作品タイトル不明
#17 死地からの脱出
奇妙な静寂がその空間を覆っていた。
現れた魔獣、その場に居た人間の双方が無言で対峙したが故の静寂。
その場の人間、ライヒアラの学生達は目の前に現れた 陸皇亀(ベヘモス) の巨体に気圧され、動くことすら出来ないでいた。
かつてベヘモスと遭遇した精鋭たる国境守護騎士団の騎士すら、一瞬の自失を避け得なかったのである。
十代半ばの学生に、それに匹敵する胆力を求めるほうが酷だ。
対してベヘモスが動いていない理由は定かではない。
しかし現に森の入口から周囲を見回し、状況を確認するかのように黙し、佇んでいる。
凍りついたような時間の中、先に動いたのはベヘモスだった。
恐らくそれは余裕の程度の差なのだろう、ひとしきり周囲を見回したベヘモスはその口を大きく開き、咆哮を上げる。
それは最早音と呼ぶよりも、空気の振動による衝撃波に近いものだった。
途方も無い肺活量により押し出された轟音は地面を振動させ、至近距離の木々が破裂する。
防衛を担うべく前に出ていた 幻晶騎士(シルエットナイト) の装甲が振動で震え、押し寄せる圧力に絶えかね何歩か後ずさった。
少し離れていたはずの生徒達ですらあまりの大音量に耳をふさいで蹲り、衝撃に気を失うものすらいた。
そしてそれが彼らの金縛りをとく事となる。
一度動き始めた彼らは、それまでの停止が嘘のように弾かれたように魔獣からの逃亡へと移った。
しかしそれは正気に戻ったからではなく、逆に恐怖と混乱による暴走へと陥っただけだった。
もはや教師の統制など利くはずも無く、ただベヘモスから距離をとろうと闇雲に駆け出すのみ。
この状況では逃走自体は最善の選択肢だが、その方法がまずかった。
人の足では逃げられる範囲など高が知れている。
より遠くへ逃げるのならばまずは馬車へと向かうべきだったのだ。
だが恐慌状態の生徒達はそんなことすら思いつかないのか、走る方向はばらばらだ。
そうして彼らが四方に離散するかと思われたとき、突如進行方向のあちこちで爆発が発生する。
いくら恐慌状態とは言え、目の前で爆発が発生してそれに突っ込む生き物はいない。
一瞬生徒達の動きが止まる。
それを狙ったかのようにその前に人影が躍り出た。
「離れて逃げては危険です! 全員馬車のほうへ!」
爆炎球(ファイヤボール) を放ち彼らの離散を制したのはエルを筆頭に何名かの冷静さを保っていた生徒達だ。
彼らはまるで勢子のように魔法により注意を引いて散らばった生徒達を集め、馬車の元へと誘導する。
生徒達は冷静には程遠い状態だったが、それでも言葉を認識できる程度には落ち着くことができた。
今度こそ彼らはベヘモスから逃れるため、馬車へと向かってゆく。
ベヘモスの威圧感に恐怖していたのは高等部の 騎操士(ナイトランナー) 達も同様であった。
しかも彼らの場合は幻晶騎士という力があるゆえに、ベヘモスの脅威はより深刻であった。
無闇に逃げ出すには自分達は力を持ち、相対するには敵が強力に過ぎるのだ。
「立ち止まるな! 動けぇぇ!」
進退窮まり、強敵を前にしているにも拘らず足が止まっていた騎操士達のなかで、最初に動き出したのはエドガーだった。
逃げるにしろ戦うにしろベヘモスの前で足を止めるのはただの自殺行為でしかない。
ベヘモスが突撃を開始するのを見て取った騎操士達は慌てて回避行動に入った。
そして、ベヘモスの進路の先に初・中等部の生徒達が逃げる馬車置き場があるのを見て取ったエドガーは、自分の中の恐怖を押し殺して決断する。
「我々で、ベヘモスの注意を引く!」
「なっ、お前、自分で何を言っているのかわかってるのか! あれはベヘモスだぞ!
俺達じゃ片足で蹴散らされるのがオチだ!」
「だからと言って! このままでは後輩達が全滅しかねない!
その上あのまま馬車の後を追われてはいずれヤントゥネンが襲われるんだぞ!」
反論した騎操士にもそれはわかっている。
ここで彼らが逃げ出したとて、逃げこむ先すら危ういのだと。
「くそう! やるしかねぇのかよ……!」
「俺たちは騎士だ。弱きものを助けるために剣を習い、国を守るために幻晶騎士に乗る。
ここで何もせずに逃げるなど、できはしない!」
言いながら、エドガーはアールカンバーに 魔導兵装(シルエットアームズ) を装備させた。
「俺だって無駄死にはしたくない、兎に角ベヘモスの注意をそらすんだ!」
「畜生が!」
アールカンバーは既に走り出し、ベヘモスの足へと狙いを定める。
「全員抜杖! 法撃で注意を逸らしつつ離脱だ!」
エドガーは叫びながら 操縦桿(トリガー) を引き絞る。
騎操士の意思を受けたアールカンバーは魔導兵装・アークゥィバスへと 魔力(マナ) を送り込む。
長柄の、シンプルな棒状の杖のような武装の先端が眩く発光し、放たれた雷撃がベヘモスを撃った。
雷撃に効果があったようには見えない。
ベヘモスの巨大さによるところもあったが、雷撃は甲殻を伝い地に逃げるのみで内部組織には伝わっていなかったためだ。
エドガーの他にも3機の幻晶騎士がそれぞれに魔導兵装を構え、ベヘモスと並走するようにして 戦術級魔法(オーバード・スペル) による法撃を始めた。
そのどれもが効果があったとは言い難いが、それでもベヘモスの注意をそらす程度の役にはたった。
攻撃を受けたことに気付いたベヘモスが首を巡らし、いましも魔法を放った幻晶騎士を視界に捉える。
「く、全く効いてないだと……」
「逃げるぞ! 時間を稼げればそれでいい!」
ベヘモスの注意がこちらを向いた事を知った騎操士達は、そのままベヘモスを初・中等部の生徒達から引き離すべく後退を開始した。
高等部の幻晶騎士がベヘモスに挑みかかっている間、初・中等部の生徒達は必死に馬車へと乗り込んでいた。
定員に達した馬車から次々に出発しているものの、乗り込めた人数は全体の半分と言った所だった。
「(さすがに人数が多い…… 先輩(あっち) の頑張りに期待するしかないな)」
エルは生徒達の最後尾で、ベヘモスと幻晶騎士の戦闘の様子を見ていた。
生身の人間には不可能な出力での魔法――戦術級魔法による法撃も堅固極まりない甲殻に阻まれ効いた様子が無い。
人間の技術の粋たる幻晶騎士すら、あの魔獣の前では無力な存在に過ぎない。
ましてや一人の人間になど何ができよう。
エルは険しい表情で戦いを見守っている。
傍から見ている限りでは高等部の騎操士達は圧倒的に不利だ。
何せ攻撃が通じていない。
今は後退を中心に動きで翻弄しているが、ベヘモスの巨体から鑑みて幻晶騎士すら一撃で行動不能になる可能性がある。
エルにしてもこうして見ている事しか出来ないのは非常にもどかしいが、いくらなんでも手の出しようが無かった。
「(こっちは全員逃がして見せる。先輩達も死なんといてや……!)」
ベヘモスが本気で突撃を開始しては幻晶騎士の移動速度をもってしても逃げ切れる保証は無い。
そのため、誰かが狙われそうになる度に逆側から集中砲火を浴びせ、注意を逸らすことで時間を稼いでいた。
攻撃はさしたるダメージにもなっていないが、それでも攻撃される事自体にベヘモスは苛立っているように見える。
「ははは! なんだ、このデカ物め、手も脚も出ないじゃないか!」
ディートリヒが咆える。
その巨体からでる威圧感に圧され、竦んでしまったからこそ現在の自分達の優位を、まず自分自身に言い聞かせる。
しかし時間稼ぎが上手く行くことによって逆に彼らは油断し始めてしまった。
実はこの魔獣はでかいだけのウスノロで、大して恐れることは無いんじゃないのか?
実際には一回でもベヘモスの突撃が当たれば幻晶騎士は破砕されかねないのだが、この巨獣を手玉に取っているという事実が彼らの判断を曇らせる。
そうして暫くは順調に時間を稼いでいるかのように見えた、その時。
攻撃を加え逃げる機体を追っていたベヘモスが突如動きを緩める。
先ほどまでは闇雲に追ってくるばかりだったベヘモスの変化を、騎操士達は訝しんだ。
ベヘモスが大きく息を吸い込む。
直後、その口腔から猛烈な 竜巻の吐息(ブレス) が放たれた。
魔法による遠距離攻撃。
これまでの行動から突撃しか行わないと思い込んでしまっていた騎操士達は、ベヘモスの突然の魔法攻撃に反応できなかった。
竜巻が直線状に放たれ、荒れ狂う大気の渦が機体を捕らえた。
圧倒的な圧力に抵抗することも許されず、幻晶騎士の装甲がひしゃげ、体を支える 結晶筋肉(クリスタルティシュー) が砕けてゆく。
全高10mの金属の塊である幻晶騎士の機体が軽々と宙を舞い、地面に叩き付けられた。
激突の衝撃で最も耐久性に劣る四肢が破砕し、ちぎれ飛ぶ。
なまじ幻晶騎士は人の形をしているため、地面に散らばるその姿の凄惨さが、残る騎操士達の目に焼きつく。
「ヒッ、う、うわ!」
ディートリヒはその様子をまともに見てしまった。
これまで高等部で共に学んできた学友が、彼が駆る幻晶騎士が、呆気なく粉砕される様を。
彼の喉から出たのは引き攣れるような悲鳴だ。
瞬間、風を斬る轟音と共にディートリヒの前に居た機体が居なくなった。
一瞬彼には何が起こったのかわからなかったが、少し視線をずらせばすぐに原因がわかった。
ベヘモスによる尾の一撃。
動きの止まったところを遠心力のついた攻撃に直撃され、目前に居た機体はひとたまりも無く折れ飛んでいたのだ。
ディートリヒが無事なのはほんの少しの偶然、立ち位置の違いによるものだ。
あと数歩踏み込んでいれば尾に巻き込まれ、同じように吹き飛ばされていただろう。
瞬く間に2機の幻晶騎士がまるで陶器か何かのように砕け散った。
それまで仮にもベヘモスに対しても戦いうると考えつつあった騎操士達は、完全に己の考え違いであったことを悟る。
ベヘモスが残る機体向けて振り向いた。
目の前で、実際に易々と幻晶騎士が粉砕される光景を見せられ、そしてその原因が次はこちらを狙っている。
「うわあああああああああああああああああ」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
2種類の叫びが交差する。
前者はディートリヒ、目の前の魔獣に対する恐怖の叫びだった。
後者はエドガー、己の恐怖に打ち勝つ奮起の雄叫びだった。
「(くそっ、何故油断した! ベヘモスは師団級魔獣……俺達で簡単にどうにかできる相手じゃないなんてこと、わかっていたというのに!)
全員正面は避けろ! 兎に角回避を優先するんだ! あと少し、あと少しだけ粘ってくれ!」
どの道既にベヘモスと相対している以上、迂闊に背を見せてはなぎ払われて全滅するのは目に見えている。
エドガーの声に、恐怖に震えながらも他の騎操士が応じ、死に物狂いでベヘモスの攻撃を避けてゆく。
最早彼らには、完全に死線を越えてしまった場所で粘ることしか、道が残されていなかった。
ベヘモスからの魔法の暴威により、高等部の騎操士達が窮地に陥っていたころ。
エル達は初・中等部の生徒を全員送り出し、最後の馬車へと飛び乗っていた。
信号弾代わりに空中に爆炎球を数発打ち上げる。
何とか、それに気付いた騎操士達が脱出に移ることを祈るのみである。
エルは走る馬車の後部から遠ざかる戦いの様子を見ていた。
先ほどのベヘモスの魔法攻撃により、高等部の旗色は良くない。
恐らくはエル達が此処を離脱した後でも、距離を稼ごうと戦い続けている。
エルの胸中に、一昨日のエドガーとの会話がよぎる。
もはやエルには、届かないと解っていても応援を送ることしか、できることはなかった。
その時、エルの視界の端を紅い影がよぎった。
森へと振り向き、それが何であるかを確認したエルの表情が驚愕に彩られる。
紅い影――それは幻晶騎士・グゥエールだ。
まさか、という思いで振り返れば、他の機体はベヘモスと戦っているのが遠くに見える。
つまりグゥエールは、他の生徒を見捨てて、一機だけ逃亡している事になる。
そう理解した瞬間、エルの体は馬車から躍り出ていた。
幻晶騎士の移動速度は速い。エルも全力を込め、弾丸の如き速度でグゥエールの後を追い始めた。
突然のエルの行動に驚いた皆が止める暇も有らばこそ。
その姿は一瞬の間に森の中に消え、もはや探すことは出来なかった。