当主が、北方の人狼族の女性と婚姻を結んでおります。ただ、その後の当主たちが意図的に人間との婚姻を重ねてきたせいで、今では血はほとんど薄まっています。私の父も、祖父も、人間と変わらない見た目で——その、満月の夜に変身もしません。だから公の場では、そのことを話しません」

「お前は」

「私は……」

エルフィーナはそうっと手をルーファスに見せる。

「少し、違います」

テーブルの上に置いた右手に、静かに意識を向ける。

ゆっくりと、爪が伸びた。一センチほど。その先で透明に近い銀の光がぱちっと光る。それだけである。

「これが、私の限界です。感情が昂ぶったり、疲れていたりすると、少しだけ出てきます。人狼族の特性と呼ぶには余りにも中途半端ですから、国に報告もしておりませんの」

ルーファスはエルフィーナの手を見つめた。

「実家では隠していたのか?」

「はい。家族の前でもなるべく表に出さないようにしておりました」

婚約者にも話したことはなかった。これは母とエルフィーナだけの秘密だった。

「なぜ、私に話した」

「旦那様は人狼族でいらっしゃいます。あとで発覚して隠していたと思われるより——初めから話した方が誠実だと思いました」

「それだけか」

問い返され、エルフィーナはわずかに迷った。

「……もう一つあります」

「言え」

「こちらへ来る道中、空気が変わるのを感じました。南より北の方が、よく息ができる気がしました。うまく言えないのですが、身体の奥の、このどうにもならない部分が——楽になる気がしたのです。ずっと絞っていた何かが、少し緩むような」

口に出してから、少し恥ずかしくなった。うまく言えていないし、理屈もおかしい。しかしルーファスはふっと笑った。これまで見てきた中で一番自然な笑みだった。

「わかるぞ」

「え」

「南の都市は人間の気が濃い。人狼の血には窮屈だ」

「そう、感じますか」

「帝都には三日と居られない」

彼はくつくつ喉を鳴らしながらカップを持ち上げる。

「王に呼ばれていても、用が済めばすぐ北へ戻る。だから社交界で嫌われる」

「……嫌われているのですか」

「冷たい、無礼だ、話が通じない、と言われる。大方そんなところだ」

「んんん」

「話せないほど訛りが強いのか、ともな」

「そ、それは。ひどいこと言われましたわね」

彼はククッとまた喉だけで笑って、ますますおかしそうである。

「……言う奴だな」

「申し訳ありません」

「謝るな。間違っていない」

ルーファスはそう言って、カップの中を見た。少し考えるような間があって、それから言った。

窓の外では雪が降ったりやんだりを繰り返している。

もうすぐ春が来る。

***

エルフィーナが辺境伯領にやってきて、二週間経った。まだ雪が降る日があったが、徐々に日差しは温かくなってきていた。

「行くか」

ある朝、ルーファスが執務室の扉を開けながら言った。

「どちらへ?」

「晴れたからな。領地の見回りだ。お前も来い」

命令口調だったが、エルフィーナはもうそれに慣れていた。この人は命令しているのではなく、ただ人と話すのがヘタクソなのだ、と気づくための二週間だった。

二人は馬に乗り、領地を回った。

フロスト辺境伯領は広大だった。城を中心に、東に農村が四つ、西に林業の集落が三つ、北に鉱山がある。ルーファスは領民によく知られていた。彼が通ると、人々は深く礼をするばかりではなく、そっちから声をかけることもあった。

エルフィーナという新妻の話はとっくの昔に人々に知れ渡っていて、彼女は村を通り過ぎるたびまとわりついてくる女たち、ヤジを飛ばしてくる男たちに笑いながら戸惑った。人々は皆、ほんの少しだけ耳の先が尖っていた。

人狼の血は、土地全体へ広がっているのだ。

村を抜けたあと、ルーファスは淡々と言う。

「驚いたか。北の民は受け入れた者へ積極的だ」

「は、はい。少し。でも、皆さん良い人たちでした」

「ああ。――子供が少ない以外、あの村に悪いところはない」

「え?」

エルフィーナは後にしてきた村を振り返る。そういえば。

「寒いから、子供たちは家の中にいるのかと思っていました」

「そうではない。人狼族は子が産まれにくいのだ。……フロストの血が、やや濃すぎる」

魔種族の衰退の原因の一つに、子供が産まれないことがあった。古い時代、彼らは満月の夜に変身したときしか交接が果たせず、赤ん坊も生まれにくかったという。

「領主として、なんとかしなければ」

「強い生き物は生まれにくいといいます。その、あなたのせいではありませんわ」

「ああ」

轡を並べて村から村へゆく道。松林からただよう松脂の匂い。

気を取り直すようにエルフィーナは明るく言う。

「それにしても、旦那様は領民に慕われていますね」

「そうか」

「帝都で嫌われているとおっしゃっていましたが、ここでは全然違います」

「ここの人間は、言葉より行動を見る。お前が土地に馴染もうとしていることは見ればよくわかる」

ルーファスは前を向いたまま言う。誇らしげに聞こえるのはエルフィーナの気のせいではない。

「言葉は一番嘘をつく。匂いは正直だ」

エルフィーナは少し考えた。

「では、私が人狼の血を引くことも、最初からわかっておいででしたか?」

「まあ、ある程度は」

「……正直に言ってよかった」

ほうっと息をつく。

「隠し事なんてするつもり、ありませんでしたけれど」

「別に隠していたってよかった。あえて共有せねばならないことでもない」

ルーファスが不思議そうに言うのに、エルフィーナは首を横に振った。

「いいえ、少しでも隠し事やわだかまりがあると、だんだん亀裂が広がって修正不可能になってしまうのですわ。夫婦の間に、隠し事はいりません」

――父と母のように。

エルフィーナは真剣に言ったが、対するルーファスは虚を突かれた顔をする。

「旦那様?」

「うん。……うん。そうだな」

首を傾げるエルフィーナを置いて、ルーファスは馬の足を速めた。

「あっ、待ってください」

「待たない。付いてくるがいい」

「怒ってますか?」

「いや。――そうだ、我らは夫婦だ、と思っていた」

「はい? ええと、はい」

「うん」

ルーファスはなんだか、にやにやしているようだった。

(なんか変な人)

とエルフィーナは思った。今となっては彼のことはまったくもって怖くない。だって隠し事はもうないのだし、なんか――なんか変な人だということもわかったし。

飾らなくていい、と気づいたのは、その頃だった。

夏になると、エルフィーナは城の東側に小さな菜園を作り始めた。

老執事テオドールが種を分けてくれて、城の若い使用人が土を耕すのを手伝ってくれた。北の土は固く、作れるものは限られていたが、それでもハーブや根菜、いくつかの丈夫な花が育った。

ルーファスはたまに、菜園を覗きに来る。いそいそと、という形容そのままに。大きな身体を縮めて、土の上にしゃがみこむエルフィーナの頭を眺めている。

「何を作っている」

「タイムとローズマリー。それからこれは——うまく育つかわかりませんが、南から種を取り寄せたバジルです」

「北では育たない」

「はい。でも挑戦してみます」

ルーファスは土の中の小さな双葉を見て、小さく、ん、と頷いた。

翌日、城の者が石を組んで、菜園の排水を改善してくれていた。水はけが悪いのだという。

エルフィーナは誰に頼んだのか聞かなかった。ルーファスも何も言わなかった。ただバジルは結局、秋前に枯れた。

「やっぱり育ちませんでした……」

とエルフィーナは肩を落とす。ルーファスはそうっと彼女の背中を撫でる。

「来年は別の品種を試せ」

「そうしてみます!」

秋の深い頃、二人で北の鉱山まで遠出をした。

一泊の行程で、山小屋に泊まった。使用人は別の小屋で、夜は二人きりになった。暖炉の前で、ルーファスが珍しく、自分のことを話した。

十二歳で父を亡くし、若くして領主になったこと。人狼族の中でも血が濃く、変身への適性が高いこと。さすがに満月を見たら即座に狼になってしまうほどケダモノではないが、感情が昂ぶると力の制御が難しくなる。そのため、子供の頃から感情を抑える訓練をしてきたこと。だから笑い方を、少し忘れたこと。

「笑い方を忘れる、というのはどういう感じですか」

エルフィーナは膝を抱えて暖炉の炎にあたりながら聞いた。

「笑うべき場面がわかっても、顔がついてこない、そういう感じだ」

「でも、私には笑ってくださいます」

「……お前の前では、制御しなくていい気がする」

その言葉が、どれほどの意味を持つか、ルーファス自身はわかって言っているのだろうか。

二人は手をつなぎ、同じ毛布にくるまり、眠った。言葉らしい言葉はもう必要なかった。

***

雪が溶けた。

春! 目覚めの季節。

エルフィーナはまだふくらみの見えない腹を撫でる。まだ何も変わって見えない。外からはわからない。でも、どうやらそうらしいのだ。ついさっき、村の産婆がわざわざ城まできてくれて、それで確認がとれた。メイドたちは躍り上がって喜び、老テオドールさえウキウキしていた。

彼にどう伝えようか、と思い悩んでいた。

ルーファスは執務室にいる。彼は領地の書類仕事を厭わない珍しい貴族だった。執務室の扉をノックすると、入れ、と短い声がする。

「エルフィーナですわ。少し、よろしいですか」

「ん」

書類から顔を上げたルーファスは、エルフィーナを見ると安心した顔をする。子犬のような無防備な顔である。彼がこの表情をするのを見るたび、エルフィーナの心はとろんとしたミルクのような気持ちに満たされる。

「子供を授かりましたの」

ルーファスは立ち上がった。

彼はテーブルを回ってエルフィーナの前に来——ようとして、盛大に書類を落とし、角に腰をぶつけ、さすろうとして床の毛皮につまずいてつんのめり、最終的にはヨタヨタ妻のところまでやってきた。大きな温かい手がエルフィーナの両手を握る。

「無理をするな」

「はい」

「遠乗りは当面禁止だ」

「……わかりました」

「誰に看てもらったんだ?」

「エトカ村の、おばあさんで……」

「帝都から医師を毎週呼ぶ」

「やりすぎです」

「呼ぶ」

エルフィーナは小さく笑った。この人の不器用な心配の示し方を、もう知っていた。言葉が足りない分、行動が多くなる。それがルーファス・フロストという人なのだ。

……大丈夫だ。

この人の隣でなら、大丈夫。

***

産み月が来る頃には、エルフィーナの腹は一人で歩けないほど膨らんでいた。

菜園が気がかりだし、馬も走らせてやりたい。とはいえ、他の妊婦より明らかに大きな腹を優先すべきだった。

「双子かねえ。三つ子かも。それにしてもこんな大きなお腹は見たことがないよ」

と産婆は嬉しそうである。エルフィーナはふうふう言いながら、うっとりする。

「名前、考えなきゃね。どうしようかしらね」

「旦那さんといっぱいお考えなせえ」

「あの人はもう、名前候補を十も二十も書き出してるわ」

エルフィーナはけらけら笑う。

産婆が去ったあと、ふと実家のことを思い出した。妊娠に気づいてから、彼女は一度も彼らのことを思い出さなかった。……たぶん、実際はもっと前から。

意識して忘れようとしていたわけではない。だが気づけば一年前の春の朝の記憶は遠かった。婚約破棄、だなんて。妊娠と出産の前には虫みたいなものだ。何をあんなに傷ついて、動揺していたんだろう? エルフィーナは首を傾げる。

傷そのものはまだある。でももう痛まない。父も継母も異母妹も、それから元婚約者も、遠い昔の思い出だった。

その夜、夕食を終えた後、二人は居間にいた。ルーファスはいつの間にやら子供の名前候補の帳面をこしらえて、椅子に深く腰かけて思い悩んでいる。

「アリエッタはどうだ? 姫君らしい名前だろう」

「もう。だから女の子かもわからないんですってば」

「む」

エルフィーナはハーブ茶を飲んで温かさを楽しんだ。ルーファスはすっかり執務室に籠もらなくなり、領地の見回りも明らかに減った。私に付き合わなくていいのよ、とエルフィーナが言っても、気づけば城にいる。

本人は何も言わない。ただそうしている。

じゃあエルフィーナも何も言わないことにした。言わないで、嬉しさを噛み締めた。夫はただ、そういう人なんだから。

しばらく、火の音だけがしていた。

「私はずっと、家族というものが怖かったのです」

ぽろんと言葉が転げ出る。腹の中で赤ん坊がころんと寝返りを打った。

「父は母が亡くなった半年後、継母と異母妹を連れてきました」

「……半年」

ルーファスは不愉快そうに眉を寄せる。帳面を置いて、膝の上に肘を乗せ、苛立ったように両手を組んで親指を回した。

「母が存命中から、二人は——その、父と継母は知り合いだったようで。私と異母妹は年が近いのです。三つしか違わないの」

「不実な男だ。義父殿に対して言うことではないが」

珍しく吐き捨てるような口調でルーファスは言った。

「それに異母妹は、とても美しいのです。髪も瞳も、笑い方も——誰でも振り返るような」

ルーファスは苛立っても綺麗で堂々としている、と思いながらエルフィーナは続ける。黒髪が暖炉の火を反射して緑色に輝く。

「最初は仲良くしようと思っていました。本当に。でも彼女は、私の持っているものをとても自然に、悪気なく、欲しがる子で」

「悪気なく、というのが」

「ええ。わかっていてやる子なら、まだ怒れるのです。でも彼女は本当に、無邪気だった。婚約者のことも——クレイトンのことも、きっと彼女には、ただ好きになってしまっただけで」

「それが余計に、始末が悪い」

「そうなのです」

エルフィーナはソファの背もたれにくったりもたれかかる。夫の過不足のない言葉が心地よかった。まったく、いったい誰がこの人を言葉足らずだとか訛りがあるだとか言ったのだろう? 彼は惚れ惚れするほど立派な男性である。エルフィーナは彼が誇らしい。

「お前は美しい」

ルーファスはまっすぐエルフィーナを見つめた。唐突である。彼の銀灰色の目が青くきらめいている。

「異母妹とやらは見たことがないが、絶対お前の方が美しい」

続けざまに言われて、エルフィーナは思わず笑った。

「ふふ」

「笑うな。本当のことだ」

「だって、あはは。ルーファス、あなたレニアに会ったこともないのに」

「お前が来てから、この城が変わった」

エルフィーナはひいひい笑い転げつつ彼を見る。

「朝食室が明るくなった。菜園ができた。テオドールがよく笑うようになった。使用人たちの顔が変わった。執務室に花が飾られるようになった。お前の菜園の花だ。私は――あー、花のよしあしはわからんが、あの花は好きだ」

「はい」

「お前が好きだ」

「はい」

「子を産んで、死ぬなよ」

「わかってますわ。――もう遅いから寝ましょうか」

「ん」

ルーファスはもはや一人では身も起こせないエルフィーナを立ち上がらせようとした。

そのときだった。

「あ」

「あ」

どぱっと破水が起きた。一瞬のことだった。

若夫婦は揃って顔を見合わせ、ルーファスはメイドたちを呼びに行こうと駆け出して扉に激突した。

***

さて、物語というのは得てしてそういうものだが、解決策は常に怒涛の勢いでやってくる。

産気づいたエルフィーナの身体に変化が起きたのは、その日が満月だったからか、あるいは子供たちが満月の夜を選んだからなのか。

痛みにさけび、いきみを逃がすため必死に呼吸する彼女の身体がむくむくと膨らみ、やがて形を変えた。透明に近い銀の光が全身を包み、産婆が腰を抜かす前で彼女は大きな銀の雌狼に変わる。

ルーファスが飛び込んでくる。彼が床に敷き詰められた毛皮の上に両手をつくと、おなじく雄の狼が出現する。血が迸る。クウンクウンと鼻で泣く声。つがいの狼たちは悲痛な鳴き声を交わしながら、その過酷な出産の夜に挑んだ。

そうしてエルフィーナは三十八人の子を産んだ。

男の子が二十一人、女の子が十七人。

唖然。呆然。やがて沸き起こる神への祈り。ふつふつと続く祝福の声。

黒い城は狂喜乱舞と欣喜雀躍に包まれる。それは村々へ伝播して、どんどん大きくなっていく。

人狼族は救われたのだ。

人狼の大きさは二メートル強。長い尾や耳の先までを入れれば三メートルは下らない。一方赤ん坊たちは体長十センチくらいで、体重は三百グラム程度。

数は多くとも、エルフィーナの命を脅かすほどではなかった。

「……こんなにたくさん、どうやってお腹に入っていたのかしら」

やっと後産の排出を終えて、疲労困憊の彼女は力なく呟く。寝台の横には急ごしらえの赤ん坊の寝床が並べられて、まだキュンとも泣けない子犬たちが寝ている、というか、詰まっている。

「わからん。かわいい」

ルーファスはさっきからそれしか言わない。

「名前、どうしようかしら」

「考えてある。かわいい」

「頭が回らないわ」

「寝てくれ。かわいいな、エルフィーナ」

「んもう」

エルフィーナはお言葉に甘えることにした。何しろとてつもなく疲れていたので。

疾風怒濤の子育ての最初期が過ぎた頃、つまりは子供たちが乳離れした頃には、春は過ぎていた。

最初はルーファスに教わりながら、変身を覚えた。狼になり十個の乳首から授乳し、メイドたちが総動員してくれながら育児したこと。最終的には寝ながら授乳したのに、三十八人を養うには母乳が足りず、ルーファスは急遽牛と山羊を買い取ってきた。

エルフィーナと牝牛と牝山羊のおかげで、子供たちは人間の姿を取れるまでになった。そうすると今度は夜泣きである。人間になりだっこしてあやし、おむつを換え、眠りたいのに眠れず、自分の食事も忘れて面倒を見続けた。

ルーファスも似たような状況だった。いっときなど女の子の一人に頭の上まで昇られて、死んだ目で神に祈りながら男の子のおむつを換えていたこともある。

一人一人がかけがえなく可愛く、最近は個性も出てきてますます愛らしい。

とはいえ、子供たちが立って歩くようになるまでの日々を、エルフィーナは何も覚えていない。忙しすぎたのである。さすがにさすがに、人間の両腕も狼の十個の乳首も、三十八人を養うためには足りない。

エルフィーナとルーファスは相談をした。幾日も幾日も。納得がいくまで。

フロスト辺境伯家と彼ら自身のために最善のことを。

そして決断した。

やがて、領民たちがぽつぽつと城を訪れるようになった。いずれも、何年も結婚していながら子供に恵まれない、耳が尖った夫婦だった。エルフィーナは彼らを子供たちと対面させ、遊ばせ、慎重に相性を見定めた。

やがてこれは、と思う組み合わせが見つかると――領主夫妻は子供たちのうち一人を領民に託した。

「ありがとうございます、ありがとうございます」

と土下座せんばかりに頭を下げて子供をもらっていく者たちもいたし、

「……」

と黙ったまま、神にするような最敬礼をしていく者たちもいた。

「エルフィーナ様、ありがとうございます」

とエルフィーナだけ見る者。

「ご領主様のご威光に感謝いたします」

とルーファスだけを見る者。

誰も正気ではなかった。喜びのあまり気がおかしくなりかけていた――子供が、いる。

子供がいる! 人狼族の、あとは滅亡するばかりだと思っていた一族に、子供が!

フロスト家の血を継ぐ子供が、たくさん、いるのだ!

エルフィーナにとって子供との別れは身を裂くように辛いことである。だが実際問題、城だけで育てきるには限界があった。

また、全員を手元で育てるより領地各所に分散させた方が将来のためにもいい。人狼はナワバリをつくる。すべての村に、領地境界線上に人狼がいれば、それだけで抑止力になる。

それでも、自分がひどい母親であると思えてならなかった。

ルーファスはそんな彼女を抱きしめ、慰める。

「仕方ない。三十八人だ、領地を富み栄えさせてくれる。ありがとうエルフィーナ。――我が最愛の妻よ」

「ええ、ええ。ルーファス。私は、この土地のために役立つことができて、嬉しいわ。それは本当よ」

そうして年月が過ぎた。

二年後。

今度は四十五人。

さらに三年後。

四十二人。

子供たちは満ち溢れていく。エルフィーナの血が死にかけていたフロスト家に潤いと再生をもたらす。

最近、領主夫妻が馬で見回りをしにくると、子供たちが飛び出してきて馬のあとを付いてまわる。それは間違いなくエルフィーナの腹から生まれた、最愛の子供たち。そして今は各地で人狼たちに大切にされている雛たちだった。

若い娘がエルフィーナの足元に跪いて、お腹を触らせてくださいと懇願することもある。

「え、ええ。いいけれど」

と好きにさせてやると、娘は真剣な顔をして何度もエルフィーナのお腹を撫で、その手を自分の腹にこすり付けるのだった。

「子を孕む力が自分にうつってくれよと祈っているんだよ」

と夫は笑うけれど、果たしてそれほどいいものかどうか、エルフィーナには自信が持てない。

「私――こんなふうになるつもりじゃなかったのに」

「だが幸せだ。そうだろう?」

「ええ」

困ったことに。

「本当にそうなのよね。まいったわ」

まったくもって、そうなのだった。

***

エルフィーナはその後も出産を続け、生涯に渡り百九十一人の子供を産んだ。その偉業はやがて国にも届き、帝都の王から召喚状が届いたこともある。ルーファスがそれを拒絶したことで、フロスト辺境伯家は一種の伝説となった。

人狼族の土地。

彼ら一族だけの土地。

雪と氷に閉ざされた、人の踏み込めぬ魔種族の……。

実態とはずいぶん違う、ここは静かでよいところなのに、とエルフィーナは思うけれど、ルーファスとしてはそう思われている方が都合がいいらしかった。

「おそらくそのうち、この土地は国から切り離される」

「……戦乱の時代がくるということ?」

「おそらくな」

苦み走った夫の顔に、エルフィーナは決意を新たにするのだった。

「じゃあ子供たちに言って、もっと軍備を整えないとね。いざというとき、戦えるような力をここに」

彼女のいうその時は、これから五十三年後にやってくる。

辺境伯ルーファスとその妻エルフィーナの子供たちは立派に育ち、大人になると外の世界に出て行った。連れ合いや子供と一緒に帰ってくる者もいたし、消息不明になる者たちもいた。彼らは実の親である領主夫妻への尊敬を忘れることなく、また育ての親である領民へ感謝も忘れることはなかったという。

エルフィーナの異母妹、レニア・ヴァンダーホルト伯爵令嬢は子供を産めなかった。

人狼族の血のせいか、あるいは異母姉の婚約者を奪うなんてことをしでかした罰か? 答えは神様だけが知っている。

レニアを娶ったクレイトン・モリスは侯爵になっても跡取りに恵まれないことに激怒して、妻を領地の最奥にある沼地に閉じ込めてしまった。彼女はそこで沼に身を投げた。その後、再婚したが、やはり子供は生まれず、種なしの謗りを受けて狂乱し、帝都路地裏のつまらない酒場でつまらない乱闘騒ぎを起こして殺された。

エルフィーナの父ミルドレッド・ヴァンダーホルト伯爵はある夜、最愛の妻リリーと一緒に酒を呑んでいたところ、心臓を抑えて倒れた。そのままのたうち回り、意識はあるまま指先一つ動かせなくなった。この世界、この時代、いまだ回復のすべはない。瞬き以外のすべての自由をなくした状態で五年ほど生きたが、とうのリリーは彼の金で遊び回り見舞いにも来なかった。ある冬の朝、使用人がカーテンを開けに行くと一人で誰にも看取られず死んでいたという。床ずれで全身血塗れで、ひどい有様だったそうだ。

嘆き悲しむ美しいリリーは夫の葬式の夜にある男に慰めをもらい、彼にヴァンダーホルト伯爵家の財産のほとんどを貢いでしまった。やがて騙されていたことに気づいても後の祭り。借金取りに身ぐるみ剥がされ、使用人に殴られて娼館に売られ、性病にかかって全身の皮が爛れて死んだという。

エルフィーナが生きたのは平和と呼ばれる時代だったが、彼女は誇り高く自分の人生を戦い抜いた。ルーファスは生涯をかけて妻を愛し抜き、二人は幸福のうちに一生を終えた。

そうして、歴史が動くときが始まる。